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本能の壊れた岸田秀コミュの歌う唯幻論者/

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先日アップした「本壊秀・第2回オフ談(→http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=21463551&comment_count=6&comm_id=29911)」の文中、“岸田御大が大して音楽を必要としてないウンヌン”という下りを記しましたが、昨日、2002年に出た文庫本「ものぐさ箸やすめ」の中の“書くという病”と題された章を読んでいると、御大は自身のナルチシズムを満足させるため、自ら詩を書き(いまだ十九の春浅き〜みたいな定型詩/ものぐさ精神分析〜詩人のなりそこね:収録)、それを既製の楽曲のメロディーに載せて、皆の前で歌うのが大好きであると書いておられました。

つまり、御大が家であまりCDを聴かないからと言って、大して音楽を必要としていないというのはいささか早合点であったようです。

それどころか、気に入った歌手の楽曲を“聴く”よりも、“自作の詩”を書くのみならず“歌う”、しかも、風呂場で歌って一人で悦に入る…のではなく、ゼミの宴会などで学生に聴かせることが大好きだったらしい御大は(これを聴けた方は幸せですねー。僕も聴いてみたい)、資質的には明らかに単なるリスナーではなくこだわりある表現者、シンガーソングライターならぬシンリガクシャーソングライターとでも言ってもいいくらいでしょう(苦)。

考えてみれば、芝居小屋の跡継ぎ息子として常に舞台音楽を子守唄代わりに聴いて育ったであろう御大の人生が、意識するにせよしないにせよ音楽と無関係であるはずはなく、この前のオフ会で話されていたように、既製の演歌などの都合のいい女性像などが歌われる詩に嫌悪感があるらしい御大は、みずから気に入った詩を創作し、それを自ら歌うほどに、音楽、歌へのこだわりを持っておられるというのが、本当のところのようです。
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御大に習って、文化が我々の必要に応じた幻想であると断じるならば、数ある文化の中でも多種多様なジャンルに分岐、細分化した音楽は、それほど多種多様な人間の幻想を吸い上げざるを得ないほどに必要とされている幻想としての文化の最たるものと言えるでしょう。

ニーチェをインスパイアしたドイツの哲学者、ショーペンハウアー(世界は自己の表象であり、世界の本質は生きようとする盲目の意志であると主張)は、芸術の中でも音楽は、絵画や文学と違って、直接精神に訴えかけることが出来るものであるとし、音楽に特権を与えています。絵画や文学は一度視角を通して精神に達するが、音楽は直接精神に響くものである、と。

さて、ひとえに“音楽”と言っても、それについて語ろうとすると3つの意味性が立ち現れて来ます。まず、音楽を“発する側(表現者)”、それを“受け取る側(リスナー)”、そして“音楽そのもの(独立した作品)”。あらゆる音楽についての評価において、この3つの意味性が混同されると話がややこしくなる。そして、誰かとある音楽について真剣に話し出すと大抵この混同が起こり、話が噛み合わなくなってしまう場合が多い。それはそれで僕的には楽しいのですが。

先述した、御大があまりCDを聴かない=大して音楽を必要としていない、という僕の思い込みも、この混同による誤解と言えるでしょう。

“発する側(表現者)”は音楽の当事者として、自己表現としての音楽を語る。すると“受け取る側(リスナー)”はにはそれが、表現者の自己満足のように感じられてしまう。そして、“音楽そのもの(独立した作品)”に興味のある立場からは、表現者、リスナーというそれぞれ勝手な自己に立脚した音楽への評価がうざったく、意味のないものに思えてしまう。だから、どの意味性からの評価であるのかをはっきりさせておくことが重要となります。

今回は、「歌う唯幻論者」のタイトル通り、また、僕自身が長きに渡って作詞作曲を趣味とし、自らバンドで歌っている立場上、“発する側(表現者)”からの音楽語りになることをご了承ください。
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という訳で、広義の“音楽”から的を絞り、かつ、話を相当飛躍させますが、そもそも“歌う”という行為は、誰もが、最も簡単に達成できる“空間の凌駕”だと僕は思っています。

それは、よく言われるように、対象に歌い掛けることによって、温かなコミュニケーションを生み出すことを何よりの目的としたものなどでは到底なく、もしそういう側面があったとしてもそれは二次的な結果であり、その本質はやはり“空間の凌駕”であり、他人を楽しませるエンタテイメントではなく、一方的なステイトメントであったと思います。

