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本能の壊れた岸田秀コミュの岸田秀語録

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岸田センセの言葉で印象深いものを。

まずは基本から…

「人間は本能の壊れた動物である!」

コメント(136)

思考の正常な機能の第一は事態を理解することではなく、理解しないこと、すなわち自我の安定を乱さないよう事態を都合よく解釈することにある。

出典はおそらく『幻想の未来』

いや〜、岸田語録トピも凄いことになってますなあ
以下『官僚病から日本を救うために』より

日米関係の未来
必要なのは「分裂」を自覚することだ

—卑屈過ぎたということを自覚することは大事だけれども、同時に内的自己の肥大には注意する必要がありますね。

岸田 そうです。卑屈になるまいとすると、今度は原爆を落としておいて謝罪もしないアメリカ人が癪に障って腹が立ってくるという面があるわけです。しかしそっちが出ることを恐れるからまた過剰に卑屈になっていくという面もあるわけで。だから自分が分裂しているということを自覚して、内的自己も外的自己も両方とも半分は正しいんだと。だから、田母神さんのああいう右翼的な発言が出たって、一概に押さえつけてしまわないで、半分は正しいということを認めることが必要です。
今はアメリカに対して日本は卑屈になり過ぎている。その点ははっきり自覚する必要がある。
属国状態が目に見える政治的、経済的などの具体的被害だけでなく、日本国民の誇りを失わせ、大量自殺や少女売春などを招いている精神的被害をも認識した上で、できる限りそういう状態から脱していかなきゃいけないんだという前提に立って属国であるべきですね。
さらに『官僚病から日本を救うために』より

官僚について 「官僚腐敗はシステムの問題」「仲間意識を形成させてはいけない」

個人を責めたって意味がない。大蔵省の接待の件でもそうですが、収賄した個人の問題なんかじゃない、これもシステムの問題なんです。お金を使って接待してもらえたら、誰だっていい気分になるんですから。個人を責めるのは、自分がやってもらえないから嫉妬してるだけです。システムの問題を個人の責任にすり替えてしまってはいつまでも解決しません。 こうした構造に対して国民に自覚が足りないということが問題です。まず、選挙のときは官僚と深くつながっているような政治家には投票しないということから始めるべきです。マスコミも読者うけを狙って事件を報じるのではなく、構造の問題として扱うべきです。

「現実」という「幻想」

自我なんていうのは、もともとつくりものであって、不安定なものなんですが、それを何とか無理やり安定させようとすると、狂信的になったり、原理主義者になったりして弊害が大きいんです。安定した自我と不安定な自我があるのではなく、つねに崩れる危険を孕みながらやっとのことで成り立っているのが自我なのです。安定した自我などありません。だから、不安定な自我を恐れることなく、不安定さに耐えながら、しかも、自我を崩すことなく生きるしかないわけです。 かといって、人間が本能に従って生きていこうとするとどうなるか。それはめちゃくちゃになって自滅するでしょうね。本能は壊れてしまっているわけですから。「盲目的本能」などと言いますが、本能が「盲目的」なのは人間だけです。動物の本能は壊れていないので、動物は本能に従って生きていけるのです。


idさん
お久しぶりです。


No51「岸田秀訳 般若心経」

随分以前の投稿文ですが出典を御教示戴けますでしょうか。

100 しゅんかんさん

伊丹さんの映画「大病人」向けに岸田先生が翻訳されたものです。
それを、わたなべゆたかさんが活字に起こしてくれました。

http://www.geocities.jp/nowandthenwy/essay-hannya.html
> idさん

早速の御教示ありがとう御座います。

「仏教と精神分析」に於いて三枝氏が岸田先生の述べられている事は既に往時仏教会において説かれている。
と、語られ岸田先生も首肯成されていますね。
102 しゅんかんさん

>岸田先生の述べられている事は既に往時仏教会において説かれている。

そうですか。それで?という感じです。

お経を読むだけで救われるとしてきた理解とは別次元です。
フロイドが岸田秀を通して理解が深まるように、
仏教も、岸田秀を通して理解できます。

仏教理解は岸田秀の出現まで停滞していたのではないか?

idさん
早速の返レス有難う御座います。

>そうですか。それで?という感じです。

◆idさん、
私も、そうですか。それで?という感を抱きました(同じですね、やはり唯幻論信奉者だからでしょうね)
この「仏教と精神分析」(第三文明社)の後半の件では、先生は唯幻論と宗教学(仏教)の相違点を述べておられましたね。
後半に差し掛かった時、先生と三枝氏の表情は如何様なものであったのか?
「これにておじゃまします。」
と、言い出したりしなかったか?
と、勝手に想像(ドキドキ)したものでした。

>仏教も、岸田秀を通して理解できます。

◆そうですね全く同感で、私も宗教を唯幻論を以って認識しております。
ただ、万人(普遍的)には理解し得ないですね、人間は本能が壊れているのですから。

>仏教理解は岸田秀の出現まで停滞していたのではないか?

