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憂国の士コミュの泣ける話

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防衛庁庁官賞(当時)に輝いた自衛隊川柳
「たまに撃つ 弾がないのが タマに傷」



2年前旅行先での駐屯地祭で例によって変な団体が来て私はやーな気分。
 その集団に向かって一人の女子高生とおぼしき少女が向かっていく。

少女「あんたら地元の人間か?」
団体「私達は全国から集まった市民団体で・・・云々」
少女「で、何しにきたんや?」
団体「憲法違反である自衛隊賛美につながる・・・云々」
少女「私は神戸の人間や。はるばる電車のって何しにここまで来たかわかるか?」
団体「・・・・?」
少女「地震で埋もれた家族を助けてくれたのはここの部隊の人や。
   寒い中ご飯作ってくれて、風呂も沸かしてくれて
   夜は夜で槍持ってパトロールしてくれたのもここの部隊の人や。
   私は、その人たちにお礼を言いに来たんや。
   あんたらにわかるか?
   消防車が来ても通り過ぎるだけの絶望感が。
   でもここの人らは歩いて来てくれはったんや・・・・」

最初、怒鳴り散らすように話し始めた少女は次第に涙声に変わっていった。
あまりにも印象的だったのではっきり覚えている。
団体は撤退。
彼女は門をくぐった時に守衛さんが彼女に社交辞令の軽い敬礼ではなく直立不動のまま敬礼していた。



文芸春秋で自衛隊の面白い話が載ってた。

自衛隊員A(以下A)「おい、デモ隊がここ(宿営地)に向かっているらしいぞ」
自衛隊員B(いry「うえ、この間アブグレイブでイラク人虐待があったばかりじゃん、どうすんだよ」
A「それが、どうも支援デモらしいぞ」
B「は? 支援デモ? 私怨じゃなくて? そんなデモ聞いたことねえよ」
A「俺もねーよ。ま、一応、本当に応援だった時の為に飲み物とアイスでも用意しておこうや。暑いし」

デモ隊参上
彼らの持つ旗には自衛隊を支持する言葉が書かれていた

A「うあ、本当に支援デモだ。おい、アイス配れ、冷たい水あげれ」
B「アイス足らねーよ。弾幕薄いぞ、何やってんの。アイス追送頼む」

デモ隊、にこにこ顔でアイス頬張る、でもゴミぽい捨て。
自衛隊員見かねてゴミを拾う、すると、何てことでしょう、彼らもゴミを拾い出したのです。

そんなこんなで後日
米&英軍「おい、こないだのあれ、いくら使ってやったんだ?」
自衛隊「あれ?」
米&英「あれだよあれ、支援デモ」
自「あれは、住民が自発的にやってきたんだよ」
米&英「ははっそんなわけあるかよ。吐けよ、同盟国じゃん」
自「・・・・・・(やっぱ信じないよなあ、自分でも信じられないし)」

と、イラクではそんな感じだったらしいぞ。
小泉首相は間違ってなかった。自衛隊のいる所「が」非戦闘地域だわw



一昨年の夏、私は息子(5歳)を連れて家から車で1時間のところにある、
自然博物館の昆虫展に向かっていました。
ムシキングの影響で息子はとても楽しみにしていました。
あと数キロと言う地点で渋滞の最後尾に。
止まった瞬間、ものすごい衝撃に襲われました。
後方から来た大型トラックに追突されたのです。
一瞬何が起こったのか理解できませんでしたが、すぐに追突されたと判断できました。
即座に助手席に居た息子の安否を確認しようしたのですが、そこには息子の姿がありませんでした。
子供の名前を叫ぶと、助手席の足元から「痛い」という声が。
息子は衝撃でシートから足元にずれ落ち、挟まれていました。
正直半狂乱になってしまいました。
あのときの私は完全に冷静さを失っていました。
半狂乱の私も足を挟まれて動けない事に気づきました。
動けない私は叫ぶしかなかったのです。

追突から時間にして1〜2分でしょうか。
いきなり運転席側の変形したドアを無理やり開けてくれた人たちが居ました。
緑色のヘルメットに迷彩服の数人の自衛隊員。
私の足が挟まれているのを知った後、何やらバールのようなもので運転席をこじって、後ろにずらし私を出してくれました。
「息子が助手席の足元に挟まれてます!助けてください!」
お礼の前にそう叫んでいました。
すると若い隊員さんは運転席同様、助手席シートを無理やりはずし、潜り込むように助手席に入っていきました。
他の隊員さんと大声で作業指示しながら懸命に救助されていました。
数分でしたが私にとってはとんでもなく長い時間に感じられました。
そして息子は挟まっていた車体から外に助けていただきました。

