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学は光コミュのわが忘れ得ぬ同志 【第9回】 有島 重武さん  ── 初代 音楽隊長 (終わり)

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  師弟の指揮棒を誇り高く

 偉大なる 広布と文化の 音楽隊  何と勇気の 天の曲かな

 高窓(たかまど)から差し込む光を浴びて、指揮棒が一閃(いっせん)すると、雄渾(ゆうこん)なる学会歌の旋律が轟(とどろ)き渡った。
 大晴天の青空のもと、昭和三十五年(一九六〇年)五月三日の正午、東京・両国の日大講堂で、第三代会長の就任式が始まったのである。
 「さあ、出発だ!」
 私は一階南口の通路から歩き始めた。男女青年部旗、学会本部旗に続いて入場すると、学会歌の大合唱と手拍子は一段と高鳴り、講堂の大鉄傘(だいてっさん)を揺るがした。
 正面に掲げられた恩師・戸田城聖先生の写真が、すべてを見守っておられた。
 この師弟の出陣の儀式において、一糸乱れぬ演奏の指揮を執ってくれたのが、今や日本一と発展した、我らの音楽隊の初代隊長・有島重武君である。


 有島君は大正十三年(一九二四年)、東京の赤坂の名家に生まれた。
 おじには、『生れ出つる悩み』で知られる作家の有島武郎(ありしまたけお)氏、短編小説の名手と謳われ、私もお会いした里見とん氏、さらに画家・小説家の有島生馬(いくま)氏がいる。まことに文化的な環境に育った。
 幼少からピアノを習い、慶応幼稚舎三年の時、都内のコンクールで優勝し、新聞で「天才ピアニスト誕生」と書かれたほどであった。
 一貫教育で、慶応大学の工学部(現・理工学部)に学んだ英才である。
 恵まれた境遇だったが、あえて清貧(せいひん)を選んだ。
 青春の探究のなかで、法華経に興味を抱き、ある寺で教えを請うた。すると、「法華経なら、創価学会の戸田城聖という人物が詳しいらしい」と言われた。
 そこで、学会員の知人を介して、杉並の組織で入会したのである。昭和二十六年の六月、二十七歳になる直前であった。

◆大音楽家に!

 それから間もなく、私は品川駅で有島君にばったり会った。気さくで屈託のない笑顔が印象的だった。
 当時、放送局を回り歩く、青年作曲家であった。経済的にはぎりぎりの生活のなかでも、清々(すがすが)しく求道心に燃えていた。
 私は、戸田先生という大師匠のもとに集った同じ青年として、大成を願い、真心から励ました。
 「音楽をするなら、大音楽家を目指しでください!」
 やがて私が、音楽隊結成の構想を描いた時、真っ先に頭に浮かんだのは、この有島君の存在であった。
 法華経には、妙音菩薩(みょうおんぼさつ)や普賢(ふげん)菩薩の行くところ向かうところ、「百千万億の種種の妓楽(ぎがく)を作(な)す」等と説かれる。菩薩の行動は、踊躍歓喜(ゆやくかんき)の音楽と共にある。
 御聖訓にも、一生成仏の境涯は「虚空(こくう)に音楽聞えて、諸仏菩薩は常楽我浄(じょうらくがじょう)の風にそよめき」(御書二二八七ページ)と仰せである。広宜流布の世界は、妙(たえ)なる音律に満ちているのだ。
 さらに仏法を基調としたアショカ大王の平和と繁栄の時代にも、音楽の祭典が活発に行われていた。
 だが、私が大幹部たちに音楽隊の結成を提案すると、反応は冷ややかだった。ある者はせせら笑い、ある者は頭ごなしに反対した。
 ただ戸田先生だけが、私を信頼してくださった。
 「大作がやるんだったら、やりたまえ!」と。
 音楽隊は、いわば、戸田先生と私の師弟が、創立者である。

