ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

学は光コミュの世界との語らい 【第4回】 世紀のバイオリニスト  メニューイン氏 2006-5-28

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
 ◎ 芸術は「人間」を呼び覚ます
   一流に触れよ! そこに一流の人格が

 1951年の9月15日。羽田空港のタラップの上で、その青年はたくさんのフラッシュを浴びていた。「神童(しんどう)」と呼ばれ、「天才」と評された、“世紀のバイオリニスト”ユーディー・メニューイン氏である。
 当時の日本は十数年、海外からの来日演奏家が途絶えていた。そこへもってきての「世界的巨匠の初来日」である。公演が決定するや、すべての音楽愛好家が喝采した。「いよいよメニューヒン(=メニューイン)到来ね」と、人気の新聞漫画「サザエさん」でも話題になる。いかに国民が注目していたか、その程(ほど)がうかがえよう。
 氏は、こうした日本人の熱い期待を裏切ることはなかった。演奏会に押し寄せた聴衆は、その神技に全く魅せられる。戦争は終わったものの、いまだ荒(すさ)んだ心。そこに希望や勇気が満ちあふれるのを、だれもが感じた。文芸評論家の小林秀雄氏は、その感動を新聞に綴っている。「私はふるえたり涙が出たりした」「あゝ、何という音だ。私は、どんなに渇えていたかをはっきり知った」

 「音楽はどんなにたいへんな時代でも、なんとか私たちを力づけようと、繰り返し繰り返し励ましの言葉をかけてくれる。深い根底から発した音楽であればなおさらである」(別宮貞徳監訳『人間と音楽』日本放送出版協会刊)
 終戦後に青春時代を送った私だからだろうか。メニューイン氏のこの言葉に一段と感慨がわく。暗く、殺伐とした時代。音楽は読書と並んで、私の希望の源泉であった。
 中でもベートーベンの「運命」が大好きだった。狭いアパートの一室に広がる雄渾(ゆうこん)の響き。その真っただ中に身を置くと、全身の血が歓喜に震え脈動した。
 そのころ、戸田先生の事業は窮地(きゅうち)にあった。襲いくる過酷な「運命」。この曲を聴くたびに、負けられない!猛然と勇気が燃え盛った。断じて先生をお護りするのだ!決意が五体に漲(みなぎ)った。
 私は、音楽という“励ましの宝”を、大切な創価の同志と分かち合いたかった。疲れ切ったリーダーや、肩を落とした青年を誘って、一緒にレコードを聴いたりもした。楽器を買って、音楽隊や鼓笛隊も発足した。すべて、皆に新たな希望を贈ろう。
友に限りない力を贈ろう ── その一心だった。

 文化を庶民の手に

 メニューイン氏は、芸術と大衆、芸術と日常の一体化を志向していた。「昼間、町を掃除する人々が、夜には四重奏を演奏する。それが私たちの目指す世界です」と。いってみれば、多くの民衆が気軽に芸術と触れ合える世界であろう。私も同じである。庶民が“下駄履き”で行ける音楽会をつくりたい ── そう願って、民音を創った。
 そもそも、芸術は一部の人間の独占物ではない。それを、自分が威張るための道具にする。自分を偉く見せるための装飾品にする。何と愚劣な! 芸術は、着飾った紳士淑女のためばかりにあるのではない。無冠の庶民のためにもあるのだ。演奏会もそう。美術館もそうだ。本来、日ごろ間近で本物に接したことのない人のためにあるのだ。
 民音の創設は、「公明政治連盟」を結成した翌年(63年)のことだった。それだけに、「創価学会、タクトを振るう」「政治の次は文化か」と批判されたものである。だが、創立に込めた「心」は同じであった。政治を民衆の手に、文化を庶民の手に取り戻したい。この一点だった。だからこそ私は、民主音楽協会(民音)と名付けたのだ。