と同時に救急車と工作車が到着。
息子は救急隊の方にゆだねられました。
私も両足が痛くて立てなかったのですが、せめてお礼だけはと思い、その隊員さんのもと這って行きました。

私「本当にありがとうございました!ありがとうございました!!」
自「いえいえ、当たり前のことをしただけです。怪我は治ります。命が無事でよかったです」

その隊員さんをよく見てみると、右肩付近が黒く濡れている。

私「もしかして怪我されているんじゃ?」
自「え?ああ、潜ったときにチョット何かが刺さったみたいです」
 
隊員が体をひねって右肩を見せようとしたところ背中はさらにベッチョリと濡れていました。普通に考えたら大量出血です。
それでもその隊員さんは笑いながら「チョット痛いだけです。大丈夫です」と。 その後私は息子と共に救急車で運ばれていきました。

息子は両足の骨折、私は右足の骨折でした。
治療が終わって息子のベットに行きました。
「よく泣かなかったね、がんばったね」
と声を掛けてやると、息子は 「お兄ちゃんが笑ってたから泣かなかったよ。クワガタの話もしたよ」
冷静さを失っていた私は聞こえませんでしたが、隊員さんと何やらムシキングの話をしていたそうです。
その為、息子は安心したらしく痛くても我慢できたそうです。
嬉しくて有難くてそこで初めて涙を流しました。

その後、救援に来ていただいた消防署に出向き、その隊員さんの所属を教えていただきました。
駐屯地の場所をネットで探し出しました。
そのページを見ると「記念行事」なるものが2週間後にあることが判明。 怪我の治療状況と相談し、記念行事にお邪魔する事にしました。

初めて入る駐屯地。
意外と来客も多くビックリしました。
どこに行けば良いかも判らず、車椅子に乗せた息子とウロウロしてしまいました。
そのうち式典や訓練?が始まり、大砲や戦車の音にビックリ。
なんだか息子も私も楽しんでしまっていました。
午後になっても結局ウロウロ・・・。
と、その時1人の隊員さんが声を掛けてきました。
大怪我をしてまで息子を助けてくれた隊員さんでした。
ニコニコした笑顔に私は男ながら涙がこぼれてしまいました。
「あの時は本当にありがとうございました!」
この一言がどれだけ言いたかったか、息子の回復振りを見てもらいたかったか。

色々とお話を聞かせていただきました。
背中の怪我は何かが刺さったのではなく、車体の金属部分で切った事。
17針縫った事。助けられて自分の子供のように嬉しかった事。
私にとっても息子にとってもそこに居たのは正にヒーローでした。

その後その隊員さんは普段訓練で乗られている緑色のバイクを見せてくれました。
足が完治していない息子を抱き上げ、一緒にバイクに跨ってくれました。
そのときの息子の顔はとても嬉しそうで、一緒にバイクに乗っている隊員さんはまさにテレビに出てくる戦隊物のヒーローに見えました。
その時一緒に撮らせていただいた写真は、息子の宝物になっています。
ムシキングよりも自衛隊のお兄ちゃんの方が大好きみたいです。

長々と書いてしまってスミマセン。
もちろん実話です。
自衛隊に関しては色々な意見があるようですが、少なくとも私たち親子にとって自衛隊の皆さんはヒーローです。
たった1家族の小さな力ですが、私たち家族は自衛隊の皆さんを応援します。



広島の平和集会にゲストとして呼ばれた自衛隊員に浴びせられた言葉

市民「自衛隊は無くすべきだと思いますが、自衛隊員の○○さんはどう思いますか?」
市民「自衛隊が有るから軍事的緊張が発生する、憲法違反だから自衛隊は無くすべきだと思います、自衛隊員の○○さんはどう思いますか?」