 音楽隊の発足は、昭和二十九年の五月六日である。十数人の有志が集い、責任者に有島君が選ばれた。
 彼は毅然(きぜん)と宜言した。
 「必ず一閻浮提第一(いちえんぶだいだいいち)になります!」
 まだ自前の楽器さえなかったが、その一念は、世界をも制する勢いであった。
 これが学会精神である。
 これが音楽隊魂である。
 三日後の五月九日、早速、初の出番がきた。青年部五千人の大結集であった。
 横浜のある町内会から、かつて出征兵士を送った楽器を、急遽(きゅうきょ)、借り出した。
 当日は豪雨。しかし、嵐など何するものぞと、皆、雄々しく、意気軒昂に演奏してくれた。「音楽隊は、学会と広布の原動力なり」と示しきったのだ。
 この日が「音楽隊の日」の淵源(えんげん)となった。後日、私は工面した若干のお金を、そっと有島君に託し、楽器を揃えてもらった。

 天と地に  心と心に 沁みわたる 宇宙のリズムの 努力の勝者よ

 草創期、音楽隊員には、プロは皆無だった。楽譜を読めないメンバーも少なくなかった。
 炎熱の夏の夕べ、町工場での仕事を終えて、作業着のまま、汗だくで練習する尊い姿もあった。真冬の寒い河原に立ち、かじかむ手に息を吹きかけながら、冷たい楽器と格闘した試練の日もあった。練習会場の確保、楽器の運搬など、陰の労苦も計り知れない。
 そのなかで有島君は、わが分身の如く、音楽隊を愛し、隊員の育成に大情熱を注いだ。また音楽隊は、あらゆる闘争の先頭に立つのだと、自らも青年部の班長として、そして隊長として戦い抜いた。
 つぎはぎのズボンで古自転車に乗り、友のもとへ走りに走った。見栄もなく、気取りもなく、後輩を励まし、伸ばすことに一心不乱だった。だから、後輩は慕い、続々と人材が育った。
 いつも御書を手放さず、「日蓮が弟子等(でしら)は臆病にては叶うべからず」(一二八二ページ)の一節が大好きだった。
 また彼は、よく、「国中の諸学者等仏法をあらあら学すと云へども時刻相応の道をしらず」(御書五〇三ページ)との御金言を拝した。そして「今は折伏の時である。学会の活動は、すべて広い意味での折伏である。文化活動も、折伏精神でやるのだ」と訴えていった。
 もしも広宣流布の大願を忘れ、「信行学」の基本を疎(おろそ)かにすれば、いかなる組織体も、学会の前進の妨げになるだけだ。
 庶民と苦楽を分かち合い、庶民のために戦う音楽隊であってこそ、真実、庶民の心に響く偉大なメロディーを奏でられるのだ。
 有島君は、その厳しき一点を知悉(ちしつ)していた。
 自ら「世界広布の歌」をはじめ、数々の学会歌の作曲もしてくれた。
 「形式や技術だけで作った歌は、一千万人の同志が歌うと、三日ですり切れてしまいます」と、敬虔(けいけん)な面持ちで語る彼であった。

  勇気で進め! 広布と文化の音楽隊

◆曲は“五丈原(ごじょうげん)”で

 広宣流布の法戦場には、常に、味方を鼓舞し、敵を震え上がらせる、音楽隊の破邪顕正の師子吼が響いた。
 忘れもせぬ、昭和三十二年の七月十七日!。
 無実の選挙違反の容疑で大阪拘置所に勾留され、師に襲いかかる魔手(ましゅ)を防いでいた私の耳に、朝から、烈々たる学会歌の調べが聞こえてきた。対岸の中之島に陣取った、わが音楽隊の怒りの演奏であった。
 誰から指示があったわけでもない。有島君をはじめ、音楽隊の有志・十数人が、東京から夜行列車で駆けつけてくれたのだ。
 彼らの気迫に押されたかのように拘置所の鉄扉が開き、私が釈放されたのは、正午過ぎであった。

