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憂国の士コミュの<私たちの先人は大東亜戦争を戦ったのです>

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「一つの民族を抹殺するには、その記憶を失わせる事である。
歴史を失わせた上で新しい歴史を与えれば良い。
そうすればその民族は自らの現状も過去も忘れてしまうだろう」
ミラン・クンデラ(名言集5)





http://www.geocities.co.jp/Bookend/9304/daitoua.htm

(私達の先人は大東亜戦争を戦ったのです)
 先の大戦について肯定的に語ることがタブーのような空気に包まれている日本に於いては、日本人自身のそういった発言はすぐに色眼鏡で見られ、レッテル張りされてしまいます。そこで外国人の意見を集めてみました。

 

  H・G・ウェルズ(イギリス、歴史学者)

「この大戦は植民地主義に終止符を打ち、白人と有色人種との平等をもたらし、世界連邦の礎石をおいた。」

 

  アーノルド・J・トインビー(イギリス、歴史学者)

  第二次大戦において、日本人は日本のためというよりも、むしろ戦争によって利益を得た国々のために、偉大なる歴史を残したと言わねばならない。その国々とは、日本の掲げた短命な理想であった大東亜共栄圏に含まれていた国々である。日本人が歴史上に残した業績の意義は、西洋人以外の人類の面前において、アジアとアフリカを支配してきた西洋人が、過去二百年の間に考えられていたような、不敗の半神でないことを明らかに示した点にある。(1965年10月28日、英紙「オブザーバー」)

 英国最新最良の戦艦2隻が日本空軍によって撃沈されたことは、特別にセンセーションを巻き起こす出来事であった。それはまた永続的な重要性を持つ出来事でもあった。なぜなら1840年のアヘン戦争以来、東アジアにおける英国の力は、この地域における西洋全体の支配を象徴していたからである。1941年、日本はすべての非西洋国民に対し、西洋は無敵でないことを決定的に示した。この啓示がアジア人の志気に及ぼした恒久的な影響は、1967年のベトナムに明らかである。(昭和43年三月二十二日「毎日新聞」)

 

 ククリックド・プラモード (タイ国元首相 )

「日本のおかげでアジアの諸国はすべて独立した。日本というお母さんは難産して母体をそこなったが、産まれた子供はすくすくと育っている。今日、東南アジアの諸国民が米英と対等に話ができるのは、いったい誰のおかげであるのか。それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったためである。十二月八日は、我々にこの重大な思想を示してくれたお母さんが一身を賭して重大決意をされた日である。我々はこの日を忘れてはならない。」( 十二月八日、現地の新聞「サイアム・ラット紙」において )

 

  バ・モウ (ビルマ元首相 独立宣言より)

 約五十年前ビルマは三回にわたる対英戦争の結果その独立を失えり、英国側はアジアに対する掠奪的野望を以て此等の戦争を遂行せり。英国はさらにその伝統的陰謀賄賂及び想像し得るあらゆる詐欺及び術策の武器をしようせり。・・・ビルマ人は徐々に搾取され時の進むに従い総ての国民的実質、莫大なる物資的資源、機会、文化、言語、さらに遂にはその生活様式までも失い・・・愛国者は挺身的精神をもって鎮圧、入獄、流謫、拷問及びしばしば死そのものを甘受して突進して来れり、これらの英雄はビルマの生存のため苦難を受け遂には斃れたり。・・ビルマ人はアジアを結合せしめアジアを救う指導者を待望しつつありしが遂にこれを大日本帝国に発見せり。・・・ビルマ人はこのビルマに対する最大の貢献に対する日本への感謝を永久に記録せんことを希望するものなり・・・」(一問に百答 日下公人 PHP研究所)


 

 

 ダグラス・マッカーサー(アメリカ、日本占領連合軍最高司令官・元帥)

 日本の潜在労働者は、量においても質においても、私がこれまで知っている中の最も立派なものの一つである。しかし、彼らは労働力はあっても生産の基礎素材を持たない。日本には蚕のほかに取りたてていうべきものは何もないのだ。日本人は、もし原材料供給が断たれたら(経済封鎖されたら)一千万から一千二百万が失業するのではないかと恐れていた。それ故に、日本が第二次世界大戦に赴いた目的は、そのほとんどが、安全保障のためであった。(1951年5月3日米上院の軍事外交合同委員会の聴聞会における発言)

 

 ハミルトン・フィッシュ(政治家「悲劇的欺瞞」(TragicDeception1983))

 ルーズベルト大統領は、その絶大な権力を使って遂に米国を日本との戦争に巻き込むことに成功した。そのことは、米国を欧州における戦争に参戦させるという彼の最終的な目的を達成させた。

 

 ジョイス・C・レブラ女史(アメリカ、コロラド大学歴史学部教授)

大東亜戦争下、アジア諸国に進駐して行った日本軍政の最大の特徴の一つは、各国の青年を教育し、組織し、独立精神を振起した点にある。その遺産は戦後も様々な形で生き続けている。

 日本の敗戦、それはもちろん東南アジア全域の独立運動には決定的な意味を持っていた。 今や真の独立が確固とした可能性となると同時に、西洋の植民地支配の復活も、許してはならないもう一つの可能性として浮かび上がってきたのである。民族主義者は、日本占領期間中に(日本軍により)身につけた自信、軍事訓練、政治能力を総動員して、西洋の植民地復帰に対抗した。そして、日本による占領下で、民族主義、独立要求はもはや引き返せないところまで進んでしまったということをイギリス、オランダは戦後になって思い知ることになるのである。(中略)  さらに日本は独立運動を力づけ、民族主義者に武器を与えた。日本軍敗走の跡には、二度と外国支配は許すまいという自信と、その自信を裏付ける手段とが残ったのである。東南アジアの人間は今や武器を手にし、訓練を積んでおり、政治力、組織力を身につけ、独立を求める牢固たる意志に支えられていた。(「東南アジアの開放と日本の遺産」秀英書房、256〜7ページ)

 

 ロスロップ・スタッタード(アメリカ、歴史学者)

 すでに四百年の間、連続的勝利によって、白人は本能的に自己の膨張は無限に継続するものと信ずるに至った。1904年の日露戦争以前には、自己の膨張が停止するというような思想は白人千人中の一人にも考えがおよばなかった。(中略)1900年は、四百年間みなぎりきった白人潮勢の頂点であった。白人はその時、威名と実力の頂上に達したのである。その後わずか四年にして日本は猛然起って露国に抗し、旅順港に巨砲弾を浴びせて世界を驚かした。その刹那に白人の退潮が始まった。(長瀬鳳輔訳『有色人種の勃興』政教社、147,151頁)

 

 ジョージ・S・カナヘレ(アメリカ、ハワイ日本経済協議会事務局長・政治学博士)

 日本占領軍がインドネシア民族主義のために行った種々の仕事の中で、最も重要なものの一つは、正規軍及び准軍事組織を創設して、それに訓練を与えた事である。(中略)  インドネシア人が軍事訓練を受けたことの意義は極めて重要なものであった。これが後のインドネシア革命軍の大部分の将校と何千の兵士となり、復帰してきたオランダ勢力と独立戦争を戦う際の基盤となった。日本によって与えられたこのような機会がなかったならば、戦後のインドネシア民族革命の経過は違ったものになっていたであろう。

