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言語学コミュの「が」と「は」の使いわけ 事例(1)

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  日本語文法についての質問です。
  「当時理系の学生だった私 が/は 思い切って自分の専攻を社会学に変えることを決めた。」
 
 この文はどうして「が」が使えないのですか?//
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/10869549.html

 
 この質問に対し、次のような回答にならない回答が示されています。

 No.7
 回答者: nwsaburoo 回答日時:2018/12/13 22:37
 「は」と「が」の問題ですね。
 詳しく議論しようとすると大変なので、とりあえず、かんたんに書きます。
 結論から書くと、「「が」が使えない」のは「私」だからです。
 動詞文では、「が」の文と「は」の文の対立は、「無題文:有題文」の対立となります。
 無題文の中でも、単純な描写・報告を表す文では、「私」は使いにくいのです。//


 なかなか興味深い質問だけど、答えるのは非常にむずかしい。
 「ハ」と「ガ」に関しては下記くらいの解釈が一般的。
 【排他の「が」】
 https://yousei.arc-academy.net/manbow/index.php/term/detail/1012
 しかし今回のような質問には、「ハ」は主題提示とか「ガ」は排他と考えても解決しないだろう。まして、ハは特殊性の認識ウンヌンなどとあちこちの質問サイトでクダクダ繰り返されている念仏を唱えても何もわからない。
 複文構造の中の「ハ」と「ガ」の役割について考える必要があるだろう。//
https://ameblo.jp/kuroracco/entry-12425515514.html

 当方の回答も不十分なので詳しく検討、説明しておきたい。

 「当時理系の学生だった私 が/は 思い切って自分の専攻を社会学に変えることを決めた。」

では、「自分の専攻を社会学に変えることを決めた。」と私である自分の特殊性について語っているのであるから、「私」についての特殊性の判断を表す副助詞「は」でなければなりません。

私個人の特別な個別性について、「自分の専攻を社会学に変えることを決めたのは、」と続くのであれば、個別性の判断を表す「が」を用い、

「当時理系の学生だった私【が】 思い切って自分の専攻を社会学に変えることを決めたのは、私の興味が社会の動きに移ったためです。」

のようになります。他の回答にあるような、「「が」が使えない」のは「私」だからでもなく、「複文構造の中の「ハ」と「ガ」の役割について考える必要がある」のでもありません。

「は」と「が」の意義の相違に基づき、「私」のどのような側面を取上げるのかの判断の相違により使い分けなければならないということです。

副助詞「は」は特殊性の判断を表し、格助詞「が」は個別性の判断を表します。この助詞の意義の相違に基づき使い分けられているということです。

この話者の判断の相違を捉えられずに、単に「私」という形式や構文での役割などという結果としての機能ではなく、話者が対象のどの側面について認識し表現するのかという判断の相違を捉えなければ「は」と「が」の相違を論ずることはできません。■

コメント(89)

>>[38]

>だから、最初から特殊性の判断を表すと言っておるのじゃが????

いやですから、語は表しません。「は」は判断辞ではありません。







改めて言いますが、

>副助詞「は」は特殊性の判断を表し

まったく誤りです。

副助詞と呼ばれる「は」が判断を表すのであれば、「は」は判断辞になり、「だ」や「ない」などと同じ種類の辞となってしまいます。

>(三浦、認識と言語の理論2、1967年、483ページ) 限定ということが特殊性を意味する

副助詞と呼ばれるものは限定辞で、判断を表しません。限定を表します。限定辞は判断を表す【ために使う語です。】判断を表すのは話し手です。






それと、あなたは正しくなかったので、君呼ばわりとため口を謝罪してもらえませんか?
>>[55]

>>副助詞と呼ばれる「は」が判断を表すのであれば、「は」は判断辞になり、「だ」や「ない」などと同じ種類の辞となってしまいます。

いいえ。全くの誤りです。
根拠は下記の通りです。


三浦つとむ『認識と言語の理論 第二部』 p.474

 われわれは「犬」と「猫」とのちがいを意識して使っているが、「が」と「は」とのちがいは特別に意識しているわけではない。ただ経験的に、なんとなく「それに対して一定の陳述をなさずしてはこれらの結末がつかぬ」ような気もちになって、使っているわけである。マルクスの言葉にあるように、「彼らはそれを意識していないが、しかし彼らはかく行うのである。」

