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言語学コミュの否定の認識構造

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  花が咲かぬ。
  花が咲きません。

 これは、<否定の助動詞>「ぬ」による「花が咲く」という想定に対する否定の判断を表している。この否定表現の認識構造を三浦つとむは次のように解明している。

 否定判断は肯定判断に対応するものだから、肯定判断のかわりに否定判断を入れかえたものが話し手の認識構造だ、と誰しも考えがちなものです。しかし事実はちがいます。否定するには【否定する対象が必要です。】否定の前に対象が与えられていることを考えなければなりません。これは予想というかたちで観念的に与えられたり、過去の現実という形で前もって認識されていたりします。現実は、植木鉢の花はまだつぼみのままだとして、これをそのまま対象としてとりあげるかぎり、何らの否定判断もうまれません。これに対する話し手が、第31図のように「花が咲く」という観念的な対象を設定し予想するとき、はじめて「花が咲かぬ」という否定判断がうまれます。同じように、過去の現実には立派な花があったことを知っている話し手が現実の対象がそれとちがっていることを認識するときはじめて「花が見えない」という否定の判断がうまれます。したがって、これらの否定にあたっては、話し手はまず観念的な世界へ移行して一応それを肯定的に表現し、そこから現実へもどって「ぬ」「ん」「ない」と観念的な世界の対象を否定します。

 このように、<否定の助動詞>といわれるものは、それ自体話し手の判断の表現で、否定されるのはその上に表現された観念的な世界の対象のありかたです。否定判断の表現にあたって移行した世界そのものを否定しているわけではありません。移行した世界の【話し手の立場やこの否定判断そのものは話し手が肯定している】のです。それで図のように、「花が咲か」の下にも肯定判断が存在するのです。
 (三浦つとむ『日本語はどういう言語か』)

 時枝誠記は先のTopi(*)で指摘の通り、世界の二重化をとりあげられないために、

  行かず ……… 行か・ず ……… [行か]ず〕 ……… 行か+ず

と入子図化している。「匂いの高い花が咲いた」のような過去の助動詞「た」も

  [匂いの高い花が咲い]た〕

と「が」と「た」の総括機能を説く機能主義的な理解を提示している。

これは、時枝の言語観の欠陥として三浦が指摘している次の点の現れである。

 一. 言語の本質を「主体の概念作用」にあると考えたこと。
 二. 言語の「意味」を「主体の把握のしかたすなわち客体に対する意味作用そのもの」と考えたこと。
 三. 言語表現に伴う社会的な約束の認識と、それによる媒介過程が無視されていること。
 四. 認識を反映と見る立場が正しくつらぬかれていないこと。与えられた現実についての表現と、想像についての表現と区別およびその相互の関係がとりあげられていないこと。ここから、主体的立場の規定も混乱していること。
     (『日本語はどいういう言語か』)

特に、この四.の欠陥が時制、否定理解の誤りに直結していることが明白である。時枝の過程説の長所としては、

 一. 言語を過程的構造においてとりあげたこと。
 二. 語の根本的な分類として客体的表現と主体的表現の区別を採用したこと。
 三. 言語における二つの立場―主体的立場と客体的立場―の差別を問題にしたこと。
     (同上)

があげられるが、当初より、

  更に厳密に言えば、言語は「語ったり」「読んだり」する活動それ自体である。
                             (『国語学原論』)

という機能主義的な発想に依拠している点に本質的な限界を認めなければならない。このため、「詞が包まれるものであり、辞が包むものであるともいへる。」、「言語主体の立場に於いて見るならば、辞は客体界に対する言語主体の総括機能の表現であり、統一の表現であるということが出来る」(時枝誠記『国語学原論』)」という機能主義的な解釈の下に風呂敷型統一形式を提起し、世界の二重化をとりあげることができない結果になったものである。

 風呂敷型統一形式による入子図はこのような機能主義的な解釈ではなく、あくまで話者の認識の反映、対象と話し手との現実の統一の反映として反映論の立場を貫かなければ科学的な言語論とは言えません。

 *:「時枝誠記の入子図解釈に見る機能主義的誤り」
  https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2748&id=99204742








否定などの<助動詞>の認識構造について、三浦つとむは次のように述べています。

 われわれは、生活の必要から、直接与えられている対象を問題にするだけでなく、想像によって、直接与えられていない視野のかなたの世界をとりあげたり、過去の世界や未来の世界について考えたりしています。

直接与えられている対象に対するわれわれの位置や置かれている立場と同じような状態が、やはりそれらの想像の世界にあっても存在するわけです。観念的に二重化し、あるいは二重化した世界がさらに二重加するといった入子(いれこ)型の世界の中を、われわれは観念的な自己分裂によって分裂した自分になり、現実の自分としては動かなくてもあちらこちらに行ったり帰ったりしているのです。

(『日本語はどういう言語か』P205〜206)

コメント(10)

否定などの<助動詞>の認識構造について、三浦つとむは次のように述べています。

 われわれは、生活の必要から、直接与えられている対象を問題にするだけでなく、想像によって、直接与えられていない視野のかなたの世界をとりあげたり、過去の世界や未来の世界について考えたりしています。