 

  ラグ・クリシュナン(インド、大統領)

 インドは当時、イギリスの不沈戦艦を沈めるなどということは想像もできなかった。それを我々と同じ東洋人である日本が見事に撃沈もした。驚きもしたが、この快挙によって東洋人でもやれるという気持ちが起きた。(昭和44年「日本経済新聞」)

 

 ラダ・ビノード・パール(インド、極東国際軍事裁判判事・法学博士)

  要するに彼ら(欧米諸国)は日本が侵略戦争を行ったということを歴史にとどめることによって、自分らのアジア侵略の正当性を誇示すると同時に、日本の一七年間(昭和3〜20年、東京裁判の審理期間)の一切を罪悪と烙印する事が目的であったにちがいない。・・・・私は1928年から1945年までの一七年間の歴史を二年七ヶ月かかって調べた。この中には、おそらく日本人の知らなかった問題もある。それを私は判決文の中に綴った。その私の歴史を読めば、欧米こそ憎むべきアジア侵略の張本人であるということがわかるはずだ。それなのに、あなた方は自分らの子弟に、「日本は犯罪を犯したのだ」「日本は侵略の暴挙を敢えてしたのだ」を教えている。満州事変から大東亜戦争にいたる真実の歴史を、どうか私の判決文を通して十分研究していただきたい。日本の子弟がゆがめられた罪悪感を背負って、卑屈、頽廃に流されていくのを私は平然として見過ごすわけにはゆかない。あやまられた彼らの宣伝の欺瞞を払拭せよ。あやまられた歴史は書き変えなければならない。(昭和二十七年十一月五日、広島高等裁判所での講演)

 

  グラバイ・デサイ(インド、インド弁護士会会長・法学博士)

 このたびの日本の敗戦は真に痛ましく、心から同情申し上げる。しかし、一旦の勝負の如きは必ずしも失望落胆するに当たらない。殊に優秀な貴国国民においておやである。私は日本が十年以内にアジアの大国として再び復興繁栄する事を確信する。  インドは程なく独立する。その独立の契機を与えたのは日本である。インドの独立は日本のお陰で三十年早まった。これはインドだけではない。インドネシア、ベトナムをはじめ東南アジア諸民族すべて共通である。インド四億の国民は深くこれを銘記している。 インド国民は日本の国民の復興にあらゆる協力を惜しまないであろう。他の東亜諸民族も同様である。(1946年、デリーの軍事裁判に参考人として召還された藤原岩市F機関長に対する挨拶)

 

  ジャワハルラル・ネルー(インド、独立後の初代インド首相)

 チャンドラ・ボーズが日本と協力してつくったインド国民軍《INA》の裁判で、弁護士として法廷に立ち「これら立派な若者達の主たる動機は、インド解放への愛情であった・・・・彼らの日本との協力は、インド解放を促進するための手段であった。余はチャンドラ・ボーズ氏の独立への情熱を疑わない」と述べた。(貝塚茂樹編『民族解放の星』講談社、253〜4頁)

 

 アリフィン・ベイ(インドネシア、ナショナル大学日本研究センター所長・政治学博士)

  日本に占領された国々にとって、第二次世界大戦とは、ある面では日本の軍事的南進という形をとり、他面では近代化した日本の精神的、技術的面との出会いであった。日本が戦争に負けて日本の軍隊が引き上げた後、アジアに残っていたのは外ならぬ日本の精神的、技術的遺産であった。この遺産が第二次大戦後に新しく起こった東南アジアの民族独立運動にとって、どれだけ多くの貢献をしたかを認めなければならない。日本が敗戦国になったとはいえ、その精神的遺産は、アジア諸国に高く評価されているのである。その一つに、東南アジアの教育に与えた影響があげられる。(中略) (日本は)目標達成のためにどれほど必死にやらなければならないかということを我々に教えたのであった。この必死の訓練が、後のインドネシア独立戦争の時に役立ったのである。(「魂を失った日本」未央社、57〜65ページ)

 

  ブン・トモ(インドネシア、元情報・宣伝相)

  我々アジア・アフリカの有色民族は、ヨーロッパ人に対して何度となく独立戦争を試みたが、全部失敗した。インドネシアの場合は、三百五十年間も失敗が続いた。それなのに、日本軍が米・英・蘭・仏を我々の面前で徹底的に打ちのめしてくれた。我々は白人の弱体と醜態ぶりをみて、アジア人全部が自信をもち、独立は近いと知った。一度持った自信は決して崩壊しない。日本が敗北したとき、”これからの独立は自力で遂行しなければならない。独力でやれば五十年はかかる”と思っていたが、独立は意外にも早く勝ち取ることができた。

 

  ガザリー・シャフェー(マレーシア、元外相、アセアン創設によりハマーシェルド賞受賞)

 日本の某代議士の「過ぐる大戦において、わが国は貴国に対しご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」という挨拶に対して、「どうしてそういう挨拶をなさるのですか。あの大戦で日本はよくやったではないですか。マレー人と同じ小さな躰の日本人が、大きなイギリス人を追い払ったではありませんか。その結果、マレーシアは独立できたのです。大東亜戦争なくしては、マレーシア人もシンガポールも、その他の東南アジア諸国の独立も考えられないんですよ」

 さらに続けて、玉井顕治、名越二荒之助、中島慎三郎の三氏に対していわく。 「私は威張る人も、ぺこぺこする人も嫌いです。日本はもっと大きくアジアに眼を開いてください。現在、日本は南方の発展途上国に対する援助額はダントツです。押しも押されぬアジアの経済大国ではありませんか。『ルック・イースト』『日本に学べ』という呼びかけは、シンガポールやマレーシアだけではありません。口に出しては言わないけれど、アジアの国々のこれは本音なんですよ。かって反日感情の強かった国々にも、次第に親日感情が起こりつつあります。そうしたなかにあって、日本は欧米にばかり目を向けず、アジアに対して責任を持つ国になって欲しいのです。日本はかつてアジアに対して責任を感じ、そのために、戦争であれだけの犠牲を払ったのです。この尊い戦争の遺産を否定することは、バックミラーばかり見ているようなものです。自動車は前を見て運転しなければ、進路を間違えますよ」(昭和六十三年七月十九日、於赤坂プリンスホテル)

 

 朴 鉄柱(韓国 平成二年一月逝去・六十八歳 、韓日文化研究所 昭和四十二年十月)

「ソウルから日本を眺めていると、日本が”心”という字に見える。北海道、本州、四国、九州と、心という字に並んでいるではないか。日本は万世一系の御皇室を頂き、歴史に断絶がない。それに対して韓国は、断絶につぐ断絶の歴史で涙なくしてみることはできない。」

