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北京波の新世紀映画水路コミュの改訂版:論文「韓国映画の女性たち」

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《 序にかえて 》   ほえる犬は噛まない/受取人不明/DMZ/JSA

都会の団地に起こる奇妙な事件を描いたコメディ『 ほえる犬は噛まない 』、1970年前後のアメリカ軍基地のある町の閉塞した人間ドラマ『 受取人不明 』、1978年の38度戦における軍隊もの『 DMZ 非武装地帯・追憶の38度線 』など、まったく脈絡のなさそうな3本の韓国映画には、ある共通点がある。

それは韓国の食文化のなかに<犬を食べる>という歴史があり、そのことによるドラマが描かれていることだ。同じく38度線における南北の警備兵を扱って大ヒットしたパク・チャヌク監督の『 JSA 』においても飼っていた犬を食ってやるから差し出せと言われて、鎖を解いて逃がしてやる描写があったことを思い出す。

日本でも犬は食料の乏しい時代には食べられ、「赤犬の方が美味い」などというセリフがある兵隊ものがあったことを覚えているが、「犬を食べる」ことに不思議に嫌な感情が湧かないのは、こういう文化は国ごとに違いがあり、<クジラ>問題を含めて、それなりに理解するためには知性も柔軟性も想像力も要求されるからだろう。

その国にはっきりと存在するにも拘わらず、欧米の批判を恐れて、本来あるものを描かずにおくとすれば、それは迎合である。

しかし、一国家が経済的に伸びていき、先進国として肩を並べることになるとき、どのケースにおいても、そういう国が要求する最低限の枠内に修正を余儀なくされていく。

その変化を描く作品においても、作り手側にいかに自国の文化に対する個人としての見識が備わっているか否かで、まったく印象が異なってくるであろうことは間違いない。

この文章では、いまや世界一面白い映画を作る国・韓国の映画を通して読み取れる「女性観」から韓国を、そして敷衍して日本を検証してみたいと思う。(計画から約半年、ようやく実現する。再々、お待たせしたことをお詫びします。)


《 この厚きうねり 》                  冬のソナタ

この世には男と女しかいない。(「世界が100人の村だったら」によれば、異性愛者は89人、同性愛者は11人だそうである)

それは真理ではあるのだが、韓国においては昔の日本においてそうであったように、「男と女」という括りの前に「年長者と年少者」「家と家系」「貧と富」があり、そして「北と南」があるのだから、誤解を恐れずに言うならば、映画のテーマには事欠かないわけである。

「北と南」からの派生として「対アメリカ」からくる「親米感情」に「対日本」からくる「反日感情」という視線もあるので、ますます分厚いうねりを生み出すことが可能となる。

韓国映画に登場する女性には大いに感じる点がある。映画の前に、日本において空前の韓流ブームを作り出した『 冬のソナタ 』を嚆矢とする一連のテレビ・ドラマには、やはりひとこと言及しておかねばなるまい。

ユン・ソクホというメロ・ドラマの名手がまず最大の功労者であるが、ソクホ監督の特長はなんといってもセリフの素晴らしさであり、映像の駆使の巧みさとともに、人を想う「切なさ」をこれほど上手に表現できる才能は滅多にあるものではない。

評論家の佐藤忠男が書いたように、本来もっとも差別や社会常識など、旧弊に対して最も無批判だと思われた中高年の女性層から、気の遠くなるほどの年月をするりと飛び越えて、韓国と日本の真ん中に可視的ではないにしろ厳然として聳え立っていた壁を乗り越えてしまったことは奇跡的なことであった。

その原動力こそは『冬のソナタ』という誰しもが心の奥にしまいこんでいる「初恋」への感情を奮い立たせたドラマであった。

その永遠不滅の「初恋」への思慕と、叶わぬ「初恋の成就」を描いて、そこに日本映画がかつて持っていたけれども封印してしまった原始的な「情緒纏綿たるうねり」をストレートに込められたものだから、ひとたまりもなかったのである。


《 『冬のソナタ』であった天の配剤 》

従来の日本のドラマといったいどこが違うのか。そこでは「愛」を介在とする男女間の緊密な話し合いや凝視を、あたかも人生の命題とも言わんばかりに描いていくことにある。

「男は黙って・・・」「以心伝心」といった日本的な男性観とは違う、韓国独自の描写が展開していく。

なによりドラマの主人公である男性は、他の事項へは極めて男性的なのだが、こと「愛」については極めて謙虚であり、「思慕」への葛藤から涙を流す。

日本においては、その対象である女性が亡くなったときくらいにしか認容されぬ涙は、韓国においては「相手を慕い幸せを願う」ときに溢れ出る慕情として流されるのである。日本においては「遣る瀬なさ」に昇華させねばならないものが、韓国では「切なさ」で見事に泣くのである。


この自ら信じる者のために迷わず流す男の涙に、女性たちは動揺した。だが、このとき、チュンサンあるいはミニョンを演じた俳優ペ・ヨンジュンの存在が大きく関与していることに男としては気が付きにくい。

ボクを始めとする男はチェ・ジウ扮するユジンのキャラクターに入り込んでしまうためであろう。

「韓流マダム」という新しい名称もなんのその、中高年女性たちは、『冬ソナ』に自ら信じるものへ憚ることなくストレートに表現してもいいのだという真実を嗅ぎ取った。

だがそればかりではなく、彼女たちはドラマのチュンサンでなく、実際のペ・ヨンジュンという俳優自身がドラマを地でいく無垢で誠実な人物であろうことも重ねて嗅ぎ取ることで、前述した奇跡は一挙に速度を上げ、遂げられたのである。
(この指摘は韓国の歌手であるチョ・ヨンナムが書いた「殴り殺される覚悟で書いた親日宣言」という本に出てくる。)


このマダム開眼の第1作目が『冬ソナ』であったことと、ペ・ヨンジュン主演であったことは、運命的な配剤であったとしか言いようがないと思う。

恐らく、よほどのスキャンダルでもない限り、<はじめての男性であるペ・ヨンジュン>の人気は日本では凋落しないだろう。


《 韓国ドラマ・映画の真実 》 
コースト・ガード/サマリア/大変な結婚/浮気な家族/情事

数々のドラマを見てきて、韓国ドラマにはいくつかの特徴があることに気がつく。

まず「美男美女」である。「財閥などの金満家」がからむと同時に、「極貧」の境遇が同じく絡む。「不倫」があからさまには出てくることは少ないようだが、その代わりに「異母兄弟」などが出てくる。

(ではあるが、こういったものだけをブームと捉えて真似したとしても、空中分解するのがオチである。昨秋のフジテレビ系列の連ドラ『東京湾景』の無惨な失敗は「愛と対峙するときの無力感」を「切なさ」に昇華できず、もはや日本人同士では「切なさ」は「裕福」であることで調整してしまっていることを痛感させただけであった。)