 対話により一体に

 92年の春4月、お会いした際、メニューイン氏は開口一番、こう言われた。
 「池田会長との出会いを待ちこがれていました。きょうという日の喜びは、ひとしおです」
 実は、氏はその5年くらい前から私との対談を希望されていた。「ぜひとも、会いたい」。真心こもるお手紙を頂戴したのだが、なかなか日程の調整がつかず、この日に至ったのである。
 秀(ひい)でた額(ひたい)、深い光をたたえた目。亜麻色の髪の毛こそ銀色に変わったが、若々しさは初来日のころと変わらなかった。
 教養のある声や話しぶり、非の打ちどころがないマナー、洗練されたユーモアは、「バイオリンの賢者」と称されるにふさわしい振る舞いだった。
 語らいは、夕食を共にしながら3時間半にも及んだ。氏は当時、75歳。会見の前日も翌日も演奏会だった。体調を案じたが、疲れた様子は見えない。むしろ、充実した会話を楽しんでおられたようだ。氏は芳名録に記された。「対話によって一体となる喜びを得た一夜でした」

 氏が初めて私のことを知ったのは、日ごろ、マッサージを頼んでいたイギリスSGI(創価学会インタナショナル)の婦人部メンバーを通じてであった。
 氏は彼女の技術を讃えた。
 「あなたのマッサージは素晴らしい。まるで指が話し掛けてくるようだ」。芸術家らしい表現である。彼女は率直に語った。「私は仏教徒なんです。マッサージをする時は、心で南無妙法蓮華経と唱えているんです」
 「ナンミョウホウレンゲキョウ……素晴らしい音律だ」。氏は初めて聞いた題目に感動した。以来、散歩や入浴の際に口ずさむようになったという。会見でも「口ずさみやすく、心地よい」と言われていた。99年、亡くなる1カ月前にも、「皆さまが題目を唱えている事実は素晴らしい」と、フランスSGIの友人に手紙を綴られている。20世紀を代表する大音楽家の人生の総仕上げは、妙法の音声(おんじょう)とともにあった。

 「一流に触れ、自身を高めよ!」。これは戸田先生の遺言である。先生は私たち青年を、決して「宗教の専門家」に育てようとされたのではなかった。「第一級の社会人たれ!」。こう薫陶(くんとう)された。
 私も、青年には「一流」に触れさせたい。一流を見ていれば、二流・三流はすぐわかる。二流・三流を追っていては、どこまでいっても一流はわからない。一流の人物と接する。一流の音楽を聴く。一流の書物に親しむ。一流の美を鑑賞する。そこに、一流の人格も磨かれる。
 メニューイン氏は晩年、教育に力を注がれた。若い才能を育成しようと、音楽学校を創設する。スイスにある国際メニューイン音楽アカデミーも、その一つ。アカデミーのアルベルト・リシ音楽監督は、わざわざ私の創立した関西創価学園を訪れ、演奏も披露してくださった。
 監督は、師匠である氏との出会いを振り返りながら、「巨匠との交流それこそ、若い才能を育てる最高の道である」と語っている。師弟である。一流との触発である。大いなる魂との出会いが、大いなる技と心を養うのだ。

 「会長と私は同志」

 メニューイン氏の音楽教育の目標は、「人間が人間らしい心を持てるよう手を貸すことにある」(前掲書)。だからこそ、文化を抑圧し、人間性を抑圧する勢力とは、毅然として戦った。
 会見で、氏は鋭く指摘された。「権力は『人間』を忘れさせます」
 それに応えて私は申し上げた。「芸術は『人間』を呼び覚まします」
 「仏法」と「音楽」 ── 互いに深く「人間」を尊敬する信念が確かに共鳴した。「池田会長と私は同志です」と。

ユーディー・メニューイン(1916年?1999年): 20世紀最高峰のバイオリニスト。指揮者。アメリカ・ニューヨーク生まれ。4歳からバイオリンを始め、7歳でデビュー。ヨーロッパ各地でも活躍し「神童」「天才」の名をほしいままにした。18歳の時、72都市で110回のコンサートを。10代にして、その世界的名声は不動となった。第2次大戦後は、主にイギリスとスイスで活動。58年、イギリスにメニューイン室内管弦楽団を結成し、翌年からロンドンに定住。63年、イギリスに「ユーディー・メニューイン・スクール」、77年、スイスに「国際メニューイン音楽アカデミー」を設立。音楽の普及と後進の育成のほか、人権・平和運動にも尽力した。51年の初来日以来、6度の日本公演を。92年4月、東京で池田名誉会長と会見している。

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

学は光 更新情報

学は光のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング