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北京波の新世紀映画水路コミュの第3回「ロケ地探訪ツアー」江東・深川スペシャル(1)

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【 御徒町駅 】を後にしたボクたちの車は、【 秋葉原 】を通過した。

≪★1≫『電車男』の舞台でもある秋葉原は有名な電気商店街だが、最近ではヲタク関係のメッカとしての別の顔がある。通過しているだけでも、ヲタクファッションに身を包んだ20〜40歳台の男性たちが闊歩していた。

あの丸石電機前の四つ角の真ん中に立って友人と抱き合う記念撮影をしたい衝動にもかられたが、これからの予定が詰まっているために断念。隅田川周辺の橋と作品については過去のロケ地探訪ツアーで触れたために今回は割愛。ひたすら深川周辺にむかう。

【 深川1丁目 】には道路沿いに、知らなければ通りすぎてしまうくらいささやかな二つの記念碑が建っている。

【 松尾芭蕉・芭蕉庵跡 】と100mも離れていないところに【 小津安二郎誕生の地 】のふたつの歴史的碑が隣接しているのは感動的でさえあった。

特に芭蕉庵は「奥の細道」紀行の出発点としてボクには重要な重みがある。(映画には関係ないので泣く泣く割愛)

小津安二郎は1903年12月12日に東京市深川区万年町(現深川1・2丁目)の肥料問屋「湯浅屋」の大番頭の次男として生まれている。

2歳のときに同区亀住町7番地(現深川1・2丁目)に転居。この碑はその自宅跡近くに建っているのである。10歳のときに小津家の郷里である三重県に転居する。

20歳のときに再び上京。懐かしい深川区和倉町(現冬木町辺り)に住み、松竹蒲田撮影所に撮影助手として就職するが関東大震災にて焼け出され、大正13年からは亀住町2番地の新築に移ったとある。

というほど、深川・江東と小津には深い縁がある。そのために画期的な施設が出来ているのである。


【 江東区古石場文化センター 】

正確な住所を記載すれば 江東区古石場2−13−2 である。このなかのホール「江東シネマプラザ」を使って,[シネマ倶楽部]が毎月1回開かれ、とくにこの場所は小津安二郎の生誕した深川に近いということもあり、小津作品の資料を常設展示するなど、力を入れている。

訪れてみると玄関から処狭しと小津作品のポスターが展示されている。それもB全(B1)、半裁(B2),立看(B2を上下に2枚)、3シート、4シート、6シート、8シートとバリエーションに富み、純正、地方版、リバイバル版と大変に豊かなライン・アップである。


≪ 脱線・映画ポスターについて ≫

このB1,B2、立て看は劇場の内外のショー・ウインドーに貼付され使用されたわけだが、これ以外の大型ポスターは、劇場前の大看板や駅頭の大看板に使用された。

B1というものが本来のポスターの基本サイズなのだが、長く日本では、この半分のサイズを映画ポスターの基本に据えた。であるためにB2をB1の半分であるために「半裁」と呼び、これを基本に逆算してB1を「B全」
と呼んでいる。

しかし、最近の興行がなんといってもシネ・コン中心であるため、場内のディスプレイがB全サイズであるために、この「半裁」は肩身が狭い。おそらく、近い将来「半裁」は姿を消し「B全」だけに淘汰される運命にある。

あと明記しておきたいものにスピードと呼ばれるものがある。これは「半裁」を縦に切ったもので、その意味で言えば「4分の1裁」であるが、これは「半裁」を縦に重ねる「立看」の縮刷版である。

会社によってはスピードの裏側は映画説明になっており、プレス・シートの役割を果たしている。本来のプレス・シートは「半裁」の横半分を2つ折にしている。広げれば「半裁」の絵柄だが、昔のプレス・シートにはさまざまな情報が刷り込まれている。

いろいろな映画館で入場者にタダで配るチラシ用の縦書き、横書きの作品ロゴや、作品のプロダクション・ノート、梗概、スタッフ・キャスト、そして休憩時間に次週上映作品の説明に使用するアナウンスの科白まで入っている、万能の虎の巻なのである。

当時でも繁華街などの流行っている小屋の主流派は絵看板であるが、そういう宣伝方法をもたない零細映画館や短期公開では、もっぱらこういうものを使ったのであろう。

それにしても紙質が分厚くて良過ぎるのではないか。フランス製の駅頭用の大ポスターなどはぺらぺらの極薄で、貼ったあとに、この表からも糊を塗る前提で完璧な消耗品なのである。

この展示品などのポスターは紙質が分厚く重たいがゆえに50年の月日を生き延びたとも言えるだろう。

展示品ポスターのなかでは『小早川家の秋』の8シートポスターの偉容とデザインの良さ、『秋刀魚の味』の3シートポスター、『お茶漬けの味』のB1ポスターの臙脂色の実に上品なことに目を奪われた。