 全軍を  勇み勝利に  導かむ 君らの楽器は 転法輪(てんぽうりん)かな

 あの「3・16」の際も、そうだった。
 戸田先生が車駕(しゃが)でお帰りになり、広布後継の儀式の一切が終了した時である。

 「参加した友を、お送りしよう!」
 私の提案に、待ってましたとばかり、音楽隊の皆が一斉に楽器を抱えた。
 「行こう! ついていらっしゃい」
 私は指揮杖(しきじょう)を振って、音楽隊を先導した。後ろには有島君が胸に指揮棒を差して、弾むような笑顔で続き、生涯、忘れ得ぬ“パレード”となった。
 バスの発着場に着くと、学会歌で同志を送った。
 やがて音楽隊も帰る時刻となり、戸田先生のおられる指揮本部へ挨拶に来た有島君に、私は耳打ちをした。
 「先生が二階にいらっしゃいます。もう一曲、演奏してくれませんか」
 「曲は“五丈原”でよろしいですか」
 「結構です!」
 阿吽(あうん)の呼吸である。
 有島君が指揮棒を振ると、トランペットの壮麗な音色が夕空に響いた。
 「星落秋風(ほしおつしゅうふう)五丈原」
 大英雄・諸葛孔明の苦心孤忠(くしんこちゅう)を詠じた、この歌を聴く時、恩師の目には必ず涙が光った。
 広宣流布という未聞(みもん)の大業を、一人、双肩に担った師であられた。ご自身が、妙法の諸葛孔明であられた。
 しかし、先生は、悠然と言われていた。
 「私は、偉大な良き弟子を持った。ゆえに幸せだ。永遠に勝利者だ」と。
 “五丈原”を指揮しながら、私の側で、有島君も泣いていた。これが、弟子の誓願を込めて、恩師にお聴かせした音楽隊の最後の演奏になった。

 ある日、学会本部の一室の扉を開けると、音楽隊の友が集まって、世界中の代表的な行進曲を演奏できるようにと、真剣に打ち合わせをしていた。
 私も、その輪の中に入り、各国の行進曲の特長を語り合った。
 では、日本の音楽隊の演奏の特長は何か、というテーマになった。私は一言、「それは『勇気』です」と申し上げた。その時の有島君の会心の笑みが懐かしい。
 「音楽を民衆の手に!」と、私が民主音楽協会(民音)を設立したのは昭和三十八年であった。
 発起人の一人となった有島君は、二年後に開催された「民音文化祭」で指揮を執った。この日のために自ら作曲した交響詩「建設」を、総勢七百人の出演者と“奏でたのである。
 日本のオーケストラの草分けでもある音楽家・近衛秀磨(このえひでまろ)先生をして、「素晴らしい! じつに力強い! 」と捻(うな)らせたことは、後々までの語り草になっている。

  邪悪と戦う正義の音律
  ─ 今、創価の楽勇(がくゆう)は地球を舞台に

◆忘恩を責め抜け

 昭和四十二年、有島君は、同志の熱い声援に推され、衆議院選挙に立った。苦労人の彼は、旧「東京六区」の荒川・墨田・江東の庶民に愛され、八期連続当選を果たしている。
 叙勲(じょくん)の話もあったが、「讃嘆されるべきは、公僕(こうぼく)の自分などではない。支持者の皆様方ではないか」と頑として断った。それは、母校・慶応義塾の創立者である福沢諭吉翁(おう)の信念でもあった。
 平成二年(一九九〇年)に議員を引退した。
 「お世話になった皆様方に、一兵卒となって恩返しをしたい」と、再び学会の第一線で活動を開始した。
 決して偉ぶらず、街で会員に会えば、「お元気ですか」と笑顔で声をかけ、頭を下げた。礼儀正しく、相手が恐縮するほどだったという。
 そんな彼にとって、権力の毒酒(どくしゅ)に酔い、私利私欲に溺れて支持者を裏切る傲慢(ごうまん)、不知恩の輩など、最も唾棄(だき)すべき相手であった。
 ひさ江夫人が大事に保管される彼の「五年日記」の備忘欄にも、憤怒(ふんぬ)を込めて呵責(かしゃく)されている。
 「忘恩 反逆 根が深い。大物きどり、金、女、学歴詐称、世間にあきれはてる所業」「日顕宗と結びつき 嘖(せ)めぬかねばならない」