「現在の日本の自信喪失は敗戦に起因しているが、そもそも大東亜戦争は決して日本から仕掛けたものではなかった。平和的外交交渉によって事態を打開しようと最後まで取り組んだ。それまで日本はアジアのホープであり、誇り高き民族であった。最後はハル・ノートをつきつけられ、それを呑むことは屈辱を意味した。”事態ここに至る。座して死を待つよりは、戦って死すべし”というのが、開戦時の心境であった。それは日本の武士道の発露であった。日本の武士道は、西欧の植民地勢力に捨て身の一撃を与えた。それは大東亜戦争だけでなく、日露戦争もそうであった。日露戦争と大東亜戦争ーこの二つの捨て身の戦争が歴史を転換し、アジア諸国民の独立をもたらした。この意義はいくら強調しても強調しすぎることはない。」

「大東亜戦争で日本は敗れたというが、敗けたのはむしろイギリスをはじめとする植民地を持った欧米諸国であった。彼らはこの戦争によって植民地をすべて失ったではないか。戦争に勝った敗けたかは、戦争目的を達成したかどうかによって決まる、というのはクラウゼヴィッツの戦争論である。日本は戦闘に敗れて戦争目的を達成した。日本こそ勝ったのであり、日本の戦争こそ、”聖なる戦争”であった。ある人は敗戦によって日本の国土が破壊されたというが、こんなものはすぐに回復できたではないか。二百数十万人の戦死者は確かに帰ってこないが、しかし彼らは英霊として靖国神社や護国神社に永遠に生きて、国民尊崇対象となるのである。」

 

 朱 耀翰 {韓国 元国会議員 ゴーマニズム宣言第六巻p232}

 「アメリカ大統領ルーズベルト君、君は口を開けば必ず正義と人道を唱えるが、パリ講和条約の序文に人種差別撤廃文案を挿入しようとしたときこれに反対し削除したのはどこの国だ?黒人と東洋人を差別待遇して同じ席にも着かせずアフリカ大陸で奴隷狩りをしたのはどこの国であったか?しかし君らの悪運はもはや尽きた。一億同胞なかんずく半島の二千四百万は渾然一体となって大東亜聖戦勇士とならんことを誓っている!」

 

  ニミッツ元帥(アメリカ 太平洋艦隊司令長官)

 この島を訪れるもろもろの国の旅人達よ。故郷に帰ったら伝えてくれよ。この島を守るために、日本軍人は全員玉砕して果てた。その壮絶極まる勇気と祖国を想う心根を!

 

  スリム中将(イギリス第十四軍司令官)

 たたかれ、弱められ、疲れても自身を脱出させる目的でなく本来の攻撃の目的を以て、かかる猛烈な攻撃を行った日本の第三十三師団の如きは、史上にその例を殆ど見ないであろう。(「敗北から勝利へ」)

 かくの如き望みのない目的を追求する軍事上の分別を何と考えようとも、この企図を行った日本軍人の最高の勇気と大胆不敵さは疑う余地がない。私は彼等に比肩し得べき如何なる陸軍も知らない。(同書)

 

  蒋介石

 ラモウ・騰越を死守しある日本軍人精神は、東洋民族の誇りたるを学び、範として我が国軍の名誉を失墜せざらんことを望む

 

  ベルナール・ミロー(フランス ジャーナリスト)

 これら日本の英雄達は、この世界に純粋性の偉大さというものについて教訓を与えてくれた。彼らは1000年の遠い過去から今日に、人間の偉大さというすでに忘れ去られてしまったことの使命を、とり出して見せつけてくれたのである。(『神風』)


 

引用・参考文献 『「世界から見た大東亜戦争」名越二荒之助編、展転社』
おまけ・終戦直後の新聞記事より

「国体を護持し得るか否かは、片々たる敵の保証(ポツダム宣言)にかかるのではなく、実に日本国民の魂の持ち方如何にかかる。特攻魂に端的に現れた七生報国の烈々たる気魄は、我々がこれを祖先よりうけついだものであるが、これは永劫に子孫に伝えねばならぬ。日本国民が果たしていつの日に再生し得るかは、一に日本国民の魂がこの試によっていかに鍛えられるかによってきまるのである」


http://mixi.jp/view_bbs.pl?page=6&comm_id=364555&id=6838525

で霞さんとはまなすさんが先の戦争に関して興味深い議論を行なっています。

コメント(16)

マイミクのしみちえさんのトップからのコピーです。

非常に勉強になります。

「一つの民族を抹殺するには、その記憶を失わせる事である。
歴史を失わせた上で新しい歴史を与えれば良い。
そうすればその民族は自らの現状も過去も忘れてしまうだろう」
ミラン・クンデラ(名言集5)

第二次大戦 名言集 (日本編)‐ニコニコ動画(SP1)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1411432
第二次大戦 名言集 2(続・日本編) [Stories(コードギアス)]‐ニコニコ動画(SP1)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1453201
第二次大戦 名言集 3 改訂版‐ニコニコ動画(SP1)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1488045
第二次大戦 名言集 4‐ニコニコ動画(SP1)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1523156
第二次大戦 名言集 5 (主に在日外国人の記憶)‐ニコニコ動画(SP1)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1571968
第二次大戦 名言集 6(戦犯編)‐ニコニコ動画(SP1)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1625263
第二次大戦 名言集 7(続戦犯編)‐ニコニコ動画(SP1)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1680734
第二次大戦 名言集 8(開戦編)‐ニコニコ動画(SP1)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1717571
第二次大戦 名言集 9(アジア独立編)‐ニコニコ動画(SP1)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1781209
第二次大戦 名言集 10 (再うp版)‐ニコニコ動画(SP1)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1887900
第二次大戦 名言集 11 (責任編)‐ニコニコ動画(SP1)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm2009782
第二次大戦 名言集 12 [徴兵制って知ってる?編]‐ニコニコ動画(SP1)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm2136714
第二次大戦 名言集 13 [影の主役編]‐ニコニコ動画(SP1)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm2267895
第二次大戦名言集 14 (Bー29編)‐ニコニコ動画(SP1)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm2509242
第二次大戦 名言集 番外編 (大空のサムライ編)‐ニコニコ動画(SP1)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1833312


記憶せよ、十二月八日
この日世界の歴史あらたまる。
アングロ・サクソンの主権、
この日東亜の陸と海とに否定さる。
否定するものは我等ジャパン、
眇たる東海の国にして、
また神の国たる日本なり。
そを治しめたまふ明津御神なり
世界の富を壟断するもの、
強豪米英一族の力、
われらの国において否定さる。
東亜を東亜にかへせといふのみ。
彼等の搾取に隣邦ことごとく痩せたり。
われらまさに其の爪牙を砕かんとす。
われら自ら力を養いてひとたび起つ。
老若男女みな兵なり。
大敵非をさとるに至るまでわれらは戦ふ。
世界の歴史を両断する。
十二月八日を記憶せよ。

高村光太郎
<しみちえさんの書評より>


アーロン収容所―西欧ヒューマニズムの限界
(和書) 2009年07月16日 12:27
1962
中央公論新社
会田 雄次




著者の会田さんは当時大学の先生だった。
戦争でビルマへ行き、そこで終戦を迎えイギリス軍の捕虜となり、ラングーンの『アーロン収容所』で不当な抑留と強制労働させられた時の体験記です。