直接与えられている対象に対するわれわれの位置や置かれている立場と同じような状態が、やはりそれらの想像の世界にあっても存在するわけです。観念的に二重化し、あるいは二重化した世界がさらに二重加するといった入子(いれこ)型の世界の中を、われわれは観念的な自己分裂によって分裂した自分になり、現実の自分としては動かなくてもあちらこちらに行ったり帰ったりしているのです。

(『日本語はどういう言語か』P205〜206)
>>[1]

>と入子図化している。

誤りです。

これは入れ子図化ではなく、風呂敷図です。入れ子図とは風呂敷図の重なりです。根拠はここです。

>(時枝、国語学原論、上、2007年、336ページ) 同次元に於いて入れ子型構造形式に統合されるものと、






>風呂敷型統一形式による入子図は

誤りです。

入れ子図は入れ子型構造形式です。根拠はここです。

>(時枝、国語学原論、上、2007年、336ページ) 同次元に於いて入れ子型構造形式に統合されるものと、
時枝は接尾語「めく」と比較し、「行かず」を上記の通り「行か+ず」とし、

 「ず」は独立しない点では、前例の「めく」と同じであるが、「行か」をその中に統合するのではなく、異次元の表現として、外からこれを総括しているのである。
 
と機能主義的な解釈をし、世界の二重化を取上げることができていません。■
なお、上記コメント、

[3] ブロッコリー
2024年05月16日 11:52

は、Topiとは全く無関係なので無視して下さい。

いくら削除ししても、ゴキブリのように湧いてきます!

(-_-メ)

>>[6]

>と入子図化している。

誤りです。

これは入れ子図化ではなく、風呂敷図です。入れ子図とは風呂敷図の重なりです。根拠はここです。

>(時枝、国語学原論、上、2007年、336ページ) 同次元に於いて入れ子型構造形式に統合されるものと、






>風呂敷型統一形式による入子図は

誤りです。

入れ子図は入れ子型構造形式です。根拠はここです。

>(時枝、国語学原論、上、2007年、336ページ) 同次元に於いて入れ子型構造形式に統合されるものと、
下記のような、素朴な疑問にきちんと説明することが大切です。


中学文法 【りんごだろう】の品詞分解について子供に教えようと思ったのですが。。。

個々なら「だ」は断定で、「う」は推量/意思と教えますが、
意味の異なるものがくっついて、【だろう】で推量になる。断定はどこにいってしまったのでしょうか?断定しないなら、【だろ】をとった方がむしろわかりやすいような気がします。(だろうを使うのが普通とわかってますが、文法的に考えていくとこんな疑問がわきます)

そもそも、【だ】の断定の未然形自体、矛盾してる。断定とまだしてないを表現する未然形が一緒になってるわけだし。。

日本語はこういうもんでしょうけど、どう納得したらいいのでしょうか?

【りんごだろう】の品詞分解
リンゴ・・名詞
だろ・・助動詞で断定だの未然形
う・・助動詞 推量の終止形
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10301304840?
>>[8]

>と入子図化している。

誤りです。

これは入れ子図化ではなく、風呂敷図です。入れ子図とは風呂敷図の重なりです。根拠はここです。

>(時枝、国語学原論、上、2007年、336ページ) 同次元に於いて入れ子型構造形式に統合されるものと、






>風呂敷型統一形式による入子図は

誤りです。

入れ子図は構造形式です。統一形式ではありません。根拠はここです。

>(時枝、国語学原論、上、2007年、336ページ) 同次元に於いて入れ子型構造形式に統合されるものと、
下記のような具体的な認識構造の展開がされていますので参照下さい。

 英文構造マンダラ
──観念的⾃⼰分裂理論の復権─
⼤ 橋 穣 ⼆ 著

https://kouzouzu.web.fc2.com/mandala/joshou.pdf?fbclid=IwY2xjawLe769leHRuA2FlbQIxMABicmlkETFscHVXS3RUd1QwdWY2dDdmAR5JHPYut7w45VxA4HgWtTfY3_DwEV4WesaTe7wibwXte1x5BBzqTPydaCFRVA_aem_yCmpBcE_w-CNYeQXokvdjw

※名詞⽂や形容詞⽂は「学⽣ではない」「若くはない」とも⾔えますし、その関係で学校⽂法ではそれらの「ない」は補助形容詞とされています。また同様に、名詞⽂の(「で」に続く)「ある」は補助動詞とされています。しかし、いずれも判断を表すという特殊性を持っていますので、本書では時枝や三浦に従って助動詞と考えておきます。
(12p末)

このように、⼈間は観念的な⾃⼰分裂によって架空の⾃分を作り出し、その「架空の⾃分」が「世界」から「世界」へと観念的に渡り歩いていきます。そして、⽇本語には、そのような過程的構造の⼤半が助動詞などの語として表現されるという特徴があります。この「⼈間の観念的な⾃⼰分裂」という考え⽅は、70年以上前に三浦つとむによって唱えられたものですが、残念なことに学界ではあまり評価されてはいないようです。しかし、これは極めて重要な⾒⽅であると考えられますので、本書では⽂構造分析の基本原理として活⽤していきます。(9P)

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