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そうだ、京都へいこうコミュの■新選組紀行

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私は新選組が大好きなのですが、1日で新選組めぐりができるお勧めスポットなどがあれば是非教えてください!

京都の滞在時間が少ないので、できるだけ効率よくまわりたいと思っています。


__写真__________________________________________________
(左)島原大門 (中)壬生寺 (右)新選組屯所/八木邸

コメント(182)

写真左:城南宮
写真中:小枝橋
写真右:御香宮神社

鳥羽・伏見での戦闘の舞台
3日夕方には、下鳥羽や小枝橋付近で街道を封鎖する薩摩藩兵と大目付の滝川具挙の問答から軍事的衝突が起こり、鳥羽方面での銃声が聞こえると伏見(御香宮)でも衝突、戦端が開かれた。このときの京都周辺の兵力は新政府軍の5,000名(主力は薩摩藩兵)に対して旧幕府軍は15,000名を擁していた。鳥羽では総指揮官の竹中重固の不在や滝川具挙の逃亡などで混乱し、旧幕府軍は狭い街道での縦隊突破を図るのみで、優勢な兵力を生かしきれず、新政府軍の弾幕射撃によって前進を阻まれ、伏見では奉行所付近で幕府歩兵隊、会津藩兵、土方歳三率いる新選組の兵が新政府軍(薩摩小銃隊)の大隊規模(約800名)に敗れ、奉行所は炎上した。

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1766246632&owner_id=9873863
伊東甲子太郎暗殺

伊東 甲子太郎(いとう かしたろう)は、新選組参謀及び文学師範、のち御陵衛士(高台寺党)盟主となった人物。

水戸で学問と剣を修行し、北辰一刀流の伊東誠一郎に入門するが、師が病死したため、遺言によってその一人娘うめの婿となり道場の跡目を継ぐ。

やがて藤堂平助の誘いで共に京に上り、元治元年十月に新選組に入隊。
その年の干支にちなんで、甲子太郎と名を改める。

伊東甲子太郎は、水戸時代に「尊王攘夷敬幕の水戸学」を学んでいる。

新撰組に加盟したのは、「尊王敬幕と攘夷」のためだった。

「佐幕」に傾斜する近藤・土方路線についていけなくなった。
自分の思想信条を貫くために新撰組離脱を模索し始めた。

慶応三年(1867)三月二十日、亡くなった孝明天皇の禁裏御陵衛士を拝命し、同年六月八日、新撰組から15人が分離し、高台寺党(月真院党)を結成した。


慶応三年十一月十八日、伊東は近藤勇に呼ばれ妾宅にて接待を受ける。

酔わされた伊東は、帰途にあった木津屋橋付近にて新選組隊士の大石鍬次郎ら数名により襲われた。

伊東甲子太郎は瀕死の重傷を負いながらも、刀を抜いて立ち向かう。
一名を斬り捨て、油小路通りに向かったが、本光寺の門前で力尽きた。


伊東甲子太郎の遺体は、御陵衛士をおびき寄せる囮として放置され、遺体回収に駆けつけた衛士7名と、新撰組による「油小路の戦い」が十九日に有った。



写真は本光寺、甲子太郎が絶命した門前の石(現在は門が移動したため境内にある)、近藤勇の妾宅があったところ。
「あゝ新撰組」

京都駅付近で寄れる新撰組の史跡です。
電車待ちや、少し時間ができたら寄り道されてみてください。

「新選組不動堂村屯所跡」

伏見奉行所へ引き払うまで六か月間屯所として使用されたところ。

「新選組最後の洛中屋敷跡」

王政復古によりわずか半年でここにあった屋敷を出ることになる。
翌年の鳥羽伏見の戦いに敗れ関東へ落ち延びる。

「伊東甲子太郎殉難の碑」

新撰組、近藤勇の策略にて酒に酔わされ、この地で待ち伏せされた新撰組隊士に
刺殺された御陵衛士「伊東甲子太郎」の碑。
おそらく、藤堂平助などもこの地で斬られたのであろう。

※尚、墓は泉涌寺塔頭「戒光寺」の墓地にあるが、ご遺族の御意向によるためか中には入れずお参りできなかった記憶がある。


ここにこんな貴重なトピが有ったんですね。


京都は史跡巡りでよく行くのですが、歴史に興味無い人と一緒だとけっこう気を使います。

こっちは喜んでいるんですが相手はつまらなそうにしたりして。


京都幕末史跡巡り&グルメツアー、誰か行きませんかね?