余談だが、映画ポスター・ファンにとっては多く純正のみが興味の対象となるのだが、ボクは少しばかり違う。その時代の感覚が出ていれば善しなのだ。

総体にリバイバル版はオリジナル版に比べるとデザイン的にはパワーがない。また初公開からさほど日にちを経ずして再公開されるときにはデザインがほとんど同じ場合があり一瞬わからない。だが惹句に「あの○○がかえってきた」とか「不朽の傑作」とか入っていればリバイバル版である。

またリバイバルのときに出演者が大きくスターになっていれば扱いが違う。1973年の『荒野の七人』では人気爆発していたチャールズ・ブロンスンの鼻の下にトレード・マークのヒゲが描き加えられた。

また1971年の『大脱走』のポスターではブロンスンの顔が大きくスペースを占めるようになった。(ブロンスンは1968年の『さらば友よ』で注目され、1970年の『雨の訪問者』『狼の挽歌』で50歳を超えてブレイクした遅咲きのスターだったのだ)

で、この「江東シネマ倶楽部」の会報によれば、『小早川家の秋』公開時に東宝がどれほどの宣材を用意したかを説明しているからご紹介しておく。

1) 製作開始グラビア2色ポスター
2) 小津安二郎監督作和歌入り色紙
3) 出演スターサイン入りのれん
4) 幟
5) マッチ
6) 8シートポスター
7) 団体動員用票券   (以上、作製済み)
8) 十六大スターポスター
9) グラビア・チラシ
10) 美麗パンフレット
11) 劇場装飾用ちょうちん
12) アンケート壁新聞
13) 典雅しおり
14) 捨てばり
15) 試写会招待状
16) うちわ       (以上、作製予定)
と、あった。

小津監督を招いての初の東宝作品なればこそ、力が入ったわけだ。

もはや若い人は知らないことだが、この頃は五社協定というものがあり、俳優・女優は所属会社以外の映画には出られなかった。

そこで、小津は『彼岸花』で大映から山本富士子を借りたお返しに大映で『浮草』を演出。『秋日和』で東宝から原節子、司葉子を借りたお返しに東宝で『小早川家の秋』を演出したわけである。

ちなみに16大スターとは原節子、中村雁治郎、小林桂樹、新珠三千代、司葉子、森繁久弥、山茶花究、藤木悠、団令子、浪花千栄子、加東大介、笠智衆、望月優子、宝田明、杉村春子、白川由美である。(脱線・映画ポスターについて、ここまで)

 
この古石場文化センターは江東と言う土地と密接な関係のある邦画にこだわり、かつ、その象徴としての小津安二郎にこだわった文化施設を目指している。

定期的に展覧内容は変更しているらしいが、当日訪れると開かれていた展示は小津作品の映画資料の貴重なアイテムがびっしりと並べられていた。

会場入り口の30種類に及ぶポスターは序の口であった。なかでもボクがいちばん感心したのは小津の自筆による母堂・あさゑさんの肖像画である。また家族全員で写した集合写真もあり、『麦秋』の家族写真にだぶるものであった。

 この地・江東と密接な関係のある映画には数本ある。

《★2》『風の中の牝鶏』は小津作品のなかでは作風が違うこと、強い主張を押し出していることから余り評価は高くない。だが、DVDで見直してみると、これは重要な意味あいを持っている。2004年1月下旬号から作品紹介を兼ねて再録してみよう。

小津安二郎作品 『風の中の牝鶏』A Hen In The Wind  DVD  
☆長い間小津の失敗作であると聞かされ続けた作品である。およそ東京に住んでいる人間以外で、こういう映画を実際に目にする機会に恵まれたファンは少ないだろう。DVDの恩恵のひとつと考えていいものだろう。
 
[シンガポールでの経験] 小津は『父ありき』のあと軍部の要請で戦意高揚映画を撮るという目的でシンガポールに出向く。

結局1本も撮ることなく終戦を迎えるのであるからポーズだけであると考えられているのだが、小津は終戦後企画立案から撮影開始まで2週間という短期間で『長屋紳士録』を完成させる。

しかしこれは戦前に撮っていた喜八ものに属する手馴れたパターンの作品であり、今考えると5年間のブランクを経て演出の勘がどうなっているのかを確かめたといってもよい映画だ。それだけに実質戦後第1作として選んだこの映画だからこそ、興味が湧くのである。

夫(佐野周二)の復員をひたすら待ちわびている妻(田中絹代)が戦後の混乱のなかで息子の病気の治療費のために身を裂く思いで1回だけ春をひさぐ。まもなく復員した夫は、その事実を知り苦悩する。簡単にいえば、それだけのストーリーである。