何がそういう気もちにさせるのか、それにはやはりそれだけの根拠がなければならぬはずである。それは主体的表現に関する選択であるだけに、その根拠は認識の特殊な範囲にあるであろうことも、大体見当がつくのである。時枝もいうように、陳述の本質は肯定判断であるとするならば、「が」と「は」とのちがいも判断のありかたのちがいに根拠があるのではあるまいか、そして係助詞といわれるものは判断のありかたと関係があるからこそ陳述すなわち判断にむすびつくのではあるまいか、と推理することは、むしろ当然のなりゆきであろう。

 この係助詞の問題は、山田にあっては上の係助詞が下の陳述に関与し陳述を支配するものとして、助詞の機能が上から下に及ぶものとして説明されて来たけれども、時枝の辞の機能の説明はこれと逆になっていて、助詞はその上にある主体的表現を「包む」ものだというのであるから、下へのむすびつきは存在しないことになり、そもそも機能論的に相いれないわけである。言語はすべて空気の振動あるいは紙の上の描線のような物質的なかたちに表現されている。表現そのものが陳述の「力を持つ」とか、他の表現がこれを「支配する」とか説明するのは、一種のフェティシズムにほかならない、それは、認識の構造として説明すべきことを、表現相互の関係に変えて説明することであり、その間に相対的な独立を認めながら正しく区別すべき認識のありかたと表現のありかたとを、いっしょくたにしてしまうことである。時枝は山田のこの考えかたを「構成主義的考方」とよんで批判したけれども、自分の「包む」という解釈をも反省し克服することなしには、山田の係助詞の説明を批判して正しい解決を与えることは不可能だったのである。//

それと、あなたは正しくなかったので、これまでの珍説の羅列を謝罪してもらえませんか?
(〇〇物陳列罪)
>>[56]

いやですから、長文のコピペではなく、私のように、あなたの言葉で短くまとめて説明してください。答えを知っている人間が自分の言葉で短くまとめて説明できないということはありえません。長文のコピペは猿でも嘘つきでも小池百合子できます笑い。例えば、大学のゼミの発表で本の丸写しの長文をだらだら言ったら、教授に怒られますよ。






改めて言いますが、

>副助詞「は」は特殊性の判断を表し

まったく誤りです。

副助詞と呼ばれる「は」が判断を表すのであれば、「は」は判断辞になり、「だ」や「ない」などと同じ種類の辞となってしまいます。

>(三浦、認識と言語の理論2、1967年、483ページ) 限定ということが特殊性を意味する

副助詞と呼ばれるものは限定辞で、判断を表しません。限定を表します。限定辞は判断を表す【ために使う語です。】判断を表すのは話し手です。






それと、あなたは正しくなかったので、君呼ばわりとため口を謝罪してもらえませんか?
>>[68]

>>長文のコピペは猿でも嘘つきでも小池百合子できます笑い。

( ̄∇ ̄;)ハッハッハ

長文のコピペを読んでその内容を理解できないようでは猿以下、小池小百合以下ということですね!!!!!!

ま、その程度のレベルでは何を言っても無駄なので好きにして下さい。 藁!
( ´∀` )


>>[69]

確認ですが、

>(三浦、認識と言語の理論2、1967年、483ページ) 限定ということが特殊【性】を意味する

「特殊性」と「特殊的判断」は別物なのは理解できていますか?三浦は「は」は「特殊的判断」を表すとは言っていないのですよ。判断を表すために判断を表す語を使う場合と、使わない場合があります。例えば、

・花子は医者「だ」。→肯定判断に、肯定判断辞を使う。
・大学に行か「ない」。→否定判断に、否定判断辞を使う。

しかし、

・私「が」話す。→個別的判断に、詞格辞を使う。
・太郎「は」走る→特殊的判断に、限定辞を使う。

後者は判断を表すのに、判断辞を使いません。ここをあなたは理解できていません。単純に前者のように考えてしまいます。このからくりをいい加減、理解してください。言語学の発展のために何十回も言っているのですが。