賛同者が5、6人ぐらいいれば正式にイベントトピ立てます。
戒光寺は今は事前に寺に連絡を取ればお参り出来るように成りましたよ。

油小路で亡くなった4人のお墓参りがでします。
紅葉が見頃に入ってきましたね。3〜4分染めでしょうか?
嵐山嵯峨野に来られたら是非「天龍寺と天龍寺塔頭 弘源寺 」に来てくださいね。

弘源寺の本堂の数ヶ所の柱には幕末の「禁門の変(蛤御門の変)」の時、ここに陣を構えた長州藩士が試し切りをしたという刀傷が残っています。
http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000076940404&owner_id=9873863

◎天龍寺(嵯峨嵐山)から御所へ向う。(蛤御門の変)
元治元年6月28日、長州藩家老・国司信濃に率いられた兵団は、天龍寺に入り宿営しました。
天竜寺からは来島又兵衛、国司信濃(くにししなの:23歳)率いる浪士隊が元治元年(1864年)19日午前2時に出発した。彼らの軍は蛤御門を守る会津藩と激戦を繰り広げた。長州藩にとって、会津藩は8月18日の政変の首謀者の一人であり、池田屋事件で多くの同志の命を奪った新選組を抱えている仇敵であった。浪士隊の戦意と進撃は激しく、会津藩の守りを突破して、一時は御所内に進入したほどである。しかし、西郷隆盛率いる薩摩藩が応援に駆けつけたために戦局は逆転。指揮官の来島又兵衛は戦死し、浪士隊は敗れて敗走した。

翌日、薩摩藩兵は長州の残党を掃討にやってきて、天龍寺に火をかけました。
世界文化遺産「天龍寺」をです。。。薩摩藩兵め!!
もう2度とサツマイモは食わんでごわす!!

雷など天災は、致し方ないとしても、人災には、頭にくる。


そして、結果は長州藩の完全敗北であった。益田右衛門介が600人を率いて淀川から山崎の天王山に進み後詰として控えていたが、友軍の敗走を食い止めることはできず総崩れとなった。真木和泉守ら17人は天王山にて自害して果てた。

壬生寺に行ってきましたε=ε=(●´ω`)


NHK「歴史ヒストリア」2013/04/24 第144回放送 
「新選組最強ヒーロー!斎藤一 〜会津藩・松平容保との絆〜」
http://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/163.html

<写真は、本光寺。油小路七条近く。>

その番組を観る前に、俺は、最後の新撰組の駐屯地の不動堂村を歩いていました。
東寺の弘法市を見物したあと、リーガルロイヤルホテル入口にある、近藤勇の歌碑を見て、近藤勇の妾宅跡地や 本光寺のある油小路七条近くを歩いていました。

◎新選組の幻の屯所 「不動堂明王院」
http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000042783070&owner_id=9873863
◎高台寺・月真院(御陵衛士屯所跡)。ねねの道沿いにあります。
http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=18706032&owner_id=9873863
◎新撰組の足跡
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1766246632&owner_id=9873863


斎藤 一(さいとう はじめ、天保15年1月1日(1844年2月18日) - 大正4年(1915年)9月28日)は、日本の幕末から明治の武士(新選組隊士)、警察官。階級は警部。勲等は勲七等青色桐葉章。
新選組では副長助勤、三番隊組長、撃剣師範を務める。一時期御陵衛士に入隊。戊辰戦争では旧幕府軍に従い新政府軍と戦う。廃藩後警視庁の警察官となり、西南戦争では警視隊に所属して西郷隆盛軍と戦う。退職後東京高等師範学校の守衛、東京女子高等師範学校の庶務掛兼会計掛を務める。出自、経歴は不明な点も多い。


文久3年(1863年)3月10日、芹沢鴨・近藤勇ら13名が新選組の前身である壬生浪士組(精忠浪士組)を結成。同日、斎藤を含めた11人が入隊し、京都守護職である会津藩主・松平容保の預かりとなる。新選組幹部の選出にあたり、斎藤は20歳にして副長助勤に抜擢された。のちに組織再編成の際には三番隊組長となり、撃剣師範も務める。

元治元年(1864年)6月5日の池田屋事件では、土方歳三隊に属し、事件後幕府と会津藩から金10両、別段金7両の恩賞を与えられた。

新選組内部での粛清役を多く務めたとされ、長州藩の間者(スパイ)であったとされる御倉伊勢武、荒木田左馬之助のほか、武田観柳斎、谷三十郎らの暗殺に関与したといわれる。