映画と違い茶の間に届く無料の娯楽であるドラマには、かつての日本のドラマがそうであったように、人々がつねに希求して止まない夢のようなものが描かれていると考えても強ち間違いではないだろう。

その意味で、韓国はまだまだ「貧しく」て「女性の地位」も同じく低いのであろうことが窺われる。
もしキャリア・ウーマンとしてバリバリやる女性が登場しても、それは男を男としても捉えないか、男社会への凄まじい反撥でもってガムシャラに邁進するように描かれている。

しかし評判となった多くのドラマのヒロインは清楚で物静か、彼女を恋している相手を立てるような、そう、日本でもつい先頃まではいくらでも登場したキャラクターが多いのである。

以前から彼女を恋している誠実と慈愛の相手役男性は、その点においては非のうちどころがないのであるが、新たに登場する主人公である男性の一途な透明感と慕情の示し方に、ヒロインが揺れ動く。

しかし、彼女の恋敵として登場したり、苛め倒す役柄で登場する女性たちには、そういったヒロインとは正反対に、喧噪で、日本においてはガサツと表現されるような女性像がいくらでも出てくる。いったい、これは、どうしたことなのか?

その答えを映画に探ってみよう。

キム・ギドク監督にほれ込んで、スターであるチャン・ドンゴンが破格の安い出演料で出た『 コースト・ガード 』では、誤って民間人を射殺

そこで近くの座席に座った幼児が持っている玩具の光線銃がけたたましく音を出すことに耐え切れなくなり、ドンゴンはその玩具の銃を壊してしまう。

すると、その幼児の母親が劇昂しドンゴンを殴りつけるのだ。屈強の兵隊服を着た彼をである。

同じくキム・ギドク監督の傑作『 サマリア 』において愛娘を援助交際で買った男の自宅マンションへ乗り込んだ父親が家族団欒で食事をしている家族の前で夫であり父親である彼の不行跡をなじり殴る。

すると彼の夫人である女性がただひとり「おまえはなんなんだ。なにをする気なのか!」と同じく劇昂して挑む…。このことは、これらの女性たちが単に怒りにかられてしたようにも見えはする…。

韓国には「姦通罪」がいまもなお残っている。

韓国コメディの大傑作である『 大変な結婚 』においても、やくざ3兄弟の長兄(ユ・ドングン:余談だが星野仙一にそっくり)は息子の担任の美人教師にいそいそとモーションをかける。

これは艶笑コメディのスタイルをとっている映画だから男側からの描写で笑える。
姦通罪があっても、当然のように亭主は浮気に励み、その男の罪が問われることは少ないはずである。

これらは、女性に良妻賢母として家を守ることを要求しているからこそ残っている。

そしてこのことは名女優のムン・ソリが出た『 浮気な家族 』に象徴的に描かれている。

ムン・ソリはダンス教室で教えている主婦なので単に平凡な主婦とはいえないが、夫は青年弁護士で養子だが男の子もひとりある。表向きはいわゆる勝ち組に属する。

夫には若い愛人がいて、ムン・ソリはまったく知らないわけではない。夫は情事の帰りに交通事故を起こすが、その被害者である慢性アルコール症の患者が家族にとって大事件をひき起こすと、妻は自分にむせ返るような熱情を注ぐ隣家の高校生に性の手ほどきをするようになっていく…。

ここでは、夫がそうなら、妻である自分も形骸化した家庭を壊さない中でなら、こっちもさせてもらうわよ、というしたたかな反撃のようでもある.

また同じく勝ち組の妻・母として結婚生活を送っていた妻イ・ミスクに妹の婚約者の青年とに湧き起る熱情を描いた傑作『 情事 』を含めて、ここに挙げた作品のなかに登場する女性としての行動に大きく関与しているのは、
「女性が年上である」という設定である、と思われる。

どうやら韓国ではさまざまな要素での区別が存在しているが、一般の女性にとって、真っ先に行使できる常識としてのパッションは「年長」であるという点のみであるらしい。

言い換えれば、年下の女性が浮気や不倫をしたからといって、それは従来の男社会のなかで陰で行われていたことと変わらないのだ。

(前述した『大変な結婚』において浮気を嗅ぎつけた長兄ユ・ドングンの妻はキャット・ウーマンのように現われて、不倫の相手である小学校の女教師を「いままでどれほど多くの亭主たちとやったんだ」と叫びながら、妻として天誅を加えるのも、こういうことがギャグにできる背景がありうることによる。)

年上である必然は、彼女たちが自分の意思で選択したという社会的な判断を得られる最高とまでは言わずとも、恐らく最低ではない要件によるのだろう。


《 男社会を形作ってきたもの 》   マイ・ブラザー/同い年の家庭教師

 この「男社会」「年長者優位」「家長主義」というのは長く伝統としてあるようで、多くの映画では先輩や年長者が年下の人間に飲食を当たり前のように奢っているし、年長者のいる前ではタバコを吸わない礼儀なども散見する。

ウォンビン主演の『 マイ・ブラザー 』では長男のシン・ハギュンが屋台で酒を飲むシーンで、「ひとりで飲むな。ずっと独酌で飲むことになるぞ」と弟は声をかけて酌み交わす。

こんなところにも「男とは」という日本にも強く残っている多くの建前が語られている。

おそらく封建的な社会においての長男は家督の大半を引き継ぎ本家としての指導的立場であるとともに、経済的にも頼れるような扱いを受けているはずだ。

昔日本においては子孫繁栄思想から「嫁して三年、子なきは去れ」という社会的な流れがあった。

韓国では現在も離婚した場合、子供は父親が引き取るケースが圧倒的に多いそうである。

「腹は借り物」などという信じられない表現はついこの間まで日本で罷り通っていた。
ここには女性は子を産み育ててこそ初めて存在意義がある。

男にとって都合よく、多くの一族を率いていくのに支障をきたしにくい、そういう構造なのである。

(それだけに現在の日本においては出産のみならず結婚を望まない社会に突入しているのは、女性が男性に、あるいは家庭に帰属しなくても飢えたりはしない国となったことを表す。勿論それによって女性は強くなり、そのことにより男性の力が衰退とまでは言わずとも、男女の、男女というだけで立ちはだかっていた壁は急速に垣根を低くしてきているのである。まさに経済的な変化である。)

また韓国映画を見ていて現在の日本とまったく違うと思うのは「強い父親がいる」ことである。

例えばクォン・サンウと名花キム・ハヌルが競演した『 同い年の家庭教師 』では、サンウは高校5年生で喧嘩に明け暮れているのだが、親父に叱られて痛めつけられてもなすがままで、親父は「やっぱり俺には敵わないだろう」と手加減されていることに気がつかないほどだ。