改めて言いますが、

>副助詞「は」は特殊性の判断を表し

まったく誤りです。

副助詞と呼ばれる「は」が判断を表すのであれば、「は」は判断辞になり、「だ」や「ない」などと同じ種類の辞となってしまいます。

>(三浦、認識と言語の理論2、1967年、483ページ) 限定ということが特殊性を意味する

副助詞と呼ばれるものは限定辞で、判断を表しません。限定を表します。限定辞は判断を表す【ために使う語です。】判断を表すのは話し手です。






それと、あなたは正しくなかったので、君呼ばわりとため口を謝罪してもらえませんか?

>>[69]

文法学の発展のためにも、「は」と「が」の私の正体説明を何度も繰り返し読んでもらってもいいですか?





確認ですが、

>(三浦、認識と言語の理論2、1967年、483ページ) 限定ということが特殊【性】を意味する

「特殊性」と「特殊的判断」は別物なのは理解できていますか?三浦は「は」は「特殊的判断」を表すとは言っていないのですよ。判断を表すために判断を表す語を使う場合と、使わない場合があります。例えば、

・花子は医者「だ」。→肯定判断に、肯定判断辞を使う。
・大学に行か「ない」。→否定判断に、否定判断辞を使う。

しかし、

・私「が」話す。→個別的判断に、詞格辞を使う。
・太郎「は」走る→特殊的判断に、限定辞を使う。

後者は判断を表すのに、判断辞を使いません。ここをあなたは理解できていません。単純に前者のように考えてしまいます。このカラクリをいい加減、理解してください。言語学の発展のために何十回も言っているのですが。






改めて言いますが、

>副助詞「は」は特殊性の判断を表し

まったく誤りです。

副助詞と呼ばれる「は」が判断を表すのであれば、「は」は判断辞になり、「だ」や「ない」などと同じ種類の辞となってしまいます。

>(三浦、認識と言語の理論2、1967年、483ページ) 限定ということが特殊性を意味する

副助詞と呼ばれるものは限定辞で、判断を表しません。限定を表します。限定辞は判断を表す【ために使う語です。】判断を表すのは話し手です。






それと、あなたは正しくなかったので、君呼ばわりとため口を謝罪してもらえませんか?
>>[72]

>>文法学の発展のためにも、「は」と「が」の私の正体説明を何度も繰り返し読んでもらってもいいですか?

幽霊の正体見たり枯爺い!!

糞の蓋にもならない妄想には全く読む価値がありません!!

あなたは根本的に誤っているので、しつこく妄想を並べるのを止め、これまでの誤りを心から謝罪してもらえませんか!!!!
>>[73]

>あなたは根本的に誤っているので、

いいえ。






改めて言いますが、

>副助詞「は」は特殊性の判断を表し

誤読です。

>(三浦、認識と言語の理論2、1967年、483ページ) 限定ということが特殊【性】を意味する

「特殊性」と「特殊的判断」は別物なのです。三浦は「は」は「特殊的判断」を表すとは言っていないのですよ。判断を表すために判断を表す語を使う場合と、使わない場合があります。例えば、

・花子は医者「だ」。→肯定判断に、肯定判断辞を使う。
・大学に行か「ない」。→否定判断に、否定判断辞を使う。

しかし、

・私「が」話す。→個別的判断に、詞格辞を使う。
・太郎「は」走る→特殊的判断に、限定辞を使う。

後者は判断を表すのに、判断辞を使いません。ここをあなたは理解できていません。単純に前者のように考えてしまいます。










それと、あなたは正しくなかったので、君呼ばわりとため口を謝罪してもらえませんか?
>>[77]

>>あなたは正しくなかった

君が正しいと信ずる論理をきちんとTopiとして展開して下さい。

大いに期待しています!!!!

珍説を並べ、逃げ回るのはみっともないので芳子さんです!!!!

