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SF小説『SAMPLE』を読んでみるコミュのSAMPLE -20-

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未来の追加移植手術が行われたのは、全身の傷が完治する直前の5日後だった。移植するのは大脳の言語野に埋め込むごく小さい、特殊な受発信機で音声交信を可能にするものだ。
未来が言葉にした音声、言語として認識した音声を肉声と全く同じ波長を持つ音に再現して専用のレシーバーに送り、その逆のプロセスを経て外部音声が未来の聴覚に送信者の音声として変換される。移植されたパーツからは極細だが強度のある電線が伸ばされており、左耳についたピアスがオンオフの切り替えスイッチになっていた。
この通信機の最大の特徴は、通信相手の音声をどこにも漏らさずに会話ができることと、他の通信手段を持っていない場合でも外部と連絡が可能になることだ。未来がパワードスーツを着用せず携帯電話を持っていない状態になっても、仲間と連携し戦えるようになるメリットは大きい。
未来は再度の改造を快諾はしなかったものの、P1との戦闘で苦境に立たされたこともあり、最終的には杉田の説得に応じて手術を受ける形となった。
「よし、術式完了だ。全身麻酔はかけたが、目が覚めても切開した足に少し痛みがある程度だろう。患者を病室に頼む」
緑色の術衣姿の生沢が大きく息をついて手術の成功を告げると、助手たちが淀みなく後処理に移っていく。
通信機の移植手術は、大腿部の大動脈からカテーテルを挿入する内視鏡手術にて行われた。最後に耳朶を切開してパーツに電線を繋ぎ、切り替えスイッチであるピアスの穴を開けて電極を埋め込んである。三時間程度の所要時間で無事終了と相成った。
 内視鏡手術は開頭手術よりも患者の負担がずっと少ないが、必要とされる技術が高く、国内でこれを行える医師はまだまだ少ない。
その数少ない医師の一人が生沢だった。普段の姿があまりにその手腕とかけ離れているため、この男が脳神経外科専門で手術の天才であることを、杉田はこういうときに改めて実感する。今回の手術ではその見事な執刀を一目見ようと、助手や他の嘱託医師たちが大勢詰めかけていた。
手術室は地上5階、地下3階の建物であるAWP棟の2階にある。手術台は1台しかないが、同時立会定員は20名まで、更に3階の一部がガラス張りになっており、階上から手術の一部始終を見学することも可能な施設であった。
手術用の無影灯が消されると、強烈な光の消失とともに辺りの緊張感も急速に薄れていく。各種計測器の動きも停止されて、白いタイルの部屋からは機械音が途切れた。人工呼吸器等の一部の機器のみが、麻酔で眠っている未来とともにストレッチャーごと手術室を出ていった。
「やれやれ、こうも見物人が多いとこの手術室も狭いな。お前もやり辛かったんじゃないか?」
「ええ……」
マスクを外して器具を片付けつつ、生沢が杉田に話しかける。対する杉田はまだマスクも取らず、生返事だ。杉田は毎回手術に立ち会っており、人工の移植パーツについては共同で執刀もする。今回の手術は生沢のみが執刀したが、パーツの管理は杉田の担当で麻酔医も兼任していたのだ。
「何か気になることでもあったのか?」
「ええ。手術中に脳波をモニターしていて、気づいたことがあって」
 杉田がマスクを顎の下に下げ、記録されていた脳波の画面を手術中のものに戻していく。やがて、問題の脳波が刻まれた部分に辿り着いた。起伏があまりない脳波の線が幾つも並んでいる中に、幅がある大きな振りに混ざって尖った波形が現れた部分を杉田が指摘する。
「時間にすると僅かな間ですが、側頭葉部に棘波が何度か出てるようなんです。麻酔の入眠時と、覚醒直前の手術完了時に」
「左下肢の運動野だな。てんかんの発作時に出るのと似てなくもないが、今の手術では目立った痙攣はなかったし……こりゃ、通信機を埋め込んだ後に出たのか?」
「いいえ。でも、未来には持病なんてありませんし、改造手術のときはこんな脳波異常はありませんでした」
 てんかんは慢性の脳疾患で、主な症状は手足の頻繁な痙攣や運動障害、意識障害だ。重症の場合は外科的療法も必要な病気で、脳波にこのような棘波が認められることも要素の一つである。だが、今まで何の既往症もなく成人してから発症することは稀で、何か別の要因がある可能性が高い。杉田の横から脳波モニターを覗き込んだ生沢の眉間に皺が寄る。