これは韓国に厳然として、一般的には儒教精神と片付けられる長幼の序の教えが根強く残っていることを背景にしたギャグである。

だが、ボクには儒教精神はわれわれが思うほど根深くはないと思われるのである。
 
日本が貧しかった頃、妻や子供は、自分たちのために働き養ってくれる親父にひたすら感謝を捧げ、父親もまた「うむ」などと漏らせながら、晩酌を傾けて頷いていた。

ここでは給金の多寡は問題ではなく、父親が健康で体を張って頑張ってくれているという行為そのものへの賛美であった。

その一家が社会通念としての常識内に収まっているかぎり、娘には縁談が用意され結婚もできた時代があったのだ。貧しい環境であっても、貧しいことに耐えられるのであれば、縁談も就職も世間が放ってはおかない共同社会である。

 しかし、高度成長を得て、女性の社会進出が遂げられ、高学歴となった今、「男は男らしく、女は女らしく」「良妻賢母」のみを求められることは消滅したが、これはまた、「男として父として夫として」世の中の男性に要求されてきたものを分散させ、いわば独占であった責任の遂行を放棄させることになる。

家族をきちんと養えれば多少はお目こぼし願えた「男としての沽券」や「放蕩」を糾弾される時代を迎えたということだ。

貧しさからの脱却は男だけでは戦力不足であり、女性が両輪となることで、一挙に加速はしたのだけれど、である。

日本がそうなったのに、韓国にいまなお、そういう志向が認められるのだとすれば、いったい差異はどこから生じるのであろうか?

そこにボクは儒教精神というようなエキゾチックに信じたくなるものよりも、まだまだ豊かさがあまねく寄与してはいない「貧困の不均衡さ」と、そして一番の理由は男に課せられた「兵役義務」の存在があるためではないかと思うのである。

この2年間の兵役は昔の徴兵と同じで、男には「家族のために男として身体を張った」という精神的共同意識を根付かせ、女に対して「うむ」とどっしり構える自信の礎となっているのだろう。

しかしコレとても、実際に平和が続き、国民のGNPを上げることが最優先な時代となれば必ず崩れてこよう。「蜜」を得たならば、その代わりに「自己責任」を要求されるようになるからである。


《 映画から察しられる変容 》
おばあちゃんの家/マラソン/威風堂々な彼女/JSA/初恋のアルバム/私にも妻がいたらいいのに/わが心のオルガン

 やはり女性に限らず,家族のあり方の変容は新作映画のなかに歴然と影を落す。

多くの娯楽大作に囲まれた中で韓国で大ヒットした、女性監督イ・ジョンヒャンの『 おばあちゃんの家 』という映画は、田舎に置き去りにした年老いた母に、都会に出て行ったまま省みることのなかった娘が自分の都合で都会育ちの孫を押し付けてしまったための共同生活を描いたものであった。

都会育ちの孫は母親に捨てられた失望を単に田舎の生活を送る老婆である祖母に向ける。

そのクソガキのあまりのわがままぶりに観客は苛立つが、この苛立ちこそは、近代化・・・、つまり都会に移り住むことで、「田舎」「無学な親」「善意のもとに慎ましく生きるという生き方」を捨てた人間への原罪を問われたためであろう。

その母親は至らぬ親として息子に対して「都会で住む強大で唯一無比である懐柔策」を取っていた。それは「ゲーム」であり、「ファースト・フード」であり、つまるところ消費物質そのものである。

なだめすかすために取られていた懐柔策が一瞬にして消えたとき、子供や精神的に熟成していない人格では、はっきりと目に見える対象に憎悪は向けられる。

「田舎者が!」「年寄りが!」「汚い!」「デブ!」「ブス!」ありとあらゆる罵詈雑言で、なにももたない自分の貧しい人格を隠蔽し守ろうとする。

無学で善意しかもたない祖母が絶対に断らないであろうことを知っていて娘は孫を連れてきたのである。

余談だが、この孫が食べたい食べたい食べたいと祖母にねだるのはロッテのチョコパイである。

都会においては単なる袋菓子なのかもしれないが、祖母は自分のなけなしの金を融通して食わせてやるが、孫はその重みを知る由もない。

2005年度の屈指の傑作である『 マラソン 』の主人公チョウォンは自閉症児であり、とくに食べものに拘泥がある。食事も摂らず、チョコ・パイだけを摂りつづける。

またぺ・ドュナ主演の未婚の母ものコメディ・ドラマ『 威風堂々な彼女 』でもソウルに出向いた高校生である彼女が空腹とチョコパイに耐えかねて献血に走るエピソードがあるし、前述した『 JSA 』においても南のイ・ビョンホンは北の兵士ソン・ガンホにチョコ・パイを振舞う。

余りに美味そうに食べるガンホをひやかすと、ガンホは一瞬気色ばみ「いいか、俺の望みはな、俺の国で、いつかこんなものよりも美味い菓子をつくることなのだ!」とチョコ・パイを頬張ったまま叫ぶシーンがある。

それだけに、韓国企業であるロッテがつねに資金提供してパブリシティを張っているのかも知れないが、韓国人の味覚にマシュマロをビスケットで挟んでチョコレート・コーティングしたものがそれほどに受け入れられているのかと驚くのである。

(この原稿を書くために数軒のコン・ビニを訪れたが、もはやチョコ・パイは発見できなかった。)

韓国がさすが儒教の国なのかなと感心するのは、この老婆が誠実で篤実な人柄を地域では認められていて、ただ「老人」「貧乏」だからという理由では迫害されず敬意を示されるという点であった。

国が発展し豊かになるために乗り越えていかねばならないものであるさまざまなものを否定はできないが、進歩や豊かさの裏には、祖母のような無償の愛があったのだということを忘れるなとジョンヒャンはいうのだろう。

前半で少年の都会人としての卑小さ、脆弱さを徹底して描いたことが、ラストの孫のくれた祖母への愛情に溢れたはがきが嘘に見えない都会人のメルヘンとして忘れ得ない作品となったのである。

 韓国の家族関係の変容を如実に感じられる映画がもう一本ある。

それは韓国最高の女優であるチョン・ドヨンが主演した『 初恋のアルバム〜人魚姫のいた島〜 』である。

韓国映画独特の、というより独壇場の荒業が、この映画でも発揮された。

この映画は都会の郵便局に勤めているドヨンが体調を崩して失踪した父親を探して、父母の故郷である済州島を訪れる。そこで彼女は30年前の独身時代の若き母と出会い、彼女たちは共同生活をすることになる。

この若き日の海女をしている母親もドヨンが演じており、同じ画面にふたりのドヨンが登場し、会話を繰り返すのである。

母親は村の郵便配達である青年(勿論若き日の父親である)に恋焦がれており、文盲を恥じて言い出せない。映画はチャン・イーモウの『初恋のきた道』そっくりに、若き日の母親の純粋な恋に身をよじらせるエピソードを描き、魂の洗われるような清純な恋の成就を観客に目撃させる。

