ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

隠れ一般人コミュのリミッター

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
 性欲のリミッターとしての"絶頂"を考えてみます。絶頂に向けて性欲は高まりますし、絶頂をひとたび跨(また)いでしまえば徐々に軟化してゆきます。男性は急勾配で、女性は緩やかな坂を描いているといわれます。

 リミッターがなければずっと性欲におぼれてしまうので、必要となったものでしょうか。オスのウサギはずっと性欲に支配され続け、交尾をやめない都市伝説を持つのですけれど、すると彼らにはリミッターがないのでしょうか。そのような感覚にも一度は陥って見たいものですが。どうしても振りほどけないような性衝動も、いずれ発散させてしまえば、今までが嘘だったかのように落ち着いていられます。
 普段はまるで興味の持てないような異性についても、強力な性衝動の前では、ごちそうのように見えてしまいます。しかしただ、どんな異性も、食べ物だとしても、その背後には自身の欲望がひそんでいるのです。もう限界というところまで味わって、欲望が坂を下り始めることは、仕方がないのかもしれません。
 絶頂を迎えた男性が、女性にとっては急に愛想をつかされたように感じてしまい、がっかりであると、よく意見が出されるものですが、それも一理あるでしょう。
 ただ女性の方も、その長い坂を下った果てにある、真っ白に無欲になった状態のときには、男性とのお付き合いに、さじを投げたくなることもあるはずです。

 リミッターは"生"のために設けられた機能とも思えますが、本質的には、欲望のひとつひとつはリミッターを持っており、その欲望以外のすべてのために設けられた機能であると考えることができます。
 いつかは交尾をやめて、食べなければなりませんでしたし、食べることをやめて交尾をしなければなりませんでした。そうしなくてはならないといいますか、パラメータとして文字や記号に置き換えながら考えたのであれば、そのようにしてきた結果が、今日の我々に続いているのです。
 いつからか、人間も生きること以外のことへ活路を見いだしました。欲望は、それは速く走ることであったり、隠れ一般人のように文章を書くことであったり人様々お持ちのことと存じます。


 リミッターなき快楽もいくつか用意されています。やりかたは一概に教えられませんが、遠い異国の修行僧がやるような瞑想も、これの一つであります。隠れ一般人にとって、瞑想のイメージとは快楽の追求であり、これはいつまでもやってられるものですが、これを極めたものは、やはり快楽におぼれてしまうらしいです。メスを見つけたウサギや、数字を覚えた猿が延々と数えるのを止めないように、元々備わっていない快楽なのです。
 ですから、瞑想を得とくした僧侶が、砂の上で目を閉じたまま一ヶ月も二ヶ月もそのままにしていられることも、果てには死んでしまうことだって、別段ふしぎでもないのです。快楽を科学して、恐ろしさをよく知っている隠れ一般人にとっては不幸な人を見た哀れみの感情さえ沸いてくるのですが、見ようによっては素晴らしい一生であるのです。悩みも痛みもないまま、圧倒的な快感の中で一生を終えられるのですから。
 瞑想を極めるまでに時間がかかるのが難点ですけども。


 さて、隠れ一般人たるもの、人と猿の違いについてを長々と論じた学者を知っておかなければなりません。かつて多くの学者が信仰した思想に『進化論』というものがありました。その考えが正しければ、猿と人との間には、架空のピテカントロプスという種族があって、掛け橋になっていると推察をすすめます。そうして、あちこち執念を持って土をほじくり返していると、まさに論壇で諳(そら)んじていた、あのピテカントロプスそっくりの骨格を持つ種族が出てくるではありませんか。
 エンゲルス著 『猿が人間になるについての労働の役割』 を見ていますと、猿は労働によって人としての地位を築いたと解釈ができます。猿と人の手のひらは、エンゲルスに覗かせてみれば、そこに大規模な構造の違いを見いだすことができたのでした。その証拠に、猿の親指は、他の指とそろって同じ方向に生えておりますが、人の親指は、その他の指と極端に離れた場所にあり、広い可動域を持っていました。
 また、ピテカントロプスの化石を詳しく見ても、一見して何の代わり映えもしなかった骨格のその手には、猿から人へと進化する過程が垣間見えたのでした。