そこで自衛隊員の返事、俺はこの言葉をこれからもずっと忘れないと思う

自衛隊員「そう言う人達も守るのが、自衛隊です」



良い話かどうかは分からないが
そういや、自衛隊の練度の高さはアメリカでも語りぐさになっているそうですな。

・演習後、アメリカの誇るトップガン出のエリートたちが口をそろえて
 「空自とだけは戦りたくない」と明言。
 エリートのプライドを木っ端微塵に打ち砕かれたか、再教育志願者が続出した。
・実弾射撃演習のためにアメリカ派遣された陸自砲兵部隊。ばかばかしいほどの命中率にアメリカ側が恐慌を起こした。
 アメリカ側が、「超エリートを集めた特殊部隊を作っても意味がない」と本気で忠告してきた(もちろん陸自は通常編成のまま)。
 ついでに、その演習を見に来ていたWWII&ベトナム生き残りの退役将校が、「彼らがいてくれればベトコンを一掃できたし、あんなに死人が出なくてすんだのに」と 泣いたというオチが付く。
・ホークだかパトリオットだか忘れたけど、演習でアメリカ側の発射したトマホークの迎撃訓練で、数十発を全弾撃墜した。
 なお、数十発のうち、後半は超低空・対地誘導その他、隠蔽技術をフルに活用した上でこの成績。 (このエピソードこのスレで知ったんだっけかな?)

スターファイターでイーグル相手に撃墜判定をたたき出した故ロック氏の例を挙げるまでもなく、少数で、様々な制約を課せられているが故に、その制限枠内ギリギリまで戦力を高めようとする努力の結果なんでしょうけどね。人種の優越とか、才能とかじゃなくて、文字通り体が擦り切れるような過酷な訓練の成果だと思うと、自然と頭が下がります。こんな人々に守られて、私らは平和と繁栄を謳歌してるんだなぁ、としみじみ感謝の念を噛み締めることがありますよ。

合同演習で、一発外した(無駄にした)だけでお通夜状態になるんだっけ?

民家を避けようと、故障した愛機を最後の最後まで操縦し殉職された隊員もいました。
1999年11月12日午後、航空自衛隊入間基地所属のT33型ジェット練習機が入間川河川敷に墜落しました。
操縦されていたのは47歳と48歳の二佐と三佐。
これが米軍だったら、かまわず脱出して助かったことでしょうね。
http://www.nomusan.com/~essay/essay_06_tsuiraku.html
戦後60年の間、彼ら自衛隊でクーデターや秘密組織化の話しも寡聞にして聞きません。 彼らの実績を信じてあげる時間はもう十分積み重ねました。 もういいでしょう。



1999年の台湾大地震の際、いち早く救援に駆けつけた日本の国際救援救助隊に関して

彼らは大地震が発生したその日のうちに台湾入りし、災害現場に急行するや 不眠不休で生存者の捜索に尽力してくれたのである。
瓦礫を掘り起こし、最新鋭機材を駆使して懸命に生存者を捜索する日本の 救助隊の献身的な姿は人々の胸を打ち、そして皆は心の中で手を合わせた。
こうした光景を目の当たりにした年配者は「やっぱり日本だ!」と目頭を熱くするのだった。そして続々と台湾へやってくる日本の民間ボランティア、多くの台湾人が頼れる“友人”が誰であるかを再認識したのである。 台湾人が心から信用できる国は“日本”なのだ。



そういえばどこだったか、自衛隊が治安維持に出向いた時に、「日本軍に発砲した者は我々の敵とみなす!」と指令出した組織があったらしいな。 あれはどこの話しだったっけ?

シリアだね。 シリア政府は自衛隊を歓迎した。アサド大統領は隊長である本松敬史三等陸佐(当時)を呼び、「日本の自衛隊は決して事件に巻き込まれることはない」と約束をしてくれた。
大統領は、シリア軍に対して、その支配下にあったイスラム原理主義組織ハマスとヒズボラが日の丸と自衛隊に対して一発でも銃弾を撃ち込んだら、全面攻撃を加える旨の命令を出していた。



湾岸戦争の掃海艇での会話。

「いいか、もしかすると、お前達が喰う食料の入った冷蔵庫に、お前達
を入れて帰ってこねばならんかもしれん。それでもいってくれるか??」 「はい。」

北朝鮮のミサイル事件での会話。

「北朝鮮のミサイル施設を爆撃できるか?」
「片道でなら出来ますし命令ならばやりますが、片道攻撃を部下に命じる事はできません。命令が出れば、私が行きます。」

あるイーグルドライバーの言葉。

「私達がミサイルを撃つ時は、私達の作戦は失敗したときです。私たちは 常に抑止力でなければならないのですから。」



地下鉄サリン事件時、築地駅の除染に出動した101化学防護隊+32普連の混成部隊「築地中隊」。

最先任だったK.M一尉(当時)は、完全防護の部下と共にサリンの除染を完了した。
しかし史上初の¨化学兵器成分の除染¨。完全に排除できたかどうか?には疑問がつきまとった。
空気中に除染しきれなかった、気化した残存成分が残っているかもしれず それを恐れて、駅員からの「もう安全ですか?中に入れますか?」との質問に答えあぐねていた。