「……確か、未来の脳にはもう一つ人工パーツを移植してあったな」
「はい。人工パーツと生体部分の反応を調整するSNSA(Somatic Nervous System Adjustment、体性神経系調整装置)が移植されています」
「そいつの誤作動の可能性はないか?」
「もともとヴァーチュズにあったテスト合格品ですから、それはないと思うんですけど……」
 言いながらも、杉田の口調は自信なさげだ。
「ということは、未来専用に作られたパーツじゃないってことだよな。恐らくP2にも使われたものなんだろう」
「……あ、言われてみれば確かにそうです」
「社内での実験や検証は充分なものだったとしても、経年劣化や想定されていなかった外的要因による故障がある可能性もあるな」
生沢の言葉に、杉田は素直に頷いた。未来に最初のサイボーグ化手術から移植されているパーツは杉田が籍を置く会社、ヴァーチュズに一通りの検査を経て在庫として保管されていたものだ。当然SNSAも、動物実験を含めた種々の検証過程をクリアして問題なしと判断された部品だが、人間での実験を重ねたり、数年の使用に及ぶ耐久性の検証を取ったわけではない。
いくら戦闘用サイボーグ専用の部品として開発された機械でも、強い衝撃や何年にも及ぶ使用に耐えられず劣化することは十分に考えうる。二年前の手術当時、杉田は何の疑問も持たずにSNSAを未来に移植したが、その信頼性には疑いがあった。
「何せ、人の身体に埋め込む機械だからな。場合によっちゃ、命に関わることがあるかも知れん。未来に話して、お前が納得行くまで調べてみろ」
「言われなくても、そうするつもりです。未来の身体の中にまで敵がいるってことにはしたくありませんから」
 きっぱりと杉田が言い放った。
 人としての倫理や生命にかかわる事態が発生した場合、杉田はいつも堂々と意見を述べる。その態度は相手が誰であっても変わらないことに、生沢も最近になって気づいた。杉田にとって決して譲れないのが「人道」というものなのだろう。
 そこにはやはり医師としての彼が確実に見える。
 加えて、杉田は確実に未来との信頼関係を強めつつあった。生沢には、未来に他人に容易く気を許さない歪さがあるのが分かっていたが、杉田は彼女が持つ心の壁を薄く削っていっている。
 若い後輩のそんな隠れた強さは、生沢が期待している点でもあった。
「じゃあ、それについては任せたぞ。大月には俺から話して、必要なら助手の増員もできるようにしとくからな」
「ありがとうございます」
 杉田の礼に生沢は手を軽く挙げて応え、手術室を出ていった。杉田もマスクと帽子を取り、最低限の身支度を整えてから未来の病室へと急ぐ。
「……杉田先生?」
 病室の自動ドアをくぐると、気がついた未来が囁くような声を上げた。麻酔技術が発達した今では、全身麻酔も手術終了から10分程度で覚めるのが普通だ。気管に挿入されていた人工呼吸器も既に外されていたようだ。
「もう気がついた?手術は無事に終わったよ。異常がなければ、明日にでも帰れるんだけど……」
「だけど、何?」
 まだ麻酔が残っていてうまく喋れないのだろう。未来の口調はいつもに比べてゆっくりだ。
「手術中にわかったことがあって。昔の手術で使った部品に問題があるかも知れなくてね」
未来のベッドの横まで足を進めた杉田は言葉を選びつつ、だが率直に事実を伝えた。
「それ……放っといたら死ぬってわけじゃないよね?」
「それはないと思うけど、何せSNSAは脳に移植してるものだから。万一の可能性がないとも言えないし、徹底的に調べさせて欲しいんだ。これは君にパーツを移植した、僕の責任でもある」
やや不安げに言った未来はそこで一度目を閉じ、十数秒の後に再び目を開けて杉田を見上げた。
「うん、わかった。今のところは別に調子が悪いってことはないんだけど……後方の憂いはないに越したことはないもんね」
「済まない。その代わり、徹底的に修理するから」
「できれば、修理って言葉は使わないで欲しいんだけど」
未来の黒い瞳が寂しげに笑うと、杉田が慌てて手を振った。
「ああ、ごめん!僕は主治医だから、未来を責任持って治療すると誓うよ」
その焦った姿に、未来は口元を緩めて頷いた。

