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SF小説『SAMPLE』を読んでみるコミュのSAMPLE -62-

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 未来の戦闘訓練が再開されたのは、軍幹部のC−SOL初回来訪から10日程度が経過した11月21日のことだった。戦闘訓練とは言っても大規模なものではなく、未来の移植された新たな右腕と、修理が完了したパワードスーツの連携を確認する程度のものだ。
 内容は従来と同じようにAWP棟地下2階にある屋内訓練場で行うもので、ロープを使用したラペリング(高所からの降下)やマンターゲットを使用した射撃などの基礎訓練である。今回は特に関連会社の人員要請はしておらず、AWP内のみで行うこととなっていた。
 未来は前日に新任医師によるメディカルチェックを受け、身体機能に異常がないことを確認した上でパワードスーツを纏い、訓練用の火力が低いアサルトライフルを携帯していた。
「では、始めます。回復後初めての訓練ですから、あまり気負わないでください」
『了解』
 屋内訓練場の30メートルはある天井に突き出た指令室の一角で、リューが通信機越しに未来へと声をかける。
 訓練場は、鉄筋コンクリート製の建物が並ぶ街を模したつくりになっている。
 そのうちの壊れたビルの屋上に蒼い鎧姿が佇んでいるのを、複数のカメラが捉えていた。管理用モニターに映っている彼女の様子には、特に変わったところは見受けられない。返答を寄越した声もやや低くはあったが、落ち着いているようだった。
 リューが未来の視点モニターを調整していたそのとき、狭い指令室に一つしかない自動ドアが開いた。
「もう始まってるのかしら?」
「……大月専務、戻ってらしたんですか」
 黒いハイヒールが黒い床を穿ち、止まった音にリューが振り返ったが、レシーバーを外して一言発すると、また作業に戻っていく。
「ええ。未来がちゃんと動けるかどうか気になるから」
「まだ、今から始めるところです」
 手元のパソコンとモニターでパワードスーツのチェックを続けるリューは、背後に佇んでいる大月に気づかれないよう、レシーバーのマイクを指で押さえた。
「ではスタンバイ……ゴー!」
 リューが訓練用プログラムをスタートさせ、鋭く号令を放った。未来は勢いをつけてコンクリートを蹴ると、鋼のロープを掴んで身体に引っかけ、地上へ降下を開始した。3階程度の高さから数秒足らずで着地し、アサルトライフルを携えて狭い路地へ飛び込む。
 壊れた建物の陰から陰へと柔軟に移動する様は、空気の隙間を通り抜けるように滑らかだ。数秒で大通りに辿り着き、しゃがんだ体勢で広めの道路を覗き込む。
 僅かに、木のマンターゲットが跳ね起きる音が上がる。
 崩れた壁や車を想定した鉄塊に邪魔されながらも、視界に3つのターゲットが現れたことを確認すると同時に、彼女はアサルトライフルの引き金を絞った。生き物の柔らかい身体を貫くのに充分な威力を持った銃声が轟き、ターゲットの中心が正確に撃ち抜かれる。
「特に問題ないようね。昨日の検査結果は今一つだったけれど、流石の回復ぶりだわ」
 未来が最初のターゲット全てを破壊したところで、大月は満足げに頷いた。
「最近は検査結果も毎日確認してるんですか?」
「そうよ。多分、今一番あの子のことを知ってるのは私でしょうね。最近は私の言うこともよく聞く、いい子になってきてくれてるわ」
 高揚した様子でモニターの未来を見つめ続ける大月の言い種に、リューの唇が皮肉を言いたそうに歪んだ。
 確かに未来の戦いぶりは、普通に見れば何の問題もなく見えるだろう。が、リューにはターゲットを貫く銃弾がややぶれていて、走るときの視界も普段より上下が激しいことがわかっている。まだ関節の力の入れ具合が戻らず、バランスを取るタイミングが掴めないのだろう。
 なのに、未来のことを一番知っているとはよく言えたものだ。
 しかし。
 今の時点では、大月がそう勘違いしてくれている方が好都合だった。
 数日前のことである。
 リューと生沢は杉田から、未来が抱える心の問題を初めて聞かされた。
 杉田自身では二人に打ち明けるかどうかかなり迷ったが、最早自分一人の手には負えない事態だと最終的に判断したのだという。久しぶりに仲間三人で呑んだその夜は、差し当たってどう対処するかの検討に費やすこととなった。