しかし、何故この映画が失敗作と処理され、小津自身もそういった旨の発言を肯定したのかといえば、この映画が切実さや今日性において際立っていることがまず挙げられよう。

戦前までの倫理から言えば、春をひさいだ田中の行動には弁護の余地がない。

『風の中の牝鶏』を語るとき、また、見た観客すべてを戦慄させる衝撃的な場面として2階から1階まで頭から後ろ向きに田中を佐野が転落させるシーンを無視するわけにはいかない。

だが、観客はこの階段のシーンのあまりの衝撃ゆえに、【この映画=階段落ち】という捉え方を顕性化せずにはいられない。

それほどに、いま見てもショッキングなシーンであり、当時いかばかりであったかを思わずにはいられない。

[父ありき] ボクの父は応召し、ビルマを中心に軍医少尉として軍隊生活を送った。その父が懐かしく語ったことがある。

それはシンガポールに休暇で赴いた父が、現地のバナナがあまりに美味であったために過食して、その挙句に腸チフスに罹患し、完治までシンガポールの病院に入院する破目となったときのこと。

兵隊ではなかったし、軍医ということで扱いが違い、毎晩のように英軍が置いて逃げた英語映画を庭で見たというのだ。

余談だがボクの父は若いときから映画好きで、京都で浪人生活を送っていたときにまだブレイク前の黒川弥太郎に汽車のなかで同席。黒川に役者になれないかと(冗談だろうが)相談したという。

すると黒川が(自分の頬っぺたをさすりながら)「兄さん、こんなんでも売れまへんねんで。」といなしたと言う。

黒川弥太郎の若いときなら、匂い立つような美男だったはず。よく黒川が出てくるたびに語っていたものだ。

「シンガポールで、どんな映画見たん?」
「そやな、『風と共に去りぬ』やろ、ゲーリー・クーパーの西部劇(『西部の男』と思われる)、『哀愁』やったか『心の旅路』やったか、あんなやつやな。『ファンタジア』もあったな。そやそや、泣けて泣けてしょうがなかった映画で『わが谷は緑なりき』もあったぞ」

[他作品との関連]
 長々と死んだ親父の話をしたのには理由がある。それは小津安二郎もまたシンガポールで親父が見た映画を貪るように見ていたと語っているからだ。

とくに階段を落ちるというエピソードにおいて、シンガポールでの作品中『風と共に去りぬ』での主人公スカーレット・オハラがレット・バトラーともみ合って階段から転落するシーンの存在は無視できない。

親父はしみじみと『風と共に去りぬ』の圧倒的なスケールに、見ていた将官らが言葉を失ったと言っていた。(もっともショックだったのは『ファンタジア』の総天然色アニメーションの空前絶後の完成度で、この2本をはじめ、カラー映画は兵隊には見せてはならないと思ったという。)

また、今回初めて見たボクは、昨年見た豊田四郎の最高作品と思しい『暗夜行路』が頭にちらついて仕様がなかった。

妻の不貞・不倫という一点のみを捉えれば、この重苦しい主題は同一である。

また言うまでもなく『暗夜行路』は小津が敬慕してやまない志賀直哉の代表作であり、オリジナル脚本でありながら、小津作品中『風の中の牝鶏』ほど他の作品のインスパイアを指摘できる映画は稀有といえよう。

[時任謙作との違い] 
『暗夜行路』の主人公・時任謙作はなかば強姦に近いかたちで妻が遠い親戚にあたる青年に関係を結ばれたことになったことに悩み抜く。

それ以前の、少女時代からの妻と青年の間の揺れる状態を考え、ただの強姦と否定しきれないためである。

妻を愛し、家庭をこよなく愛そうとする彼に、繰り返し疑念が湧き、またそれを感じる自分に嫌気がさすわけだ。

しかし、この『風の中の牝鶏』の佐野周二は話が違う。田中絹代はあんこ玉を食べさせて食中毒から崩れた子供の入院費のために身を売るのである。

その金がなければ入院できず死んでしまったかもしれないのだが、子供が助かったことは問題ではないように、佐野は頭のなかが虚ろになってしまっている。

その売春の場となった一種の待合に客を装って確かめにいくのも、妻が喜んで売春していたのではないのかという疑念を払拭したいがためである。

しかしその待合で、出てきた女はどう見ても普通の女性。彼女が家の事情で止むなく身を売っていることが分り、多少は救われるが、いざ妻のひたすら謝り続ける態度を見ていると、荒んでくる。

では身を売らず子供を死なせても良かったかといえば、彼はそれも否であろう。戦前の社会規範として姦淫は認められない。ましてや自分はお国のために出征し、命からがら還ってきた兵士ではないか。

やっと幸せな家庭を築くつもりで復員してきたのに、なんという有様なのか。なぜ俺をこんな目に遭わせるのだ!