慶応3年(1867年)3月、伊東甲子太郎が御陵衛士を結成して新選組を離脱すると、斎藤も御陵衛士に入隊する。間者として潜入していたとされる。新選組に復帰する際、御陵衛士の活動資金を盗んで逃げた。これは金に困って逃げたように見せかけるためであったとされる。

稗田利八の述懐によれば、斎藤が新選組に戻った際、「副長助勤斎藤一氏、公用をもって旅行中のところ、本日帰隊、従前通り勤務のこと」と掲示が出ていたという。
新選組が伊東ら御陵衛士を暗殺した油小路事件は、斎藤が復帰の際にもたらした情報に基づいて起きたともいわれる。
油小路事件の跡地をブラブラしていました。写真は、その場所です。
リーガルロイヤルホテル入口にある近藤勇の歌碑。(旧:不動尊村)
藤森神社の紫陽花苑が見頃になりましたね。ピークは、今週の土日かと思います。
入口の鳥居に向って左側にある駒札には、藤森神社の石造鳥居の額を新撰組の近藤勇が取り外したと書いている。少し笑えた。
http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000084115608&owner_id=9873863
幕府が下した法度や掟書などを掲げた場所「高札場」の跡(三条大橋西詰北側)。

◎三条大橋西詰北側。三条制札事件(さんじょうせいさつじけん)の現場。
三条制札事件(さんじょうせいさつじけん)は、幕末の慶応2年9月12日(1866年10月20日)に、当時京都の治安維持を行っていた新選組が、三条大橋西詰の制札を引き抜こうとした土佐藩士8名を襲撃、捕縛した事件。

1865年(慶応元年)に実施された第2次長州征伐の失敗以降、江戸幕府の権威は失墜し、慶応2年になると京都では幕府の立てた(長州藩を朝敵とする内容の)制札が引き抜かれるという事件が頻発しだした。特に、鴨川にかかる三条大橋の西詰に立てられた制札が3度に渡って引き抜かれ鴨川に捨てられたことから、新選組に制札の警備が命じられた。

制札警備を命じられた新選組は、三条大橋を中心とした3拠点に隊士を配置し、いつでも包囲体制をとれるように準備を整えていた。事件当日は三条会所に原田左之助ら12名が、町屋に大石鍬次郎ら10名が、そして酒屋に新井忠雄ら12名が配置された上に、さらに斥候として浅野薫ら2名が配置されて犯人の出現を待ち構えていた。

新選組が警備に当たっていたところ、同年9月12日、藤崎吉五郎と宮川助五郎を中心とした土佐藩士8名が三条大橋西詰に出現、制札を引き抜く動きを見せた。土佐藩士出現の報を受け、原田左之助隊が現場に急行。逃走を開始した土佐藩士たちに、遅れて駆けつけた新井忠雄隊が追い討ちをかける形となり、新選組は有利に戦いを進めた。ところが、斥候の浅野薫が乱戦を怖れたため、大石鍬次郎隊への連絡が遅れて当初予定していた包囲体制が完成せず、土佐藩士たちは退路を確保することができた。また、土佐藩士の殿を勤めた安藤鎌次の奮戦もあり、結局、新選組は8人の土佐藩士のうち5人を逃してしまうことになった。

この事件の後、浅野薫はその臆病な振る舞いを咎められて新選組を追放された。参戦した隊士達には原田左之助の20両を筆頭に、会津藩から恩賞が与えられた。

当時、土佐藩士の間では長い刀を差すことが流行になっていたが、この事件をきっかけに、長い刀は使いにくいとの認識が土佐藩士の間に広まって流行が終焉した、との逸話が残っている。

◎三条大橋は、江戸時代には東海道五十三次の西の基点であった。

◎処刑場としての「三条河原」
近隣の川岸はかつて「三条河原」と呼ばれ、処刑や処刑後の晒し首が行われた。ここで処刑・晒し首にされた著名な人物を挙げる。
豊臣秀次と、その妻子側室侍女 - 豊臣秀吉より謀反の疑いをかけられ高野山で切腹した後、三条河原へ豊臣秀次の首が運ばれた。首が据えられた塚の前で妻子侍女など39名が処刑され、秀次の首と共に一ヶ所に埋葬された。
石田三成 - 安土桃山時代の武将。関ヶ原の戦ののち六条河原で斬首刑となり、三条河原で晒し首にされた。
石川五右衛門 - 安土桃山時代の著名な盗賊。1594年(文禄3年)8月25日、釜茹での刑に処せられた。
近藤勇 - 新撰組局長。1868年(慶応4年)4月25日、板橋刑場(武蔵国板橋宿付近)で刑に処せられたあと、三条河原で晒し首となった。
◎即宗院(そくしゅういん) (東福寺塔頭)