歌を“発する側(表現者)”は、明らかに対象となる空間(目の前の偶発的空間、社会空間、対人空間、想像空間etc)を、どんなカタチにせよ凌駕することを究極の目的として欲しているのではないでしょうか。

近年のカラオケの流行はそのチャンスを、つまりシロート衆がカラオケボックスという束の間の空間を凌駕出来るチャンスを無限に創り出したがゆえに、一つの文化となり得たのでしょう。

“空間の凌駕”というモノ言いが大袈裟過ぎて納得できないなら、お風呂でユブネに浸かって鼻歌唸ってる自分を想像してください。あれは浴室の壁に自分の声が反響し、エコーがかかって気持ちいいものです。何故気持ちいいのか。それは自分の声が目の前の空間をみっちりと満たし凌駕していることを実感するから、つまり、自分の声で空間を征服しているという訳です。
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ところで、岸田御大が皆に自作の詩を歌うことが、なぜご自身のナルチシズムを満足せしめるのかと言えば、その場にいる聴衆を含めた“空間”を自作の詩と朗々たる歌唱(かどうか知らない。フニャフニャした歌唱かも)で“凌駕”することで少なからずも乳児期の全能感が回復するからではないでしょうか。

それにしたって、例えば目の前の聴衆(ゼミの学生?)が明らかに御大の歌をバカにしているような雰囲気であったり、聴く耳持たないようであれば、それはその空間に属している聴衆を凌駕したことにはならず、空間の凌駕に失敗した御大のナルチシズムは満たされないはずです。いや、それどころか自慢の歌を不当評価されたことで御大の自尊心は傷付き、二度と公の場で自作の歌を披露しようなどとは思わなくなるはずでは。

だから、“皆の前で歌うのが大好き”という御大の歌は、いつも大いに(或いはそこそこ)ウケているのだろうと思います。御大自身は著作の中で“自分の下手な歌を無理やり聴かされる学生は大いに鼻白んでいるだろうが”などと書かれていますが、おそらくその場にいる皆、御大が大好きであり愛しているので、この歌う唯幻論者を温かく見守り、包み込んでいるのでしょう。だから御大は皆の前で歌うのが好きで、歌えば気持ちよく、その歌声は聴衆ごと空間を凌駕し、ご自身のナルチシズムも満たされるのでしょう。

例外的には、僕がリスペクトして止まない1970年代後半の英国のバンド、セックス・ピストルズなどは、聴衆がそのヘタクソで騒がしい演奏に腹を立て、汚い言葉でバンドを罵倒し、ステージにビール瓶や唾が降り注ぐ等その場が混乱すればする程、彼ら自身はエキサイトしまくったそうです。また、逆に彼らの演奏が始まるや否や、彼らの異質さにオーディエンスが困惑し、会場がシーンと異常に沈黙すればするほど、ゾクゾクして興がノッたとも言います。

しかしまあ、バンドに対する過剰反応(異常な沈黙も過剰反応の一形態であろう)は要するにそのバンドを無視できない、ある面これは相当ウケけているということですから、ピストルズ達のナルチシズムも満たされたと思われます。

このセックス・ピストルズなどが演奏する、いわゆるパンクロックやロックンロールなどは、そもそもが反体制であることをその旨とする音楽であり、少々ドギツイ、凌駕すると言うイメージも分かりやすいかと思いますが、多くのクラシック(これには歌唱がありませんが)やオペラなど、一般的に崇高であるとされる音楽のジャンルやエンタテイメントであるミュージカルなども、聴衆を含めた空間の凌駕を目指していることは明らかでしょう(あの轟音、あの大仰さ、あの極彩色、そして一種のバカバカしさ!セックス・ピストルズの比ではありません)。
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では、なぜ我々は空間を凌駕したいのか。その根本には無目的な“自己拡大衝動”があります。

御大の例で言えば、皆の前で歌い、自作の詩と声で空間を凌駕することで、ナルチシズムは満たされ、一時的にしろ全能感を回復することが出来るのですが、その一連の流れを要請するのが“自己拡大衝動”だと思うのです。