◆ではないか?
そうですね、ではないか?・・・・
なんですね。
何を以って停滞とおっしゃっているのか判読出来ませんが、宗教(仏教)信奉者が唯幻論を以ってその宗教(仏教)を理解する必要性があったのか?
又、宗教(仏教)非信奉者が唯幻論を以って宗教(仏教)を理解する必要性があったのか?
よろしければもう少しidさんの見解を示していただければ幸甚です。
はじめまして
岸田先生の本は多少なりとも読ませて頂いて
理解しているところもあると思うのですが

自我=他者、過去、死、幻想
エス=自分、現在、生、現実

について教えてもらってもよろしいですか?
自我=他者 とは、岸田秀曰く、他者に「これが自分というものである」と規定されたものが自我の最初の核となるト。自我とは他者のコピーであるということ。
これとの対比で言うとエス=自分すなわちエスこそが自分であるということ。

自我=過去、エス=現在 とは、他者が個人の自我を規定するとき、過去においてすでに形成されているものにもとづいている。「おまえは女の子だ」、「おまえは由緒ある我が家の跡取り息子だ」など。この意味において過去が自我を形づくると言える。対してエスは現在である。自我とは言わば死んだ過去であるト。それに対し、個人の現在の生命はエスのうちにある(自我=死、エス=生)。

また、エスこそが現実である。この現実とは内的現実であり、私的幻想である。エスと対立する自我は、エスの場合の現実から見れば幻想である(自我=幻想、エス=現実)。

これらをまとめるとさきの等式となるト。
自我=他者、過去、死、幻想
エス=自分、現在、生、現実

ところが、われわれ人間は、自我こそが自分の生きた現実だと思っており、本当にそうであるエスについては無意識、無自覚である。自分に属さないものとして自我から排除しているのである。ここに人間という存在の根本的倒錯がある。
人間とは他者を自分、過去を現在、死を生、幻想を現実と思っている存在である。
(中略)人間は、自我だけでは、日常性だけでは、過去と他者に規定された道を歩かされているに過ぎず、まさに生きる屍であって、肉体としては生きてゆけるかもしれないが、生命としては生きることができないのである。
人間の生命はエスのうちにあるため、生命として生きるためにはエスを解放し表現し、エスを生きなければならない。しかし、エスを解放することは、自我、日常性を崩し、肉体的生存を危うくする。

人間は自我を守らなければ(擬似)現実に適応して(肉体として)生きてゆくことができないし、自我を崩さなければ(生命として)生きることができないというジレンマを抱えているのである。

この解決策;
いかなる文化、いかなる社会も、基本的には自我を支え、日常性を保つことに主眼をおき、そのかたわらに非日常的な時間または空間を設け、そこでエスの解放を許し、このジレンマに何とか対処している。