 邪悪と戦う気迫の闘魂は、有島君が生命を注いだ音楽隊の伝統精神である。
 あの“第一次宗門事件”の烈風の最中には、音楽隊の関西吹奏楽団が、全日本吹奏楽コンクールの全国大会で、見事に、最優秀の「金賞」を受賞した。
 さらに、“第二次宗門事件”が惹起(じゃっき)した直後の本部幹部会でも、音楽隊の東京吹奏楽団(現・創価グロリア吹奏楽団)が、「威風堂々の歌」の師子奮迅の響きで、全同志を鼓舞してくれた。
 創価ルネサンスバンガードが、マーチングバンドの全国大会で痛快に、日本一の「内閣総理大臣賞」を獲得したのも、卑劣な学会攻撃の渦中(かちゅう)であった。
 嵐のたび、全国のわが音楽隊、そして音楽隊の出身者は、頭を上げ、胸を張り、正義と勝利の行進の先頭に立ってくれたのである。
 「戦う音楽隊、万歳! 」と、私も有島君も叫んだ。

 名音楽家の宿命でもあろうか。有島君は、晩年、難聴との苦闘が続いた。
 だが、彼は、厳然と、そして悠々と病魔に対峙(たいじ)し、使命の人生の総仕上げを力の限り生き抜いた。
 人の話を聞くのは筆談になったが、自分から話すことはできた。首都圏各地の会合やセミナーに招かれては、創価の師弟の正義を語り、ピアノを披露した。
 音楽隊結成五十周年(二〇〇四年)の記念式典で披露した入魂の演奏には、全国から参加した音楽隊員は涙を流し、大拍手が鳴り止まなかったという。
 恩師と私が音楽隊を結成して五十二年。
 さらには、鼓笛隊が誕生して、ちょうど五十年。
 有島君の後輩の音楽隊は、今や世界約三十カ国・地域で結成され、堂々たる「文化の闘士」の陣列を誇っている。
 南米ブラジルでも、韓国でも、香港でも、音楽隊の活躍は、社会から、絶讃の拍手が送られている。
 文化社会の建設へ前進する音楽隊の妙音の調べは、有島君が願った通り、まさに、一閻浮提 ── 全地球を包む時代となったのだ!

 終生、青年をこよなく愛した有島君は、地元・江東区の青年たちと、約十年間、月一回ほど、自宅で御書の勉強会を続けた。
 そこから、第一級の広布の人材が育っている。
 昨年八月、彼は老衰のために入院した。だが、「僕は、来世は、池田先生のもとで、SGIの戦いをするんだ」と、心は青年の勢いだった。最後は耳が聞こえたようでもある。
 二〇〇六年の一月十九日、肺疾患による呼吸不全で逝去。享年八十一歳。
 私は、即座に贈った。

 三世まで  指揮棒持ちたる  勇姿かな  君の功績 皆が讃えむ

 後日、こう伺った。
  ── 亡くなる前日、友人が枕元で「世界広布の歌」を歌って聞かせると、有島君は拳を強く握り、拍子をとっていた、と。
 まるで、師弟不二の黄金の指揮棒を、誇り高く振り続けるかのように!

 日本一   いな世界一の  音楽隊  創価の誉れの楽雄 燦(さん)たれ


有島重武(ありしま・しげたけ)

 大正13年(1924年)6月28日に東京で生まれる。昭和26年6月に入会。初代音楽隊長、初代青年部音楽局長等を歴任。昭和42年、衆議院議員選挙に旧東京6区から出馬し、8期連続で務める。2006年1月19日に逝去。享年81歳。

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