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若松バプテスト教会コミュのゼカリヤ書

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●万軍の主は仰せられる、わたしに帰れ、そうすればあなたがたに帰ろう・・・(1:3)

「私に帰れ」とは悔改めのすすめである。神にあって生きる者すなわち信仰者にとって一番大切なことは、神と共にあるということである。それはぶどうの枝にとって幹につながっていることが欠くべからざる条件であるのと同じである。枝がこのとこをいいかげんにして、いかに実を結ぶことに苦労しようとも、所詮それはむだである。主イエスが「わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである」(ヨハネ15:5)と言われたとおりである。

このようにイスラエルやユダにとって、最大の不幸は神が彼らと共におられないことであった。そのゆえに彼らは何よりもまず、神が共にいてくださるようにつとめなければならない。それが「わたしに帰れ」ということである。神に対して正しい姿勢をとることである。そのとき、神の祝福は降るつゆのごとく彼らに注がれる。

神が共にいましたもうことが何よりも大切なのはイスラエルだけのことではない。今日信仰を持って生きている私どももまた同様である。そのゆえに、友よ、われらもまず神に立ち帰ることに励もうではないか。どんなに緊急事態が起ころうとも、私たちにとって神に立ち帰るよりも緊急事態はあり得ないのである。(一日一章)

コメント(13)

●わたしはその周囲で火の城壁となり、その中で栄光となる。(2:5)

人間はいつも自分の測りなわで神の恵みをはかろうとする。しかし、神の前にはこうした人間の試みはまったく愚かでしかない。神が興されるエルサレムは神がその城壁となり、栄光となってくださる、すなわち神が最終の責任もとってくださるということである。・・・ところが、ときどき私たちは、自分があたかも神の共働者であるかのごとくに誤解しやすい。そして自分の測りなわで神の恵みや働きを制限してしまうことがある。奉仕者にとって大切なことは、命じられたままに生きることである。

ご自身が城壁となると宣言したもう主のゆえに、私たちは自分の測りなわを捨てよう。そしてただ主に従う者となろう。(一日一章)
●あなたに祭服を着せよう。(3:4)

・・・一体私たちのうちに、サタンに責められる汚点を何一つ持っていない人間などいるであろうか。みんなヨシュアと同じくけがれた衣を身にまとっているのではなかろうか。そのゆえにゆるされることなしに、清い衣を主からいただくことなしに私たちはだれ一人祭司たり得ない。プロテスタントは万人祭司主義だと言われる。万人祭司主義とはみんなが祭司としてのつとめをするということの前に、みんなが主から清き衣を着せられたものであるということの自覚がともなわなければならない。

教会は権威を大切にする所でなくてはならぬと私は信じる。ただその権威が人をおどすような、上からの強圧であってはならないことは当然である。教会の権威は「祭服を着せ」られたという権威である。罪人なる私がその罪をゆるされて、神の前に立つことを得させられたという権威である。この確信に立って生きかつ語るところに、祭司の権威がある。万人祭司主義の秘儀がある。

友よ、あなたも聞いたか。「わたしはあなたの罪を取り除いた。あなたに祭服を着せよう」との宣言を。主イエスの十字架こそ、この成就である。(一日一章)
●わが主よ、これらはなんですか。

私たちはこの事実がわからなくなり、ただ自分の力や人々の協力で事がなされていくと考えやすい。・・・私たちにとってなすべきことはただ一つ、上よりの油を注ぎ受けること。そのためにいっさいをそなえることである。(一日一章)
●飛んでいる巻物を見ます。その長さは二十キュピト、その幅は十キュピト・・・(5:1)

今は、私たちは「主の用なり」と召された者である。そして、年と共に老いぼれていく私たちの人生は、もし神の器とされなければ、まったくむなしいものである。たとい八十まで生きたとしても、過ぎ去ればきのうのごとく、ただ勤労と悲しみだけが残るようなはかないものである。そういう人生にありながら神に召されたことは何にもまさった光栄であり、喜びである。しかし、私たちはそのままでこの光栄のにない手となることはできない。私たちはお互い多くの罪を犯し、神のみこころを痛めてきた。罪はこちらが忘れても消えるものではない。他人がゆるしてくれてもなくなるわけではない。それは「取り除かれ」なければ消えないものである。だれかが引き受けてくれなければなくなるものではない。それはちょうど重荷のようなものである。重荷は誰かが引き受けてくれないかぎり、それから解放されることはない。

ゼカリヤは二つの幻を通して罪の処理について示された。しかし、彼の時代にはその恵みは幻でしかなかった。しかし、やがて時が満ちたとき、神の子イエス・キリストの出現によって、この罪の解決が具体化したのである。友よ、もし、あなたが今自分の罪や弱さに悲しんでいるなら主イエスを仰げ、そのもとにひれ伏せ、罪からの解放はそこでだけ可能なのである。(一日一章)
●「北の国をさして行く者どもは、北の国でわたしの心を静ませてくれた」と行った。(6:8)

この幻は大切な教訓を私たちに与えてくれる。私たちは主の恵みにあずかったことを喜びながら、そこに居すわってしまうことが多いのではなかろうか。

救われたことを喜ぶことは大切である。その信仰を誇って生きることも大切である。しかしそこですわり込んでいてよいのだろうか。

十字架の救いにあずかった私たちの生きる所は「向こう岸」である。こちらの岸でどんなに歓喜にあふれていても、全世界の救いを願う主の心を静めることはできない。(一日一章)
●はたして、わたしのために断食したか。(7:8)

要するに主のみこころは、断食するしかないということではなくて、だれのために断食をするかということであり、神が求めておられるのは信仰の実を結ぶことすなわち高い論理性に生きることである、とゼカリヤは告げたのである。