 まず、未来が回復し武器を携帯した状態のときは、大月専務と二人きりにしない。
 可能なら、なるべく早く武装を解除させる。
 そして何より、未来を杉田と一度でも会わせる。
 明け方まで散々意見を交わしたが、結局のところ有効そうなのはその3点くらいだった。以降生沢やリューが未来と一緒になる時は、何気なく未来を監視することが続いている。
 普段の病室や右腕のリハビリでは口数が減って元気がない印象が強いものの、感情的に大きな波はないように見えた。
 一方で、大月が現れたときは一瞬表情を硬直させ、怯えた目を必ず見せていた。
 大月はそんな未来が自分の言うことに大人しく従うのを確かめると、子どもをあやすように褒めていたが、その後決まって未来は周りの刺激に最低数秒は反応しなくなる。
 このときの未来は全くの無表情で、剛胆なリューと生沢もぞっとするような不気味さを感じていたのだ。
 危険な兆候なのであろう。
『チェックポイント1に到達。目的地屋内制圧成功』
「調子はいいようね。今回の訓練では、チェックポイントは5までよ。そのまま次のルートへ向かいなさい」
 いつの間にか大月が予備の通信用レシーバーをつけ、未来に命令を下していたことにリューがぎょっとした。端正な女の顔が視点モニターの風景と、指令室前面に設けられた大きな窓から見える訓練場の建物群とを交互に見やっている。
『了解』
 応答した未来の声は、短く平坦だ。
 大月はすっかり未来を支配下に置いている気でいるのだろう。
 彼女には、一歩間違えれば未来に襲われる可能性があることは伝えていない。もしそんなことを教えれば、未来が即日で処分されるであろうことは目に見えているからだ。
 リューが大月専務の指令室来訪を未来に悟られないようにしていたのに、余計なことをしてくれたお陰ですっかり無駄になってしまった。この美貌の役職は、どうしていつもしゃしゃり出なければ気が済まないのだろう。
 だが幸いなことにリューが訓練場の運用を変更し、火器を携帯したまま指令室に入れないようにしていた。未来がここに来ても、大月が何かしでかさなければ危険はないだろう。
 舌打ちを漏らしたくなった気分を理屈で押しとどめ、リューはマンターゲットの弾丸命中率や各チェックポイント制圧のクリアタイムなどデータのチェックに取りかかった。
「いい子ね、もうすぐクリアよ」
 次々とチェックポイントを制圧し、最後のルート攻略に差しかかった未来の視点モニターを確認している大月は、頷きながら呟いた。
 未来からの返事はなく、リューも敢えて口を挟まない。コンクリート壁の間をぬって走り、跳び、発砲し、ペイント弾を避ける未来にはその言葉が届いていなければいい。
 リューがそう思ったとき、未来が地下倉庫の暗がりに跳ね起きた最後のマンターゲットに銃弾を浴びせて破壊した。
『チェックポイント5、クリア』
 抑揚がない声が報告し、モニターの真ん中にあったアサルトライフルの銃口が下がった。暗視フィルターを通した暗がりの景色が動き、未来が立ち上がったことがわかる。
「了解。訓練用ライフルは、元の場所に戻してください。とりあえず終了です」
 リューが最後の指示を出し、レシーバーを外す。
「訓練結果はサーバーにアップしておきますから、専務は後で確認をお願いします」
「別に今、こっちの端末で見てもいいでしょ。今日の数字はそんなに悪くないようだし」
 言いながら、大月はリューの左側にある端末空間投射モニタと端末の電源を投入した。
 少しでも危険を減らすため指令室から退出を促したつもりが、今日に限ってまた余計なことをしてくれる。
 端末の前に腰を落ち着けた大月を見て再び毒づきたくなり、リューは溜息をついた。
「流石に一番調子がいいときと比べたら見劣りはするけど、まあまあね」
「そうですね。スーツとの連携も問題ありません」
 1分程度経過した後に起動した端末と共有の訓練データを見た大月が頷いたのに、彼は相槌を打っておいた。
 ほぼ同時に、二人の背後にある自動ドアが開く。
「あら未来、丁度いいところに来たわね。貴女も一緒に訓練の結果を確認するといいわ」
 大月専務が振り向いたところへ姿を現したのは、ヘルメットを左脇に抱えた未来だった。パワードスーツはまだ細い身体の首から下を覆っているが、首の後ろへずらしたアンダースーツのフードの上には長い髪が零れており、白い顔が露出している。