西郷隆盛自筆の「薩摩藩士東征戦亡之碑」が立てられている。 周辺の紅葉は、見事でした。
西郷隆盛は、幕末の鳥羽伏見の戦い(1868)では、即宗院の裏山に薩摩軍の屯営を構えていました。裏山山頂に砲列を敷き、淀より進軍していた幕軍をこの地から砲撃した。鳥羽伏見の戦いにより、薩摩藩士ら524人が犠牲となっている。その霊を弔うため、西郷隆盛は斎戒沐浴し碑文を書きしたため、1869年に建立しました。

即宗院は、臨済宗東福寺派、大本山東福寺塔頭。嘉慶元年(1387)九州薩摩藩島津氏久公が、剛中玄柔禅師(東福寺第54世住持)を開山として建立。薩摩藩の菩提寺で氏久公の法名「齢岳玄久即宗院」から寺名としました。
また、篤姫が、近衛家の養女となって徳川家へのお興しいれの際、この即宗院に立ち寄ったと云われています。

【正式名称】即宗院(そくしゅういん)
【通称名称】臥雲山 即宗院(がうんざん そくしゅういん)
【住所】東山区本町15丁目813
【電話番号】075-561-9200
▽その他の写真。全体の雰囲気が掴めるかと思います。
http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000087898653&owner_id=9873863
島原界隈で、新選組ゆかりの場所を徒歩で回りました。

角屋→島原大門→輪違屋→壬生寺→八木屯所跡→前川屋敷→光縁寺→太鼓楼→近藤勇歌碑(リーガロイヤルホテル)

写真は、八木屯所跡です。
八木屯所跡は、千円で解説+お抹茶・お菓子付なので、お得です♪
西本願寺の太鼓楼(たいころう)
本願寺で新選組の足跡が残されているのは、太鼓楼のみとなっている。

新選組は、幕府に京都守護職を命じられた会津藩主松平容保の配下で活動した組織。1867年(慶応3年)には幕臣に取り立てられ、戊辰戦争では旧幕府軍に従って戦った。

新選組は、壬生浪士組として発足し、その頃の隊員数は24名だったが、1864年(元治元年)の池田屋騒動以降、隊員数が増加し最盛時には200名を超えていたという。

1865年(慶応元年)、壬生の屯所が手狭となった新選組は、本願寺に移り、境内に「新選組本陣」の看板を掲げ、北集会所と太鼓楼を使用していた。

幕末の尊皇攘夷の中で、長州藩と本願寺とは深いつながりがあり、1864年(元治元年)の「禁門の変」では、長州藩士が本願寺に逃げ込んでいる。そんな本願寺に新選組が屯所を構えたことは、一石二鳥の効果を狙ったものだったという。 

本願寺に屯所を構えた新選組は、境内で大砲を轟かせ実弾射撃を行うなど、僧侶や信徒を震撼させる毎日で、食料としての豚の飼育も行っていたという。

本願寺にとっては迷惑の日々が続いていた。
新選組は、2年後に不動堂村屯所へ移転するが、その費用を負担したのは本願寺だったという。

そういった経緯の中、二番隊伍長だった島田魁は、1886年(明治19年)に本願寺の夜間警備員となり、1900年(明治33年)3月20日、本願寺で倒れ亡くなっている。

島田魁は、近藤勇をはじめとする新選組隊士の菩提を弔うため念仏をかかさず、箱館で戦死した土方歳三の戒名を書いた布を常に懐に携えていたという。
会津藩京都守護職屋敷跡(京都府庁内)

幕末の政治・治安の維持に対処するため1862年(文久2)江戸幕府が設置した職名の一つ。会津藩主松平容保が就任。翌3年今の京都府庁・第二日赤病院・梅屋校におよぶ広い地域の民有地99,000平方メートル(3万坪)を買収し守護職屋敷を造営。京都所司代・京都町奉行の上位に置く。1867年(慶応3)王政復古により廃止。京都府庁内に石碑がある。入口から右に曲がった所にある。