主イエスも徹夜の祈りをされた。使徒パウロも祈りの人であった。しかし、その祈りは決して自分のためのものではなかった。確かに彼らにも願望はあった。そして彼らは全能の主にそれを訴えた。しかし、彼らはそれがかなえられることではなく、そこでみこころが何であるかを問い、それに従い行くことのできるために祈った。私たちはこの祈りの方向性を重んじなければならない。ゼカリヤは言った、「わたしのために断食したか」と。友よ、あなたの祈りや断食はだれのためのものであるか。(一日一章)
●万軍の主は、こう仰せられる・・・(8:2)

八章は神の真実の預言である。ここには十回「万軍の主は、こう仰せられる」という言葉が繰り返されている。・・・以上ゼカリヤの預言は、地上にかつて見られなかった楽園の模様である。このようなすばらしい恵みがユダヤ人の功績によらず、ただ神の真実によって成就するということである。
●見よ、あなたの王はあなたの所に来る。柔和であって、ろばに乗る。すなわち、ろばの子である子馬に乗る。(9:9)

信仰は神の時を待つことである。「わたしの時はまだきていません」と言われるそのかたの時をじっと待つことである。その時が必ず到来することを確信して待つことである。この待つことを忘れたとき、私たちのいかなる行動も、それは信仰のわざとは言い得ない。

ゼカリヤは、現在の状況がいかに預言から遠くても、必ずその預言は成就することを主の託宣によって語る。それは神から来るのであるがゆえに、地上がだんだんとその方向に進んでいって実現するものではない。あの聖霊降臨が「突然」「天から」(使徒2:2)起こったように、主の約束も突然に成就するものである。

周知のごとく後になって、主イエスがろばの子に乗ってエルサレムに入場されたとき、エルサレムの人々はゼカリヤの預言の成就を見て喜んだ。しかし、彼らはこのとき、神のみこころを悟り得ず、この王の到来による新しい世界を正しく受け止めることができなかった。(一日一章)
●雨を主に請い求めよ。(10:1)

信仰はどこまでも神に信頼して待つことである。手近なものに救いを求めずに、静かに神を待つことである。どんなに土地がかわいても、草がよじれて枯れてしまっても、静かに神によりすがって主のみ業を待つことである。それは決してやさしいことではない。命がけで臨まなければ出来ないことである。あなたにとって一番大切なこと、それをあなたはだれに求めておられるか。「雨を主に請い求めよ。」私たちは大事なことを主に求めず、どうでもよいものだけを主に求めやすい。それでは神はどうでもよい世界でだけ神であるということになる。(一日一章)
●わたしは彼らに、がまんしきれなくなった・・・(11:8)

善意が通じる間は希望がある。真実がある間は耐えることもできる。しかし、そうしたものがなくなるとき、なお相手をゆるし、愛していくことはむつかしい。私たちの世界で生きるむつかしさはここにある。

私たちはどこまでもゆるし、我慢してくださる主のゆるしやがまんをいただくことによって、私たちにはないゆるしや忍耐を持って生きることができるのである。このキリストの愛、忍耐にあずからないかぎり、私たちはあの牧者のように、相手のゆえに「がまんしきれなくなる」ような生活しかできないのである。変わることなきキリストの巌の上にこそ、不動の人生を生きることができるのである。(一日一章)
●わたしはエルサレムを全ての民に対して重い石とする。(12:3)

エルサレムを重い石とするのはわれわれの業ではなくて、神の業である。われわれは神のなさることをわれわれの手でしようとしてはならない。われわれには神のなさることと、われわれのすることがある。

今日の世界に最も欠けているものは神の「祝福」である。そのゆえに人間の業がすべて裏目に出てしまっている。それは数字の前にマイナスがついているようなものである。数がふえればふえるほど負数が大きくなってくる。

ここで誤ってはならないことは、「祝福の基」はわれわれの努力によって実現するのではなく、「わたしはあなたを祝福の基とする」と言われたように、神がなさることである。私たちのなすべきことはみ言葉に従って、国を出、親族に別れ、父の家を離れて、神が示された地に行くことである。だから、「わたしはエルサレムを全ての民に対して重い石とする」と約束してくださった神に信頼し、そのことはすべて神に任せ、ただみ言葉に従いきることに全身全霊を打ち込んで生きるところに私たちの生き方がある。(一日一章)
●その日には、罪と汚れとを清める1つの泉が、ダビデの家とエルサレムの住民とのために開かれる。(13:1)

私たちは自分の罪や汚れに対して無関心になっているのではなかろうか。それはとりもなおさず、神の前に生きていないことであり、従ってあの神の子の十字架の死による罪の贖いも、単なる教理になってしまい、私が生きていくのにはなんの関係もないものになってしまっているのではなかろうか。

罪と汚れとを清める、それは命の代価を支払うことなしにはあり得ない。代価を払うとは命を譲ることである。そんな大変なことを神がしてくださる日が来るとゼカリヤは預言した。そして、その預言が成就したのである。私たちは今その預言の成就の時に生きているのである。なんと感謝すべきことであろう。(一日一章)
●見よ、主の日が来る。(14:1)

暗黒の中にありながら、彼らが待ちつづけた希望の根拠は「主の日が来る」という信仰であった。「主の日」とは主のご支配がこの地上にうちたてられる日のことである。神のみこころが行われるみ国の到来の日のことである。このとき、世の力はいかに巨大であろうと、悪の支配がいかに根強かろうと、全てが白日のもとに照らし出され、主のご支配のもとに引き出され、羊と山羊とをわけるようにわかたれる。彼らはこの日が必ず到来することを信じそのゆえに希望を持って生きたのである。(一日一章)

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