空気中の気化物質を測定するには、専用の警報機が必要。しかし警視庁に優先貸与してしまい 手元にあるのは、液体しか測定できない「検知紙」しかなかった。 …K一尉は、決断した。
『私が、行きます』

近くにいた、防護服を来た消防隊員を二名指名し 「協力願います。もし自分が倒れたら、すぐに担いで外へ出してください」と要請。
除染が済んだ地下鉄のホームへ再び下りていった。

Kはホームに立ち、防護マスクの首の部分を瞬間的に開いて再び閉じマスク内で深呼吸した。…異常はない!。 Kは最後の勇気を振り絞り、マスクを脱ぎさった。

そして、さらに深く深呼吸する。
完全防護の消防隊員は、防護マスク越しにKを見つめる。
そして、Kの笑顔を見て安堵の笑みを漏らし、三人は頷きあった。

K一尉の「もう大丈夫です!」の叫び声ののち、周囲からは一斉に歓声があがり、拍手の渦となった。

という記述のある本が新潮文庫から出てますが(氏名は当方で伏字に)
…本当に、自衛隊の皆様。ご苦労さまですっ



私がホテル勤めをしていた頃の話。

ある披露宴、新郎が海自の方でした。同僚上司達は制服で出席。
披露宴も御披楽喜に近づき、新郎のおじいさんの挨拶がありました。

自分が海軍にいた事。孫が艦に乗っている事を誇りに思う事。
自分達の世代の不甲斐なさのせいで今の海上勤務の方達には苦労を掛けていると思う事。 たとたどしくですが話されました。

同僚達は知らなかったらしく酔っ払っていたのが
段々背筋が伸びていき神妙に聞き入っていました。
挨拶が終わり高砂の席の一人が「何に乗っておられたのだ」と尋ねると、新郎は小声で「大和です」
それを聞いた海自組一同すっ転ぶような勢いで立ち上がり直立不動で敬礼を送りました。

おじいさんも見事な答礼を返されました。
私はその後は仕事になりませんでした。



自衛隊の基地が近くにある田舎なんだが、自衛隊は毎年山で訓練してる。

ある日、下の方の茶畑で知り合いの爺ちゃんの軽トラが道寄せ駐車する際に、側溝に嵌って脱輪。 俺は茶摘みの手を止めて救助に行った。
爺ちゃんは怪我はしてなかったけど、見事にタイヤが側溝にはまって脱出不可能。

何とか側溝から出せないか木の棒を突っ込んでいた時「手伝いましょうか?」声を掛けられた。 振り向いたら迷彩服とリュックを持った男の人が一人。 あ、上の方の訓練地から来た自衛官の人だと思って「すみません。お願いします」って言った。 そしたらその角刈りのお兄さんが大声で「集合!」ドドドドドド(茶畑の横の獣道からゾロゾロと自衛官が出てくる)「整列!」ビシッ!

総勢15名の隊員達が現れた。

マジであれはビビった。まさか山の上から出てくるとは思ってなかったし、全員すげぇ装備担いでるし、さらに模擬銃?を担いでたからテンぱったわwww 爺ちゃんも「おぉぅ…」とか言ってたしw

「5分、脱輪解除。始め!」

キーを渡して4分で軽トラ脱出www すんげぇ早業で、自衛隊の凄さを思い知ったわ。 こういう訓練もしてるというのにも驚いた。

脱出した後は車両点検してくれて、爺ちゃんが何度も頭を下げてた。
隊長っぽい角刈りの兄ちゃんは「これも我々の任務です」とサラリ
その後は敬礼して農道を下って行った。 自衛隊の凄さと“任務”に感動したわ。



「私を助けてくれたあの人に会いたい」―。新潟県中越地震で、土砂崩れで道路が 通れなくなり、一時孤立した同県小千谷市南荷頃。この地区に住む専門学校生、平沢祐子さん(20)は地震発生翌日の二十四日、旧南荷頃小学校の跡地に家族五人で避難していたところを、救助に来た自衛隊のバイク隊員に助けられた。