参考文献)『幻想の未来 唯幻論序説』ふたたび自我の問題の章



●官僚病の解決策
その解決策は二つある。
一つは、戦国時代のあとのように、ふたたび鎖国し、徳川時代のような政治体制を復活させることである。
廃藩置県の逆の廃県置藩を実施し、全国を多くの藩にわけ、それぞれの藩が白閉的共同体としてやってゆくようにすれば、官僚のために国民が甚大な被害を受けるようなことは防げるであろう。しかし、そのためには、日本の人口を三千万ぐらいに減らし、国民はコメやムギのほかにアワやヒエも食べ、年に何回か肉が口に入るという生活に甘んじなければならないであろう。
この解決策を採らないとすれば。そのほかには省庁の共同体化を防ぐしか解決の道はな
いと思われる。
そのための第一歩として、天下り禁止は絶対の前提である。天下り禁止によって、退職官僚は損失を蒙るであろうが、それは退職年齢を引きあげるとか、給料を高くするとかによって埋め合わせればよい。在職中に得た専門的知識と経験を、退職後、関連業界において生かすというような子ども騙しの口実に騙されてはならない。それから、同期の者が次官か何かになると、他の者たちが一斉に退職するなんてことはやめるべきである。省庁は官僚のいわれのない白尊心を守るために存在しているのではない。
そのほか、官僚の採用試験の改革も必要であろう。
何年か前、当時首相だった宮沢喜一は、大蔵省の新規採用者における東大卒の比率を五割以下にすることを求めた。これが現在守られているかどうか知らないが、五割よりもっと比率を下げ、厳密に守る必要があろう。
また。キャリア組とノンキャリア組とを採用のときに最初からわけるのはよくないと思う。国家公務員上級試験を廃止し、]般の採用試験だけにして、昇進するかどうかは入省後の働きで決めればよい。そのほうが試験の成績の一発勝負で決めるより公平であり、特権意識の防止にも役立つ(大束亜戦争においても、陸士海兵を優秀な成績で卒業した試験秀才ではなく、叩き上げの伍長や軍曹に作戦を立てさせ、指揮させていれば、多くの愚かな軍事行動を防ぐことができたであろう。実際、優れた上官とは、軍の学校で学んだ知識に頼らず、部下の助言を用いた入であった。学校で成績がよかった者は、白分の「能力しを裏づける証拠なものだから、どうしても学校で学んだ知識の価値を大きく見がちで、そのため、現実離れした作戦を立てがちであった)。
同じく特権意識の防止のためには、たとえば大蔵省がやっている、入省したての若い官
僚を地方の税務署長にするという悪習もやめるべきであろう。若いうちから入に威張る癖が身につくと、ろくなことはない。
特権意識がよくないのは、官僚が国民に対して威張っていい気分になるからではない。官僚がいい気分になるだけですむなら、大した害はない。特権意識が危険なのは、官僚が国民の犠牲において多大の利益を享受することを正当化する根拠として使われるからである。官僚の不正の背景には、必ず、おれはとくに選ばれた優秀な人間で、国のためにこんなに働いているのだから、これぐらいのことはいいんだというような、不正を正当化する特権意識がある。腐敗官僚は気が咎めながらコソコソと不正をしているわけではない。だから、逮捕されたりすると、運が悪かったとしか思わないのである。
祖父か父か伯(叔)父が高級官僚であったか、またはある者は採用しないことにしてはど
うであろうか。
差別だとか入権無視だとかの反対論が出るであろうが、ペルーには大統領の息子は大統
領になれないという規定がある。
要するに、官僚の息子の官僚になる権利と、官僚による被害を避けたい国民の権利とのどちらが大切かということである。この両権利は両立しないのである。官僚たちは、一般国民が事実を知ればびっくりするほど、血縁や婚姻関係によって結ばれている。昔、軍入の娘が軍人と結婚したがったように、今は官僚の娘は官僚と結婚したがるらしい。
血縁や婚姻関係によって共同体化した省庁は、不可避的に国民に害を及ぼすのである。
元郵政大臣の小泉純一郎は郵政省廃止論を、わたしは文部省廃止論を唱えているが(文部省がなくなれば、日本の教育はよほどよくなる)、省庁は官僚のために存在しているのではないのだから、不要な省庁はどんどん廃止すべきである。また、廃止できない省庁も、その許認可権はできるかぎり縮小すべきである。国のため国民のためには有害無益で、官僚の権益の増大のため以外に存在理由のない許認可権が多過ぎる。
●官僚病の解決作2(官僚病の起源より)