(この映画はドヨンが母娘ふたりを演じ分けるのが見ものであるのだが、ドヨンのファンであるドヨメキアンにとっては、出来て当然だと、今更に感慨はない。

というのも既に『 私にも妻がいたらいいのに 』というソル・ギョングと共演したまったくフツーの社会人を演じた映画でドヨンは学習塾の講師の女性を演じており、娘としての演技の質は同一であるからである。また『 わが心のオルガン 』というイ・ビョンホン共演の映画においてドヨンは小学生を演じているほどで、彼女の演技の前には母娘の演じ分けなど、お茶の子サイサイであるからだ。)

 では、なぜ『 初恋のアルバム〜人魚姫のいた島 』がこの項の例として挙げられるのかというと、この映画では最初から現代の中年になった母親が画面に登場するからである。

郵便局に勤める娘ナヨンの悩みは、両親の関係が極めて険悪なことで、大衆浴場で垢スリとゆで卵を売ったりして生計を立てている母はことあることにツバを吐き散らし、上品や気品とは無縁のおばさんである。

そして他人の借金の肩代わりをして一家を貧乏に貶めたお人好しの父を、ことあるごとに痛罵する。

観客は、この母親が30年前には恋に身悶えていたことを見れば見るほど、現在の彼女の姿にいったい何が起こったのかと暗然となるのである。

だが極貧の生活から努力して少しは豊かになりかけるとお人好しの父親が原因で振り出しに戻ることになるために、豊かさとは無縁の生活を余儀なくされてきたと分り、納得する。

作者はここに「貧困」とは絶対悪であると掲示する。

韓国が貧困から脱却しようと進めてきた政策がダブるわけである。

どうやら、この映画は、古い体制下においては疑問視もされなかった人格を親にもつ世代が、「無学で不恰好で不躾な親などは要らない」と軽んじやすくなっていることへの、ファンタジーのスタイルを借りた警鐘ではないかと思われる。

このことは決して珍しいことではない。若き日にはそれなりの柔軟な感性をもった魂であったものが、母として時間を送るにつれて体制に取り込まれていき、誰よりも保守的な存在となってしまう・・・。

これは邦画においても『紀ノ川』や『忍ぶ糸』などに繰り返し登場した親と子の相克ではないか。

『おばあちゃんの家』『初恋のアルバム』の2作は、ガムシャラに豊かさを追い求めても、その礎にあるのは、こういう算盤を弾くのが不器用な家族がいたからだよと、言っているのではないのか?

韓国における儒教精神がかろうじて残っているとしたら、この部分に働きかけてくる<視線>にほかならない、と思う。


《 現代韓国女性の受難? 》       6っつの視線〜もし、あなたなら〜/英語完全征服/フー・アー・ユー/マイ・ブラザー/ひとまず、走れ!
 
韓国人権委員会が企画製作したオムニバス映画『 6っつの視線〜もしあなたなら〜 』は6人の監督が<人権>をテーマとしたものならば割と自由に撮れた作品であると感じられる。

なかでも、第1エピソードである「彼女の重さ」は興味深いものだった。
コメディではあるが、内容は決して軽くない。

『冬のソナタ』から始まった韓流ブームで、すべての作品が「イケメン、美女ばかり」と感心するのであるが、この映画を見ると、我々同様に美しくない普通の人々がうようよ登場してくる。

商業高校を舞台にしている映画だが、実は恐るべき現状を証言してくる。

美しく見せるために「二重まぶたの美容整形」を学校挙げて勧めている。肥満者は体重を減量しろと繰り返し指導し、ヤセ薬でむりやり痩せろと怒鳴りつける。

受験予備校も2年続けて入試に不合格だと、よその予備校に移るように、やんわりと追い出されるらしいと聞いているが、この映画の商業高校の教師たちも、原因は「全員を就職させる」という大目的があるために怒鳴りつけているのである。

「あの学校を卒業しても、就職もできない」という評価が下されるのを恐怖しているからだ。

そのために、非人間的な問題をあげつらう。その背景には、韓国の国全体に溢れかえる、「豊かになりたい願望」が厳然としてあるからだろう。

豊かになるためには、まず一流企業への就職であり、玉の輿に乗るためには、美しくなければならない。娘の中学への入学祝が美容整形であるという噂は、強ちデマではないようだ。
 
この映画とほぼ同じ状況をコメディで描いたのが『 英語完全征服 』である。

『フー・アー・ユー』(未)でヒロインを演じて魅力的だったイ・ナヨンが地方公務員として受け付け業務に励む女性を演じている。

ここでの彼女は、中学2年のときに英語を諦めて英語能力は劣悪。役所にも多くの外国人が訪れるため、職場のくじ引きに負けて、職場を代表して英語学院に通わされる破目になる。

教室には昨今の韓国英語対策によって多くの受講者が来ており、彼女は同クラスのC調な靴屋の店員チャン・ヒョクにひとめぼれする。
ナヨンがど近眼で大きなめがねを一回もはずさないというお決まりもあるが、全体にさっぱりと「醤油顔」のドタバタ・コメディが展開する。

『 もし、あなたなら…6っの視線 』のなかにも行過ぎた英語教育問題を取り上げた『 神秘なる英語の国 』というパートがあったが、この映画も、その問題にほとほと嫌気がさしている人々の溜飲が下がるように作られているらしい。

ナヨンとヒョク、彼らの凄まじい英語の発音がなによりのギャグとなり炸裂する。

韓国映画とすると、はっきりと韓国映画臭を薄めており、全体に目指すはハリウッド映画であるようだ。この“英語さえ出きれば豊かな人生が待っている”というのは“キレイなら就職も結婚も思いのまま”という錯覚というよりも一種の強迫観念となって彼女たちを苛むのである。

まあ、これは男性としても決して問題外ではなく、『 マイ・ブラザー 』のウォン・ビンや『 ひとまず走れ! 』のソン・スンホンやクォン・サンウなどは恐喝や犯罪まがいのことに手を染めていても「大学に入る」ことを将来の夢に挙げており、なにをかいわんや、ではある。


《 ズバ抜けた青春群像 》      子猫をお願い/われらの歪んだ英雄

 ソウルに近い仁川(インチョン)に住む4組5人(この数は、テレビ・ドラマ『 威風堂々な彼女 』でもぺ・ドュナの同級生で共演している双子がいるからである)の女子高校生たちの卒後の生活を描いた傑作『 子猫をお願い 』では、経済的にも、地域的にも、栄達は望めない少女たちを取り上げている。

