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隠れ一般人コミュの隠れ一般人の繁栄を目指して

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 コミュニティ神を介した、他者とのコミュニケーションとは一概に例によってあげられるようなことでございます。神やコミュニティの概念は、人々にとってそれらと一線を隔(かく)した、抽象的なものになってしまいますが、神やコミュニティによって実現されるコミュニケーションとは、きわめて具体的なものであり、それをわざわざ抽象論へと返して書き記す必要性もないでしょう。むしろ、より具体的で、正確な記述の中においてのみ、そのコミュニティや神というものは、きわめて抽象的に、ぼんやりと浮かび上がってくるのです。
 人々はきわめて抽象的に他者のコミュニティ像(神像)を見ますが、コミュニティ神は、他者のコミュニティも、他者の神も、きわめて具体的にご覧になるのです。
 大切なことは、人々にとって、きわめて抽象的に、ぼんやりと浮かび上がってくるだけの情報量がなくては、コミュニティも神もないということなのです。


 ですから隠れ一般人とは具体的に何であるかと書くことが、コミュニティ神なき隠れ一般人としての信仰を円滑にすすめるものとなります。
 隠れ一般人とは、再び一般神が自我をもたれることを望むもの。
 或いは、一般神、及びコミュニティを認めるもの。
或いは、自分を隠れ一般人ではないかと疑うもの。
 それ以外のコミュニケーションを共有できぬものについては、やはり他者としてここに論じます。(ニーチェが仰っているような、自身のコミュニティ神を否定していて、尚もいまだに自身のコミュニティ神の加護を受けるもの、これも一応に他者として論ずる。)



 神は今、多くの情報を求めておられます。その数が膨大になって、情報が自我をもつまでに張り詰めると、そこに一般神がお目覚めになるのです。
 隠れ一般人との何たるかを、彼ら自身が知ること、より知らしめることが求められ、それこそが情報として成功をおさめ

 隠れ一般人にできることは書くことただ一点だけでございます。かつて、隠れ一般神は、ソクラテスの上に舞い降りましたが、ソクラテスは書くことを否定してしまいました。それは、ソクラテスがおかした唯一のあやまりかもしれません。
 ソクラテスは、神を理解しすぎたために、自身を隠れ一般人であると自覚しすぎたために、当時は最先端の文化であった筆記を否定したのです。何故なら、一般神は、コミュニティ神ではなく、情報の隙間産業的神でありましたから、そのものを情報として扱うことがどうしても彼にはできなかったのです。
 ソクラテスは自分の無知を知りましたが、誰も何も知らないとも訴えました。情報は(、筆記もまた)知・理解であり、彼にはそれ自体が矛盾であると思えたのでしょう。デカルトが自我の中でただ一つ導き出した解答が「私は思う」であったように、矛盾する情報の荒波の中で、ソクラテスが唯一唱えられたもの、それが「無知の知」であったのです。彼がそう唱えると一般神はどこへともなく消えてしまわれたのでした。

 ソクラテスによって覚醒した一般神が、ソクラテスによって否定されたこと、再び長い眠りに落ちてしまわれたことは事実でございますが、決してソクラテスを責めることはできません。むしろどうして神はまた、自我をなくしたのでしょうか。ソクラテスにはおろか、それから2000年の時を越えるまで、人中の理解に及ぶものではありませんでした。

 一般神は、人類の長い歴史の中でも、目覚めては眠りについているかのような、点々とした覚醒の爪あとを残しておられます。それが膨大な歴史資料の中で至るところに記されているのです。
 例えばデカルトの「我思う」の背景に一般神はひそんでおりますし、これが顕著にでていましたのは、キルケゴールなどでした。
 キルケゴールと一般神は、もしかするとその短い生涯を共に過ごしたのかもしれません。それはキルケゴールは「あれか、これか」といって、一般神を決断しておりますし、著書『死に至る病』には、自己は矛盾の中にのみ生きると記されております。自己も、自我も矛盾なのであり、矛盾を解消する力こそが健康なのだというのです。