このほかにもまだ、いろいろな共同体化防止策が考えられるであろう。
しかし、これらの案はすべて、官僚の抵抗をどう克服するかがいちばんむずかしいとこ
ろである。いずれにせよ、日本国民は官僚の抵抗を克服して省庁の共同体化を防止するか、薬害エイズのような事件がまた起こることに甘んじるかの二者択一を迫られていることを肝に銘じておかなければならない。
これまでもっぱら軍部官僚その他の官僚を問題にしてきたが、その種の官僚が出現した責任の大半は国民にあることも三口っておかなければならない。
はじめに問題にしたように、国民が有能で清潔な支配者に支配されたがっている、または支配されていると思っていることがその種の官僚を出現させ、のさばらせる根本原因である。
有能で清潔な支配者などというものは、聖入君子と同じくどこにもいないのである。
有能な人が支配者になることはあるであろうが、彼が支配者にのしあがるためにはいろいろ苦しい努力と犠牲を払ったはずであり、その彼が白分の見栄や利益に無関心でひたすら国民のためを考えているなんてことがあり得るわけがない。彼だって他人を幸福にするために生まれてきたわけではない。
有能で清潔な支配者を求めるのはあまりにも虫がよ過ぎ、欲が深過ぎる。虫がよ過ぎて欲の深い人が詐欺にひっかかりやすいのと同じで、そういう支配者を求める国民がひどい目に遭わされるのは白業白得である。
誰だって聖入君子にはなれないのだから、聖人君子であることを国民に期待された支配者はどういう反応を示すであろうか。
誠実な人なら、白分が国民の期待に沿えないことを恥じて支配者をやめるであろう。あるいは、はじめから支配者になろうとしないであろう。
結局、残るのは、現実感覚を失って白分は聖人君子であると思い込むことができる誇大妄想狂か、聖入君子と見せかけるのがうまい偽善者か、何もわかっていないと国民を馬鹿にし、そこにつけ込んで大儲けしようとする狡い入か、国民のことなど気にせず、国民の期待を裏切っても平気な冷酷無情の人かのいずれかである。
結局、国民のそういう期待は、支配者をいささかなりと聖入君子に近づけるというような効果など全然ないだけでなく、まさに逆効果であって、結果的に、誠実な人を排除し、誇大妄想狂か偽善者か狡い詐欺師か冷酷無情の入を支配者にしてしまうのである(ついでながら言うと、国民のそういう期待が愚かなむなしい期待であることを]部の新聞入は知っていると思うが、一般読者である国民の気分を害することを恐れ、たとえば政治家が聖人君子のイメージに惇ることをしたときに、国民の愚かな期待に迎合して政治家をたたく新聞入は卑劣の極みである。要するに、聖人君子でもなく極悪入でもなく、欲も見栄もある普通の人である政治家をどのようにして国のため国民のために働くようにもってゆくかという重要な問題が忘れられている。政治家が聖人君子でないことを非難していればいいというものではない。政治家は聖人君子であるかどうかによってではなく、国家のため国民のためどれほど貢献したか、どれほど害をなしたかによって評価すべきである)。
また、日本国民はかつては軍部官僚に煽られるままに戦争を支持し、生命を賭して戦い戦後は大蔵省や通産省などの官僚の導くままに過労死するほど懸命に働いたが、これは国民が純情で、悪賢い指導者層にうまく騙され、いいように操られたためであるとは必ずしも言えない。
日本国民はポーツマス条約に反対し、対露戦の続行を求めて日比谷で暴動を起こしたし、日中戦争では志願兵が続出したし、日米開戦前にはいわゆる民間右翼が「弱腰のし軍入を脅迫したし、フランス、ドイツ、イギリスを次々に追い抜いた戦後の高度経済成長を、それで大儲けしたわけではない入たちまで大喜びしたのだから。
わたしが昔から繰り返し主張しているように、日本国民は一八五三年のペリー・ショックのためになおいっそう外的白己と内的白己とに分裂し、そして、内的白己においては欧米諸国を恨み、屈辱感をもっている。そこで、その屈辱感を解消することが近代の日本国民の大きな願いとなっている。かつては軍部官僚の掲げる軍事大国の目標に、戦後は経済関係の官僚の掲げる経済大国の目標に共鳴したのも、国民の側にそういう動機があってのことであり、国民の責任も決して小さくない。
官僚に引きずられないためにも、あるいは官僚を引きずらないためにも、国民白身が外的白己と内的白己の分裂を白覚する必要があろう。
たんげさん
『幻想の未来―唯幻論序説』 (講談社学術文庫 2002年)は名作です。
おススメです。
もし、人類の存続のために性交が必要であり、性交のために性差別が必要であるとしたら、人類を存続させるためにその構成員の半分(女)を差別の犠牲にしなければならないような人類とはそもそもなんなのか。
「(正しい)目的は(不正な)手段を正当化する」のではなく、実際には「(不正)な手段は(正しい)目的を腐らせる」。人類の構成員の半分を差別の犠牲にすることによって存続させるならば、存続し得た人類は、不可避的にそのことに条件づけられ、自らの構成員の半分を占める女性達だけではなく、地球上の他のすべての生命をも犠牲にする変てこな動物にならざるを得ない。性差別は女たちががまんすればすむ問題ではなく、性差別の解決は女たちだけのために必要なのではない。
何はともあれ、人類の存続を金科玉条にして性差別を正当化することはもはやできない。
いずれにせよ、性差別を支えてきたあらゆる根拠は現実的なものではなく、すべては幻想であることがいまや明らかとなった。このような状況下では、今後、性差別は解消に向かうのではないか。

『性的唯幻論序説』 (文春新書) より
上記の論理展開にしびれます。
人間が何をどう判断しても、必ず逆の判断を含んでいるわけで、人間はいかなる判断をする場合にも自己矛盾的判断しかできないということでしょう。(唯言論vs唯幻論)

ま、ケ―ス・バイ・ケ―スでありませう。
早いハナシが、自己矛盾的判断しかできない、という判断が真ならば、ソレもまた自己矛盾的判断であるしかないワケですから…、ねぇ。



判断すること自体が自己矛盾していると私は考えます。

(例)彼女は僕を見捨てないという判断がある時、それが当然であれば言う必要がないのだが、あえて言う(判断する)ということは、彼女が僕を見捨てる可能性もあるという判断を含んでいる。

