ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

北京波の新世紀映画水路コミュの極私的東京ロケ地探訪ツアーPART?

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
さる12月、上京した折に、友人たちと敢行した映画ロケ地探訪ツアー。楽しかった、嬉しかった。そんな気持ちが伝わったのか、予想もしなかった反響がありました!

この2月末、所用のために上京したとき、なんと第2弾をかましてしまったのです。今回は範囲も適応作品も内容的にボリューム・アップ。


◇昨夜(2月27日)午前3時過ぎには就寝したが、逸る気持ちが表れているのか、6時半には覚醒する。
主であるFクンは「これでも見ててよ」と1968年の東宝映画『街に泉があった』をかけてくれる。


◇この映画で三田明が歌う主題歌が、一日中耳について離れなくなった。
すなわち【♪〜ほこりだらけの空で見つけた、青い一粒の小さな星〜僕たち本当に良かったね〜ひとりぼっちじゃなかったね♪さみしかったよ昨日まで〜♪〜街に泉が、泉があった〜”

ほ〜んと、中年の青春に火をつけたら恐いなぁ。はやばやと食事を済ませると、Fくんの車に乗車、まず竹ノ塚方面へ出発!


【 M不動産 】が経営しているビルを通る。この何の変哲もないビルだが、当時は一躍有名となったところ。フジ・テレビ菊間千乃アナが「めざましテレビ」の中継で転落し、あわや脊髄損傷にもなろうかという事故が起こったビルなのだ。

車は西新井大師から竹ノ塚に向けて走る。

その途中には【 玉の井部屋 】があった。(栃東で有名だ。)

竹ノ塚は最近あの「SMAP×SMAP」のなかで「竹ノ塚物語」というコントでも舞台となっている場所だが、実は映画では重要な場所である。

≪★1≫昨年『血と骨』で数々の監督賞を受賞した崔洋一が、その名を全国的に轟かせた『月はどっちに出ている』で、主人公の在日タクシー運転手が勤務しているタクシー会社【 丸正自動車株式会社 】がここにある。

映画では平面式だったが、現在は駐車場は2階建てとなっている。車はその前の道を煙突に向かって進む。

この近くにはFくんの母上が眠っているお寺【 易行院 】がある。「ついでに参っていってよ」という言葉に「いいよ」と答えたのだが、このお寺、決して単なるお寺ではなかった。

このお寺の住職は「笑点(※1)」の大喜利の司会で有名な三遊亭円楽師匠のお兄さんであり、ここには【 円楽師匠の墓 】がある。

「おいおい、円楽はまだ生きてるじゃないか」という声がありましょう。
つまり、生前に建立されたものである。

墓地のメイン・ストリートの突き当たりに「円楽之墓」と朱書きされた立派な墓所が建っているが、この墓には悲しいエピソードがあるのだ。

この墓の右となりには観音菩薩が据えられている。
それは1972年ニュー・デリー沖にて遭難して亡くなった実の妹さんの菩提を弔ったものである。
23歳であったという。
 
そして、この易行院の墓地への入り口には足立区教育委員会が説明のために建てたプレートがある。
【 助六の塚 】があるのである!
少し長くなるが、その説明を全文ご紹介しておこう。

≪ 助六の塚: 易行院は浄土宗で、もともと浅草の清川町にあったが、関東大震災後、昭和3年(1928年)に現在地に移転した。
寺の入り口正面に「助六の塚」がある。
当院の文化年間(1804〜1818)の過去帳に「西入浄心信士 俗称戸沢助六 承応二歳巳二月十一日死す 志厚之有施主 七代目市川団十郎 無縁を弔 墓所造立シ永追福経営施主」とある。
現在は歌舞伎で名高い花川戸助六と揚巻の墓が、助六地蔵とともに祀られている。
助六と揚巻の仲が良かったことから、お参りすると夫婦円満、結婚成就にとてもご利益があると言われている。
市川家が主演する「助六縁江戸桜(すけろくゆかりにえどざくら)」は歌舞伎十八番のひとつである。
七代目市川団十郎が、文化九年(1812)に助六百六十年忌法要を営み、九代目が明治になって大法要を営んだという。  平成6年 東京都足立区教育委員会 ≫

 助六といえば『クレージーの花のお江戸の無責任』で植木等がやっていた。揚巻は団令子。昭和30年代後半の高度成長期そのものの頃である。(※2)

だが、偶然とはいえ、もうひとつ驚くべき出合いがあった。
Fくんが「このお寺の真ん前のお寺・・・、三平の墓があるんだよ」と言ったのだ。
そのお寺には徒歩30秒。

【 常福寺 】には確かに昭和の爆笑王・三代目林家三平の墓があった!