イギリスというのは徹底した階級社会で、階級の違う相手とは交流しない。そこが相手がアジア人となると、人間としてさえも扱わなくなる。
ほとんど家畜同然。そのあまりの尊大傲慢ぶりに怒りで震えました。
捕虜という特殊な立場でイギリス人に接したせいもあるだろう。
ひざまずかせて口を開けさせられ顔に小便をかけられ、額でタバコの火を消されというようなイジメはもちろんあった。
しかしそれ以上に人間に対するような感覚を持つ必要がないと思っているようなのだ。

有名な「女兵舎の掃除」のくだりを転載します。

「まずバケツと雑巾、ホウキ、チリトリなど一式を両手にぶらさげ女兵舎に入る。私たちが英軍兵舎に入るときは、たとえ便所であろうとノックの必要はない。これが第一いけない。私たちは英軍兵舎の掃除にノックの必要なしといわれたときはどういうことかわからず、日本兵はそこまで信頼されているのかとうぬぼれた」

「その日、私は部屋に入り掃除をしようとしておどろいた。一人の女が全裸で鏡の前に立って髪をすいていたからである。ドアの音にうしろをふりむいたが、日本兵であることを知るとそのまま何事もなかったようにまた髪をくしけずりはじめた。部屋には二、三の女がいて、寝台に横になりながら『ライフ』か何かを読んでいる。なんの変化もおこらない、私はそのまま部屋を掃除し、床をふいた。裸の女は髪をすき終わると下着をつけ、そのまま寝台に横になってタバコを吸いはじめた」

「入ってきたのがもし白人だったら、女たちはかなきり声をあげ大変な騒ぎになったことと思われる。しかし日本人だったので、彼女たちはまったくその存在を無視していたのである」

「このような経験は私だけではなかった。すこし前のこと、六中隊のN兵長の経験である。本職は建具屋で、ちょっとした修繕ならなんでもやってのけるその腕前は便利この上ない存在だった。………。気の毒に、この律義な、こわれたものがあると気になってしょうがない。この職人談は、頼まれたものはもちろん、頼まれないでも勝手に直さないと気がすまないのである。相手によって適当にサボるという芸当は、かれの性分に合わないのだ」

「ところがある日、このN兵長がカンカンに怒って帰ってきた。洗濯していたら、女が自分のズロースをぬいで、これも洗えといってきたのだそうだ」

「ハダカできやがって、ポイとほって行きよるのや」
「ハダカって、まっぱだか。うまいことやりよったな」
「タオルか何かまいてよってがまる見えや。けど、そんなことはどうでもよい。犬にわたすみたいにムッとだまってほりこみやがって、しかもズロースや」
「そいで洗うたのか」
「洗ったるもんか。はしでつまんで水につけて、そのまま干しといたわ。阿呆があとでタバコくれよった」

 N兵長には下着を洗わせることなどどうでもよかった。問題はその態度だった。「彼女たちからすれば、植民地人や有色人はあきらかに人間ではなかったのである。それは家畜にひとしいものだから、それに対し人間に対するような感覚を持つ必要なないのだ、そうとしか思えない」


逆に、インド人やビルマ人は日本人に大変親しみをもっており、当時のアジア人は本気で「植民地支配をする白人を追い出しアジア民族の統一」を願っていたということがこの本でよくわかるのです。


アジアに残した功績
http://datas.w-jp.net/flash/vip1219.html
■東京裁判の真実
http://datas.w-jp.net/flash/KGS.html
■靖国神社とは(金美齢氏 於 靖国神社)
http://datas.w-jp.net/movie/Yasukuni_KinBirei_2006.html
■南京大虐殺と情報戦
http://datas.w-jp.net/Nanking.html
■国民が知らない民主党の正体
http://www35.atwiki.jp/kolia/pages/159.html
http://www35.atwiki.jp/kolia/pages/561.html


■国民が知らない反日の実態
http://www35.atwiki.jp/kolia/

『日本人なら』


日本が初めて外交らしい外交をしたのはマリア・ルス号事件だろうか。

明治五年は新橋ー横浜間に汽車が走った年だが、その少し前に横浜港にペルーのマリア・ルス号が入る。補修のため寄港だったが、この船が苦力を運ぶ奴隷船と分かって外務卿副島種臣は苦力二百余人を解放させた。

このころ米国ですら奴隷制は廃止されていたが、それは表向き。カリブや南米では奴隷はまだまだ立派な商品だった。

いわば公然の闇商売を日本人が糾弾したことに白人たちは面食らった。

ペルーは実態に即して、日本政府は余計なお節介を焼いたとして賠償を求めた。とうとう国際裁判まで開かれたが、結論はどうしたって「日本が正しい」になってしまう。

日本は当然と思い、なぜペルーが訴えたのか、白人たちがなぜ鼻白んでいるのかが理解できなかった。

だいたい副島に限らず「日本人は国民性として奴隷制を嫌っていた」と江戸期にきた植物学者ツュンベリは書いている。

彼は上陸してすぐ日本人がオランダ人をひどく嫌っているのに気づく。それは「オランダ人が奴隷売買をやり、公然と奴隷を過酷に扱うのを心から憎悪していた」ためと知る。

彼は「日本人は礼儀正しく勇敢で公正を愛し、悪に容赦しない」と。

奴隷については秀吉も怒っている。彼は九州征討のさなか突然、伴天連追放令を出している。ルイス・フロイスは「秀吉が女を差し出せと命じたら、(キリスト教で目覚めた)女たちが拒否した。それで宣教師が急に憎くなって追放を決めた」と本国に説明している。

しかし本当の理由はイエズス会のコエリヨに宛てた文書に明記されている。秀吉はキリシタンたちが捕虜にした兵士や女を奴隷として売り飛ばしていることが許せなかった。「海外に連行した日本人を連れ戻せ」それができないなら出ていけと。

博愛を謳うキリスト教徒が奴隷売買を平気でやる。その偽善が許せない。

フロイスもそれは百も承知だが、そうは書けないから前述したような嘘っぱちで繕ったのだ。

それにしてもあの時代、キリスト教徒相手によくぞ言ったと思う。そういう日本人が日清戦争前夜、許せない悪と見たのが、サンフォード・ドールら米国人によるハワイ王朝乗っ取りだった。

ドールらは米軍艦「ボストン」を呼んで宮殿に砲口を向け、リリオカラニ女王を退位させ、ハワイ共和国の樹立を宣言した。女王はあの「アロハオエ」を作詞作曲したことで知られるが、このクーデターに協力した米外交官は「米市民の安全のために残忍で淫乱な女王を退位させた」と打電している。

日本政府はただちに巡洋艦「浪速」など二隻を派遣し、ホノルル港に入ると「ボストン」をはさんで錨を下ろして米国の横暴に抗議する姿勢を示した。

「浪速」は翌年もハワイ王朝滅亡の日にホノルルを訪れ、艦長東郷平八郎はハワイ共和国樹立一周年の祝砲を求めるドールに「その要を認めず」と拒絶した。各国の艦船も東郷に倣い「港は王朝の喪に服すように静寂に包まれた」と当時の新聞は伝えた。米国は赤恥を世界に晒した。

