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言語学コミュの言語はどんな矛盾を含んでいるか   【10】  文字言語と音声言語

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先に【1】〜【9】を提示しましたが本 Topi は、
三浦つとむ(『レーニンから疑え』芳賀書店,1964)の所収の同名論文、「10 文字言語と音声言語」を話体にし適宜表記を改めたものです。原論文は同書を参照下さい。(注;原書は「10」を「9」と誤植)

私たちは、一度覚えた言語表現の規範を思い出せなかったたり、或いはまだ知らない規範による言語表現にぶつかったりした場合に辞書を引いてみます。俗に、辞書に「言葉の意味が書いてある」と言いますが、これは厳密には正しくありません。言語の「意味」は、個々の言語表現それ自体が持っているのであり、辞書はその「意味」を知るための【媒介者】に他ならないからです。

先にマルクスの言葉を引用しましたが、商品がその価値の担い手であるのと同じように、言語がその「意味」の担い手なのであって、ただ目に見えず手に掴めないだけのことです。マルクスは、商品の価値と、その価値を形成する実体とを区別しました。私たちの言語論も、言葉の意味と、その意味を形成する実体とを区別しなければなりません。『資本論』に目を通した人は誰でも知っているように、価値を形成する実体は、抽象的・人間的労働です。これは、具体的な性格を捨象した労働であり、人間労働力一般の支出として取り上げられた労働です。これに対して、言語の意味を形成する実体は、話し手の概念です。これは具体的な性格を捨象した認識であり、対象の持つ一般的な側面の把握として取り上げられた認識です。抽象的・人間的労働は価値を形成する実体ですが、価値そのものではなく、この労働が対象化されて価値関係が成立します。これに対して、話し手或いは書き手の抽象的な概念は言語の「意味」を形成する実体ですが、「意味」そのものではなく、この概念が音声あるいは文字の類的側面に表現されて「意味」関係が成立するのです。

だが、価値と意味の似たところはこれでお終いです。商品を価値として扱う場合、その生産のときの具体的な労働はどうでもいいことであり、この労働は使用価値を作り出したという点で問題になるに過ぎません。しかし言語の「意味」にとっては、概念に伴って存在した具体的な認識はどうでもいいどころか、大いに重要なものです。仙台の親戚から「一九五〇ウエノツク」という電報を受け取った時は、そのウエノが実は、上野駅の何番ホームであり、一九五〇は列車の到着時刻であり、ツクとは列車に乗って着くことだという、具体的な認識にまで到達することが必要なのです。

それゆえ、いわゆる「辞書の示す意味」は、社会的な規範に定められている、言語表現の担っている関係、即ち対象の一般的な側面の概念としての認識との関係を取り上げるにとどまっています。しかし私たちは、それを手掛かりとして、言語の表現過程に伴っている対象の具体的な認識をも推察し、それとの統一に於いて、言語を理解しようとします。そこで常識的には、言語の「意味」を、個々の言語が担っている過程的構造全体との関係において、即ち言語の表現内容と同じ意味に於いて、使っている場合が多いのです。

マルクスは、「総じて、現実の諸矛盾がもって自らを解決する方法」は、「矛盾がそれにおいて運動するところの形態を創造する」ことである、と、『資本論』の中で指摘しました。言語の表現においても理解においても、社会的な規範を媒介とした認識の運動が存在することは、感性的であると同時に超感性的でもあるという言語表現の矛盾を実現し且つ解決するための運動形態は何であるかという問題の解決を与えるものです。