本堂のすぐの横手。
雑木ばかりだが質素ではあっても存分に手入れがされてあり、墓参客が絶えていないことを思わせた。
合掌したあと、墓の前で「どうも。スイマセン」のポーズをとった。

ふざけているとは思わなかった。三平は絶対に喜んでくれるだろう。ボクたちは誰だって三平が好きだったのだから。とき、奇しくも、倅・こぶ平の九代目林家正蔵襲名の春であった。(※3)

ボクたちは、なんとなく温かい気分になって、本格的にロケ地探訪ツアーに発進したのである。

(※1)笑点:このタイトル自体が、もう説明しなくちゃわからない。当時ベスト・セラーになっていた三浦綾子原作の「氷点」をもじったものなのだ。いまや全員が老けてしまったメンバーだが、前身は毎週金曜日の夜10時30分から30分枠であった「金曜夜席」である。大喜利の司会は立川談志。三遊亭小円遊、三遊亭円楽、桂歌丸などが初期のレギュラーだった。それが日曜夕方に移動した。司会が三波伸介となり、三波の死去により円楽に替わった。

(※2)助六:なぜお寿司で、いなりずしと巻き寿司の組み合わせを「助六」というのか?これは助六のスゥイート・ハートの揚巻が「(油)揚げ&巻き(すし)」から来ている。ただし、大阪には「助八」という「巻きすし&バッテラ」のメニューがある。これは安直な便乗命名だと思われる。

(※3)林家正蔵と三平:正蔵といっても、ついこの間までの彦六の正蔵ではない。大名跡である林家正蔵がこぶ平に行くのか・・・という感慨がないわけではないが、三平の名は誰も継げないが、正蔵なら精進すれば可能だろうと納得している。

昭和54年1月に脳内出血で倒れて後遺症に陥った三平がやっと退院して、「徹子の部屋」に出演したときのことをいまも覚えている。逓信病院に運ばれたとき、ラジオで聞いた人の話では「三平が精神病院に運ばれた」ってんですから。それからね、二重人格になっちゃった。「ええっ?」そうなんですよ、黒柳さん。わたしね、すごい痔があったんです。それを手術したんですよ、「痔切る博士とハイド」で二重人格。雨降って痔固まる・・・。ぅあ〜ん。
 
しかし、この痔は肝硬変・肝がんによる痔であり、三平は爆笑王としてでなく、最期の日々を「源氏物語」「源平盛衰記」などの古典ネタに挑戦。

それは父・林家正蔵への思いがあったればこそではなかっただろうか。
数多くの大師匠から笑いさえ取れたらいいのか!と凄まじい嫌がらせがあったと聞く。

だが、何よりも観客が彼を愛した,支持した。だが、病を得て、このまま死んでしまったら親不孝は決して償えなくなる。
その相克に病み上がりの身体が苦しめられた。

三平が死んで、八代目林家正蔵はその名跡を三平側に返上。正蔵は本来落ち着くところに落ち着かせたほうがいいという配慮であった。

その八代目は戦前の東宝映画『彦六大いに笑ふ』から名をとり、彦六と名乗った。

こぶ平は正蔵襲名が決まってからの2年間稽古、稽古、稽古の日々で50席をレパートリーに加えたという。三平の次女・泰葉と結婚した春風亭小朝がしみじみ言っていたことだから間違いはないだろう。父・三平が遂に果たせなかった古典落語の担い手としての道を歩もうとしている。これはとてつもない親孝行だなぁ。

★ボクたちは林家三平の墓を後にした。これからいよいよ大東京ロケ地探訪の小さな旅が幕を切って落とされたわけだ。車は荒川方面を目指した。


【 扇橋陸橋下 】を右折。
《★2》ここはリュック・ベッソンの『WASABI』でジャン・レノ&広末涼子が歩いた場所。広末が住んでいた叔母さんの家から出てきて、車に乗り込むシーンに使われた。