 未来は無言で大月専務の横へ行き、一辺が40センチ以上はある空間投射モニタに表示された数値を眺めた。大月が振り返らずに手持ちのノートへ一部の数値を書き留めつつ、ボールペンの先でモニタの結果を指し示す。
「弾丸の命中精度はまあまあだけど、撃ち漏らしたターゲットが幾つかあるわ。それから、クリアタイムはやっぱりちょっと遅いみたいね」
「今日の訓練メニューは、病み上がりの肩慣らし程度ですよ。あまり最初から厳しい要求をしないで下さい」
 予想していた以上の動きを見せた未来を一言も労わない大月へ、リューのうんざりしたような言葉が投げかけられた。
「でも、最初から高い目標を設定したほうが達成感が違うわよ。いい?未来。次はしっかりやってちょうだい。貴女の化け物じみた回復ぶりには期待してるんだから」
 未だ何も言わない未来を見上げながら、大月が硬い椅子から立ち上がった。
「大月さん……」
 未来が口の中で小さく呟いた名前は殆ど聞き取れないくらいに低かったが、女取締役は微笑みながらそれを受けた。
「何?」
「私は……化け物で、サンプルなんですか」
 俯いている顔に髪がかかっているせいで表情は見えないが、未来の纏う空気に乾いた氷のような違和感がある。はっきり聞こえない掠れ声に含まれた不快な圧力を感じて、思わずリューが二人を振り返った。
「貴女は優秀なサンプルよ。化け物さん」
 上機嫌な大月が自動ドアに向かいながら、左手を未来の右腕に軽く置いた。
 そのダークスーツに包まれた細い腕を、未来が押さえる。
「どうしたの。まだ何か……」
 言いかけて、大月は顔をしかめた。
「未来、痛いわ。力を抜きなさい」
 未来は何も言わない。未来は最初大月の左手首近くを押さえていたが、今はそのパワードスーツの右手ががっちりと大月の肘から下を掴んでいた。
「痛いって言ってるでしょ、離しなさい」
「……私は化け物なんでしょ」
 やや叱り口調になった大月へ、今度ははっきりとした言葉が叩き返される。
 未来の静かな、しかし異常なまでの威圧感がある声に、リューが立ち上がった。
「なら、何をされても文句は言わないよね。私は人間じゃないんだから、何をするかわからないってことぐらい、大月さんはわかってるんだよね」
 ゆっくりと未来が俯いていた顔を上げ、抱えていたヘルメットを落とす。
 重い防護パーツが床に鈍い音とともに転がったとき、先まで何の表情もなかった大きな瞳に濁った光がゆらめいたようだった。
 今まで皆が知っていた優しく明るいそれと同じとは思えないほど、両の目は暗い怒りと狂った悲しみを淀ませている。
 大月は鎌首をもたげた蛇に睨まれた蛙のように筋一つ動かすことができず、その表情は驚愕と恐怖に凍りついていた。
 そこへ、リューが体当たりで弾丸のように突っ込んできた。
 未来が大月の首へ伸ばしかけた手を反射的に引っ込め、屈強な身体が衝突した弾みのために、獲物を掴んでいた手も離す。
 が、未来はリューの勢いに負けて手を離したのではなく、自動ドアの横まで一気に跳躍していた。着地と同時に壁のセキュリティカードリーダーを叩き割って手を突っ込むと、中の配線を引きずり出して何本ものケーブルを無造作に引きちぎった。
「やめなさい!何をす……」
 リューの背後に庇われた大月の叫びが途切れる。
 彼らが立つ後ろのデスクの上に設置された端末の筐体に、未来が投げつけてきた内線電話が直撃した。
 金属が割れて強化プラスチックが粉砕される破壊音が響き、部品と破片が飛び散る。更に未来は30キロはある電話台を片手で持ち上げ、もう1台の端末目掛け叩きつけた。
 緊急用の警報発信機も兼ねていた端末が吹き飛び、窓の強化ガラスと電話台に挟まれてひしゃげる。2台の端末とIP電話は薄い埃の煙を上げ、無惨な電子部品の塊と化した。
「どいて、リュー」
 3つの電子機器を一瞬でスクラップにした未来が、リューと大月へ身体ごと向き直る。
「これ以上暴れないと約束してくれたら、どきますよ」
「無理だよ。もう限界だから」
 リューは静かに身構えていたが、応えた未来の態度にもまた、乱れはなかった。
「私、ずっと自分が人間かそうじゃないのか悩んでたけど、もう疲れたの。だから、心なんか捨てることにする。人間の私なんか……自分の心のままでいる私なんかいらない、って言った連中と一緒にね。あいつらが私のこといらないって言うんなら、私だってそんな連中はいらない。だから、全部壊して捨ててやるの」
「未来……訳がわからないことを言ってないで、大人しくなさい。貴女、自分が何をしようとしたかわかってるの?」
