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北京波の新世紀映画水路コミュの「やわらかい生活」評

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『沖で待つ』で2006年度の第134回芥川賞を受賞した注目の女性作家・絲山秋子のデビュー作『イッツ・オンリー・トーク』を、「ヴァイブレータ」の廣木隆一監督、寺島しのぶ主演コンビで映画化。
下町でも山の手でもない町、蒲田を舞台に、35歳で一人暮らしのヒロインの何気ない日常を等身大で描く。
 一流大学から大手企業の総合職とキャリア街道を突き進み、仕事もプライベートも気を張りつめてがんばってきた橘優子。
しかし、両親と親友の突然の死をきっかけにうつ状態へと落ち込んでしまう。以来、躁鬱病を抱えて入退院を繰り返す優子は、やがてなんとなく居心地の良さを感じて東京の端っこ、蒲田へと引っ越してきた。
そんなある日、いとこの祥一が転がり込んでくる。
はじめは優子の躁と鬱の落差に戸惑う祥一だったが、それでも優子のためにと、かいがいしく世話を焼く。
その後も、優子の周りには不思議とダメ男たちが集まってくるようになり、優子の心も少しずつほぐれていくのだった。(ON LINE CINEMAより)



廣木隆一監督と寺島しのぶの顔合わせによる映画には『ヴァイブレータ』という傑作がある。
この映画についてボクは次のように書いたことがある。
長くはなるのだが、再録させていただきたい。

【 病める現代における愛の奇跡 魂の原点回帰の旅 】
映画『ヴァイブレータ』が心に染みた。
女は夜のコン・ビニに酒を買いに来て、ふと見かけたトラック・ドライバーに性的衝動を感じ、その波長が伝わったのか、2人は自然に体を重ねる。
「道連れにして」と女が言う。ロード・ムービーのスタイルを借りてはいるが、これは魂の原点に回帰していく旅である。
「(過食症で食べ吐きすると)3回おいしいのね。食べておいしい。(吐くことで)ヤセられておいしい。吐いた後グッスリ眠れておいしい」。
このセリフに、映画の核がある。

拒食症と過食症には大きな違いはなく、単なる同一の病態におけるステージの違いと考えられている。
ともに発症については母と娘の乳幼児期体験が大きい。
つまり乳幼児期に母性性欠如の状況におかれると、母子間の基本的信頼関係が形成・確立しない。
子供は甘え方も知らずに自律を促され、自我が発達せず思春期にいたる。そのためにストレスに極めて弱く、それが学校不適応、失恋、両親の離婚、死別、独居、仕事不適応など、既婚例では夫との不仲や家庭への不満などで噴出する。
ヤセはじめて体が小さくなると、潜在化していた乳幼児期に不足した母親の愛情を求め始める。
過食症では、体は小さいままでいたいと考えるが、食べたいものは食べたい。
性的衝動も同様で、拒食症の禁欲的に進んでいく傾向に対し、過食症では欲求に対しては非禁欲的となる。
そこで「食べても吐けば大丈夫、下剤を多く使えばやせられる」といった偏向したマス・コミ情報に飛びつき、重症化していく。
診療中に退行して幼児化が見られ、特に母親の愛情を求めることが知られている。

彼らは憔悴のあげくラブ・ホテルに泊まり一緒に入浴するが、女が「お母さん」と呟くのは、ここからきている。
女の苦しみを汲み取れる男がいて、それを感じとって本能的に甘えていく子供のような女がいる。
男女である以上「交情」が介在するが、女は男のなかの母性性をかぎ取り、無意識のうちにも、ひたすらに救済を求めていく。
安直に彼らが一緒に人生を歩むかの描写はないし、ラスト・シーンでも再会はないような別れ方をするが、それでも観客は主人公がある種立ち直ったことを確信する。
男の無限とも言うべき包容力こそは、神のそれに値することを観客は目の当りにしたからである。

“病める現代における愛の奇跡”を描いた優れた映画であった。(シネマ特診外来より)



 新作『やわらかい生活』では、状況はよりいっそう事態は深刻となっている。

というのは、『ヴァイブレータ』においてはヒロインは明らかに疾病を抱えていて、それだけに特殊な状態と言えたのだが、今回はヒロインは「躁鬱病」という病的な背景を背負うのだが、見ていてもわかるように、本作の彼女のそれは、一般人との境目はきわめて曖昧なものであり、登場する多くの男たちもまた多くの病的な屈折を背負い苦しんでいる。

あたかも、ここでの疾病は、当事者である彼らにとっては屈折には違いないのだが大いなる哀しみにはなりえていないようだ。

 この寺島しのぶには2つの死が現在の心理精神状態を考えるときにキー・ポイントとなる。

つまり「両親の焼死」と「大学の同級生であった同姓の友人の事故死」である。ただし、興味深いのは、それらの死を「阪神淡路大震災」と「ニュー・ヨーク9・11」で亡くなったことにシチュエーションを変貌させている点である。

また、それに加えて、両親の法要のために帰郷した寺島が法事の席で「自分は精神科に通院や入院の治療中で、親戚の親切なご婦人方が結婚のすすめをしてくれたが、こんな私でもよければよろしく」と、スピーチするところにヒントがある。

まず不幸な偶発的な死に誰もが知っている劇的なシチュエーションを加える行為は、おそらく「PTSD:外傷後ストレス障害」が社会的に認知されてきたこともあるのだが、彼女が彼女の考える世間一般のしがらみを断つために行っていることである。