“自己拡大衝動”というのは、昔、御大の著作で知った言葉であり(ものぐさ精神分析/御大の造語かどうかは分からない)、“自己放棄衝動”とセットになっていましたが、皆、ご存知だと思いますので、詳しい説明はすっ飛ばします。まあ、字面の通りの意味合いであると思っていただいていいでしょう。言ってみれば、この世のすべてを自分自身という存在で覆い尽したい、というような薄い望みです。

さて、ここからは私見ですが、“自己拡大衝動”はどこから来たのかと言うと、僕はそれは生命体が根源的に持っているひとつの資質であるという風に説明出来ると考えます。

確かに本能が壊れ、欲望に限りがなくなったがゆえに、人間の“自己拡大衝動”は止めどを知らないのですが、その闇雲に自己の拡大のみを目指す衝動性は本能の壊れた人間固有のものではなく、太古の昔、我々が単細胞生物であったころから、ずっと内蔵していた、生命体というものの絶対的な資質ではなかったでしょうか。これは、ショーペンハウアーの言葉を借りれば“生きようとする盲目の意志”ということになります。

僕の脳裏に焼き付いているシーンがあります。それは、子供の頃、NHKの教育番組か何かで観た、顕微鏡カメラでアップになったアミーバーが、自分のすぐ側に来たバクテリア(繊毛虫やゾウリムシ)をゆっくりと触手を伸ばして捕まえ、ぐいっと引き寄せ、自らの体内に摂取して同化し分裂、増殖するシーンです。

この場合、アミーバーは腹が減ったので、彼の本能に従って近くに来たバクテリアをエサとして捕食したのでしょうか?どうも違う気がするのです。子供だった僕がそのシーンから感じたのは、自身の腹を満たすという現実的な効果以前に“自己拡大衝動”を発露させ、無目的に、とにかく他の個体を採り込み自ら増殖しようとする生命体の根源的な姿、一種の“覇気”のようなものだったと思います(現在の僕ならそれを“ロックンロール”と呼ぶかも知れません)。

魚は回遊することで、鳥は飛翔することで、シマウマは疾駆することでそれぞれ海、空、大地という空間を凌駕します。それは敵から逃げる、獲物を採るなどの現実的な効果以前に、根源的な自己拡大衝動による空間の凌駕への意志がまずあり、それがそれぞれの種を進化させたのではないか。魚は自らヒレと流線形の体を、鳥は自ら羽根と軽い体を、シマウマは自ら細く長い足としなやかな体を、進化論とはまったく別のモチベーションで獲得したのではないか。そんな風にさえ思えるのです。何故って、現実的効果のみを求めるのならワザワザ空を飛ぶ必要って、なくありませんか?木登りトカゲが敵から逃げるために木から木へ飛び移ってる間に手が翼に、ウロコが羽になって、鳥になったなんて…。

進化論のような環境に対して受動的なストーリーではなく、おそらくもっと能動的かつ根源的な要請、アミーバ時代から持ち続けた空間の凌駕への意志、その根本にある“自己拡大衝動”によって、鳥は空をとぶようになったのではないでしょうか。

生命の二大進化系統のもう一つである植物群でさえ、その多くは光へと葉をかざし、地上空間を緑で埋め尽そうとするのみならず、地中空間をも凌駕しようと無数の根茎を伸ばしているのですから。

繰り返しますが、根源的な“自己拡大衝動”によって、空間の凌駕を欲すること。これが単細胞生物から魚類、両生類、爬虫類、哺乳類、そして昆虫や植物までを貫いて脈々と連鎖する、生命体の不可避的な根本傾向ではないでしょうか。そして、“自己拡大衝動”を“自己保存本能”や“種の存続”と言い換えた場合、明らかに何か言い足りていない気がするのです。

アミーバが自分以外の個体を捕食し、増殖を繰り返す根本にある生命的モチベーションとは、単に自己を保存することでも、種を存続させることでもなく、無目的な個体の拡大(無制限な空間の凌駕)への衝動ではないでしょうか。その結果が自己を保存し、種を存続させることになるのだから、無目的な拡大への衝動のみを取り出すのは無意味なことかもしれませんが、僕にはこっちの物言いの方がぴったり来るのです。
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さて、話が大きく飛躍してしまいましたが、“歌う”という行為は、以上のような自己拡大衝動に基づいた空間凌駕への意志を、人間において、誰もが比較的簡単に、瞬間的に充足させうる方法である、ということは先程述べた通りです。