返す返すも男の感傷性、卑小性を痛感する。絶対に女性はどうにもならないことを男性に告白してはならない。それが優しさであり、幸福を保つ方法だろう。

[佐野周二であった必然] 

佐野周二には従軍中に小津と写した軍服姿の有名な写真がある。中国戦線で写された、戦争・軍隊を嫌でも痛感する1葉である。

この『風の中の牝鶏』という映画がなぜ失敗作と言われつづけ、小津もまた同様の旨を発言したのであろうか。それは、この映画が小津の戦争を経た日本人そして自分の、最初で最後の肉声とも言うべき直截な作品であったからではないのか?

すべての映画で、どれほどに深刻な救いがたい状況を描いた作品であっても、小津に求められている視線は小津大人としてのものであり、人生の達人としての対応であった。

この映画で、ボクがいちばん胸を裂かれるほどに哀切だと感じたのは復員した夫婦そして父子の再会の場面であった。あの田中絹代は、佐野周二は再会の歓喜に打ち震えているかに見えた。それは例外的に生々しい感動を感じさせるものであり、極論すれば他のシーンとは著しく統一感を欠くもののようにも思う。

いくら非戦闘員であっても、外地に出向き、戦火の気配を感じて過ごす毎日は、内地にいては味わえるものではなかったはずだ。

シンガポールからの復員船に乗り込むとき、「俺はいいよ」と順番を実際に戦っていた兵士に譲ったことは有名な小津のエピソードにある。父に聞いた話だが、何が恐いといって復員船に乗り込むときに現地人の前を通り過ぎるときほど恐かったものはないという。

というのも、もし現地人の誰かに指差され「あの兵隊が自分たちにひどいことをしたヤツだ」と証言されたら、真実そうでなくとも帰国はなくなり、その無実が証明されなくては処刑されることもあるからだった。

ただ似ているというだけで、その罪を犯した日本兵の代わりに悲劇的なことになったひとは少なくないだろうということは十分に予想できる。

佐野周二を主役に迎えたことは単なる偶然ではなく、戦争という未曾有の苦い経験を経た日本人に対しての最初で最後の小津肉声作品の主役としては必然であったと思われてならない。

[結果的に到達した生き方] 小津は『風の中の牝鶏』の大不評にショックを受け、シナリオの野田高梧にも忠告を受け、“豆腐屋には豆腐屋の仕事がある”というレトリックのもと、それまでの作品をますます削ぎ落とし再生産する方向に進んでいった。

ゆえに『風の中の牝鶏』は小津を世界映画史上類のない最高の前衛芸術家へ進ませたエポックとなった映画だと断言していいだろう。

女性が春をひさぐという設定もシンガポールでの『哀愁』が入っていると考えると、この作品はかずかずの文学作品や当時日本では未公開であった多くの英語映画からストレートに引用し、すべての戦争を体験した日本人に向けた総括作品だと思う。

不運なめぐり合わせの作品だが、これはもっと見直されてよい、切実な今日性が込められた見事なチャレンジだと感じ入った。

しかし、この佐野周二はいまの感覚で見ると余りにも不甲斐ない。あまりに誠実であるためだろうか。

余談だが、昨今のドメスティック・ヴァイオレンスで夫から妻への暴力のきっかけは「子供の世話で夫である自分に向いてくれなくなった」というものが原因のトップであるらしいから、ひたすら謝り続ける田中に解っているのに辛く当たってしまうのも強ち誇張だとはいいきれまい。

佐野は自分の妻を赦せない自分に煩悶し、荒んでいく。しかし同じ待合で家族のために春をひさぐ女性には就職口を心配してやるなど、同じ境遇にあえぐ弱い女性への彼なりの援助をしてやる。

息を呑むほど厳しい演出だと感心したのは、サディスティックに妻に迫った夜、もつれ合ったときに息子が寝ている傍の箪笥の上から音もなく紙風船が落ちてくるショットの哀切。

まあ無理やりにこじつければ、先の戦争において喪われた最大の人物である山中貞雄への小津のメッセージなのかも知れず(不要の説明ではあるが、不世出の天才監督・山中貞雄の遺作は『人情紙風船』。

彼は小津・佐野が軍服姿で写真を撮った同じ中国で戦病死した)、今回私論を展開しているボクとすればすべてがそんな因縁めいて見えてくるのである。
(★★★☆☆)

件の階段落ちのシーンも、『風と共に去りぬ』の階段は直線かつ勾配のきついところはソックリだが、スカーレット・オハラが頭から前向きに落ちていくのに、この田中絹代は頭から後ろ向きに落下していく凄さでド肝を抜かされる。

ヴィヴィアン・リーがスタント・マンが落下していく途中からドレスで頭や顔を包んでしまうが、このたびDVDをプロジェクターでかけてスローで何回も確認したのだが、『風の中の牝鶏』ではどんなに見ても田中絹代ではないと否定できなかった。

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