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言語学コミュの言語はどんな矛盾を含んでいるか : 【3】 対象の捉え方における矛盾

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【1/2】に続き【3】は、

三浦つとむ「言語はどんな矛盾を含んでいるか」(『レーニンから疑え』芳賀書店,1964)の〔3 「対象のとらえ方おける矛盾」〕を話体にし適宜表記を改めたものです。原論文は同書を参照下さい。

それでは、これから言語における種々の矛盾の結び付きを、少し具体的に検討していきます。過程的構造に従って、まず対象のそれから取り上げることにします。

私たちは、リンゴを「赤い」といい、ニンジンを「赤い」といい、血を「赤い」といいます。これらの対象はそれぞれが違った色合いを持っており、私たちもそれらが違っていることを十分に承知していながら、しかも言語としては同じ単語を使って表現しています。この場合、【異った色合いでありながら、同時に同じものとして捉えるという、一つの矛盾】が存在します。この矛盾を誰も不合理だとは思っていません。この場合、私たちは色の変化に対してある幅を設定しているのであって、その幅の中にある色は全てを「赤い」と捉え、その幅の外にある色は全てを「赤くない」と捉えています。リンゴの色もニンジンの色も血の色も、その幅の中にあるものとして、いずれも「赤い」と表現したわけです。現実の色の変化は、連続的な、なだらかなものであって、色の「赤い」と「赤くない」との間に客観的にハッキリした境界線など存在してはいません。だがそれにも拘わらず、私たちはそこに主観的な幅・主観的な境界線を持ち込んで、こういう区別を立てているのです。

なぜ、こんなことをするのか? それは私たちが【実践的に必要とする】からです。また【そうしなければ言語に表現できない】からです。私たちは決して勝手に幅や境界線を設定しているのではありません。そんな非合理的なものではなく、大体において似通った部分を纏めて、それらを同じ種類に属する色だと、【近似的】に扱うだけのことです。従って明確な幅や境界線があるわけではありません。これは、禿げ頭と禿げ頭でないとの区別や、山と丘の区別や、大人と子供の区別や、その他きわめて多くの場合に同じ扱い方をしているから反省してみれば誰でもすぐに判ることです。大人と子供の区別にしても、映画館や交通機関では肉体的な成長という面から境界線を決めて、中学生になると大人の料金を取りますが、刑法では精神的な成長という面から境界線を決めるから、満十八歳にならなければ大人ではありません。近似的に扱うというと何か正確さを欠いているような気がして、不安になる人たちもあるでしょうが、実践的に必要とする限りに於いて近似的に扱うという点では、π(円周率)の扱い方と色の幅の扱い方とは似たところがあります。オモチャの木の車を作るには 3.14 で足りるが、ジェット機のエンジンの設計には 3.146 が使われるように、私たち大衆の色合いの区別と染色の専門家の色合いの区別とは、色の幅の取り方が違っています。私たちは青の中にもコバルトとかプルシァンブリューとかインディゴとか幾つかの区別を与え、また青と緑とは別の色として区別するが、青も緑も同じく「青い」と捉える人もないではありません。小学唱歌に「ピイピイとさえずるひばり、さえずりやんでどこかへおちた、青い青い麦の中か、すがたかくれて見えないひばり。」とありますが、これは子供の色の幅の発想で書かれています。

このように、ある色の幅を設定して、その中での色合いがそれぞれ違っていることを知りながら、そのことを無視して同じ種類として取り上げるところに、すでに抽象が行われています。対象の感性的な在り方を捉えながらそれを捨象するという、認識活動の特徴が既に示されています。【抽象が同時に捨象を伴うというのも一つの矛盾です】。染色の専門家が色の幅を狭くして橙に近い赤から紫に近い赤までを十にも二十にも区別したとしても、それらが幅を持っていることは変わりありませんし、幅の中の色合いが捨象されることも変わりありません。

リンゴやニンジンの色合いは、その感性的な在り方が変わらないし、捨象される色合いの違いも小さいですが、動物や人間の生活になると、その感性的な在り方が常に変化しているし、捨象される違いも非常に大きくなるために、言語表現における認識活動の特徴ももっとはっきりしてきます。たとえば、今日の私は昨日の私と違った服装をしています。赤ん坊の時の私と現在の私とは、肉体的にも精神的にも非常に大きな違いがあります。これらの違いがあるにも拘わらず、どれも皆同じ私であって、赤ん坊の時呼ばれたのと同じ名前で呼ばれれば、やはり同じように返事しなければなりません。固有名詞は、【これらの違いを捨象して同じ個人として捉える】場合に使用される表現に他なりません。また、私と隣りの家の娘さんとは、年齢も違えば性も違い、職業も服装も違っているけれども、それにも拘わらず人間としては同じであって、あなたは人間ですかそれとも違いますかと質問されれば、私も娘さんも同じように人間だと答えるに違いないのです。

私たちは結婚したり養子になったりすると、姓が変わることを経験しています。昨日までは木村だったのが、今日からは川島と呼ばれたりしています。これは何も感性的な変化からくるものではなく、役所へ届けを出しさえすればそれで変わるのです。ではこの場合、現実の人間として何が変わったのかといえば、【家族関係が変わった】のです。家族関係は、目に見える感性的な人間の結んでいる関係ですが、関係そのものは目に見えるものではなく、超感性的です。ある個人が、それまで所属していた家族との関係を絶って、他の個人あるいは家族との関係をつくり出したとき、この関係の変化に対応してその姓が変わります。

以上に述べたことを、対象の捉え方として考えてみましょう。赤ん坊の時の私も現在の私も個人としては同一であり、私も隣の家の娘さんも生物としては同じ人間と呼ばれる種類に属すのであり、結婚したり養子になったりすることは家族という血縁的な人間の種類に於ける変化です。色合いに於いても、対象をどんな色の種類に属すのかという捉え方をしていました。このように、対象の持つ感性的な違いを無視して、その【種類としての面を捉える】ことが言語表現の特徴なのです。■

コメント(1)

【種類としての面を捉える】というのは対象の持つ普遍性、一般性を概念として抽象するということになります。■

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