なかでも美少女であるからかもしれないが、ソウルの会社にOLとして就職した仲間ヘジュ(イ・ウォン)は上昇志向が強いというばかりでなく、仲良く付き合おうとする旧友たちの誘いや申し出に対して不実に見えるのも、彼女が精一杯頑張って突っ張りつづけなければ、都会に簡単に飲み込まれてしまう不安に追い立てられているためである。

彼女の上司の女性も当然のように「大学にはいかないの?」と聞くが、都会族にとって時間や愛情を裂く価値を見いだすのは、都会が要求する弛まぬ上昇気運に負けずについて来ようとした人間だけなのだ。

また主人公テヒ(これがデビュー作であるぺ・ドュナ)をはじめとして、同い年の同級生であっても、それぞれに親や現状に対して不満を託つ若者という一つの括りで描写されるのは、なんといっても彼女たちが住む地域そのものが競争社会からは遅れた土地なればこそである。

そしてまた、同級生ジヨン(オク・ジヨン)という貧しい家庭描写がたいへん丁寧に描かれていることも映画としての魅力を高めているものとして見逃せない。

彼女が祖父母と一緒に住んでいる家は天井が落ちかけているあばら家で、テヒが初めて遊びにいったとき、孫の友達が初めてきたからと餃子を振舞われる。

食べろ、食べろと歓待する祖母の姿にぐっとくるが、そしてなお差し出されるままに幾つも食べるテヒに感動してしまう。

暮らしぶりから、その餃子はただの餃子ではなく、この家にとっては高価過ぎるほどに高価であることを察した彼女に胸を打たれるのだ。

孫と祖父母の貧しい食事。歯のない祖母が大根キムチを噛み切れずにニチャニチャとしがんでいるだけ。

「包丁で切って食べればいいじゃない!」とジヨンはさけぶが、この融通のなさ!これが<貧困>というものであり、<老い>というものである。

監督のチョン・ジェウンは1969年生まれの女性で、脚本も書いた本作品が長編デビュー作だという。

35歳の若い女性がこういった<女性の立場への警鐘><貧困><老い>といった一歩誤ればどうにもならない描写に挑んで書けるということに本当に驚く。

(聞けば彼女は『 われらの歪んだ英雄 』のパク・チョンウォン監督の愛弟子ということだから少し頷けた。)

テヒは感受性の鋭い女性であるから、目先の経済的な成功や、なんの疑問もなく男として家長としての旨みに安住する父親と、父親により母や兄弟までもがミニ父親のような鈍感さに染まり洗脳されていくことに耐えられない。

これは打算とか妥協とかという単語をあてるより、正義と呼ぶに値するものかもしれない。

貧しいということだけで理不尽な留置所暮らしを過ごしてやっと出所したジヨンを待っていたテヒは二人してオーストラリアへと旅立つラスト・シーン。

テヒは家族の集合写真から自分のシルエットを切り取り、無償で働かされた1年分の給与をせしめて、彼女はこの先閉塞した人生しか待っていないであろう人生の友人ジヨンとともに再生に賭けるのである。

オーストラリアのワーキング・ホリディはいまや本国を食い詰めた人間で溢れかえっているという噂も聞くが、あの祖母の餃子を目を白黒させながらも平らげたテヒなら、そんな体たらくにはなるまいと、観客はエールを贈るのである。

それが一番正しい、この映画との対峙ではないだろうか。

若い才能の誕生を身を持って味わえる幸福感。そしてジェラシー。チョン・ジェウンという女性監督の名前は忘れてはならない。そしてぺ・ドュナである。

映画にはスターが演じる「花」がある。
その「花」を際立たせるのは、演出などのテクニックによる「枝ぶり」だ。
しかし、そういったものを支えるのは「太い幹」であり、これがテーマである。
ではあるが、映画史上の傑作になり得る作品には通常は見える場所にはない「根っこ」が必要だと思う。
この「根っこ」こそ、「これだけは伝えておきたいという覚悟」を肥やしとして長年にわたって育まれたものであれば言うことなし、となる。

『子猫をお願い』という新人監督の映画には、この「根っこ」がある。それが素晴らしい。


《 いよいよ各論へ 》

 さて、ここまで、総論的に触れてきた韓国映画であるが、本稿の最大の目的は作品を通して[ 韓国⇒日本 ]を考えることであった。

しかし、欲張りで食いしん坊な映画ファンであるボクには、映画として面白くなければ手放しで応援はしたくない厄介な感情がある。そこで、ここからは各論として、ある2本の映画を通して、韓国映画の魅力を解析してみたい。
 
多くのジャンルがある。
映画大国の韓国では、およそ考えつくすべての題材が映画に利用されている。
それこそ『ジュラシック・パーク』のような恐竜などが登場するVFX作品や、『スター・ウォーズ』のようなスペース・オペラ作品を除けば、全部あると言っていいだろう。

だが、はっきり言いたいのは、並みの企画ならアメリカ映画には到底敵わないという、日本映画にも通じる現実である。
 
そこで、声を大にして言いたいこと。それは韓国映画の魅力が最大に発揮されて爆発するのは、<愛を描いた作品>である!ということだ。
 
その意味で、新しい傑作として映画『 氷雨 』ICE RAIN を取り上げたい。 

《 これこそ、娯楽映画だ 》                   氷雨

 この愛の映画は大阪では5月の韓流シネマ・フェスティバルの一本として見ることができた。DVD発売は年末だということである。
 
タイトルのバックに映し出されるのはカナダのアシアク山である。

ここに日本人が一人混じった韓国人登山隊が挑もうとしている。リーダー挌はイ・ソンジェ扮する大学山岳部のOBで、クルーの中には本格的な高山登攀は初めてであるソン・スンホンもいる。

吹雪に閉じ込められたテントではよもやま話が尽きることがない。そこでスンホンは彼女に子供のときにバリカンで頭をとら刈りにされた思い出を語る。それを親しげに聞いているソンジェ。

 この映画は共通の女性を愛したことを知らない男同士が、高山登攀における遭難を機会にその事実に気がついていく映画である。

その女性は名花キム・ハヌル。ここでの彼女は最大の魅力であるコミカルな笑いを封じ込めて、切ない映画に殉じている。

ハヌルとの追憶が、アシアク山の氷に閉ざされた彼らに甦る構成なのである。絶妙なデリカシーの世界が展開するのだ。
 
スンホンが大学で期せずしてバリカン少女に再会し、恋心を覚える。この成長したハヌルが山岳部の先輩であるソンジェに恋をし、妻帯者であるソンジェと深い仲になっていく。

この二人との最初の出会いは各々アルコールが関係していて、ハヌルの気持ちよく酔っぱらっている仕草がなんとも可愛いのであるが、男にとって、じつに残酷な愛を描くことになる。