 うわごとを口走るように唇を動かした未来は、大月が蒼白になりながらも発した気丈な声に鋭く反応した。
「わかってるよ。だけど、別にあんたに私のことをわかってもらおうと思ってないから」
 間に立つリューを通り越して、未来は大月を睨んだ。
 双眸を憎しみに燃やしていても、やはり未来の声に揺らぎはない。が、思考は完全に破綻していた。正常な精神は、最早彼女の中に残っていないのだ。
 未来は幼少時から母に自己を否定され続け、サイボーグになってからは上司に人間扱いされず、用済みになったからとその存在を消されそうになった。
 若い女が耐えるには冷たすぎ、重すぎる苦しみを、それでも支え続けていたしなやかな心が、「化け物」と呼ばれたことで遂に折れたのだ。そして心という支えを失った負の感情が一気に未来の人間性を覆い尽くし、飲み込んでしまったのだろう。
 もう何を言っても、未来の聞こえるところまで届かないのは明らかだった。
 しかし、こういった状況では相手と話を絶やさないことが重要だ。
「未来……」
「未来。これ以上無茶なことをしたら、どうなるかわかっているでしょう?貴女にとっていいことなんて、何一つないわ。貴女のためを思って言ってることよ。静かになさい」
 リューが未来との会話を続けようと口を開いたところへ、大月が説得を試みようと割り込んでくる。
「私のため?笑わせないでよ。あんたが私のために考えたことなんか、一度だってないくせに。全部自分のためじゃない。私をサイボーグにしたのも、P2を殺したのも、私を軍に売り飛ばそうとしてることも。杉田先生と会わせないようにしたのだって!」
 正面から大月の目を射抜く未来は次第に興奮し、語調にも熱を帯びさせてくる。
「全部知ってるんだから。私はあんたが指示して作られたサイボーグなのに、耳の良さを知らないわけないでしょ。この建物であった話が、私に聞こえてないとでも思ったの?」
 やっと素直に自分に従い始めたサイボーグ戦士が流す鋭い言葉の洪水に、大月の肩がぐらりと揺れた。
 自分が計画したことは全て、対象者である未来に筒抜けだったというのか。
 ならば、作戦終了後から今まで見せていたあの無気力さは一体何だったのだ?
 最初から全て仕組まれていて、自分を陥れるために張られていた罠にまんまと嵌ったとでも言うのか?
 いや、そんな筈はない。
 未来は戦う才能に優れていても、策略など理解しない馬鹿な娘だ。
 理屈より感情を優先する、愚かで取るに足らない知能しかない女なのだ。
 筋道だった論理よりも、未来の感情のうちで一番脆い箇所を突けば、沸騰寸前になっている憎悪もあっけなく冷めるだろう。
 大月は自分へと向けられている黒く、重く、粘りがある殺意を振り払おうとして、未来の弱点を探るべく身体の芯を必死に奮い立たせた。
「そう。私は貴女を作った。私は、貴女の第2の母でもあるわ。娘なら、母親の言うことは聞くものよ。前みたいに、優しくて明るかった未来に戻ってちょうだい!」
 嘲笑と共に浴びせられた未来の視線にたじろぐことなく、堂々とした態度を保ったままで大月は言い放った。
「……母親?」
「そうよ。私は貴女のこと、何でも知ってる……」
 未来の最大のアキレス腱である、母への恐怖心を突いた大月の唇が動きを止めた。未来の顔色が変わったのだ。
『親を殺して何が悪い』
『この身体も精神も結局は私という個人のものだ。支配までされる筋合いなどない』
『人間であろうとするからこそ、お前はそこまで苦しまねばならないのではないか?いっそ、そんなものは捨ててしまえ』
 大月が第二の母であると脳が言葉の意味を解したとき、P2の声が未来の耳にははっきりと届いていた。
 殺せ。
 殺してしまえ。
 お前を産んだのに、お前の存在を認めない者など殺してしまえ。
 人間など捨ててしまえ。
 殺せば、お前は楽になれる。
 心などないほうが楽になれる。
 P2ではない誰かに、未来は確かに命令された。
 大月やリュー、司令室の風景までもがぼやけて、再び像を結んだような気がした。
 P2と初めて戦い、自分がサイボーグとなった本当の理由を聞かされたときに感じたのと似た感覚が襲ってくる。
 意識だけがテレビ画面の外に放り出され、空っぽの肉体が演じるドラマを眺めている。
 そんな現実感の喪失。
 未来は身体や考えを自分以外の誰かが操っているような、奇妙な感覚を覚えた。
 喋ろうと意識しないモノが、口を突いて飛び出てくる。
「そうか……大月さんは、そんなに私に殺して欲しいんだ」