ご面倒ながら、誰方の、どのような文脈におけるご発言であったのか、出典(唯言論vs唯幻論対談の書名、該当ペ―ジ)を、ご教示願えますか?
断定の根拠を知って、出来れば納得に到りたいのです。




出展は『さらに幻想を語る』(対談集 青土社1985刊)http://www.seidosha.co.jp/index.php?%A4%B5%A4%E9%A4%CB%B8%B8%C1%DB%A4%F2%B8%EC%A4%EBの
唯幻論 vs 唯言論  丸山圭三郎 * 三浦雅士 * 岸田秀 の章です。ページはすいません本書を持っていないので分からないのです。語録(人間が何をどう判断〜)は自分のメモからです。

出典のご教示、ありがとうございます。ご面倒を掛けました…。



探し出して、読んでみたいと思います。(平積み収納のどこかに隠れている筈。)





さらに幻想を語る 岸田秀 (青土社 1985年5月30日発行)

147頁、後ろ6行目〜です。

典拠は著者(先生)出版社に敬意を払う意味も込め、詳細に記したいものですね。

記憶とは、過去の映像の持続あるいは再生ではなく、現在においてその都度、再構成されるものなのではないか。―
記憶を推測による過去の再構成と考えれば、集団の記憶も個人の記憶も同じ一つの原理で一貫して説明することができる。民族や国家の歴史は、王朝が交替したり、革命が起こったりすると、現時点において現政権に都合のいいように書き替えられる。個人の歴史、過去の記憶も同じであって、自我が組み替えられると、忘れられていた過去の記憶が蘇ってきて、過去がつくり変えられる。

―真実の記憶とは、手持ちの資料にもとづいて無理なく自ずから導かれるように推測すれば、当然、行き着くような判断であり、偽りの記憶とは、何らかの都合に合わせて無理にねじ曲げた判断であると考えればいいのではなかろうか。抑圧しても抑圧しても、否認しても否認しても、真実の記憶が浮かび上がってくるのは、真実の記憶が大量のエネルギーを負荷(備給)された強力な実体であるからではなくて、いくら意識的にねじ曲げようとしても、気持ちを自然に任せて無理なく考えれば、当然、そうとしか思えないからではなかろうか。


『日本がアメリカを赦す日』補論 個人の分析と集団の分析 より
以下の言葉以外にもたくさんありますが、再び読み返して印象に残った言葉です。

「おのれの立場は普遍的、絶対的と信じている者は、別の立場は絶対に間違っているとしか考えることができないし、また、おのれの立場が絶対に正しいことを裏づける対比の例として絶対に間違っている別の立場の存在を必要とする。」

(唯幻論大全、第四章、唯幻史観による歴史P170P171より、)

深い言葉です。自分の考えが正しいと信じる人が複数いると、争いは避け難いでしょう。逆な言い方をすれば、そういう考えを捨てれば争いはなくなります。
ですが、捨てられないのが人間であるんだと思います。
にゃそさん

>深い言葉です。自分の考えが正しいと信じる人が複数いると、争いは避け難いでしょう。逆な言い方をすれば、そういう考えを捨てれば争いはなくなります。

私は唯幻論が正しいと信じています。そう考えると人は様々な価値観が有ることが理解出来ます。
理解はできるからこそ基本的には争いません。
人の人生は短いですから争いに時間を使うのは不毛です。

でも、価値観を押し付ける思想には思想的には反論を表明します。
それはその理屈が理解できない人には、私の理解によると、多分不毛な人生ではないかと考えるのです。
他者にもその価値観があることを共有しましょうよ!!!
おしつけるなと!!!

ま、一度限りの人生です。
自分の信じる人生観で、
楽しくやりましょうよ♪

idさん

コメントありがとうございます。

おっしゃるとおりですね。

ちなみに、僕も岸田理論を信じている者の一人です。まったく凄い先生です。
岸田秀『ものぐさ精神分析』中公文庫





時間は悔恨に発し、空間は屈辱に発する。時間と空間を両軸とするわれわれの世界像は、われわれの悔恨と屈辱に支えられている。







過去を無視しようとしても無視することはできない。無視できるどころか、逆効果である。フロイトは「ヒステリーとは回想の病いである」と言ったが、彼が説く通り、過去を無視しようとすることは過去に縛られる最も効果的な方法である。過去を現在の自分にあますところなく組み込んでこそ、現在の自分は過去から自由になり、自信をもって未来に向かうことができる。これこそ、今の日本の最も重要な課題である。