というのも、スンホンのハヌルに対する愛は、ソンジェへの報われない恋の前には成就することがないからである。

友達以上の関係にはまったく進まない。このハヌルの表情や行動の描写は、さすが女性監督であると唸るほど毅然として冷たくて、それほどに巧みなのだ。

 韓国のドラマや映画では、上手くいったときには考えられないほど小道具が効いてくる。

例えばハヌルが親知らずに苦しんでものが食べられなくなったときにハンバーガー店でフライド・ポテトを食べて悦に入る場面。

その口許に塩がついている。スンホンがそのことを指摘してもハヌルは分らない。「仕様がない奴だなぁ」と口許に手を伸ばすと、彼女が咄嗟に手を払いのける。その拒絶のあまりの厳しさにスンホンやハヌルのみならず観客はおどろかされる。

一途な恋をしている女性の潔癖さが出たシーンである。

だが、その親知らずを抜いて楽になったハヌルがソンジェと焼肉屋に行くシーンでは、いたずらで彼に抜けた親知らずをプレゼントしようとして落としてしまうと、ソンジェは一瞬の躊躇なく紅く熾った炭の中から親知らずを素手で拾い出すのである。

このシーンにはソンジェのハヌルに対する真剣さが実に上手く出ている。

だが、そればかりではない。

手をヤケドしたソンジェが一人住まいを始めたハヌルのマンションに雨に降られてずぶ濡れになって訪れるシーン。

スンホンは共通の女友達と引越し祝いの花鉢を携えて訪問するが、ハヌルは部屋にソンジェがいるために玄関先で彼らを追い返す。偶然にも濡れたワイシャツがハンガーからすべり落ちる。巧い暗喩だ。

息をひそめながら友人たちを追い返す、その行為にソンジェとハヌルは秘密の上に成り立つ関係に愕然とする。

苛立って「誰が濡れたシャツを洗ってくれと頼んだ!」という言葉をきっかけに「いつ結婚してくれって言った?」の買い言葉が出て、関係は解消されることになる。

実はこのマンションの部屋には、それに先立つ極めて大切な場面がある。それは引越しの当日ソンジェとくつろいでいたときに突然ハヌルの母親が訪ねてくるところである。

このときソンジェは腹ばいになってジグソー・パズルをしており、ハヌルはその彼の背中に天井を向いて横たわっている。

ソンジェに較べて小柄なハヌルの体格が生きたシーンで、男の監督はこんな状況はとても思いつかないだろう。

母親が訪ねてきたことを知って,ハヌルは思わず立ち上がるが、このとき床に直に置いた紅茶の入ったコップを倒してしまう。

このコップはアイス・キューブを入れてブランデーを飲んだりするときに使う大ぶりの底が丸くなっている、起き上がりこぼしのような倒れにくいグラスであって、それだけ彼女が動揺したことが分るシーンである。

姦通罪の残る韓国で、ましてや母親には絶対に知られてはならず、居留守を使って発覚せずにすんだ。

このシーンがあればこそ、スンホンたちが訪ねてきたシーンで、友人たちへのそんな仕打ちが、自分たちの絶対にオープンにはできない状況への悔しさが別れを迎えさせるのである。

 しかし、後にソンジェが入院したと聞き思わず病院に駆けつけるハヌルを待っていたのはソンジェの妻の<正式に認知されている妻の立場>を誇示する対応だった。

『氷雨』が素晴らしいのは、3人のキャラクターのいずれもに観客が肩入れしてしまう普遍性を見出せるという点である。

不倫は絶対に許容されるものではなく、それだけに病院でハヌルの心情を見抜いて、妻の勝利といわんばかりの横綱対応に観客の胸は痛む。

だが直後に、妻の制止を振り切ってソンジェが点滴のボトルを倒し翼状針を引き抜いてハヌルを追うシーンに、ソンジェの真剣さが伝わってジーンとくるのだ。(映画では描かれていないが、恐らく彼ら夫婦の関係はただではすまなかっただろう。)
 
スンホンとハヌルにも深いシーンやエピソードには事欠かない。

例えば、夜の女子寮のハヌルの部屋にスンホンが遊びに行く。手土産はざくろである。

真っ赤なざくろが白いトレーナーを汚してしまい、丁度停電になったこともあって、ハヌルは着がえるからそっちを向いていろとさっさと下着姿になってしまう。

停電になったから廊下には営繕の係が見回りして、見つかれば大騒ぎになるところだが、こっちに来てと暗い部屋でスンホンの右手を抱えるハヌルにスンホンの胸は高鳴るのだが、スンホンにはそんなことよりも、自分という男がいたのに着がえられるハヌルの行動に、自分が男として認められていないことにショックを受ける。

不倫関係にある男がいることを知ってスンホンは思わず詰ってしまうが、このときにハヌルが平手打ちをし、彼女のGショックみたいな登山用の時計バンドが切れてしまう。

この時計はハヌルがアシアク山に登攀してくることをスンホンに報告にくるシーンで再登場する。

野球のウインド・ブレイカーのポケットにずっと持ちつづけていた時計である。

ハヌルはスンホンに、帰ってきたら普通の男女としての付き合いから始めようと語るのだが、そのアシアク山で彼女は還らぬ人となってしまうのである。

アシアク山に来れば失ったひとに再び逢うことができるという伝説に、スンホンはやって来たわけである。
 
 ソンジェとスンホン。いまやハヌルを愛したという記憶をこの世で止めるただ2人の男である。

ハヌルの「死」の経緯と、遺品としてスンホンに委ねた登山用の時計は最後にメガトン級の感動を呼び起こす…。

アシアク山と、記憶の中のハヌルのやわらかな表情。

女流監督でありながら、関係のできたあとのドライブで車のコンソール・ボックスに投げ出した裸足の指の透け具合に艶かしさを出すなど、男ではなかなかに考えつかない描写もあって達者である。

崖の突端にかろうじて避難した彼らに湧き起る恩讐を超えた感情。

本当に韓国映画においてよく見られる荒業を排し、きめ細やかな情緒を見事な構成で甦らせる、プロの手腕。

ざくろの真っ赤な色を見せた直後に、遭難現場でのソンジェのぱっくりと割れた傷口に繋げるなど、さりげない演出の彩の非凡さ。

ソンジェの大人の魅力、併せ持つ熱情の表現。

報われぬ愛に突き進むハヌルの愛惜。

スンホンの少年のような純愛の強さと脆さ。

女流監督キム・ウンスクの確かな腕前。

どれほどに言葉を重ねても韓国映画の豊饒を思わせる一編である。

優秀な娯楽映画とは、こういうものを言う。

《 数ある作品の中で、あえて推す 》               情事

 良い映画には映画のなかに語られていないものはなにもない。
そのことを思い知る、ボクにとって韓国映画のなかのトップと考えている作品が『 情事 』である。

一言で片付けるなら39歳の人妻が28歳の妹の婚約者と不倫する話である。

そういったストーリーは公序良俗に反しているからけしからんと憤慨される方は、もうここで読み進めることをやめていただかねばなるまい。

それ以外の話はないからである。

だが、人間としての悲しみ、人を愛することの苦しさ、しかし突き進んでしまう業を描いて、これほどの作品を知らない。

1998年の韓国映画で、世に言う「韓国映画ブーム」も「韓流マダム」もこの世には存在していなかった頃、だからこそ雑念を交えず、言いたいことを言える映画が誕生したのであろう。