C−SOLには毎日大量の什器や開発用の機械、サーバ等の精密機械が社内便専用のトレーラーで出入りを繰り返す。それらの納品情報はセラフィム系列の各本社にあるサーバで一括管理され、日毎、時間毎の入荷情報を専用端末で呼び出して照合し、警備員が毎回ゲートを開ける方式だ。
「これが今日11時入荷のサーバと端末15台か?何だか見かけないトレーラーだけど」
 若い武装警備員がC−SOLの南ゲートに横付けされたトレーラーを見上げた後に、ドライバーへ不審そうな眼差しを向けていた。サーバと端末しか積まれていない割には大型のトレーラーが使用され、車体も社内で通常使用されているものとは明らかに違うものなのだ。
「そんなこと言われても、こっちだって仕事で物品を運んでるんですよ。そちらに納品情報があるんだから、間違いないはずでしょう」
 こちらも若いドライバーが、うんざりしたような口調で武装警備員の視線を受け流していた。三白眼が印象に残る男は、早くしてくれと言わんばかりに溜息を漏らしている。
「そりゃ、社内でセキュリティに関して最近とみにうるさくなったのは知ってます。でも、それ以上にここの連中が時間にうるさいのはご存知でしょう。早く指定の場所に納品しないと、詰め所で引っかかってた時間が長いことが配送遅延の原因にされちゃいますよ」
 社内便のドライバーも、セラフィムグループ企業の社員だ。社内の事情にも詳しいようだし、指定の作業用つなぎと帽子をきちんと身につけている。差し出された伝票も規格のもので、印字の字体も他の物品と全く同じだった。ドライバーこそあまり見かけない顔だが、何より本社で登録されている納品情報と細部までが一致している。最近配送ルートが変更されただけの話なのだろう。
「わかった。時間を取らせてすまない、通ってくれ」
 警備員が納品書のバーコードを専用の読取機に翳す。短いアラームが鳴り、小さな液晶画面に情報が正しく照合されたことが表示された。
 ドライバーが小さく頷いて納品書を受け取り、トレーラーの運転席に戻ってエンジンをかけた。大きく鈍い音と共にタイヤが回り、土埃を上げて敷地内に進んでいく。大きな車体は、まっすぐにAWP棟の地下三階ガレージ入口に吸い込まれていった。
 車両を地下に誘う曲がりくねったコンクリートの通路は、昼もオレンジ色の電灯に明るく照らされている。広い螺旋状の通路を終点まで下っていくと、荷捌場に控えていた二台のロボットが脇に避けてトレーラーのために場所を空けるのが見えた。
「おい、そいつらを黙らせておけ。下手に壊して人間の警備員が来たら面倒だ」
 ドライバーの男が広いガレージの中央で一旦トレーラーを停め、ダッシュボードから小型のレシーバーを取り出しマイクに向かって命令した。
「了解した」
 低く、心地よい男の声が返答してくる。ドライバーはそのまま荷捌場にバックでトレーラーを進め、エンジンを止めてから運転席を飛び降りた。素早く後ろに走り、コンテナの扉を開ける。
 金属で四方を囲まれた空間に暖色の光が射し込んで、大型のジュラルミン製セーフティボックスに腰を下ろしていた人物の姿を浮かび上がらせた。
 顔が端正に整った細面であるのに対し、身体は異様な大きさの男だ。立ち上がれば2メートル2、30センチは越すだろう大柄な体躯はしかし、首から下が全て暗灰色の金属光沢を放っていた。胸や腕は表面が保護されたケーブルが走り、僅かに動かすだけでも軽い軋みが上がる。素人が見てもそれが身体を保護するプロテクターではなく、ロボットの手足そのものだと判断できるほどにごつい造りだ。短めの黒髪を逆立てている頭にはこれも鈍い銀色のヘッドギアが装着されており、顔の右半分を覆う金属部品もまた、同じように僅かな光沢を放っていた。
 しかしセーフティボックスから立ち上がる男の動きの滑らかさは、ぎこちない人工物のそれではなく、人間の仕草そのままだ。
「奴らがまた動き出すことはないだろうな?」
 コンテナの中から歩み出てきた男に、ドライバーが脇へ避けたまま動かなくなっている荷捌きロボットを親指を立てて指し示した。
「入荷の情報を投入して、作業が終了したと認識させた。今日の物品搬入は我々だけのはずだ。これから先はここに乗り入れてくるトラックはない」
「よし、抜かりはないようだな」