『唯幻論大全』岸田精神分析40年の集大成 飛鳥新社
第二部歴史論 第十四章 過去からの逃亡 より
岸田秀『唯幻論大全〜岸田精神分析40年の集大成』飛鳥新社







このように、彼[フロイト]は個人心理を集団心理に基づいて理解している。まず初めに集団心理がある。精神分析は個人心理を研究し、しかるのちにその知見を集団心理に応用したのではなく、もともと集団心理学なのである。集団心理の理解に基づいて個人心理を理解したのである。











本人が正しいと思っている自我のあり方とは、自我が正当に敬意を払われてい
るということです。したがって、迫害され、差別されているという状態は、単に
被害を受けている、苦しめられている、損をしているということではなくて、正義
が失われている状態です。自我はこの状態に堪えられません。ここが重要な点です。
迫害され、差別されている状態から脱出しようとする企ては、単に、受けた被害、
苦しみ、損失の補償を得ようとするのではなくて、失われた正義を回復したい要求
として表れるのです。だから、被害者は正義感が強いのです。だから、正義感に
は憎しみが籠っているのです。正義感に基づく行動は暴力的、破壊的なのです。
心優しい、おだやかな平和的正義感というものはあり得ません。正義は鉄槌でもって
施行されるのです。

(『一神教vs多神教』 第6章 一神教は戦争の宗教か? より)
「絞り出しものぐさ精神分析」P195より、


「石はほかのものとは無関係に石それ自体として石であるが、人間は他者との関係においてのみ何かであり得る」
「自我は、意味、価値、優越、誇りに関して自分より劣る他者を必要とする」


これは、岸田先生が、「嫉妬」は人間に特有な感情であるということを説く中でのご主張です。

まったくその通りだと思います。
つまり、本能が壊れた人間にとって、本能の代替物が自我になるわけですが、もともと自我自体が不安定な存在であり、それを安定化させるためには、自分より劣った他者が必要となるわけですね。

人間というのはつくづく厄介な動物だと思います。
岸田秀『「哀しみ」という感情』新書館






いい歳になったあるとき、がんばるのがアホらしくなり、がんばるのをやめた。すると、非常に気が楽になった。そして、かつての父のように無責任にだらしなくぶらぶら遊んでいて別に生活上、差し障りはないのであった。やはり、わたしは父の子であった。



参考:そもそものフロイドのいう精神分析を理解するために。岸田秀の論考は必須です。
「ものぐさ精神分析」の巻頭に述べられた論考。今でも理解していない心理学関係者が多いのではないでしょうか。

フロイド理論は何よりもまず社会心理学である。一般には、フロイドは神経症者個人の心理の研究から出発して精神分析理論をつくりあげ、その生涯の後半に至ってその理論を宗教現象や文化現象などの集団心理に応用したと考えられているが、わたしの意見によればこれは逆であって、彼はまず集団心理現象を下敷きにして、そのアナロジーにもとづいて神経症者個人の心理を理解しようとしたと言うことができる。 

開業医となって実際の神経症者に直面し、その症状を記述して分類し、病名をつけているだけではすまなくなり、何とか患者の心を理解することによって治療を行わなねばならなくなったとき、フロイドにとって、個人を対象としていた当時の心理学、精神病理学はほとんど何の役にも立たなかった。心理学にはまだ心的葛藤の概念が欠けていた。個人は外界の刺激を知覚して、本能的欲求によって反応しており、外界や他人と対立することはあっても、内的葛藤などはもっていないかのようであった。精神病理学はもっぱら患者の脳や神経の異常についてあれこれ推測しているだけであった。 

神経症者の心理を理解するためにフロイドがその足がかりとして利用したのは、集団心理の現象であった。彼の抑圧の概念などはまさにその典型的な例であって、彼がこの概念を説明するためにどのようなアナロジーを用いているかを見れば、そのことは明らかであろう。 彼は『精神分析入門』の講演中、聴衆に対して、抑圧されて無意識に追いやられた観念が決して消滅せず、絶えずふたたび意識へはいろうとしつづけることを説明するために、騒ぎ立てて講演の邪魔をするので、講堂の外へ追い出された者は消滅するのではなく、外に存在しつづけてふたたび講堂にはいろうとするというたとえ話をしている。 

また、抑圧されたものが偽装されて回り道をして表現されることを説明するためには、反政府的意見を正直にありのまま発表したのでは検閲にひっかっかって発禁になるとき、民衆が間接的表現、あてこすり、皮肉、肝要な点をわざわざ抜かして枝葉的なことをあえて中心においた表現、あたかも現代の問題ではないかのように時代を昔にすり変えた批判、わざとらしいおおげさな賞賛などの偽装を用いることを例にあげている。抑圧のみならず、置き換え、反動形成、投影など、その他の防衛機制も、集団現象として把握した方がはるかに把握しやすいのである。 

