音韻と云われるものは、前に述べたように主観的に与えた幅を持つ音の種類ですが、音声に対応した文字を作り出す場合には、とりもなおさず幅を持つ音の種類に対して幅を持つ文字の種類を作り出すのであり、即ち音韻に対して表音文字を作り出すのです。このときの対応が一体一対応ではなく、いくつかの音韻に対して一つの表音文字を対応させる(英語の a など)としても、事の本質には変わりがありません。言語を表意的に改革していこうという表音主義は、物理的な音の在り方を忠実に文字に写すことでなくて、音韻に対応する表音文字を採用して出来る限りその対応を忠実ならしめようとする態度を意味するものです。
表音文字が音韻に対応しているということは、必ずしもそれを綴り合わせた単語が音韻に忠実だと云うことを意味しません。ここに音声言語と文字言語との相対的な独立から生まれた、一つの矛盾が存在しています。【表音文字が単語の中では表意的にしか使われていない】例はいくらもあって、英語の high のgh もそうであるが、略語だとこれを抜いて、 HIーFI などと記しています。又、【単語に於ける音韻の変化ということも、必ずしも意味の変化に対応しているとは限りません。音韻の変化が他の単語との繋がりから形式的にもたらされることがあります】。ここに形式と内容の相対的な独立があり、一つの矛盾が存在しています。国語の活用もその一例です。
タカクラ・テルの『ニッポン語』は、動詞の基本的な形を次のように説明します。 kak― anai / i / u / e / o これでは、否定の助動詞は anai になります。ところが、「書けない」は kak― enai となって、否定の助動詞に anai と enai があり、この違いが両者の「意味」の違いだというような奇妙な結論になってしまいます。実は否定の助動詞は「ない」一つだけです。「書かない」と「書けない」との違いは、a とe の違いではなく、「書か」と「れる」とが結びついた複合動詞「書かれる」が単純化して「書ける」になり、これが否定の助動詞「ない」が付く時には「書けない」という形を取るのであって、単なる見掛けで取り上げることはできません。エスペラントは人工言語ですから、語尾のaは形容詞、i は動詞不定形、o は名詞というように、音韻の変化を「意味」の変化と完全に対応させてこしらえてありますし、ヨーロッパの言語は大なり小なりこのような対応を持っています。ヨーロッパの言語の構造がそうだからと云うことで、これを機械的に日本語にも押し付け、音韻として分解できないものをローマ字を使って分解するところに、このような間違いが生まれることになります。■