 三白眼のドライバーの問いに答えた声も、人間の肉声だった。汎用ロボットのHARが話す合成音とは全く違い、耳に引っかかるような不自然さは微塵もない。ほとんどロボットにしか見えないその男が発する声は、低く澄んでおり印象に残るほどだ。逆に、純粋な人間の姿をしていないのが不思議に見えるほどだろう。
「P2、お前はそのままだと目立つ。そこにあるマントをつけておけ」
 ドライバーになりすましていた工学博士、若松が命令しながら帽子を投げ捨て、薄いグレーのつなぎのファスナーを開けた。はだけさせた胸元から、彼が好んで着るデザインシャツが現れる。
 5年前まで半分自分の部屋のように多くの時間を過ごしていた研究所への侵入は、拍子抜けするほどあっさりと実行できた。この地下3階ガレージも、当時と様子は殆ど変わっていない。
 先日このP2が社内データベースに侵入してからはセキュリティチェックが厳重になり、C−SOL敷地の武装警備員の数も増やされたようだが、所詮は即時的な付け焼き刃だ。一度破ったセキュリティに再侵入のバックドアを仕掛けるのも難しいことではない。安全にC−SOL内へ潜入するために社内便の物流システムを調べて偽の情報を投入し、伝票のバーコードは解析した情報から偽造した。ガレージに陣取っている荷捌きロボットも、無線でシステム侵入を図れるP2が動きを止めることは簡単だ。
「お前はここで何をするつもりだ?」
 つなぎを完全に脱ぎ捨て若いミュージシャンのような格好に戻った若松の前に、肩から下を黒いマントで覆ったP2が降り立った。
「P3の情報収集だ。これ以上外部からのシステム侵入を続けるには限界があるし、情報を持ち出す途中に万一漏洩があれば、後々面倒だからな」
 若松の最終的な目的は自分がこのC−SOLで開発したサイボーグであるP2と、その後継であるP3とを戦わせることだった。自分とP2とを抹殺しようとしたセラフィムグループに恨みがないわけではないが、今は最新型のP3がどんな個体なのか、という好奇心のほうが勝っている。
 それにP2が新型の個体を叩き潰せば、関係者は嫌でもP2が優れていると判断せざるを得ないだろう。
 ただし万全の状態で戦い勝つためには、情報がまだまだ足りなかった。先日持ち出したデータはP3が戦闘時に記録した画像しかなく、P3が生身の状態でどのような武装をしているかということ、どうやら女であること、極めて人間に近い外見を留める程度の改造であることしか判別できなかったのだ。
 短い時間で頭の中を整理した若松は、P2の顔を見上げた。
「ここからなら、AWPローカルシステムのアクセスポイントのどこにでも行ける。手始めに一番手薄なところを探して、社内システムにログインしてみろ」
「やってみよう」
 抑揚がない声で応え、P2が左のこめかみに指先を当てた。ただ一点を見つめて立っているだけに見えるが、全体の8割以上が機械化された彼の脳は無線LANに電気信号化した自らの思考を割り込ませ、自在にその中を駆け巡ることができる。 
 その間に若松はコンテナの扉を大きく開け、一番奥にあった廃材の山を崩した。その下から、大型バイクが姿を現す。逃走用として運んできた彼の愛車であるハーレー·ダビッドソンだ。300キロはある車体を固定していたワイヤーを金具から外し、コンテナの扉近くまで移動させる。
「どうだ?」
「社内システム自体は、単純なパスワード認証と暗号化程度のセキュリティだ。アクセス履歴は逐次ログされるようだがな。ただ、AWPメンバーやP3に関するファイルは、どこを探しても見つからん」
「何?」
「正確には、最新のセキュリティロックがかかったルートフォルダらしいものが一つだけ存在する。これだけはどこにもセキュリティホールの情報がない。私ではこの対処は不可能だ」
 まだ動かないP2にコンテナの中から確認した若松の声のトーンが上がったが、彼はにやりと不敵な笑みを浮かべた。P2は偽装や複数機器の経由を駆使し、形跡が傍目からではわからないような巧みなシステム侵入が可能ではあるが、ロックやパスワード強制解除の専門知識を持っているわけではない。既存の情報を組み合わせて高速対応できるのが強みではあっても、高度なものや全く不具合が発見されていないアプリケーションのプログラムを解析することはできないのだ。
「ふん、慌てて最重要機密のみを最新セキュリティにアップデートしたか……わかった。そのフォルダがあるサーバのIPを何とか探り出して、こっちに送れ。後は俺に任せろ」