“歌うこと”による空間凌駕には、大きく分けて3つのステップがあると思われます。第一段階としては自分が自身の歌唱に納得し、陶酔する、ということ(自意識空間の凌駕:風呂場での鼻歌モデル)。第二段階としてはその歌唱を他人に聴かせ、共感を得るということ(狭小空間及び他個体の凌駕:カラオケボックスでの歌唱モデル)。第三段階としては、その歌唱でより多くの他人を陶酔させ、その意識を自身に採り込むということ(大空間及び群衆の凌駕:ライブハウスでの演奏モデル)。この内の第二段階までは、おそらくほとんどの人が実感済みなのでは。

因みに、僕はこれまで、空間凌駕への意志と自己拡大衝動が混同して使っており、まだるっこしく感じられるかも知れませんが、整理しておくと、空間凌駕を意志させるものが自己拡大衝動である、ということです。

何にせよ歌う唯幻論者は、それが第一に自身のナルチシズムを満足させる行為であると認識している点において、自分はジャイアンにはならないぞ、と思うが余り、結局、他人から見ればより一層ジャイアン化してしまう危険を、非唯幻論者よりも高く孕んでいるような気がしているのは僕だけでしょうか。

“歌うこと”以外にも、もちろん、名声、権力、経済力などによっても空間の凌駕は取りあえず達成されますが、それを実感できる程のレベルの名声、権力、経済力を得ることはかなり困難であると言っていいでしょう。それに比べて、特にカラオケボックスが一般的になった昨今、“歌う”ことは取りあえず自身が起点となって、目の前の小さな空間の凌駕を実感できる、数少ないモデルだと思います。

また、宗教など何らかの普遍的(と本人は思っている)な価値観を信仰したり、既製のアーティストやスポーツチームを応援すること、何かの文化規範(例えば流行等)に属することなどによっても、個人として比較的簡単に空間の凌駕が実感できるでしょう。

例えば、キリスト教者は一段上に立って(立ったつもりで)隣人愛を説くことで隣近所空間を、強いては世界空間を凌駕した気になっているでしょう。また、サザンオールスターズのファンは長年、J-ポップの頂点に君臨しつづけるバンドを信奉していることで、我が国の音楽空間を網羅している気でいるでしょうし、阪神ファンは僅かな可能性を突いて阪神が優勝した時、長い戦にようやく勝ち、西日本空間を制覇した気になるでしょうし、はたまた、唯幻論を信奉する唯幻論者は、それを知らないおバカな(と唯幻論者は思っている)非唯幻論者達がほとんどを占める社会空間を凌駕した気になっていることと思います。

また、自己拡大衝動と対になっているはずの自己放棄衝動ですが、これについてはまた別の所で私見を論じたいと思います。簡単に言っておくと、自己放棄衝動とは挫折した自己拡大衝動ではないかと思います。そして、自己拡大衝動はこれまで述べて来た通り、アミーバから人間を含む生命体すべての根源的な傾向であり、自己放棄衝動こそが、人間のみが持ちうる衝動ではないでしょうか。それは人間が自己拡大衝動の挫折を意識しうる、おそらく唯一の生き物であることに由来すると思います。

というのも自己拡大衝動はほとんどの場合、不可避的に挫折します。アミーバの場合はそれが挫折しようがしまいが、それを意識することなくノホホンと蠢いて事を済ませますが、人間の場合、自己拡大衝動の挫折を意識せざるを得なく、根源的傾向を封じられた我々は不安でたまらなくなるので、それを自己放棄衝動へと転じ(自身の、頼りにならない自己拡大衝動を放棄し)、何か、大きな拡大する傾向へと同化する必要に駆られるのではないでしょうか。
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最後に。ふと、考えたのですが、大きなアミーバが小さなバクテリアを捕食しているシーンと、小さなバクテリアが大きなアミーバを捕食しているシーンとは、実はどっちがどっちを捕食しているのか区別が付かないのでは。また、そのことと、オオカミがウサギを捕食すること、人間が牛を捕食することとは、実は対した違いはないのかも。そう思うと種の保存という考え方それ自体が、何とも不思議な括りのような気がして来るのです。

(ウッディー:07-08.10)

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