無意識と前意識との境界に小人の検閲官がいて、無意識からけしからぬ観念が越境してこないように見張っているというフロイドの説明は、しばしば擬人的だと非難されるが、これは擬人的であるというよりはむしろ、個人心理を集団心理に擬して説明した結果である。超自我、自我、エスという人格の三分法も、一国民を構成する宗教的または天上的権威(皇帝)、世俗的権力(政府)、民衆という三つの部分との類比が根底にあると思われる。この意味において、フロイドの人格理論は彼の時代の立憲君主制の政体を反映している。 強迫神経症と宗教現象との類似は彼の説くところだが、この場合も、彼はまず強迫神経症の機制を把握し、それを宗教現象の理解に拡大適用したのではなくて、その逆である。ナルチシズムの概念もまた同じである。彼が小児期のはじめにナルチシズムの時期を仮定したのは、小児期の臨床的観察にもとづいてではなくて、ユダヤ=キリスト教において人類のはじめに想定された楽園の時代を個人の生活史のはじめにずらしたのである。そのほか、去勢恐怖にせよ、近親相姦のタブーにせよ、個人の心理現象は歴史的あるいは社会的起源をもっている。 

わたしが以上のことをわざわざ述べたのは、精神分析は個人の観察にもとづいて得た知見をそのまま集団に適用し、集団の行動をあたかも個人の行動であるかのように説明し、そのような説明、個人から集団へのそのような拡大適用の妥当な根拠を示さないという批判があるからである。わたしの理解しているところの精神分析は、本来、社会心理学であるから、集団現象の説明にそれを用いるのは拡大適用ではなく、当然のことであって、別にその妥当な根拠を示す必要はない。
たとえば、キリンは首が長いほうが高いところにある餌を取るのに有利だから、少しでも首が長い個体が生存競争に勝って生き残り、だんだん首が長く伸びたという説がありますが、そうではないと思います。
首が伸びる前のキリンの先祖と現在のキリンとの中間の長さの首のキリンの化石は出ていないそうですからね。

何かのことで、絶滅の危機に瀕したとき、「首を長くしよう」と全員で決断して、意図的にいきなり長くしたのではないでしょうか(笑)。作戦なのだから、少しずつ徐々に変化するということは考えられない。進化は意図の結果です。

哺乳類で翼がなかったコウモリの先祖にたまたま偶然小さな羽の芽のようなものが生えて、それが世代を重ねるごとにだんだんと大きくなり、ついに翼になって飛べるようになったのではない。その「小さな羽の芽のようなもの」は適者生存のためには何の役にも立ちませんから、子に受け継がれるわけはありません。コウモリは、あるとき、飛びたくなって、飛ぶほうが生存に有利と判断して一挙に飛べるようになったはずです。飛べないのが残念で、飛びたいと思ったことなど全然ない動物が、偶然の諸要素が重なって、あるとき、飛べるようになったなんてことはありえないですよ。
(『日本史を精神分析する』)
ヨーロッパ人がつくったヨーロッパの歴史も、日本人がつくった日本の歴史も、アメリカ人がつくったアメリカの歴史も、そこに何が描かれているかということより、何が隠されているかを探求することが重要である。何を隠しているかこそがそれぞれの歴史を自覚されないで暗黙のうちに決定しているからである。
さて、人類はアフリカで発祥し、日本列島は人類発祥の地ではないとのことである。したがって、日本列島に住んでいる人々の先祖は、どこか他のところからこの列島に流れついたのであろう。彼らは、東南アジアから南洋諸島から中国大陸南部から北部から韓半島から沿海州から樺太から、あるいはもっと遠くのどこかからやってきて住みついたのであろう。

日本列島にやってきたということは、生まれ故郷で喰うや喰わずで生活が苦しかったか、あるいは、嫌われたか、差別されたか、虐待されたか、とにかく何らかの理由で住みにくかったからではないかと推測される。すなわち、もともと日本民族というものがあったわけではなく、あちこちで生きづらく差別され追い払われたさまざまな民族が列島にやってきて、雑居したり混血したりして最初の倭人・先住民・日本民族の基礎を形成したのではないか、、

日本という国が、、他の国に依存せず支配されず、自力だけで独自に建国した自主独立の国ではなかったということを、日本人は、建国以来、はっきりとまたは暗々裡に知っていたと思われる。その根拠は天孫降臨神話である。このような神話をつくったのは、その必要があったからであり、なぜ必要だったかというと、その正反対が事実だったからであろう。