 未来の白く色を抜かれた顔のやや上にある目が、焦点をどこかに散らしつつ、大月をその中心に捉えた。
 未来の瞳から色が失せた。
 ただ黒くて丸いものがあるという様は、まるで人を襲うときの鮫と同じだ。
 金属で覆われた足が、大月とリューに向かって一歩踏み出す。
 ゆっくりというよりも緩慢な動きだったが、未来が何を見て、聞いているのか、次に何をしようとしているのかが全く読み取れない不安定さがあった。
 悪夢に浮かされた異常者か、あるいは生ける屍と表現するべきか。
 戦場で幾度も地獄を垣間見たリューでさえ、凍りついた死人の手が心臓をゆっくりと締め上げてくるのかと思うくらいの怖気を堪えねばならないほどだった。
 もう駄目だ。
 もう未来を、仲間を救うことは自分にできないかも知れない。
 一歩一歩迫り来る未来の顔のどこにも、元気だった頃の面影を見出せない。リューの頭には、希望が絶たれた現実しか浮かばなくなっていた。
「やめて!止まりなさい!」
 そして当然、殺意の的にされた大月が正気を保っていられるわけがない。反射的に彼女は、ジャケットの下に忍ばせていたホルスターから護身用の拳銃を抜いていた。しかし両手に構えられたベレッタM92は、緊張と恐怖のために指が白くなるほど握り締められ、銃口は震えて全く狙いが定まっていない。
 リューの横に出た大月が向けてきた銃を見て、未来の口許が嘲笑の形に歪められる。
「未来、それ以上は……」
 低く警告を発しようとした元軍人、リューがデスクの上にある愛銃に手を伸ばそうとしたときだった。
 独特の破裂音である銃声が指令室内に響き、ほぼ同時に甲高い金属音が僅かにずれた場所から上がった。大月が未来の頭に向かって発砲し、それを庇った腕の装甲に弾丸を弾かれたのだ。
「専務、駄目です!」
 慌ててリューが大月からベレッタを取り上げようとするが、パニックに陥った大月は迫り来る脅威を攻撃することしか頭にないらしい。
 再度大月が未来の顔を狙って撃つが、これもまた手の甲で跳ね返された。
 これでは流れ弾がどこに飛ぶか全く予想できない。やむなく、リューは身をかがめた。
 大月は瞳がこぼれ落ちそうなほど目を見開き、手をがたがた震わせながら一発、また一発と発砲し続けた。連続して同じ金属音が上がり、全ての弾丸を未来がパワードスーツで弾いていることがわかる。
 当然のことながら、標的である未来にはダメージなどない。跳ね返った弾丸は、司令室の壁と言わず床と言わず、明後日の方向へと飛ばされていた。
 どんな反撃をしようと絶対に敵わない。
 その上、未来は僅かに手を動かすだけで、人間など簡単に引き裂くことができる。
 そんなことは未来と言うサイボーグを作り上げた大月が一番よく知っているだけに、絶対的な絶望しか湧き上がってこなかった。更にパワードスーツが対人兵器を完全に弾き返す装甲であることも嫌というほどわかっていたが、それでも撃たずにいられなかった。
 どんなことにも従うだけだったはずの凶悪なでく人形が、自分を殺そうとしている。
 無駄とわかっているのに諦められず、見苦しい悪足掻きをするしかない。
 支配下に置いていると思っていた未来に反抗されるなど、大月にとっては血が滲むまで頭を掻き毟りたくなるほどの屈辱だった。
「未来!言うことを聞かないと、後で酷いわよ!」
 じりじりとリューの側から離れた大月は殺意に晒される恐怖の中にあってもなお、悲鳴に近い声で命令した。
 未来の顔を目掛け、ベレッタのトリガーを引く。
 パワードスーツの腕がその間に割り込む。
 蒼い金属の腕に火花が散ったとき、大月の左胸に熱い何かが吸い込まれた。
 じわりと嫌な暖かさが湧き、あっという間にブラウスとジャケットに広がっていく。
 濃紺のジャケットの胸に開いた、小さな穴。
 そこから噴き出し、下腹部まで滴った血。
 女専務は自身が撃ち、未来の腕に跳ね返された弾丸に胸を貫かれていた。
 彼女は何事かを発しようとしたらしかったが、見開いた目で身体に新たに開いた穴を見下ろし、顎をがくがくと痙攣させるだけだった。
「専務!」
 血の色を失い、膝を折って背後の机に身体を預けた大月のもとへ、姿勢を低くしていたリューが叫び走り寄る。
「……チェックメイト」
 未来の低い呟きは、倒れゆく大月の耳に果たして届いたのか。
 恐らく、誰にもわからないであろうことであった。

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