 隠れ一般人の思想は自由であり、共産党をすすめるわけではないのですが、つまりエンゲルスは、人とは労働のために、器用な手を獲得したのだといい、人とは労働する猿なのだというわけです。
 それもそうでしょうが、リミッターという題を持ち出してここで論じたいことは、人間は労働もしますが、同時に資源の管理者であるということです。
 食物連鎖の頂点に君臨するためには、この資源の管理という方法が欠かせませんでした。というよりも、パラメータを見れば、結果としてそのようになっていたのです。かつての恐竜には、人間と同じ器用さや、たくましさを備えたところで、このことができていなかったのではないかと考えられます。
 恐竜の絶滅については諸説ありますが、ニホンオオカミの絶滅については際限なく食料を食べつくしてしまった説が有力にあげられます。
 ですから、繁栄も早かったし、衰退もとても早くに終わってしまいました。ニホンオオカミは、人間が牛やニワトリを飼うように、資源を管理することはありません。他のどの動物を見てもそうでしょう。
 目の前に雌ヤギを見逃せば、今後繁栄したであろう、仔ヤギも孫ヤギも食べることができたのに、ニホンオオカミはそれをしないのです。
 人間は資源を管理するものであるが、自分自身の欲望を管理したということになるでしょう。あるだけものを食べるようにはできていませんでした。聖書が生まれる以前から、自制についての考え方はあったはずですし。その自制を広めるための権威が必要だったため、神が作られたのではないかと思います。
 何せ権威といえば、人になった暁に、最高峰のものを手中に収めてしまいましたから。


 苦痛や、それに似た悩みについてもリミッターがかかるのではと考えます。強烈な臭いであっても、一定の数値を超えたところでは何も感じなくなり、かえって危険となってしまいます。発症した時点では痛くてたまらない怪我の患部も、いつかはその痛みを忘れて眠ることだってできるのです。
 さては葛藤も、大怪我よりも体を休ませなかった苦悩にしても、リミッターがあると実体験に基づいて思います。それには長い期間を伴うものもありました。

 例えばよくあるのが、隠れ一般人にとっての少年期です。彼らは、いえ、私たちは、排泄がとてもつらいものと感じて、その少年期をおくります。
 そして果ては、膀胱炎にかかったり夜尿症が治らなかったりすることも、その思い出が排泄のたびに想起されていたことも、忍びがたい日々を増長させたかもしれません。
 そんな毎日の気が狂うような思いで耐えていた排泄のつらさも、ある期を境に、どこかへ吹き飛んでしまった気がしてなりません。
 あの期間、隠れ一般人はいつも、トイレの中で神様に祈りをささげておりました。今も世界中にそうした少年少女がいると思うと、今度は我々が、彼らに祈りをささげる番であることを思います。
 とにかく自分の体内から何かひねり出す感覚は、水におぼれるような気持ち悪さ、息苦しさがついて回っておりましたから……。
「神様、どうか二度とこのような目に合わせないといってください。おトイレにいるときがとてもつらくてたまりません。いい子にしますし、勉強だってします。だからお願いです。この時間をせめてなくしてください。」
 しかし排泄が終われば、そんな一時の誓い立ても忘れて、隠れ一般人のほとんどはいい子にもならなかったし、勉強もしない。だからまた再び魔のような排泄の時間には、あの世にも恐ろしい気が狂いそうな感覚が降りかかるのだろうと、みんな思い出しているのです。
 そんな少年期の苦痛もいつしか忘れて、今までは省みることもなかったぐらいなのですが。きっと苦痛もいつか本当の恐怖となって自分の脳を侵した一時を境に、次第に忘れることができたのかもしれません。そうでなければ、私たちの過ごした少年期を今振り返ることができますでしょうか。今も世界中の少年少女とともに苦しまなくてはならないはずですから。
 
