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学は光コミュの世界との語らい 【第5回】   欧州統合の父 クーデンホーフ・カレルギー伯爵

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  誠実にまさる外交なし
  ─ 「利害」や「打算」などうち捨てよ!!

 クーデンホーフ・カレルギー伯が心を動かされたのは、学園生の目の光だった。
  ── いい顔をしている。凛々(りり)しく、賢い表情だ。
 1970年10月17日。創価学園(東京・小平市)の講堂で講演に立った伯爵は、しみじみと語られた。
 「こんなに素晴らしい生徒がいるとは。創立者の池田先生は、本当に幸せな方です」
 当時の私の心中を察してくださっての一言ではなかったか。

  言論には言論だ!

 「言論の自由」の美名に隠れ、利用し、学会を執拗に攻撃する者たちがいた。
 期するものがあった。
 なれば学会も言論で立つ! 言論で勝つ!
 それも世界への言論だ。まず、伯爵との対談を後世に残そう。
 伯爵に創価学園を見てもらおう。学園生と一緒に、世界へ討って出るのだ。
 まだ開校して3年目。ヨーロッパ統合の理想を掲げる伯爵は、創価学園が初めて本格的に迎えた世界的識者である。
 出迎える生徒たちに、戸惑いもあっただろう。講演は難解だつたかもしれない。中間試験の期間で、寝不足の生徒がいたようだ。
 それでもよい。若いとき、本物に触れることが大事だ。本格派を作るための創価学園である。
 この時、伯爵は75歳。私は42歳。学園生は10代。ひとつのヨーロッパへ、ひとつの世界へ。人類融和の理想が、世代から世代へ引き継がれることを信じていた。

 舞台は世界だ。

 日蓮大聖人は「わづかの小島のぬしら」と喝破された。嫉妬の島国が相手ではない。いよいよ世界の知性と語り抜くべき時が来た。これが私の真情だった。
 伯爵にとって日本は、母君(ははぎみ)の祖国であり、ご自身の故郷である。
 生後1年余で日本を去り、71年ぶりの“里帰り”となったのが1967年。大手建設会社の会長が設立した平和研究所等の招聘(しょうへい)による来日だった。
 その際、伯爵から会見の要望があって、お会いした。
 「創価学会?およしなさい」。外野の声があった。それを笑い飛ばすように「池田会長との会見に、大きな期待をもっている」と抱負を語られた。
 「私は直ちに池田の人物に強く感銘した。やっと39歳の、この男から発出している動力性に打たれたのである」
 自著『美の国 ── 日本への帰郷』(『クーデンホーフ・カレルギー全集8』鹿島守之助訳、鹿島研究所出版会)に綴ってくださった一文である。

 心をつかむ言葉で

 若さ。行動。大事業を成す要諦である。
 伯爵は28歳で『パン・ヨーロッパ』を著し「ヨーロッパ統合」への大闘争を開始した。
 壮大な夢である。
 戸田城聖先生は、語っておられた。
 「青年は、望みが大きすぎるくらいで、ちょうどよいのだ」
 「大事業は、20代、30代でやる決意が大事だ。40代に入ってから“さあ、やろう”といっても決してできるものではない」
 一番弟子の私には、自負がある。
 恩師から託された構想は、ことごとく30代で、やり遂げた。ありとあらゆる事業の基盤を作り上げた。
 いつかやろう。そのうちできる。そんな考えは、微塵もなかった。
 青年期に大望も抱けない人間に、大事の成せるわけがない。学会は、青年に希望と理想を贈る団体である。