「歩くこともできないような道を、体を張って助けに来てくれた。夜中まで、何往復も。漫画に出てくるヒーローみたいだと思った」と平沢さん。 「自分が思っていたよりも、人を守るって大変な仕事なんだと思った。人のために動く隊員の姿に感動した。ちゃんとお礼が言いたい」と話す。

平沢さんは救助後、小千谷市の避難所「サンラックおぢや」に移るためこの隊員と別れる際、「どこから来たんですか」と尋ねると、隊員は「群馬からです」と答えた。 最後に平沢さんが「自分は自衛官になります」と約束すると、隊員は「頑張ってね」とほほ笑んで、バイクで次の救助現場に向かったという。



 自衛隊と米軍が演習をしたんだそうな。
米軍は敵に向かうときに、でかい声を出して騒がしく向かっていくんだと。 しかし自衛隊は、無言でほぼ手振りと目配せだけで隊を指揮し、敵をいつの間にか包囲していた。
日本には忍者がまだ生きていると思われたそうな。



・アメリカ軍がビビルくらい滅多やたらと士気が高いことでおなじみの海自ですが、イージス艦について、「システムの反応が遅いから手動に出来ませんかね」とのたわる者が居るそうな。
・海軍の蜂のパイロットが「空自はすぐにキルコールしてくる。あんなところにかなう空軍なんているのか。」と言ったとか何とか



神戸JR三宮駅前の震災と復興の記録を展示しているフェニックス館には、 多くの写真や資料が展示されているが、自衛隊員が写っている写真は一枚も存在しない記録も自治体、警察、消防、ボランティア等がほとんどで、自衛隊に関する記述は僅かに災害の状況を示す時程表に「自衛隊災害派遣」の1行しか認められなかった 信じられないが、神戸市はあの震災で自衛隊がほとんど何もしなかったことにしたいようだ



海自の潜水艦乗りはいわく「魚の声」が聞こえるようになるらしい。
雑音にしか聞こえないが聞くだけなら素人にも確かに聞こえるという。

ただベテラン潜水艦乗りになるとその「魚の声」を聞くだけでその種類がわかるようになるという。



日本 「すまん。トイレ行ってくる」
米露韓中北「いってらー」

中国  「(ヒソヒソ)日本を本気で怒らせてみたいが、難しい。潜水艦で領海に入っても怒らない」
韓国  「独島を占拠しても怒らない」
ロシア 「北方領土を返さなくても怒らない」
北朝鮮 「なら、おれが核ミサイルをぶち込んでみようか」
米国  「よせ、それはもうおれがやってみた」

米露韓中北  「一体どうすれば…(途方にくれる)」

中・韓  「俺らは日本人を怒らせようと犯罪者を大量に輸出してみたんだが、 逆にビザ免除に動いてくれてるし‥」
北・露  「ふーむ…」

米国   「・・・あ、でも、牛肉に脊柱にいれたら、日本国民が激怒したな‥」
露韓中北 「それは、おまい怒るよ」

中国「野菜に毒(農薬?)盛ったら怒ったぞ?」
韓国「生ゴミ餃子も怒った」
米国「寄生虫の卵を食い物に入れて輸出しあってる奴はちょっと黙れ」

ロシア「あいつ、食い物以外じゃ怒らねーんじゃねーの?」

米韓中北 「あ!」



「君達は自衛隊在職中、決して国民から感謝されたり、歓迎されることなく自衛隊を終わるかもしれない。
きっと非難とか誹謗ばかりの一生かもしれない。御苦労だと思う。
 しかし、自衛隊が国民から歓迎されちやほやされる事態とは、外国から攻撃されて国家存亡の時とか、災害派遣の時とか、国民が困窮し国家が混乱に直面している時だけなのだ。
 言葉を換えれば、君達が日陰者である時のほうが、国民や日本は幸せなのだ。
 どうか、耐えてもらいたい。」
(吉田茂 昭和32年2月、防衛大学第1回卒業式にて)

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遺産4000万円を靖国神社に寄付 大阪の元看護師女性遺族。沖縄戦で戦死した兄への思いから、長年にわたって遺骨収集に携わり、今年1月に87歳で亡くなった大阪市の元看護師、陰山三千代さんの遺族らが7日、東京・靖国神社を訪れ、4千万円を寄付した http://bit.ly/91mANB(08月07日)

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