【正式名称】京都守護職屋敷跡(きょうとしゅごしょくやしきあと)
【住所】上京区下立売通新町西入
妙心寺 大法院(みょうしんじ だいほういん)
まずは、佐久間象山先生のお墓参りから挨拶替わりにさせていただきました。
武将・真田幸村の兄であり、信州松代(まつしろ)藩主であった真田信之(のぶゆき)の菩提寺で、幕末の思想家・佐久間象山の墓も残る妙心寺の塔頭寺院。客殿を囲むように広がる庭園は、草庵風茶室「有隣軒」に通じる露地庭園で、楓や苔の深い緑に覆われ侘びた風情を見せている。また、江戸初期の絵師・渡邊了慶の障壁画や、襖8面にわたって百羽の鳥を墨一色で描いた土方稲嶺(ひじかたとうれい)筆「叭叭鳥(ははちょう)図」もみどころ。海北友松や酒井抱一、鈴木松年など江戸時代から近代までの絵師・画家の絵画も展示される。
非公開文化財特別公開 ・島原 角屋(すみや)

〜近世の饗宴の場 重要文化財の揚屋建築〜
旧花街・島原開設当初から残る揚屋(あげや)建築の唯一の遺構(重文)。江戸期の文化サロンで、饗宴のための施設であることから、細部にまで意匠を凝らした見事な建築が残されています。「京の夏の旅」期間中は、「臥龍松(がりゅうまつ)の庭」「松の間」「網代の間」「台所」などの一階部分が公開されます。(二階座敷と美術館はご覧いただけません)

*3/15(土)〜7/18(金)、9/15(月祝)〜12/15(月)は角屋もてなしの文化美術館として通常公開(月曜休館、祝日の場合翌日休館、料金は異なる)

所  在:下京区西新屋敷揚屋町
アクセス:JR嵯峨野線「丹波口」駅下車徒歩約7分
市バス206系統(千本通方面行)で「島原口」下車徒歩約10分、もしくは市バス205系統 (西大路通方面行)で「梅小路公園前」下車徒歩約10分
非公開文化財特別公開 ・島原 輪違屋(わちがいや)


〜新選組ゆかりの島原に現存する唯一の置屋〜
元禄年間(1688〜1704)の創業以来320年以上も営業を続ける、島原に現存する唯一の置屋。襖に道中傘を貼りこんだ「傘の間」や、壁に本物の紅葉を塗りこんでかたどった「紅葉の間」など斬新な意匠の座敷が残っています。また、新選組の近藤勇(こんどういさみ)の屏風などもみどころです。

所  在:下京区西新屋敷中之町
アクセス:JR嵯峨野線「丹波口」駅下車徒歩約7分
市バス206系統(千本通方面行)で「島原口」下車徒歩約7分、もしくは市バス205系統(西大路通方面行)で「梅小路公園前」下車徒歩約7分
此の付近は、新撰組最後の洛中屋敷跡。「不動堂明王院」の東側にあります。ハトヤの東側。
[167][168] とか爺さま

このあたり、新選組関連の史跡が多いですね。
「不動堂明王院」の提灯には「新選組 まぼろしの屯所」とあります。

またそのお隣に「道祖神社」と言って「縁結びの神さま」がいらっしゃいます。
表通りは激しくとも、少し入れば雰囲気のある場所に出会わすところが京の魅力の一つですね。
◎NPO法人 京都新撰組町作りの会。壬生寺から近い高辻千本下ル。平安京時代は、朱雀通り。
三条大橋の上から鴨川を見る。擬宝珠(ぎぼし)には、池田屋騒動時の刀傷と云われる痕がある。
「池田屋事変殉難志士墓所跡」の石碑。京阪三条駅の東側の駐輪場に立っています。
はじめまして!
こちらの場所をお借りして質問させて頂きます。

初めて新選組ゆかりの地を巡ってみたいと思っています。
予定では壬生寺、八木邸、前川邸、光縁寺、新選組記念館、西本願寺辺りです。

京都には観光客の方々が沢山いらっしゃると思うのですが、この辺りも平日は混雑しているのでしょうか?
よろしくお願いします。
>>[174]  
平日は、思ったほど混雑していません。台湾人や中国人は、そういう場所には、来ないようです。

◎新撰組の足跡
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1766246632&owner_id=9873863
◎京都:新撰組駐屯地&本陣
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1889870841&owner_id=9873863

良い京都の旅を指でOK
>>[175]
お返事ありがとうございます!
平日であれば、まだ混雑を避けられそうなんですね。
沢山の情報、参考にさせて頂きますぴかぴか(新しい)

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