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憂国の士コミュの【伴天連】 (高山正之著 「変見自在」より)

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二昔ほど前に箕面魂碑裁判というのがあった。「市が忠魂碑の慰霊祭を行ったのは憲法の禁ずる宗教活動になる」と「その筋の市民」が訴えでて、大阪地裁の古崎判事がそうだ忠魂碑は神社と同じだ、だから違憲だと判決した。

この慰霊祭は仏式でやったり神式でやったり、適当だった。判決通りだったら神社でお坊さんが経を読んだことになる。

噴飯ものの判決なのだが、そのころから日本嫌いの朝日新聞は「名判決」と大喜びした。敬虔なクリスチャンという古崎判事を持ち上げて神道を目一杯腐したうえに「日本人は宗教にだらしない」と批判させた。キリスト教はいいが、神道はそれだけでダメみたいな言い方だった。

実際そういうヘンな考えが蔓延していて、例えば切支丹の「26聖人」はいま長崎市の公園に祀られて市と耶蘇教の団体が共同で管理しているが、別に公費だの宗教施設だので問題になった事もない。

神道はオウム並みの邪教扱いだが、秀吉や家康の時代にはキリスト教こそ邪教と思われていた。

それで秀吉は天正15年(1587年)、ポルトガル宣教師コエリヨらに「日本は神の国だから布教を禁止する。寺院の破壊も禁止する。宣教師は20日以内に国外退去せよ。」という伴天連追放令を出した。

日本の教科書ではこれから信徒への弾圧が始められ踏み絵が登場し、転ばなければ磔にされた風に書かれている。

実際はこの追放令が出た後も宣教師どもは居座ってむしろ派手に布教活動をした。前述の26聖人が処刑されたのは追放令から10年も先のことになる。

宣教師だけでなく信徒も傍若無人で、例えば高山右近は明石に封じられると、城下の神社仏閣を片っ端から壊して教会にした。秀吉のいう「寺院打ち壊しの禁止」はそうした偏狭なキリスト教徒の横暴を禁じたものだ。日本では弁天様も仏様も天満宮もみんな仲良くやっていると。

ちなみに右近はその後も偏狭なキリスト教徒として生き続け、家康の切支丹禁止令(1614年)のあとやっと日本を出てマニラを終の棲家にしている。

秀吉らがキリスト教をそこまで嫌ったのは、彼らの狭量さの延長にある非人道性だった。同じ神を信じないものは「人に非ず」で、だから奴隷にしても構わない、と主張する。

追放令の発端は有馬晴信などのキリシタン大名が火薬の素の硝石を得るために、捕らえた敵軍の将兵や領地の女を海外に売っていた、一説には女50人で硝石1樽だったというが、それを秀吉が知ったからだった。

怒った彼はコエリヨを呼び、海外に売った日本人を連れ戻せと命じたが、コエリヨは応じない。

それで伴天連追放令を出したという順になる。この顛末は徳富蘇峰の「近世日本国民史」に詳しいが、追放令が出る5年前に日本を出た天正遣欧少年使節の一行も欧州の地で「み目よき日本の娘たちが秘所丸出しでつながれ、弄ばれ売られていく」のを目撃している。

徳川時代、日本に出入りしたオランダ人を「日本人は憎悪した」とスウェーデン人植物学者ツュンベリは報告している。なぜなら「彼らが奴隷売買をし、同じ人間を不当に扱っているからだ」と。

ツュンベリはまた日本の家族にも着目し、「朝鮮では夫人は家に閉じ込められ奴隷状態にあるが、日本の夫人は夫と同席したり、自由に外出したりしていた」とも書いている。

いま日本のキリスト教信者の数は人口の1%にも満たない。邪教性が一向に改まっていないためだろう。

ヒンズーが天下のインドでは、それでもキリスト教徒は2%強の2000万人ほどいる。ヒンズー教の中では夢も希望もない不可触カーストからの改宗組が大半を占める。

韓国では布教200年で国民の30%がキリスト教徒になった。「攻撃的な性格が合っている」と産経新聞の黒田勝弘記者は分析するが、ここも儒教の身分差別が厳しく、人間以下の常人(小作人)と卑奴が30%もいた。

インドと同じに現実からの逃避のためとの改宗と見ると数字はぴったり合う。

邪教かどうかはここでは二の次なのだ。

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