かつて日本の対応にペルーは怒った。今度は米国が怒った。この国も自分が悪さをやっているくせに指摘されると逆上する。

白人国家は第三世界で何をやっても構わなかった。それをなぜ第三世界の日本から指弾され、米国が恥をかかねばならないのか。

海軍次官のセオドア・ルーズベルトは友人A・マハンに、日本を倒すためにハワイを早く併合しパナマ運河を建設しなくてはと書き送っている。

彼はそれを実行し、ウッドロー・ウィルソンもそれに倣い、以下、歴代大統領は日本を葬るために力を尽くしてきた。

日本人はその国民性ゆえに思わぬ敵を作り、災いを招くこともある。

では半藤一利が言うように、強い相手なら、わが身大事、悪いことも見てみぬふりをするか。わが国民性が招いたのなら、たとえ戦争になっても甘受するか。

まもなく終戦記念日。

週刊新潮2008年8月7日号(高山正之著 『変見自在』より)

=============================
開戦記念日に終戦記念日のために書かれた文章を出すのもどうか、って意見があるのは重々承知で、やはりあの戦争を「日本人として」捉えなおすのに簡潔で良い文章なんで掲載します。
「雑感」  武者小路実篤(六十六歳)

大東亜戦争が始まつて、我等の気持ちも今までよりずつとひきしまつて来た。皆反つて気持ちが明るくなつたと言ってゐる。之は勿論、我が陸海軍が目覚しい戦果をあげ、国民を驚喜させたからではあるが、しかし大東亜戦争の使命と言うものが実にはつ切りし、現代の大日本程、光輝ある時代はないと言ふことをはつ切り自覚出来たからである。

現代の日本が生れる為に、今までの日本が用意されてゐたとも言へる。その誇りが我等をあかるくしたやうに思ふ。(中略)そして僕達の使命はこの戦争の使命を東亜の人達が心を一つにして英米の支配下のものを救ひ、独立して立派に生けるやうに協力することが如何に大事なことであるかを知らせる点にあると思ふ。  (「文藝」昭和十七年新年号)




「十二月八日の記」  高村光太郎(五十八歳)

箸をとらうとすると又アナウンスの声が聞こえる。急いで議場に行つてみると、ハワイ真珠湾襲撃の戦果が報ぜられてゐた。戦艦二隻轟沈といふやうな思いもかけぬ捷報が、少し息をはずませたアナウンサーの声によつて響きわたると、思はずなみ居る人達から拍手が起こる。私は不覚にも落涙した。国運を双肩に担つた海軍将兵のそれまでの決意と苦労とを思つた時には悲壮な感動で身ぶるひが出たが、ひるがえつてこの捷報を聴かせたまうた時の陛下のみこころを恐察し奉つた刹那、胸がこみ上げて来て我にもあらず涙が流れた。   (「中央公論」昭和十七年新年号)





「今時戦争とその文化的意義」  長与善郎(五十三歳)

生きて居るうちにまだこんな嬉しい、こんな痛快な、こんなめでたい目に遭へるとは思はなかつた。この数ヶ月と云わず、この一、二年と云わず、我らの頭上に暗雲のごとく蔽ひかぶさつてゐた重苦しい憂鬱は、十二月八日の大詔渙発とともに雲散霧消した。(中略)ともかくも万歳を叫ばずには居られない。    (「新潮」昭和十七年二月号)




「日本のもつ最も好きもの」   徳田秋声(七十歳)

私はがんらい喜怒哀楽の情が薄く、物に感動するといふことが稀である。(中略)しかし対米英戦争開始とともに、太平洋における我が海軍の迅速果敢の行動と、すばらしいその成果を耳にした時には、支那事変の進展とともに米英から受けた脅威が大きく、日米会談が暗雲低迷の裡に荏苒八ヶ月を経過し、戦争か平和かの危機に立つてゐたものだけに、その感動も亦一入であつた。           (「新潮」昭和十七年二月号)


「日記」   木戸幸一(五十二歳)

十二月八日(月)晴
七時半、首相と両総長に面会、布哇奇襲大成功の吉報を耳にし、神助の有難さをつくづく感じたり。十一時四十分より十二時迄、拝謁す。国運を賭しての戦争に入るに当りても、恐れながら、聖上の御態度は誠に自若として些の御動揺を拝せざりしは真に有難き極なりき。                   (東京大学出版会 昭和四十一年刊)





「祈りの強さ」    青野季吉(五十一歳)

米英に宣戦が布告された。当然の帰結といふ外はない。戦勝のニュースに胸の轟くのを覚える。何と云ふ巨きな構想、構図であらう。アメリカやイギリスが急に小さく見えて来た。われわれのやうに絶対に信頼のできる皇軍を持った国民は幸せだ。いまさらながら、日本は偉い国だ。           (「文学界」昭和十七年新年号)




「夢声戦争日記」    徳川夢声(四十七歳)

八日(月曜 晴 温)
岸井君が、部屋の扉を半開きにしたまま、対英米宣戦のニュースを知らせてくれる。そら来た。果たして来た。コックリさんの予言と二日違ひ。

帳場のところで東条首相の全国民に告ぐる放送を聴く。言葉がむずかしすぎてだうかと思ふが、とにかく歴史的の放送。身体がキューッとなる感じで、隣に立つてる若坊が抱きしめたくなる。表へ出る。(中略)街は警戒管制で暗い。ホテルに帰り、今日の戦果を聴き、ただ呆れる。

九日(火曜 雨)
いつになく早く床を離れ、新聞を片はしから読む。米国戦艦二隻撃沈。四隻大破。大型巡洋艦四隻大破。航空母艦一隻撃沈。あんまり物凄い戦果であるのでピツタリ来ない。日本海軍は魔法を使つたとしか思へない。いくら万歳を叫んでも追つつかない。万歳なんて言葉では物足りない。         (「昭和戦争文学全集4」集英社刊より抜粋)




「旧体系との決別」   中河与一(四十四歳)

十二月八日、大詔が渙発せられ、米英との国交が断絶せられた事は、生をこの聖代にうけたものの無上の光栄であり喜である。

これこそ世界歴史への一大転回の御命令であつて、吾々は過去と遮断して全く別の体系に這入つた事を自覚せねばならぬのである。(中略)今日の戦ひは御神慮の中にあるものであるが故に吾々は敗れる事を知らぬ。この時に於て吾々は決意をもつて旧体系に対する訣別を徹底すると同時に、新らしい民族の使命と信念に於いて欣然、死地に赴くの覚悟がなければならぬのである。          (「文藝」昭和十七年新年号)



「真 珠」  坂口安吾(三十五歳)

僕はラヂオのある床屋を探した。やがて、ニュースが有る筈である。客は僕ひとり。頬ひげをあたつてゐると、大詔の棒読、つづいて、東條首相の謹話があつた。涙が流れた。言葉のいらない時が来た。必要ならば、僕の命も捧げねばならぬ。一兵たりとも、敵をわが国土に入れてはならぬ。