後に『スキャンダル』『純愛譜』を撮る監督イ・ジェヨン。

ここで彼はヨーロッパ作品を彷彿とさせる知的で乾いた作風で観客を魅了する。

(その意味で純然たる韓国映画とは少々趣きが異なるのだが、入門篇としては最適の韓国・愛の世界を体験できる作品といえる。)

夜の空港の到着口に真っ白いコートを羽織った中年のスリムな女性(イ・ミスク)が立っている。

最終便の乗客がすべて出たが、待ち人は来たらず。同じく待ちぼうけを食らった若い長身の男性の眼差しに、ふと気になりながらも家路につく。

すると帰ってくるはずだった妹(キム・ミン)から詫びの電話が入り、帰国が延びたので、先に帰国している婚約者と相談して新居などを整えておいて欲しいとのことで、後日会ってみると、例の青年(イ・ジョンジェ)であった。

待ち合わせの喫茶店のテーブルに向かい合う2人。これほど正面から見つめられることはないと思うほど、青年は自分を見つめてゐた。

彼女は建築家の夫と、長男との3人家族。いわゆる裕福な家庭の奥様である。
夫の仕事を陰で支え、育児をし、夫(ソン・ヨンチャン)が内装した、いかにも金持ちのような家庭で、彼女の家事は買ってきた食材を切り分けたり、ロ・アンジェルスの自然史博物館に勤める妹が誕生日ごとに送ってくれる化石の石の位置を変えたり、子どもの好きな番組を録画したりすることしかない。

病気療養中の父親がいる実家は普通の庶民家庭で、彼女の結婚は世間では“玉の輿”と呼ばれるものであろう。妹は米国で仕事をさせているし、教育だけは受けさせてやっていた環境だと窺える。

夫は忙しいが、良くも悪くも「家庭は妻にまかせたぞ」という亭主で、「何不自由ない生活をさせてやっているだろ」というところがあり、会社のほうでも適当につまみ食いをしているらしい。

そのことは、忙しいからと着がえを持ってこさせたシーンで、「泊り込みしないといけないほど忙しいの?」と聞かれた夫が目を合わさず、誰の視線でもない職場の[ 空のベッド ]がすっと1カットインサートされることで分る。

美人で貞淑な妻がいそいそと仕えている姿は、彼にとって当然で、しかも男としての甲斐性を実感できる瞬間でもあるのだ。

妹の婚約者に会ってきたことを病気の父親に話すシーンに一瞬挟まれる[ 加湿器 ]のカットは、彼女の幸せな結婚をした自分は果報者だと思い込んでいた状況に独身以来久々の潤いが生じていることのイメージ・カットである。

この映画には、この文章の最初から述べてきた“韓国における女性の立場”が陸続として登場してくる。

二人して彼らがやがて住むであろう新居を探し、家具を探す。その途中で、ジョンジェが彼女に対して発してくる言葉は、結婚した、結婚しないことに関係なく、彼女がついぞ味わったことのない新鮮な驚きに充ちている。

まず「あなたはいつも同じラジオを聞いていますね」と彼女が車の中で常に同じFMラジオを聞き流していることを指しているのだ。

「自分の家がいちばん落ち着くんですよね。いつものことをいつものように過ごす静かな生活が性に合っている」と、現在の生活が自分にとってどれほど幸せかを口に出すのである。

だが、ジョンジェは信用していない。ミスクの横顔にふっとよぎる寂しげな光を感じとっているからだ。

これを聞いてみてくださいと、ジョンジェは『黒いオルフェ』のテーマを録音したテープを呉れる。

アコースティック・ギターがむせぶような情感を掻きたてる。この曲を聴きながらのドライブのカットを数回に割ったことで、いつもの道路のいつもの走行が別の意味を持ってくる。

交通渋滞における点滅するライトでさえ苦痛ではないようだ。
裕福な生活に「いまの生活に満足しなくてはいけないんだ、満足しているんだ」といつしか思い込んでいる自分。

だが、自分を、自分という個人を痛いほどの視線を投げかけてくるジョンジェに少しずつ心を開いていく。

その象徴とも思えるのが家具店のシーンである。

先に着いたミスクがジョンジェを探すがまだ来ていない。彼女が通過した[ 壁にかかっている鏡 ]にジョンジェが映る。「ミスクの心の中にジョンジェがいつしか忍び寄ってきた・・・」という感じが実に巧みなカットである。

郊外のマンションを見に行って、湖を見下ろす部屋の佇まいに心を魅かれる。

だが、問題ないと思われた部屋で、前の住人が貼り付けたまま忘れていった扉の[ こどもの描いた絵 ]を剥がしてみると、そこには拳で殴打して毀されたと思われる[ 表からは判らない疵 ]があった。

これは世の中の男女がこどもという鎹(かすがい)で崩れそうになっている関係を男女から家族という環境において変化させることで保っていることを表現しているように思える。 

その部屋をでてふたりで湖畔に降りる。
ジョンジェは妹とアメリカで知り合うまでに10年米国生活。そしてそのまえに5年間、ブラジルに過ごしたことを語る。なるほどそういう男だから、韓国の中だけに生活している男では気付かない鈍感さに気がつくのだろう。

「人生は偶然の連続によって成り立っている。ボクがこんな風に、再びソウルを歩いているぐらいだから・・・。10年後、あなたは探検家になっているかもしれない・・・」「あり得ないわ」と返事するのだが、そういう夢想に思いを馳せる会話の絶えて久しかったこと…よ。

そこにアメリカの妹から電話が入る。
「お姉ちゃん、(彼のこと)気に入った?(返事に窮していると)姉妹だから好みも似るよね…(!)」
電話を換わると、ジョンジェは最後に「愛しているよ」と口にだしている。

「帰りましょう。遠くに来過ぎたわ」これは近しい感情が高まりかけてきた自分への警句のひとつであろう。

その夜、別れて運転しながらふとバック・ミラーに目を移すと、遠ざかる彼が右手を挙げるのが見える。バック・ミラーに対して咄嗟に右手を挙げてしまうミスク。これこそ二人の心が初めて寄り添った瞬間であった。