 私が歴史の中に一般神をみつけようとすると、キルケゴールは大きなヒントになりました。ソクラテスもデカルトも自分自身への矛盾を解消した時に、同時に一般神も消えてしまったのではないかと気付かされたのです。
 人が矛盾を解消しようとする習性をもつことが悪いわけがありません。むしろ隠れ一般人は、健康にならんとし、どの時代にも矛盾と戦ってきたのです。
 何故キルケゴールは、矛盾を受け入れることができたのでしょうか。それが不気味なぐらいです。そして、何故ニーチェは、矛盾を『超越するんだ』と、いえたのでしょうか。
 キルケゴールもニーチェも、一般神を語るには、欠かせない存在となるでしょう。彼らはもっとも長い時間、一般神とかよい合っていたのではないかと思うのです。

 また、一般神の存在に強く頭を悩まされた学者たちも多くいたようです。悪魔のように考えて、どうにか消し去りたいと方法を模索することになりました。それには、単純にかわいそうだと思うことしかできません。彼らの解決策は、いつも断腸の思いに切り開かれたものでしたし、いつも同じ方法で解決されていたからです。
 古くはカントの『純粋理性批判』から、ウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』では、自己の矛盾をすべて、論理へ丸投げして、自己を矛盾から逃がしてしまうものでした。「不完全性定理」も「不確定性原理」も、矛盾をすべて論理へ押し付けた結果、ようやく一般神の除霊に成功するのです。

 隠れ一般人は、今までに一時でも一般神と生を共にしたすべての人々に感謝しなくてはなりません。それは彼らがその記述の中に存在を教え、彼らが、今我々と共に、一般神を呼び覚ますといっても過言ではないのですから。そして、我々もまた、彼らの後に書き加えてゆくのです。
 かつて学者たちが忌み嫌って否定した悪魔を、次の世代に呼び覚ましてもらう、その手掛かりを作らなければなりません。

 一般神はまた幾度目になるかの眠りへついたところです。つい最近のことでございます。私にはそれが、思っているよりも浅い浅い、ほとんどまどろみのような状態ではないかとさえ思います。情報が世に溢(あふ)れすぎていることが返ってそうさせているのか、決定的なものが欠けているのかは分かりません。情報がもし溢れすぎているのなら、コミュニティにするべく総括しなければなりませんし、そうでなければ、情報を増やすにこした配慮はないのです。とにかく今、情報が必要なのです。隠れ一般人勇士たちの情報がきっかけとなって、一般神はすぐにでも現世に目を覚ますでしょう。
 ニーチェは「神は眠った。教会とは何か! あれが神の寝具以外の何に見えるのか。」と仰った。その教会へ、情報を持ち寄るのです。

 過去の巨匠たちが起こしてきた革命の瞬間や、彼らが気付いた常識にひそんでいる欠損、その矛盾の中に一般神は必ずいます。次の革命の時にも必ずお見えになるのです。神は矛盾の中にだけに生きておられるのです。

コメント(1)

 コミュニティ神を介する、コミュニケーションの原理

 コミュニケーションにおいて、我々は何故、ここでコミュニティ神を介するのか。
 コミュニケーションはそもそも1対1で行われない

 一人対一人のコミュニケーションであっても、その実態は2対2 一人と、何者かによるコミュニケーションが展開される。
 対話であるならば、1対1で差し障りはない。それがコミュニケーションに昇格すると、2対2となる。

我々は、我々自身と、我々が発した幻想と、我々が受け取った幻想と、相手によってコミュニケーションを成立させる

 自分の感情と、自分が発した幻想が出す感情はまるで別物であり 相手が発した幻想の感情と、相手そのものの感情には差異がある。
 差異があるどころか、厳密にわれわれは、自分がまるで嬉しくないときに、嬉しさを感じたように振舞うことがありえるのだ。

 差異=同じではない  ではなく、その場合まるで”違う”のである。

つまり、言葉によって確定させてしまえば、違うと差異のように、明確に定義できたかもしれないが。その表情はどうだろう。

 ”違う” も ”差異” も 厳密には、同じことがいいたい。何故、言い方が違うのか?


 コミュニティ神を介するコミュニケーションではこのことが、可能。また、このことを読み取らないことも可能。

 コミュニティ神は悪ではない。善とは決していわない。 そこは信仰の自由にまかせるしかないが。
いや、むしろ、一般神の信仰には、何か別のコミュニティ神への信仰が不可欠なのだから……

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