たとえば惨事ストレスから立ち直るために多くの医師が進めている対処にはいろいろあるが、なかでも見守ってくれる家族や同僚、友人たちとの絆を大事にするという方針の対極に位置する行為である。

 ここからボクは、主人公が田舎の高校のまじめな生徒で、両親の庇護の下、期待を裏切らないように勉強して早稲田に入ったが、まもなく両親の突然の死によって、その努力や精進の評価軸=両親を失うことでぐらつきを生じたと考えた。

また、早稲田に出会った同性の級友の圧倒的な行動力や個性の前に影響を受けていた彼女が、同じく友の突然の死によって方向性や選択への不安を生じ、また生命の無常にも関係したのかもしれないが、彼女のアイデンティティを大いに動揺させる2件3人の死に余人では考えられない衝撃を受けたのだろう。

しかし、それでも一個の人間である彼女の揺れるアイデンティティは、それだけで崩れることを良しとせず、納得できる理由をレイズしたと考える。

 つまり、これほどの目に遭ったのだから「これは仕様がないことだ」だから「通り一遍の励ましや忠告は要らぬお世話よ」という自分と他人に対する理論武装にすり替えているのである。

また両親の保険金によって働かなくとも暮らしていける状況であることが、そのすり替えを促進させたのだろう。

そのことのいびつさを誰よりもわかっているからこそ、彼女は自分の本性を露呈させねばならない相手とは密に接触しない。

「なぁんだ、あんまり大した疵じゃないじゃないか」とまで言われた胸のやけどの疵は、彼女のアイデンティティを護るために銭湯では大きなタオルでくるまって入浴する際の好適な理由になる。

 彼女が「ここだ」と思って移り住んだ蒲田は彼女の言うとおり“粋のない下町”で、それはつまり下町特有のぬくもりは求めるけれども、人情たっぷりの下町の人間関係は欲していないということにほかならないだろう。

 彼女が責任のない関わりを求めてインターネットで展開している蒲田写真散歩は、これだけをみても“鬱病”では出来ない行動である。また映画のなかで最も面白くみたシーンについて述べておかねばならない。

 それはインターネットで連絡をとってきた妻夫木聡扮する鬱病のやくざとのものであった。ここで彼らは居酒屋に入るが、そこでお互いを確かめ合うように自分たちが処方され内服している薬剤を自己紹介のように述べ合うのである。

この内服歴の披講は、それだけで彼らふたりの間に安らぎを生じさせたであろう。それほどに処方されている内容も、躁鬱病のみならず、パニック障害や境界型人格障害などを頷かせるものである。

(ここからは、ネタバレ。鑑賞前には読まないで、ね)

 この映画のいちばん面白いところは病気を抱えているからといって、本質はなんにも変わっちゃいない。傷つきやすく、迷いやすく、どっこい生きてるんだ・・・と作者たちの視線を感じさせるところである。

そして主人公がいとこのぐうたらな豊川悦司の子供のようなやさしさのなかに惹かれ、後ろ向きの生活から前に踏み出すきっかけにするところなのである。

それだけに安直に豊川の死が語られるラストには大いに不満が残る。これだけサスペンスとして引っ張ったのなら、どんなに見苦しくとも死ぬ以外の結末を迎えさせてやって欲しかったと思う。

なにより、この電話で豊川の死を寺島のせりふだけで知らしめるシーンは、脚本上もそうなっているのか分からないが、それまでの抜群の浮遊感覚溢れる演出の巧緻性に比べると、信じられないほど安直で通俗的な印象を残すもので、容易には納得できかねる。

それでも、この映画の面白さの前には、本当なら許しがたい展開も、肯定的な感情をいまは優先したい。
(★★★☆☆☆)

しかし、この映画・・・いい映画だねぇ。
「現在」の映画だよ。寺島しのぶカッコいいなぁ。
こんな惨めなヒロインを演じられる女優がほかにはいないなぁ。

この何もない孤独感・・・まさに現代だよなぁ。こういう建設的とか、切磋琢磨とか、努力とか、通常の美徳に完全に背中を向けた映画なのに、こころの奥深いところにしみじみと伝わってくる映画って好きですよ。

しかし、こういう声も聞こえてくる気がする。

「あんた、いつからそんなに器用な人間になっちゃたのさ」

いえいえ、そんな素振りをしているだけだよ。

コメント(4)

はじめまして。
先週見てきました。
ラストには同様の感想でした。

が、やっぱり見てきた後、なんだか気持ちよかったです。
リトル☆ミイさん、はじめまして。
コメントありがとうございます。
寺島しのぶ…素晴らしかったですね。
でもやっぱりすぐに殺しちゃいけませんね。
そこは残念でした。
またよろしくお願いします。
久しぶりにお邪魔します。

私もあのラストはちょっと???でした。
それまでが、いい感じですすんでいたので、アレ?という感じでした。

豊川悦司と寺島しのぶが“いとこ”なのに、そういう関係が私には、ちょっと理解しがたかったです。

でも、寺島しのぶも豊川悦司もとてもよかったです。
>アイリーンさん

お帰りなさいませ。
ホントにね、感想は至極当然ですよ。

いとこだけど、彼女にとっては近くに男がいなかったのでしょう。
母親が死んで傷ついて震えているような対象の男が。

たぶん基本的に自分のために何かをするという方針に慣れていないのでは?
EDとなって傷ついている友達には身を投げ出せるのに、好きだと言って自分を認めてくれる友人にはいつまでたっても友人でしかない。

でも、現代、こういう人が多いとは言いませんが、この両極端の人は少なからずいますねぇ。

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