文字言語が歴史的に見て、音声言語ののちに出現したこと、そして音声に対応させ置き換えられるようなものになったことから、文字は音声を写すに過ぎないと考える学者も少なくありません。しかしながら、【文字言語はそれ自体として自立した体系を持ち、音声言語と浸透し合いながらもその特殊な性格を失うことはありません】。音声の種類は、個々の発音の難易ばかりでなく、音声相互の組み合わせの難易によって大きく制約されています。【個々に発音できるからといって、組み合わせたものが同じように発音できるとは限りません。これも一つの矛盾です】。又、俗に「早口ことば」と云われる、発音しにくい文章があります。文字の種類は音声に比較してはるかに多くのものを創造しうるばかりでなく、発音しにくい言葉や文章をも容易に書き表すことが可能です。ところが一方においては、発音に当って音声の感性的な面を利用し、アクセントや声の大小を微妙に使い分けることによって、同音異義語を区別して理解させたり、感情を盛り上げたりすることが可能ですが、文字に於いてはそれが大きく制限されており、文章の中に傍点や傍線などを付け加えてその部分を強調したり、?や!を加えたりする程度を出ることができません。【音声言語の在り方が文字言語を制約するばかりでなく、文字言語の在り方も又、音声言語を制約します】。エスぺラントの造語法でも、原則としては fero(鉄)+vojo(道)=fervojo(鉄道)のように、語尾を取り去って続けるのですが、lerni(教える)、libro(本)を一語にする時には lernlibro となって発音しにくいから、音声から規定されて lernolibro(教科書)と名詞の語尾を中間に入れることになります。また、ブリジット・バルドーを略してB・Bと記すことから、この文字に規定されてベベという言葉が現れて来ます。

音韻と云われるものは、前に述べたように主観的に与えた幅を持つ音の種類ですが、音声に対応した文字を作り出す場合には、とりもなおさず幅を持つ音の種類に対して幅を持つ文字の種類を作り出すのであり、即ち音韻に対して表音文字を作り出すのです。このときの対応が一体一対応ではなく、いくつかの音韻に対して一つの表音文字を対応させる(英語の a など)としても、事の本質には変わりがありません。言語を表意的に改革していこうという表音主義は、物理的な音の在り方を忠実に文字に写すことでなくて、音韻に対応する表音文字を採用して出来る限りその対応を忠実ならしめようとする態度を意味するものです。

表音文字が音韻に対応しているということは、必ずしもそれを綴り合わせた単語が音韻に忠実だと云うことを意味しません。ここに音声言語と文字言語との相対的な独立から生まれた、一つの矛盾が存在しています。【表音文字が単語の中では表意的にしか使われていない】例はいくらもあって、英語の high のgh もそうであるが、略語だとこれを抜いて、 HIーFI などと記しています。又、【単語に於ける音韻の変化ということも、必ずしも意味の変化に対応しているとは限りません。音韻の変化が他の単語との繋がりから形式的にもたらされることがあります】。ここに形式と内容の相対的な独立があり、一つの矛盾が存在しています。国語の活用もその一例です。

タカクラ・テルの『ニッポン語』は、動詞の基本的な形を次のように説明します。
  kak― anai / i / u / e / o
これでは、否定の助動詞は anai になります。ところが、「書けない」は kak― enai となって、否定の助動詞に anai と enai があり、この違いが両者の「意味」の違いだというような奇妙な結論になってしまいます。実は否定の助動詞は「ない」一つだけです。「書かない」と「書けない」との違いは、a とe の違いではなく、「書か」と「れる」とが結びついた複合動詞「書かれる」が単純化して「書ける」になり、これが否定の助動詞「ない」が付く時には「書けない」という形を取るのであって、単なる見掛けで取り上げることはできません。エスペラントは人工言語ですから、語尾のaは形容詞、i は動詞不定形、o は名詞というように、音韻の変化を「意味」の変化と完全に対応させてこしらえてありますし、ヨーロッパの言語は大なり小なりこのような対応を持っています。ヨーロッパの言語の構造がそうだからと云うことで、これを機械的に日本語にも押し付け、音韻として分解できないものをローマ字を使って分解するところに、このような間違いが生まれることになります。■

コメント(9)

規範を捉えることができない現在のソシュール言語学のレベルでは音韻を正しく理解できないという事実を明らかにしています。■ 
>>[3]

>複合動詞「書かれる」

ここがまったくの誤りです。「書かれる」は動詞ではありません。複合動詞なんてものは存在しません。「書かれる」は (複語の) 複合語です。3語です。「書か■れる」です。零記号についてですが、

>(時枝、日本文法、2020年、84ページ) (詞は)【常に】辞と結合して具体的な思想になる。

ここに根拠があります。







・根拠もないのに否定する馬鹿はいません。否定する場合、根拠を言ってください。
・根拠を自分の言葉で短くまとめて説明できない馬鹿はいません。根拠は自分の言葉で短くまとめて説明してください。
・三浦が言っていなそうだからという根拠は、まったくまったく根拠になりません。稚拙過ぎるので、やめてください。恥ずかしくないですか?

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