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憂国の士コミュの「世界初のメイドインジャパン」

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FreeJapan誌2号
http://www.sns-freejapan.jp/

より


「世界初のメイドインジャパン」

大正六年。東京市小石川区に小さな光学機器メーカーが産声を上げました。

当時日本海軍は艦砲射撃の光学照準(測距儀)や双眼鏡はドイツに頼っていました。しかし第一次世界大戦で調達が困難となりました。
そこで日本海軍は光学兵器の国産化を急ぎ、東京計器製作所・岩城硝子製造所・藤井レンズ製造所・三菱社の合弁によって出来たのが、日本光學工業株式会社。のちの株式会社ニコンです。
一方の陸軍は東京光学機械株式会社。のちの株式会社トプコンを光学兵器の主力調達メーカーとして採用。
当時は海のニッコー。陸のトーコーと呼ばれていたようです。

当時の日本には光学技術は全くと言って良いほどノウハウが無い為に、試行錯誤の連続であったようです。

例えば主砲の一斉掃射を行ってみたら、衝撃でレンズやプリズムの取り付けが全部狂ってしまい。二度と使い物にならなくなってしまった光学照準(測距儀)。
或いは潜望鏡を作ってみたものの、レンズの乱反射防止加工(コーティング)技術が未熟な為に、ゴーストがあまりにも酷く「これでは艦の安全が保てない」と出港を拒否した潜水艦艦長の話。

しかし、お国のために追いつけ追い越せと技術を磨き、やがて昭和16年。世界最大の光学照準を完成させます。
これが戦艦大和に搭載されていた。立体視式15メートル二重測距儀。と呼ばれる物です。

ここで測距儀とはどんな物なのか説明しておきます。
戦艦大和の主砲46センチ砲は有効射程距離が45キロメートル。
もし、仮に東京駅で発砲した場合、鎌倉の大仏様に命中させるほどの能力が有ったようです。当時はまだレーダーが未発達でした。そこで三角測量の原理を用いて正確な距離を測ったのが測距儀です。
どんなに優秀な主砲を積んでいても、測る距離が不正確ならば敵に砲弾を当てることは出来ません。測距儀は戦艦の命でもあったのです。
戦艦大和のシルエットを想像してみて下さい。巨大な艦橋(ブリッジ)の最上部に左右に伸びる大きな角。そして3基有る主砲塔の左右にも大きな角が伸びています。
これが測距儀です。
戦艦大和はフィリピン沖海戦に於いて35キロメートル離れたアメリカの航空母艦を一撃で沈めています。これも如何に日本光学製の測距儀と管制装置(機械式計算機)が優秀で有ったのかの証明となると思います。

昭和20年。敗戦によって日本海軍は消滅しました。顧客を失った日本光學は従業員の大半を解雇したうえで軍需から民需転換を図り、カメラメーカーとしての再出発を試みました。当時日本光學の技術者達はカメラなんて玩具なんか簡単に作れる。と思っていたようです。しかし製品化に予想以上に難渋。ようやく完成したのが昭和23年。
NikonI型と呼ばれるカメラと交換レンズです。ところがこれは出来が悪く散々酷評されたようです。
しかし、世界最高の光学兵器を作り出していた日本光学。技術力は決して劣っていない。諦めることなく自社製品の改良に取り組み続け、昭和25年。ようやく日の目を見る日がやってきます。
朝鮮戦争の取材の際に日本を訪れたLIFE誌のカメラマン。デビッド・ダグラス・ダンカン。彼は同僚のカメラマン三木淳がNippon Kougaku Tokyo と銘打たれた見慣れないレンズを使っているのを見て不思議に思い。

「お前の使っているレンズは何だ?」と問います。

すると三木淳はこう答えました。
「これは日本製のゾナー(ツァイスレンズ)だ」

ダンカンはキャデラックも作れない敗戦国日本のレンズなんか・・・・と小馬鹿にしていましたが、三木淳が撮影したプリントを見て驚きます。

「凄い!ライカやゾナー(ツァイス)よりシャープだ!このレンズを作っている工場に連れて行ってくれ!」

日本光学のカメラとレンズに惚れ込んだダンカンは同僚達に次々にNikonのカメラとレンズを勧め。それがやがて戦場カメラマンの間で一大ブームとなったのでした。
戦場という過酷な環境でも絶対壊れることなくレンズはシャープ。と大評判となったのです。
この事を当時のニューヨークタイムズ紙は
「Nikonカメラとレンズはドイツ製のものよりも優秀である」
と報じました。

