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北京波の新世紀映画水路コミュの神楽坂ロケ地探訪ツアー(3)

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■ 神楽坂のいちばんのイメージである「江戸情緒を残す」風情の代表的な一角は【 旅館・和可菜 】が建つ辺り【 兵庫横丁=ホン書き横丁 】である。

ここは『前略、父上様』のニノが勤める料亭・坂下の表のショットにも使われている。よくテレビで使われたショットではタクシーが停まっている道路から「坂下」までは黒塀が続いているのだが、実際に立ってみると、黒塀の半分は隣の建物で、白壁だ。

つまり、ここをテレビ局では黒塀で覆ったわけだ。そしてベンチャー企業の傍若無人な振る舞いに時夫が廻し蹴りした道も精々3メートルの幅であり、みんなが飛び出してきた坂下の入り口も隣の家の玄関にあたるものであった。

【 本多横丁 】から【 軽子坂 】を左に曲がって50メートルほど行くと石畳が印象的な横丁で、その奥に【 和可菜 】が見えるというコースもある。

こっちから入ると分かりにくいのだが、【 兵庫横丁 】から【 和可菜 】の前勝手口〜玄関のコースで入ると玄関のすぐ側に階段がある。これが“ニノが黒木メイサの林檎を拾う出会いの場となるシーンの階段”だ!つまり「坂下」のすぐ横にあったのだ!


【 寄り道:ホン書き旅館・和可菜 について 】

■2002年にNHK出版から上梓された『 神楽坂ホン書き旅館 』の作者黒川鐘信さんは明治大学教授だが、この「和可菜」の経営者である和田敏子さんの甥にあたる人である。この本には映画ファンには堪えられないエピソード満載だから、ここからしばらくはこの本からの情報を伝えたい。

■昭和28年、和田敏子は古い旅館をリフォームして営業する話に驚かされた。というのも、古い旅館ではあっても神楽坂の真ん中にある旅館は相当な金額であったからだ。そして、その費用を出したのが和田敏子の姉・つまである。

■彼女は昭和28年に田園調布駅前に600坪の土地と鉄筋コンクリート造りの中古の家を買ったが、その費用を渡辺邦男監督の「南国太平記」一本の出演料で賄ったという。早撮りで知られる渡辺邦男であっても精々1ヶ月ほどの期間であっただろう。

田園調布に家屋敷を購入できるほどのつまは、人気女優・木暮実千代だった。

昭和32年の木暮の納税額が2469万円だと書いてある。(日雇い労働者の日当が430円、国家公務員上級試験合格したキャリアー組初任給が9200円の時代である。)

■妻・母・女優の忙しい日常で寝る間もない木暮に旅館を買うように勧めたのは母親の登喜であった。はるかむかし旅館経営をしていたこともあるが、このとき母親にはつまの妹である敏子の身の振り方に思いがあった。つまの妹で木暮の付き人をしている敏子は夫と子に死に別れた女性で、母も姉もそれに同意したのである。

■なかなか商売にはならず、一年目は赤字。そんなとき敏子は神楽坂の下で吉村公三郎と出会う。すると同じ神楽坂の「ホン書き旅館」に行くという。敏子は映画界に姉の付き人でついたりして素人ではないのに、そういう場所が商売になることを初めて理解し、しかも「和可菜」が好適な場所であることを判断する。

木暮から映画会社に口をきいてもらい、最初にやってきた映画人は東映の村松道平であった。ちゃんばら映画の多くのシナリオがここで書かれ、あの『少年猿飛佐助』も「和可菜」で生まれたのである。

■村松道平はあの村松梢風の次男である。長男は若くして病死するが、その遺児が編集者から出発し、のちに作家となる村松友視(部首が正確には違うが、ありません)であり、彼もまた「和可菜」に野坂昭如の編集者として現れ、作家として客となっていくのです。

■敏子は語る。ホン書きは会社のカラーに染まっているひとはほとんどいなかったから、その場で、どの会社の仕事をする人かを知るのは難しかった。しかし、これがプロデューサーとなると玄関で出迎えただけで判ったという。

曰く、東映映画は「工事現場の親方風」、松竹映画は大船調と呼ばれるおっとりさである「老舗の若旦那」でシナリオ・ライターの尻を叩くようなことはしなかった。
大映・日活は取引がなく、東宝は「心からのサラリーマン」である。この違いは支払いのスタイルにも表れていたという。東宝では一般企業と同じで支払いは月の何日と決まっていたため、その日に行けば小額であったも封筒に用意されていた。松竹は請求書を送ってから催促の電話をかけると「いつでもいいですよ」という調子で、なんだかきちんとはチェックしていないようだった。
東映はほんとうにおおざっぱでいい加減であったために「拝啓東映撮影所所長様」という直訴状を出したことも何回かあったという。

■「和可菜」の最初の映画人は村松道平だが、その後、次いで笠原良三、八住利雄、井手俊郎、植草圭之助、高岩肇、水木洋子などが客となる。だが、「和可菜」をして「出世旅館」とまで呼ばしめたのは、ここで仕事をした映画人が売れっ子になっていったからである。そんなゲンをかつぐ世界で、評判が評判をよんだ「和可菜」であった。

■ここを定宿の仕事場にした人々には祐介(渡辺祐介)、セ川(瀬川昌治)、下ちゃん(下飯坂菊馬)、田坂(田坂啓)、遅坂(早坂暁)などがいるが、記念すべきは内田吐夢の「飢餓海峡」はここで書かれたということである!あのラスト・シーンの弓坂刑事が般若経を唱えるところだが、あの経の文句は「和可菜」の隣の女将さんに来てもらって実際にお経をあげてもらい、それを鈴木尚之が写した。

■敏子が語る「和可菜」での利用貢献度によるランクがあるので、これをこの項の最後にしてみよう。

【 重役クラス 】
田坂具隆、内田吐夢、井上梅次、今井正。
【 課長クラス 】
渡辺祐介、瀬川昌治、森崎東、石井輝男、深作欣二、沢島忠、浦山桐郎、三隅研次、五社英雄。

成沢昌茂が溝口健二のリメイクをした『雪夫人絵図』では佐久間良子がイメージつくりに成沢に命じられて敏子に会いに来たこともあった。この「神楽坂ホン書き旅館」には書ききれない興味あるエピソードが溢れている。しかし、ロケ地探訪ツアーとしてはどうしても趣旨からははずれてしまうので、「和可菜」についての紹介はここまでにしたい。

(4)につづく。

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