 伯爵の事業の急所は何か。

 ヨーロッパ統合。ひとつの欧州。端的な言葉で言い切り、人びとの心をつかんだことである。
 欧州統合といゑ埋念自体は、古くからあった。カントやルソーも提唱している。ユゴーも「ヨーロッパ合衆国」という言葉を用いたことがある。
 だが ── いかに高邁な理念も、人の心をつかめなければ、机上の空論にすぎない。
 伯爵は、どこか夢物語にすぎなかった理念に「かたち」を与え、具体的な「旗」を掲げた。生命を吹き込んだ。
 もとより次元は異なるが、日蓮大聖人は、万人の成仏の根本法に「南無妙法蓮華経」と名づけられた。そして「法華弘通のはたじるし」として、御本尊を御図顕なされた。
 戸田先生は「75万世帯の弘教」を宣言なされた。私は恩師亡き後に「七つの鐘を鳴らそう」と掲げた。
 恩師は「東洋広布」。私は「世界広布」。
 恩師は「立正安国」。私は「平和・文化・教育」に道を広げた。
 壮大な理想の旗ありて、創価の連帯は世界190力国・地域にまで拡大し、隆々たる発展を遂げたのである。
 指し示す「道標(みちしるべ)」が確かであるか。
 中軸の「柱」が頑強であるか。
 大事業の急所である。そこに民衆の糾合(きゅうごう)があり、喝采があり、前進が始まる。

「形式」ではない

 伯爵は、徹底した、「外交の人」であった。
 父君はオーストリア=ハンガリー帝国の有力貴族だったが、家柄や看板に頼らなかった。裸一貫で勝負した。
 東奔西走。書きに書き、語りに語り、世論に訴えぬいた。
 ナチス・ドイツに戦いを挑み、亡命を余儀なくされた。
 「ならば」と、亡命先でも人脈を拡大した。
 アインシュタイン。フロイト。リルケ。トーマス・マン。リヒャルト・シュトラウス。ブルーノ・ワルター。
 全欧州の政財界人に訴え、学識者に説き、支持を広げた。
 外交について、古来、幾多のテクニックが論じられてきた。「外交は妥協の芸術」とまで言う人もいる。
 しかし、所詮は「策」ではない。
 カレルギー伯の万感の言葉が胸に轟(とどろ)く。「誠実は虚言に対する闘争である」(前出全集3)
 その通りだ。根本は「誠実」「勇気」「知恵」に尽きる。
 戸田先生は渉外に厳しかった。
 「外交のできない人間は信用するな」
 そして私を初代の渉外部長に任命された。
 まだ26歳である。世法に長けた幹部は他に幾らもいたが、私を指名された。
 「青年だから」である。
 青年らしく戦った。打算も計算もなく。体裁も利害の淀(よど)みも、かなぐり捨てた。
 恩師への中傷は絶対に許さなかった。自ら敵陣に斬り込み、西に東に、右に左に、師の正義の旗を打ち立てた。
 「己なく、恐れなし」。これが外交戦の魂だ。
 自信がない人間に限って「形式」や「策」に走る。
 臆病だから、怖気づく。
 確信がないから、おもねり、媚びる。
 我らは、断じて、そうであってはならない。なかんずく青年は/動けば道は開ける。会えば人は変わる。語れば心はつかめる。
 勇猛果敢な青年外交によって、夢を現実のものとしたクーデンホーフ・カレルギー伯。
 外交で勝つ弟子があれば、広宣流布はできる。

(注) リヒャルト・クーデンホーフ・カレルギー伯爵(1894年?1972年): オーストリア=ハンガリー帝国の駐日代理公使だったハインリヒ・クーデンホーフ・カレルギー伯爵と、青山光子の二男として東京で生まれる(日本名・エイジロウ)。母・光子は日本で初めて正式に国際結婚した女性として有名。
 カレルギー伯爵は第1次世界大戦後、疲弊した欧州の復興を願い、1923年『パン・ヨーロッパ』を出版。欧州統合の運動を組織し、全欧に展開した。第2次世界大戦中は、ナチス・ドイツの弾圧から逃れ、欧州各国を経て米国に渡った。その間も活動を続け、賛同者を増やした。終戦後、オーストリアに帰国。47年「ヨーロッパ議員同盟」を創設。50年「ヨーロッパ合衆国憲法委員会」の初代事務総長に就任。72年7月、スイスで死去するまで精力的に活動を続けた。その後、欧州統合は現在の「EU(欧州連合)」として結実。伯爵は「欧州統合の父」と讃えられる。
 池田名誉会長とは、67年10月に来日の折、初会見。70年10月にも東京で4回、延べ十数時間にわたって会談。語らいは、対談集『文明・西と東』(『池田大作全集』102巻に収録)として発刊。

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