メイドインジャパンが誕生した瞬間でもありました。

コメント(3)

やえさん

ほんと、日本人の勤勉ぶりや独創性や創意・工夫はすごいですね。

以下またマイミクさんの日記からの転載ですが、上記と関連する内容ですのでぜひぜひ。m(__)m


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
マイミクのにこん様自治改進党さんの日記からの転載です。

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1546421516&owner_id=17221117&comment_count=7

<特許大国日本>

日本の特許制度が高橋是清や高峰譲吉の尽力によって有色人種国家として初めてスタートしたのは明治十八年であるが、最初の内の出願は微々たる物であり、それが上昇機運を見せたのは明治三十二年の特許のパリ条約加盟の年からである。
条約改正による列強からの特許攻勢は熾烈であり、多くの日本企業や技術者が苦しみ倒産者も多かった筈である。
これまで使用していたアイディアの多くがパリ条約加盟により使えなくなったからである。
相撲に例えれば新入りの幕下力士が突然横綱と連日相撲を取れと言われたようなものである。

しかし明治の日本人は頑張った。

明治三十二年から日露戦争勃発の明治三十七年に掛けてじわじわと増え続けた出願は戦争によって一旦減少するが、戦勝翌年の明治三十九年から驚くべきピッチで上昇しはじめる。
数値の例を挙げると条約改正発行の明治三十二年に対してその十年後の明治42年には実に12倍の出願数を記録したのだ。

この驚異的な上昇には日本人向けの実用新案の制度化も影響していたが、何といってもロシアに勝ったことによって日本人が意気軒昂となり、戦後の経済苦境を跳ね返すべく気合いが入ったことも大きい・
「増大する外国からの出願攻勢を跳ね返そうではないか!」という闘志が技術者の間に漲ったのである。

その後曲折は有ったものの、上昇は止むことなく続き二十年後の大正末期には遂にイギリスやフランスを抜いてアメリカとドイツに追いすがった。

有色人種国で唯一欧米列強と肩を並べたのだ。
また昭和十二年には一時的ではあるが、アメリカを抜いてドイツに次ぐ世界第二位を記録した。

年によって凹凸はあるが、昭和初期には日本とアメリカが特許の出願数に於いて二位争いをするという明治期には考えられなかった勢いを日本は示した。

その後には悲壮な大戦があり終戦の昭和20年には日本の特許・実用新案出願数は殆どゼロにまで落ち込んでしまい、また戦中の日本の発明が連合国に認められないといった屈辱を味わった。

しかし、終戦直後の十年間。信じられないほどの上昇カーブを描きながら出願数を上昇させ、昭和三十年には遂に世界一となり、以後平成の今日まで一度として世界一の座を譲ったことはない。

それどころか、1970年代から80年代にかけて二位のアメリカやドイツとの差をどんどん広げていき昭和六十二年にはG7の他の六カ国の合計の三倍を上回るという驚異的な記録をうち立ててしまった。
全自由世界の特許出願の70パーセントを人口比3パーセントに過ぎない日本人が占めたのである。
平成五年には特許・ノウハウ・ソフト等の技術貿易も黒字に転じた。
この日本技術者の勢いがアメリカの企業家達を恐怖に陥れ、レーガンが動き「ヤングレポート」が出来、1980年代後半に始まる強引無類な日本叩きの大きな要因ともなった。

(以下にこん様補足)
日本叩きの具体例として、輸出規制や使い物にならないコンピューターや米国製通信機器や、携帯電話の押し売り。そして私の同僚は開発中の通信機器の研究を強制的に中断させられるなどの屈辱を味わった。

(にこん様補足終わり)

以上 石原藤夫著 国際通信の日本史 より
そういえばあまり関係ないけど、高橋是清って、アメリカに留学していた時代に「生意気!」とステイ先のアメリカ人に奴隷として売られた経験がありながらも、それを笑い飛ばす太い精神の持ち主だったようですね。


当時の日本人はみなスケールがデカイのが多いですね。

教育(知的・道徳的)や環境(家族・人間・自然)が良かったんだろうと思います。

そういえば、明治の日本食が、世界中で最も人間の体にバランス良いものであるとアメリカの研究機関が1970年代に発表してましたが、食事も良かったんでしょうね。和食。DHAやEPAが多分に含まれた青魚やアルカリ性の食品は、頭脳・精神に好影響をもたらすこと間違いないですし。


ってどんどんズレまくりですねw

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