事実は、日本が地上のほかの国からやってきた、ありふれた人たちがつくった国だったということであろう。
、、また、日本民族が同じ血でつながった単一の純粋な民族であるという神話も、その正反対が事実なので、その事実を否認するためにつくられたのであろう。
(『日本史を精神分析する』)
 
死の恐怖をいかにして鎮めるかというテーマは、おそらく大昔からいろんな人が考えてきているはずであるが、「こうすればいい」という回答は見つかっていない。つまり、そんな方法はないのである。あったらみんな使っているはずである。避けられないことから逃避しようなどと考えないで、死に関する根源的な不安から人間は解放されないのだと諦めた方が良い。(「悲しみ」という感情) 
「宗教的な究極の悟りとか解脱とか、そういう境地は、一切の逃げなしに、…(自分の)醜いドロドロしたものを含めて自分の存在をすべて認めて、そしてかつ自我が崩壊しない状態だ、と精神分析的には考えられると思うんですけれども、そういうことはやはり現実にはありえないんじゃないかと思うんですけどねえ。」(「自我の行方」P86より(一部省略))

人間の究極の到達点としての「悟り」の境地はあるとしても、現実に「悟り」を開いたと自称する人の(ほとんど)すべてが、到達点の途中にすぎないのに到達点に達したと勘違いしている、つまり、そういう言動は眉唾モノだという文脈で僕は理解しました。


まったくそのとおりだと思います。岸田先生の本は何回も読み返していますが、読む度に新たな発見がありますね。
幻想に生きる親子たち 文藝春秋 自虐史観から引用

わたしは自虐史観には次のような特徴があると考えている。
(一)自分と対立する主張(たとえば皇国史観)を全面に否定する不寛容。泥棒にも三分の理と言われるように、間違いだとしても皇国史観の成立には、建国のときにせよ(当時は皇国史観と呼ばれていなかったが)、明治維新のときにせよ、それなりの事情と理由があるが、そういうことをいっさい考慮しない。
(二)たとえば、大江健三郎のように、悪い日本をひたすら非難することによって、自分は他の日本人と違って道徳的に高潔な人間だと思いたがっていることが、当人は気づいていないようだが、傍目には透けて見える。
(三)日本が犯した悪は自分とは無関係な赤の他人の日本人がやったことだと思っているらしく、そこに身を入れ思いを入れて痛みを感じているというところが見えない。
(四)日本を悪いと判断する規範が妥当なものなら、日本と同じような悪い事をした他国をも同じ規範にもとづいて同時に非難すべきであるが、日本だけを責める。これはダブル・スタンダードである。日本人は日本の罪悪だけを問題にすればいいのであって、他国の罪悪はその国の人の問題であり、自ら責めないのなら仕方がないという考え方も成り立つが、それは「君、君たらずとも、臣、臣たらざるべからず」という、主君に対する臣下の道徳であって、他国(連合国)を主君、日本を臣下と見ているから出てくる考え方である。そのような考え方は卑屈と言うべきであって、冷静な自己批判ではない。
平和主義の欺瞞
2005年08月15日 | 雑考
日本は東京裁判での、いわゆる戦犯としての絞首刑を含む諸判決を受け入れて、過去を償ったと考える。そのことでサンフランシスコ平和条約を締結し大東亜戦争にけじめをつけたと考える。

中国・韓国・北朝鮮の反日には、元寇でチャラであると考える。
元が中国とちがうというなら、日本が戦った相手は、アメリカの傀儡の国民党であり中国とは関係ないのである。
中国・韓国はアメリカの戦略に乗せられて反日をやるべきではない。日本もそれに反応して反中・嫌韓になりつつあるではないか。
中国・韓国を批判するより、日本の観念的平和主義者を批判する。国内問題は国内で議論すべきところを、何故、中国・韓国に持ち込むのか。

日本の精神衛生上、冤罪であろうと思われる東京裁判はやり直す必要がある。

「日本がアメリカを赦す日 岸田秀 文春文庫 第5章平和主義の欺瞞」から以下引用

 押しつけられた平和主義は、平和の敵です。
 押しつけられた平和主義は、自分で考え、自分で身につけたものではありませんから、観念化します。観念化した平和主義は、平和とは具体的にどういうことであり、平和へと至るにはどういう具体的方法があるかということについて何も指し示しません。平和、平和と大声で叫ぶことしかできません。侵略されても武器を取らないとか、いかなる場合も戦争は絶対反対だとか言うのは、平和について具体的に何も考えていないことを示しています。
>>[86]
この欲望は男だけのものなのかな?
女にはこのような欲望はないのか?
どうなんだろ。

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