ここまで書いてきて、自分の筆力の乏しさに愕然となる。キム・ダイウのシナリオがとにかくよく描けているために、それを例に挙げようとすると、徹頭徹尾触れなければならないことになるのである。

この事実を、この原稿の最後の締めに取り上げようと決めて、実際に書き始めて、はたと困ったのだ。この『情事』のよいところ、スゴイと思うところを、言いたいように言えないことは実にもどかしい。

どんどん自分の中でジョンジェの存在が否定しきれないほど大きくなっていく。

ふとした油断に唇を奪われてミスクは彼を避けようとする。するとジョンジェはミスクの夫に挨拶に行き、自宅に招待されるようにもって行く。

この自宅での食事のシーンは重要だ。夫に妹とのなれそめを聞かれて「一目ぼれでした・・・」と妹になぞらえてミスクへの告白をするジョンジェ。そして夫に問い返す。
「幸せですか?」

このときの夫の言葉が、実はこの映画の大きなテーマに拘わるものだ。

「幸せ?何だ、酔ったのか?あの熱帯魚の水槽を見ろ。あれが幸せだろ。水の流れも温度も丁度いい。食べ物を与えられ、ただ泳いでいるだけでいいんだ。これこそ幸せさ」その水槽の向こうにはミスクが座っているのだ。

やっぱりだ、こんな男に彼女は縛られている・・・。ジョンジェがそう思わずとも、観客がそう感じるように映画は進む。

その夜いぎたなく酒に酔いつぶれた夫の横では寝付かれない。マンションの前の公園で来てくれるまで待つとジョンジェが言ったからだ。

夜の2時半、まさかと行ってみると、いつしか降りだした雨にずぶ濡れになりながら彼はいた。なんという無茶をするのだろう・・・。

「バカみたい。なんで私を好きになったの?わたしは年上だし、子どもだっているのよ」
「あなただって何故好きに?ぼくはガキだし、こどももいないのに」
とミスクが倫理観から戒めても、ジョンジェはもうひるまない。

彼らが結ばれるまでには、見るものをして、必ず頷けるような経緯がある。

しかし、簡単に関係を結ぶのではなく、キスやセックスをするよりも実は難しいであろう、それに到る[ 手を握り合うこと ]での高まりが胸をうつ。

彼が主人公に対して投げかけてくる言葉のすべてが、自分を「○○さんの奥さん、△△ちゃんのお母さん」という扱いで発せられる言葉ではないことに揺れてくるのである。

その象徴と思われる名シーンが用意されている。

一族郎党が打ち揃っての法事のシーンである。

ミスクの夫もいわゆる「勝ち組」なのだが、本家は大豪邸に住んでおり、この一族が裕福な金満家一族であることがわかる。男たちは夜遅くまでご馳走に舌鼓をうちながら宴会をする慣わしのようである。

ミスクは別室に入りジョンジェに電話するのだが、この時ジョンジェが電話に出る前に[ スタンドの灯り ]を消して真っ暗にする。このときミスクは倫理の鎧を真っ暗にすることで脱いだのである。

はっきりとジョンジェを求めて駆けつけたミスクは彼が入り浸っているゲーム・センターで求め合う。

このシーンでは格闘ゲームに興じていたジョンジェが何かしたらと、簡単な[ カー・レースゲーム ]を薦める。

そのゲームをしている背後から相手を慈しむような愛撫が始まるのだが、愛撫に反応しているうちに画面にはそのゲームがクラッシュして終了となるなど、じつに巧みな暗喩が見られる。

めくるめく逢瀬をすませて邸宅に戻れば、亭主たちは「浮気は男の甲斐性だ」みたいな話に沸いている。

そしてこの映画の最高の描写だと思うのは、抜け出したときと同じように、一族の主婦たちが一室に集まって、あきらかに亭主たちとは違う粗餐で、だれひとり笑うわけでもなくテレビをかけっぱなしにしているシーンである。

ここはミスクの5年後、10年後、20年後、下手すりゃ100年後だって、こんな有様なんだろうと、見る者を震撼させるものである。

『情事』という映画は、あくまでも女そのひとを愛そうとした若者のまっすぐな眼差しに、本来持ちえていたけれども、妻、母親、主婦、など、旧態依然とした体制のなかに封印してしまった「をんな」を揺り動かされて弾けさせることになる「こと」を描いている。

その戦いは女性がアイデンティティを獲得しようとした戦いである。女性ひとりだけでは為しえなかったのだが、最後の決断は孤立無援の戦いとなる。

ジョンジェはむかし住んだブラジルについて40歳までは働き、それ以後はブラジルで住んでみたいと考えていることを口に出す。

「40歳は案外早く来るわよ」

28歳のジョンジェが考えている40歳はまだ遥か先の空想ごとであったが、39歳のミスクには現実そのものなのだ。

その愛の行方がどうなっていくのかは映画をご覧いただければわかるのだが、『情事』には『子猫をお願い』の項で触れた「根っこ」がある。

「走り根」のように地表に歴然と主張しているような根ではなく、人間としてのしがらみや、常識と言う名の強権的な抑圧の前にあたかも存在しないように見えている、太くて長い「根っこ」がある。それを、人は「情念」と呼ぶのだろう。


友人でキャスティングの映画のプロであるTくんが、こんなメールを呉れたことがある。

「私思うに、韓国映画には真の女性映画が出てきてないんじゃないですか?「秋津温泉」の岡田茉莉子「忍ぶ川」の栗原小巻「妹」の秋吉久美子らに代表される、自己を貫く女性、そんなヒロインが韓国映画にはないように思いましたが。いかがですか?韓国映画のヒロインは、過去の日活映画に出てくる、吉永小百合、浅丘ルリ子らのように、男性のキャラクターに振り回されているように思いますが、どうでしょう?他の韓国映画はどうなのかな?」と。


ボクは『情事』こそ、『にっぽん昆虫記』であり『赤い殺意』であると考えている。

日本において1070年代になって噴出した自立する女性映画群像が、韓国に捲き起こるには、あと数年はかかるだろう。

その気配はまさに少しずつだが感じられてはきているのだが、そのような女性がスクリーンを闊歩できる時代が到来したとき、韓国映画の女性たちはどう跳んでいくのだろうか?

そしてまた、日本はどうなっていくのだろうか?

[特別添付]  映画『情事』日本版予告編惹句全記載
「情事」
39歳 このまま平凡に人生が終わると思っていた
たぶん これが最後の恋

貴方の妹と婚約してしまった でも僕はあなたを愛している
「もう あなたとは会えないわ」
「そんな 簡単に出来ますか?」
「妹を不幸には出来ない」

韓国で不倫は違法
それは「愛してる」とは決して言ってはいけない恋―情事

愛してる



懸案であった原稿をようやく具体化できました。
ミアネョ、カムサハムニダ!

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