それくらいの判断力が君にはありませんか????
>>[77]

君は下記の質問にどのように答えるのですか??

君の珍説に自身があるのなら是非、それにより回答を展開して下さい。

大いに期待しています。


「今日は何の授業がありましたか」
外国の友達が“今日何を授業はありましたか“と言っていたのですが、この間違えを正すときどのように説明すれば良いですか?
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12296735227
>>[79]

>君が正しいと信ずる論理をきちんとTopiとして展開して下さい。

いやですから、ここで展開しています。






改めて言いますが、

>副助詞「は」は特殊性の判断を表し

誤読です。

>(三浦、認識と言語の理論2、1967年、483ページ) 限定ということが特殊【性】を意味する

「特殊性」と「特殊的判断」は別物なのです。三浦は「は」は「特殊的判断」を表すとは言っていないのですよ。判断を表すために判断を表す語を使う場合と、使わない場合があります。例えば、

・花子は医者「だ」。→肯定判断に、肯定判断辞を使う。
・大学に行か「ない」。→否定判断に、否定判断辞を使う。

しかし、

・私「が」話す。→個別的判断に、詞格辞を使う。
・太郎「は」走る→特殊的判断に、限定辞を使う。

後者は判断を表すのに、判断辞を使いません。ここをあなたは理解できていません。単純に前者のように考えてしまいます。










それと、あなたは正しくなかったので、君呼ばわりを謝罪してもらえませんか?
>>[81]

>>三浦は「は」は「特殊的判断」を表すとは言っていないのですよ

全くの、単純な誤読です。

根拠は、以下です。


 自動車事故を目撃した人間が「自動車がひっくりかえった!」「人が死にかけている!」とさけんだときは、対象の個々のありかたをとりあげているのである。個別的な対象と属性とのむすびつきをとらえた、個別的判断が存在している。たとえ集団が存在していても、一人一人をつぎつぎと対象にして、「これが田中君で、これが木村君だ」というときは、個々の対象をとりあげているのでそれぞれ個別的判断である。

集団の存在が意識されてその中での位置づけとして「こちらは兄の子だが、これは私の子だ」と区別を与えているときには、それぞれ特殊的判断である。「父は尾張の露と消え、母は平家に捕えられ、兄は伊豆に流されて、おのれ一人は鞍馬山」とか「都々逸(どどいつ)は野暮でもやりくりは上手」とかいう区別も、特殊的判断である。

「生れては死ぬるなりけりおしなべて、釈迦も達磨も猫も杓子も」というときには、すべての生物に共通した普遍的なありかたをとりあげているので、もちろん普遍的判断である。このように、われわれはどんな判断かという自覚はないにしても、助詞を習慣的に使いわけているのであって、個別的な対象のときは「が」を使うが、特殊的判断や普遍的判断のときは「は」を使わないと何かおかしい感じがしてくる。
(『認識と言語の理論 第二部』 p.478 )


君は正しくなかったので、これまでの妄言の羅列を深く反省し、謝罪してもらえませんか?
>>[82]

まったく誤読です。

三浦は、「は」は判断のときに使うと言っていて、判断を表すとは言っていません。









改めて言いますが、

>副助詞「は」は特殊性の判断を表し

まったく誤りです。

>(三浦、認識と言語の理論2、1967年、483ページ) 限定ということが特殊【性】を意味する

限定=特殊性です。「特殊性」と「特殊的判断」は別物なのです。三浦は「は」は「特殊的判断」を表すとは言っていないのですよ。判断を表すために判断を表す語を使う場合と、使わない場合があります。例えば、

・花子は医者「だ」。→肯定判断に、肯定判断辞を使う。
・大学に行か「ない」。→否定判断に、否定判断辞を使う。

しかし、

・私「が」話す。→個別的判断に、詞格辞を使う。
・太郎「は」走る→特殊的判断に、限定辞を使う。

後者は判断を表すのに、判断辞を使いません。ここをあなたは理解できていません。単純に前者のように考えてしまいます。










それと、あなたは正しくなかったので、君呼ばわりを謝罪してもらえませんか?

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