「十二月八日」    太宰治(三十四歳)

十二月八日。早朝、蒲団の中で、朝の仕度に気がせきながら、園子(今年六月生まれの女児)に乳をやつてゐると、どこかのラヂオが、はつきり聞こえて来た。

「大本営陸海軍部発表。帝国陸海軍は今八日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」

しめ切つた雨戸のすきまから、まつくらな私の部屋に、光のさし込むやうに強くあざやかに聞こえた。二度、朗々と繰り返した。それを、ぢつと聞いてゐるうちに、私の人間は変はつてしまつた。強い光線を受けて、からだが透明になるやうな感じ。あるひは、聖霊の息吹きを受けて、つめたい花びらをいちまい胸の中に宿したやうな気持ち。日本も、けさから、ちがふ日本になつたのだ。




「似和為貴」    亀井勝一郎(三十四歳)

戦争のもたらすあらゆる苦難こそ恰好のみそぎではなかろうか。捷報によつて一時の昂奮を味ふことは易い。しかし永続的に、極言すれば我らの生の終る日まで苛烈な運命に耐へるには強い精神を鍛へねばならぬ。戦争を外部の一時的現象として、己の人生からきり離して考へることがそもそも間違ひであらう。人生自体がすでに戦ひの場である。死はつねに在る。生死の覚悟は日常化してこそ真実なのであらう。戦争がたとへ永久につゞいても些も困惑しないーー私はかやうな心で生きて行きたいと念じてゐる。     (「文藝」昭和十七年新年号)
                 



「神州不滅」   保田與重郎(三十一歳)

対米宣戦の大詔を拝し、皇国の向ふところ、必ず神威発するあるを確信した。さきの三国条約の時と言ひ、此度のことと申し、神命はつねに国際謀略を霧消せしめ、万民草奔の苦衷は必ず大御心の知らしめすところ、まことに神州たる所以、神州不滅の原理を感銘し、感動し、遂に慟哭したのである。(中略)今や攘夷の完遂を期するに何の停迷するところもない。     (「文藝」昭和十七年新年号)




「満州に斯く祈る」   林房雄(三十八歳)

大変であらうがなからうが、もうこれ以上我慢できないのだ。国民はみな大変に臨む覚悟をつけてゐる。決戦態勢は国民の胸の中では夙の昔に整つてゐるのだ。慌てることはない。              (「都新聞」十二月十六日〜十八日朝刊)


「十二月八日の記録」    伊藤整(三十六歳)

十二月八日の昼、私は家から出て、電車道へ出る途中で対米英の宣戦布告とハワイ空襲のラヂオニュースを聞き、そのラヂオの音の洩れる家の前に立ちどまつてゐるうちに、身体の奥底から一挙に自分が新しいものになつたやうな感動を受けた。(中略)
ところが、この日、我海軍航空部隊が大挙ハワイに決死的空襲を行つたといふニュースを耳にすると同時に、私は急激な感動の中で、妙に静かに、ああこれでいひ、これで大丈夫だ、もう決まつたのだ、と安堵の念の湧くのをも覚えた。この開始された米英相手の戦争に、予想のやうな重つ苦しさはちつとも感じられなかつた。方向をはつきり与えられた喜びと、弾むやうな身の軽さとがあつて、不思議であつた。(中略)そして今後の自分が文学者として仕事をして行くのは、国民として何を喜び、何を憂うるかを感動の根源とするのである。   (「新潮」昭和十七年二月号)




「思想戦のために」   清水幾太郎(三十四歳)

宣戦の大詔を拝して、私は凡ての国民と同じやうに涙を禁ずることが出来なかつた。日本がアメリカに勝つためには、日本の思想がアメリカの思想に勝たねばならぬ。日本の思想は自己のうちに透明なるものと不透明なるものとの立派な統一を含まねばならぬ。私はこの仕事のために微力を盡すことを最高の義務と考へてゐる。    (「文藝」昭和十七年新年号)




「荘厳なる感動」    火野葦平(三十四歳)

私はラヂオの前で、或る幻想に囚はれた。これは誇張でもなんでもない。神々が東亜の空へ進軍してゆく姿がまざまざと頭のなかに浮んで来た。その足音が聞える思ひであつた。新しい神話の創造が始つた。昔高天原を降り給うた神々が、まつろはぬ者共を平定して、祖国日本の基礎をきづいたやうに、その神話が、今、より大なる規模をもつて、ふたたび始められた。私はラヂオの前で涙ぐんで、しばらく動くことができなかつた。この感動は私ひとりではあるまい。全国民が一様に受けた感銘であらう。宣戦の詔勅を拝して、泣かぬものがあつたであらうか。
(「文学界」昭和十七年二月号)




「戦影日記」    尾崎士郎(四十三歳)

十二月八日
ハッチの底の将校室にて。
事態ようやく切迫し来る。東京を出発してより、数えて十八日である。佐藤君と二人で昨日からのつづき、「いかにして理想的な宣伝部隊をつくるべきか」ということについて語り合う。(中略)朝食に羊羹が出る。午前一時よりすでに作戦開始となりたるよし。港内船影を見ず。切東中尉来りこの快報を伝う。東京は大変であろう。(中略)上甲板にて班長より訓告を受く。いよいよ、天皇陛下の御名により、英米に対し戦闘状態に入つた。午後の空は曇つているが、思い起こす八幡船のその昔。海の上はまるで街のようだ。これぞ世紀の大進軍というべし生死すでに心魂を絶てり。雲の中から煙が見ゆる、××余艘の船団が、さしゆくのはフィリッピン、
往年見不語、今日不見語。
秋風や南にうごく雲の影
夜、ニュースしきりに至る。
(「昭和戦争文学全集4」集英社刊より抜粋)




「日 記」    横光利一(四十三歳)

十二月八日、戦はつひに始まつた。そして大勝した。先祖を神だと信じた民族が勝つたのだ。自分は不思議以上のものを感じた。出るものが出たのだ。それはもつとも自然なことだ。自分がパリにゐるとき、毎夜念じて伊勢の大廟を拝したことが、つひに顕れてしまつたのである。             (「全集第十二巻」河出書房刊より抜粋)

「アングロ・サクソン国家のたそがれ」    宮澤俊義(四十二歳)

十二月八日、最近日本でこの日くらゐ全国民を緊張させ、感激させ、そしてまた歓喜させた日はなからう。

その朝はラヂオを聞かなかつたので、対米英の開戦はバスの中で会つた同僚からの話ではじめて知つた。講義がをはるや否や、ラヂオを聞きに食堂へかけつけてみると、丁度宣戦の大詔の謹読中で、同じ思ひでかけつけた多数の同僚がラヂオに向つて直立してゐた「事既ニ此ニ至ル。帝国ハ今ヤ自存自衛ノ為蹶然起ツテ一切ノ障碍ヲ破砕スルノ外ナキナリ。」アナウンサアの声がわれわれの肺腑を突いた。それがをはると東条首相の力強い演説がはじまつた。