 そうです。今思ってみれば、排泄は、必要だから行われる生理現象なのですし、なにも悪いものを外へ出すことが、良いことには違いありません。排泄を気持ち悪がることも恐れることもなかったのでしょう。けれど、今自分が常識としてそう感じられるぐらいに、いつか変わってしまったとき、臨界点を越えた経験があったはずなのです。
 それから、私が始めて夢の中での射精を経験したときには、確実にそんな恐怖からは身をおいていておりました。もう記憶もおぼろげではありますが。


 あくまでもステレオタイプとしての考察となってしまいますが。隠れ一般人はリミッターを超えて、例えば絶頂を迎えたときに、その後すぐに落ち着いてしまう性欲と快感に、むなしさを感じることはないようです。
 そもそも、むなしさとは何か、何についてを"むなしさ"と呼べるかどうかは分かりませんが、同じ人間として、他者にあるそんな気持ちの動きを理解することができなくてはなりません。思うに、あんなに気持ちがよかったのに、あんなに気分が高揚していたのに、今はどうだろうかと。
 隠れ一般人が絶頂の前によく思う。例えば、絵を見てオナニーにふけるとき、絶頂を迎えると、もうこの絵からは何も感じなくなってしまうのかと。その無念に思う気持ちは、自分の性欲を無意識に引き伸ばしてしまうことになっています。

 むなしさとは何か。この感覚自体、身に覚えがないものだと今まで思っていたが、それもすぐに嘘だとばれてしまいます。むなしさで自己嫌悪に陥ったりはしませんが、他人のむなしさも、こんな些細なことでむなしさと呼ぶのではないでしょうか。
 例をあげますと、一人でインターネットの動画を見ていて、声を出して笑う。そして、声を出して笑っている自分を、彼自身が見つけるときに思うのです。
 「この人、一人で声出して笑ってる。」と、そして同時に「一人で声出して笑ってたな……」のような。自分の反響が、自分へ帰ってきます。それがむなしさなのです。
 むなしさとは自己完結する反響なのでありましょうか。それも、はじめは自己に向かって増幅していく反響にも関わらず、その反響は自己に返ってきて、静まってゆく反響でもあるのです。なるほど、それでは納得できました。

 再三いいますと、隠れ一般人はオナニーの後に、むなしさを感じることなどありません。他者の場合、彼は自身のオナニーの発見者となってしまうのですから、むなしさがあるといえるでしょう。隠れ一般人のオナニーは、隠されていないのです。すべてはじめから、自分自身に見られていると思うので、むなしさがありません。その行為自体も、性欲と快楽に腐敗しているからと割りきって、身をゆだねているのです。
 むしろ、オナニーは自慰ではなく、(自分で慰めるではなく)発見者としての自分自身にされている行為となるのです。
 
 隠れ一般人は、むなしさを感じないのではない、自分自身を分裂させて考えるケースが少ないように思えるのです。我らが崇(あが)める一般神に見守られている感覚もなければ、いつも自分以上に、他者が見ている思って動いているはずなのです。後で振り返られたときに、恥ずかしいものなどあるでしょうか。それは同時に、むなしさなどはない、と胸を張れる隠れ一般人にとっての気高(けだか)さとなるのです。
 ただ、インターネットで探した動画を見て笑っているとき、まったく今その意識がなく、気高さも忘れ、自分が発見者となってしまったときに限っては、むなしさを感じます。それも些細なものですけれど。

 これは、あまり無意識が先行することがない、といった方が分かりやすいでしょうか。しかし、自分の中にある無意識を尊重していますし、存在を認めます。
 ”むなしさ”の中に見える、隠れ一般人と他者との差は、無意識への扱い方の差なのかもしれませんね。