 言うが早いか、若松は先までP2が腰を下ろしていたジュラルミンのセーフティボックスを開け、ソフトケースに入った薄型の自作ノートパソコンを取り出した。セーフティボックスの上から片足を投げ出して座り、本体電源を投入して起動させるや否や、コマンドを入力するためのターミナルを5つ同時に立ち上げた。ほどなく、メッセンジャーが問題のサーバIPアドレスを受信した。
「一つずつやるのは面倒だからな。一気に行くぞ」
 彼は笑ったまま、IPアドレスを確認して呟いた。準備運動とばかりに一度両手を広げて指の関節を鳴らす。
 ターミナルがローカルネットワークの接続に成功したのを合図に、若松はキーボードを目にも留まらないほど凄まじい速さで叩き始めた。
 以前ここから脱出を図った際にP2に関するデータは一切合切を持ち去ったが、その時に大体の対処法は判明しているのだ。現在も同じシステムが使用されていることも、先日の外部侵入時にわかっている。過去と基盤が同一のものを再び弄ることは造作もない。
 幾つもの機器を通り、プログラムの断片から先を読み、反応を計算し尽くした答えを瞬時に種々のプログラミング言語に翻訳し、コマンドを雪崩の如く注ぎ込む。
 ごつい指輪を嵌めた指がベテランのピアニストのようにキーボードを走り、鋭い目は画面に瞬間的にしか現れない文字をも漏らさず拾っていった。ノートパソコンの液晶画面では、白い英数字の無秩序な羅列が流れる5つのウィンドウが重なっては現れることが1秒以下の間隔で繰り返されている。普通の人間には、彼が何をしているのかでさえわからないだろう。
 情報学は飛び級を繰り返して13歳でアメリカの大学に入学し、工学の博士号まで取得した若松の天才的な頭脳が発揮できる分野の一つであった。
「セキュリティ解除完了だ。ただし、今作った管理者ユーザのアクセスが弾かれるまで数十秒しかないようだな。その間にお前が必要な情報を全て抜き出して来い」
「了解した」
 ものの10分と経たないうちに全ての作業を終えた若松の言葉にP2が頷いたが、30秒の後に返されたのは意外な言葉だった。
「残念だが……P3のデータらしいものはここにも存在しないようだ」
「何だと?そんな筈があるか。もう一度調べてみろ」
「待て。P3のデータだけは見当たらないが、関係者の名簿やAWP棟全体に関するデータはここにあった。ネットワーク図も存在する」
「……そのネットワーク図をこっちに送れ」
 若き工学博士の命を受け、P2からすぐさまデータが送信されてきた。様々な機器が専用のマークで描かれたネットワーク図を確認し、若松の口元が皮肉に歪む。
「サーバルームのこのブロックの機器だけが、さっきの作業に引っかかっていない。今時スタンドアロンでの運用とはな。成程、究極のセキュリティだ」
 スタンドアロンとは、ネットワークに接続せず単体の機器のみで稼働させる運用だ。物理的にケーブルが接続されておらず完全な隔離状態なのだから、何をやっても侵入は絶対に不可能だ。
「P2、お前はサーバルームへ行け。最重要機密情報はこのサーバに存在する」
 若松はネットワーク図の目標物に印を書き入れ、P2に送り返した。
「お前はどうする?ついて来ないのか」
「俺はここで待機する。誰かに気づかれるかも知れないし、万一攻撃されたときには対処できん。目的のデータを手に入れたら脱出するつもりだが、P3が出てきたら軽く戦っておけ」
 若松が傍らのハーレーを振り返る。ここで騒ぎを起こせば、応戦するのは間違いなくP3だ。AWPが極秘プロジェクトである以上、警察や軍がすぐに出てくるとは思えない。相手の力量を計るためには、一度戦うのが手っ取り早い手段だった。
 P2がガレージ奥の搬入用エレベーターを凝視し、続いて若松に視線をずらした。
「途中でここの連中と出くわした場合は?」
「攻撃されない限りは堂々として、無視しておけ。この研究所では見かけないロボットがその辺を歩いていても、誰も怪しまないのはお前も知っているだろう?」
 若松はそこで一度言葉を切り、ノートパソコンを片付ける手も止めて不敵な笑いを浮かべた。
「ただし、メインスタッフは注意して見ておけよ。さっき見つけた関係者名簿の顔写真と照合して、殺さない程度に遊んでやるといい」

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