たうとうやりましたな、と誰も彼もが緊張に満ちた、しかも明るい笑顔を交した。来るべきものがつひに来たといふ感じが梅雨明けのやうな明朗さをもたらしたのである。この瞬間全国の日本人といふ日本人はその体内に同じ日本人の血が強く脈打つてゐることを改めてはつきりと意識したに相違ない。
(「改造」昭和十七年新年号)




【詩人の詩作】

「彼等を撃つ」(抄)    高村光太郎(五十八歳)

大詔(おほみことのり)のひとたび出でて天つ日のごとし。
見よ、一億の民おもて輝きこころ踊る。
雲破れて路ひらけ、
万里のきはみ眼前(まなかひ)にあり。
大敵の所在つひに発(あば)かれ、
わが向ふところ今や決然として定る。
間髪を容(い)れず、
一撃すでに敵の心肝を寒くせり。
                       (「文藝」昭和十七年新年号)



「大 詔」    三島由紀夫(十六歳)

やすみししわが大皇(おほぎみ)
おほみことのり宣(のたま)へりし日
もろ鳥は啼(ね)きの音をやめ
もろ草はそよぐすべなみ
あめつちは涙せきあへず
寂としてこゑだにもなし
朗々とみことのりはも
葦原の見づほの国原
みなぎれり、げにみちみてり
                       (「日本民族派の運動」より)





「大 詔」    伊藤静雄(三十八歳)

昭和十六年十二月八日
何といふ日であつたらう
清しさのおもひ極まり
宮城を遥拝すれば
われら盡(ことごと)く
ー誰か涙をとどめ得たらう





「われら断じて戦ふ」(抄)    草野心平(三十八歳)

ああ遂ひに。
日本歴史第二十七世紀の当初に於いて。
遂ひに大きな爆裂はきた。
きのふまでの永い永いこけおどかしと圧迫に対し。
われらの敵愾は煮つくりかへる。
いまはもうたつた一人もたじろがない。
たつた一人も躊躇しない。
栄えある祖国を護るために。
大東亜圏を護るために。
遂にわれらは起ちあがつた。
                       (「文藝」昭和十八年新年号)




「十二月八日」(抄)    室生犀星(五十二歳)

何かをつくり
何かをゑがき
自分のよろこびを人に示したい
自分も臣の一人であり
臣のいのちをまもり
それゆゑに寿をつくり上げたい
菲才いま至らずなどとは云はない、
この日何かをつくり
何かをのこしたい、
文学の徒の一人として
それをなし遂げたいのだ。




「黒潮の歌」    佐藤春夫(三十九歳)
   <大東亜戦争勃発二日前作詞>
大君も立たせしものを
紀の国の潮の岬に
大臣(おとど)らを立たせてしがな
黒潮の流れみるべく
太平洋のただなかに
雲捲きおこれ竜巻の
邪悪の竜はものならず
日の本の空に金翅(かるら)鳥もあるものを
南へ南へとよもす見ずや
黒潮、 黒潮、 日本の潮(うしほ)
                       (「改造」昭和十七年新年号)

【歌人の歌】

佐佐木信綱(六十九歳)
あなさけや今日のさやけさ国つ敵(あた)うてとし宣(の)らす大詔(おおみこと)くだる

與謝野晶子(六十三歳)
水軍の大尉となりて我が四郎み軍(いくさ)にゆくたけく戦へ
                           
北原白秋(五十六歳)
天皇(すめらぎ)の戦宣(たたかひの)らす時を隔(お)かずとよみゆりおこる大やまと国

斉藤茂吉(五十九歳)
大ぎみの統(す)べたまふ陸軍海軍を無畏(むゐ)の軍とひたぶるおもふ

窪田空穂(六十四歳)
将兵にこの魂をあらしむる言(こと)に絶えたる大御稜威はも

斉藤劉(六十二歳)
米英屠(はふ)る時来てあなすがし四天一時に雲晴れにけり

会津八一(六十歳)
すめろぎのみことかしこみみなわにぞあだのくろふねかくろひにける

吉井勇(五十五歳)
大詔(みことのり)聴きつつ思ふいまぞわれら大君のために死ぬべかりけり


「大東亜戦争と吾等の決意」    竹内好(三十一歳)

歴史は作られた。世界は一夜にして変貌した。われらは目のあたりにそれを見た。感動に打顫えながら、虹のやうに流れる一すぢの光芒の行衛を見守つた。胸ちにこみ上げてくる、名状しがたいある種の激発するものを感じ取つたのである。

十二月八日、宣戦の大詔が下つた日、日本国民の決意は一つに燃えた。爽やかな気持ちであつた。これで安心と誰もが思ひ、口をむすんで歩き、親しげな眼なざしで同胞を眺めあつた。口に出して云ふことは何もなかつた。建国の歴史が一瞬に去来し、それは説明を待つまでもない自明なことであつた。(中略)

わが日本は、強者を懼れたのではなかつた。すべては秋霜の行為の発露がこれを証かしてゐる。国民の一人として、この上の喜びがあらうか。今こそ一切が白日の下にあるのだ。われらの疑惑は霧消した。善言は人を誑すも、行為は欺くを得ぬ。東亜に新しい秩序を布くといひ、民族を解放するといふことの真意義は、骨身に徹して今やわれらの決意である。(中略)

東亜から侵略者を追ひはらうことに、われらはいささかの道義的な反省も必要としない。敵は一刀両断に斬つて捨てるべきである。われらは祖国を愛し、祖国に次いで燐邦を愛するものである。われらは正しきを信じ、また力を信ずるものである。(中略)

間もなく夜は明けるであらう。やがて、われらの世界はわれらの手をもつて眼前に築かれるのだ。諸君、今ぞわれらは新たな決意の下に戦はう。諸君、共にいざ戦はう。(「中国文学」昭和十七年一月号)
http://datas.w-jp.net/ghq_censorship.html
GHQに検閲された詩
 

ここでは、大東亜戦争終戦後に行われたGHQの検閲事例を紹介したい。


かへる霊
この歌は、先の大戦に出かけ、そして骨となって故郷へと戻った戦士の姿を見て歌われたものである。(尚、この詩は検閲を受けたが、その直後に検閲制度の変更が行われたために原文のまま公表できたようである。[2, p119])

以下に、原文を掲載したい。[1, p101]

かへる霊

川路 柳虹(りゅうこう)

汽車はいつものやうに
小さな村の駅に人を吐き出し、
そつけなく煤と煙をのこして
山の向こうへと走り去つた。

降り立つた5、6人のひとびとは
白い布で包んだ木の箱を先頭に、
みんな低く頭を垂れて
無言で野路(のみち)へと歩き出す。

かつての日の栄光は、
かつての日の尊敬すべき英雄は、
いま骨となって故郷へ還つたが、
祝福する人もなく、罪人(ざいにん)のやうに
わづかな家族に護られて野路をゆく。