 性欲のリミッターの話は、さっきそうして、絶頂を迎える前に気が付きました。性器を触りながら物思いにふけっていると、何故もう一度、今この快楽を味わうことができないのか。そう考えながら、発見者となったのです。それは、自分自身のオナニーを見つけた、むなしさを伴う発見などではない。そのような品性下劣な発見の方法では断じてありません。
 ここにあるひらめきが降りてまいりました。性欲のリミッターを解除する方法。絶頂を向かえ、緩やかに下り始めた性欲を、再びよみがえらせる方法を発見したかもしれません。成功したのは先ほどの一度だけなので、確証には程遠いのですが。あの、断食や瞑想の苦労に似た、日本では見慣れない、例の修行僧たちがよくやる方法に近いものでした。これはもう間違いないかもしれません。
 ただ、この瞑想も、腕を動かす方法を、書き記すことのように難しい。詳しく教えられないのが残念ではありますが。

 みなさんにとってはどこかは分かりませんが、性欲を高めようとする場合に、必ず体のどこか一部分(それかもっと全体的なことなのか)への呼びかけがあると思うのです。しかも、この作法はいつも無意識のうちに、性欲を高めようとするときにやっていた方法でありますし、無意識のうちに性欲を鎮めるためにやっていた方法があるだろうのように、自分の体の中で確実に行われていることでした。そしてふと意識の中にいて、私はやはり発見者となってしまったのです。

 つまり「リミッターがかかった、よしスッキリした、タイピングの練習でも始めるか」となるためにあるはずの性欲の降下の段階中に、しかしそれが一度降下しきってからではありますが……。もう一度自分の性欲をよみがえらせる方法がこれだったのです。
 そして、この作法を、もっともっとはじめから、一度目の性欲が高ぶり始めるときから、繰り返しこの手法によって性欲が高めていたことに気が付いたのでした。

 手法そのものが性欲を高めるかは分からないが。しかし、性欲を高めるためにしている所作が、隠れ一般人になら誰にでもあるはずです。一度確かめてみてください。それで、あなたが本当に隠れ一般人なのかどうなのかが分かります。

コメント(1)

 ※排泄

 排泄について真顔で他者と語り合うことはできない。ある他者には苦い顔で直視されず、ある他者にはすぐに笑い飛ばされてしまい、語るに足らず。排泄を非日常的なものと考えられ、現代においては神か、はたまた死のような存在となっている。それを誰もがおくびにも出せず、孤独に抱え込むことしかできないのである。
 しかし、それ自体が排泄という行為との関わりを感じる。排泄は現代では、人に見られることもないのだから、むしろ人は排泄をしないのではないかという幻想さえある。犬は、飼い主が排泄するとは思わないだろう。だから首輪で紐(ひも)が結んでいなければ、飼い主の前での粗相などとは思うまい。そのように排泄という行為も、概念自体も、自分独りの中で完結する排泄物となり、たまに吐き出さないと不健康になってしまう。

 他者にはまじめに語るには足りず。排泄という話題は、誰も取り合ってくれることがない。
 さて隠れ一般人自身がそう感じる世界の中で、まじめになろうとする最中(さなか)、催してしまう。何故まじめな私が排泄をするのかという嫌悪感は幼少期の隠れ一般人にとって仕方なかったのかもしれない。
 隠れ一般人は排泄がまじめなものだと考え直すことができたし、他者が仮に排泄について論じようとしたとき、彼はそこに真摯として参加できる。かえって、排泄について不真面目に、あるいは不純な思いで話そうとするものを敬遠したいぐらいである。しかし、なかなか後者のような人たちばかりで物足りない。
 隠れ一般人は排泄について話したいのではない。ただ、腹を下したくはない。

 排泄にまつわる文献は大成していない。そこが語りえないから。例えば、映画(小説)の「あの排泄のくだりは良かったよね。」という評判が不可能であったように。

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

隠れ一般人 更新情報

隠れ一般人のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。