青い田と田のあひだに
大空をうつす小川
永遠の足どりのやうに
水の面(おもて)に消えまた現れる緩(ゆる)い雲。

この自然のふところでは
すべてが、あまりに一やうで
歓びと悲しみも、さては昨日も今日も、
時の羽搏きすら聞こえぬ間に生きてゐる。

無言の人々に護られた英霊は、
燃える太陽の光りのなかで、
白い蝶のやうな幻となつて
眩しくかがやき動いてゐつ。

かへるその魂の宿はどこか、
購(あがな)はれる罪とは何か?
安らかに眠れよ、ただ安らかに
おまへを生み育てた村の家に、
戦ひのない、この自然と人の静かさの中に。



出発した時は多くの人に見送られて出発したであろうに、帰ってきた時にはそのような人々はおらず、大自然の懐でひっそりと家族に支えられた霊の行く先はどこであろうか? という投げ掛けを行っている歌である。

この原文には、「霊」という言葉、そして死んだ先にはどこに行くのだろうかという根本的な投げ掛けが行われている。 本来、日本の文化とは家族の絆を中心として、その前後には祖先との繋がり、そして未来への繋がりがごくあたりまえのものとして存在していたものであった。 そのような姿が、この歌にはありありと示されている。 根源的な投げ掛けを行っている歌であるのだ。
12の続き)

そして、この歌がGHQにより次のように書き換えられた。

【原文】
     かへる霊

川路 柳虹(りゅうこう)

汽車はいつものやうに
小さな村の駅に人を吐き出し、
そつけなく煤と煙をのこして
山の向こうへと走り去つた。

降り立つた5、6人のひとびとは
白い布で包んだ木の箱を先頭に、
みんな低く頭を垂れて
無言で野路(のみち)へと歩き出す。

かつての日の栄光は、
かつての日の尊敬すべき英雄は、
いま骨となって故郷へ還つたが、
祝福する人もなく、罪人(ざいにん)のやうに
わづかな家族に護られて野路をゆく。

青い田と田のあひだに
大空をうつす小川
永遠の足どりのやうに
水の面(おもて)に消えまた現れる緩(ゆる)い雲。

この自然のふところでは
すべてが、あまりに一やうで
歓びと悲しみも、さては昨日も今日も、
時の羽搏きすら聞こえぬ間に生きてゐる。

無言の人々に護られた英霊は、
燃える太陽の光りのなかで、
白い蝶のやうな幻となつて
眩しくかがやき動いてゐつ。

かへるその魂の宿はどこか、
購(あがな)はれる罪とは何か?
安らかに眠れよ、ただ安らかに
おまへを生み育てた村の家に、
戦ひのない、この自然と人の静かさの中に。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
【検閲後】      かへる

川路 柳虹(りゅうこう)

汽車はいつものやうに
小さな村の駅に人を吐き出し、
そつけなく煤と煙をのこして
山の向こうへと走り去つた。

降り立つた5、6人のひとびとは
白い布で包んだ木の箱を先頭に、
みんな低く頭を垂れて
無言で野路(のみち)へと歩き出す。







青い田と田のあひだに
大空をうつす小川
永遠の足どりのやうに
水の面(おもて)に消えまた現れる緩(ゆる)い雲。

この自然のふところでは
すべてが、あまりに一やうで
歓びと悲しみも、さては昨日も今日も、
時の羽搏きすら聞こえぬ間に生きてゐる。








安らかに眠れよ、ただ安らかに
おまへを生み育てた村の家に、
戦ひのない、この自然と人の静かさの中に。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ここでは、「生と死」という根本問題への投げかけが削除され、「霊」と言う存在の隠蔽がなされている。 過去との歴史を断絶すれば民族は撲滅される。 まさに、この検閲はそれを狙ったものだった。 ここで削除されているのは ”生者と死者とのきずな” である。 このような仕打ちにより我々は、何かを”忘れさせられた”のである。

そして、その忘れさせられたものを掘り起こし、現代に蘇らせることこそが、我々新たな世代の使命ではないのだろうか? 大戦時代のプロパガンダはたくさん出回っているが、不真実を取り除けばそこには素晴らしい世界がそこらじゅうに満ち満ちているのである。


参考までに、以下に川路 柳虹の一般データを載せておきたい。

川路 柳虹(りゅうこう)
詩人,美術評論家。東京都の生れ。本名誠。曾祖父は川路聖謨。1913年東京美術学校卒。《詩人》の1907年9月号に日本の口語詩の最初の作と言われる《塵溜(はきだめ)》ほか〈新詩四章〉を発表して注目され,《路傍の花》(1910),《かなたの空》(1914)などの詩集を刊行した。17年に結成された詩話会の中心的詩人の一人となり,曙光詩社を設立し,《現代詩歌》《炬火(たいまつ)》などの雑誌を発行して諸詩人を育成した。その詩風は時とともに変転して多彩,新律格の研究にも熱心で,《歩む人》(1922),《明るい風》(1935)などの詩集に詩風の展開を示した。《現代美術の鑑賞》(1925),《マチス以後》(1930)などの美術評論の著書もある。   乙骨 明夫


このような事例を、更に発見し次第、追加して行きたい。

平成16年2月16日 21時0分 記

■参考■
1 「深い泉の国」の文化学 (山内 健夫 著) 展望社
2 国際派日本人養成講座4 (伊勢 雅臣 著) 千年紀図書
http://www5f.biglobe.ne.jp/~thai/page006.html
歴史の一項


【メモ】「歴史的に見て、アジア人を白人の支配から解放するのにこれほど尽くした国はかつてなかった。同時にこれほど誤解された国もまたかつてなかった。それでも日本が無数の植民地の人々の解放に果たした役割はいかなることをもってしても消し去ることはできない」ビルマの独立指導者バー・モウ
A級戦犯の減刑要請=終身刑の10人、「善行」理由に−外交文書
 極東国際軍事裁判(東京裁判)で終身刑となった木戸幸一元内大臣らA級戦犯10人の減刑について、岸信介首相とダレス米国務長官との1957年6月の合意を踏まえ、日本政府がその他の関係国に働き掛けていた状況が、22日公開された外交文書で判明した。
 58年1月23日付公電などによると、日本政府は10人の減刑を米国を通じ、英国、フランス、カナダなど関係7カ国に非公式に打診していたが、目立った進展はなかった。こうした中、「(マッカーサー)在京米国大使から藤山(愛一郎外務)大臣に対し、本件促進のため、わが方(日本政府)からも直接関係国にその内意を打診しては如何(いかん)との示唆もあった」という。
 当時、10人は仮出所中。これを受け、外務省の板垣修アジア局長は同22日、関係国の一つパキスタンのマリク駐日大使と会い、「いずれも既に11年9カ月以上服役し、服役中も善行を続けてきておりかつ老齢でもある」として、直ちに刑期を終えるか15年に減刑するよう「好意的配慮を得たい」と要請した。大使は「趣旨は十分了承した」と応じた。
 A級戦犯の減刑には、サンフランシスコ平和条約と日本の国内法により、東京裁判に代表者を出した国の過半数の決定が条件だった。日本政府の要請は各国に受け入れられ、10人は58年4月7日付で、刑期を終えた。(2010/12/22-10:19)
時事通信ニュースから

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