また北野武映画のスタジオ撮りする際の撮影所(小さなスタジオ)が近くにある。
右折する交差点の向こうに、
【 熊野前商店街 】が見えてくる。

《★3》この商店街は例の「天才たけしの元気の出るテレビ」というテレビ番組で元気のない商店街活性企画として選ばれた。あの招き猫のたけしの巨大な張りぼてが電停前まで闊歩した光景を思い出す。
いま元気かどうかは一見の客であるボクにはしかと分らなかった。またこの商店街にはテレビ・ドラマ『ビューティフル・ライフ』の舞台となった酒屋があるところである。車は下町をひた走る。

【 東尾久商店街 】のなかに進入すると、そこにはいまなお懐かしい看板が見えてきた。
【 栃木屋豆腐店 】である。この東尾久2丁目にあるレトロな豆腐やさんは、

《★4》市川準監督の『東京兄妹』で妹役の女優さんがなにかというと買いに行く店だ。前回のパート1において、この女優さんが消えてしまったような記載をしたが、いまもなお現役バリバリであった。深謝する。

また、もう少し荒川行脚すると、見覚えのある校門が迫ってきた。
【 東京都荒川区立第九中学校 】である。

《★5》ここは山田洋次の『学校』シリーズの第1作において夜間中学のモデル校でもあったために起用され、西田敏行と中江有里の「先生、わたし先生になりたい」という感動的なラスト・シーンになったところだ。

私見であるが、ボクは山田洋次が好きである。
いかに嗜好の問題だとは言え、分りやすく、ひとの悩みや迷いを子どもにでも分る言葉遣いで時代によって動揺しない真理を説いていく義務が映画にはあるのではないか。

サムシング・ニューを目指すのは当然としても、それは表現上の問題であって、あたかもなにかありそうなように宙ぶらりんの状態をごまかす抽象的な表現を選ぶ映画が少なくないことを憂う。

すべての映画人が山田洋次をすいすい越えて行く時代が来ないものだろうか?

車は入谷から首都高速へ乗る。芝公園出口まで快適なドライブである。
一般道に下りる。国道一号線を南下。なだらかな右周り道路の突き当たりにある9階建てのオフィス・ビル。ここには丸い石碑が建物の前に建立されているのだ。


【 薩摩藩邸前 】である。石碑に「江戸開城 西郷南州 勝海舟 会見之地 西郷吉之助書」とあった。さすれば

《★6》『江戸最後の日』での舞台となったところだろう。
車は田町から芝・泉岳寺を尻目に南下。

【 品川駅手前の道を左折すると制限高さ1,5Mと朱書きされた低い地下道=泉岳寺トンネル 】がある。この芝浦と泉岳寺を結ぶ、鉄道の下をくぐる抜け道こそは、

《★7》飯島直子主演の『メッセンジャー』にてバイク便との配達競争に勝つために、自転車急便の彼らがバイクでは通れない道を選択するシーンで出てきたところだ。

いまや思い出すこともほとんどない映画だが、加山雄三と江原達怡の若大将での名コンビがでてきたことしか覚えてないなぁ。ボクたちはまた1号線に戻り品川に向けひた走る。

《★8》この品川駅近く東海道線と京浜線が交差する
【 八ツ山陸橋 】は大崎方面から来た山手線が駅の近くでこの橋の下をくぐる橋。

川島雄三監督の『幕末太陽伝』(‘57)のトップ・シーンにおいて登場する。
映画では鉄橋だが、現在は昭和60年に架け替えられたという新しい橋となっている。

今回ボクたちが来たのとは逆方向に大崎方面から八ツ山橋を映し、橋と国道と運河の俯瞰に続いて左後方にカメラはパン。北品川本通と呼ばれる旧東海道の入り口が映り、売春禁止法施行直前の品川特飲街として出てくる。

この商店街の東側には山根成之監督の傑作青春映画『さらば夏の光よ』において、秋吉久美子看護婦が勤めていた産婦人科医院があった空き地がある。(※1)

その西側の街道筋には『幕末太陽伝』の舞台となった遊郭の後裔と思われる旅館がいまも営業中。この品川の北側
【 (北品川) 】は

《★9》北野武監督の初監督作『その男凶暴につき』(‘89)での川沿いのシーンが多数撮影されている。

あの悪人面した俳優がみんな警察官で、優しそうにみえるマスクは全部悪人という皮肉なキャスティングがユニークな忘れえぬ映画で、逃げ惑うヤクの売人を車で追いかけて轢いてしまうシーンだ。悲しいかな、その川は埋め立てられ広い道路に変貌して見る影もない。

車はそのまま北に進路を取る。すると目前に聳え立つ高層ビルの屋上のヘリ・ポートこそは織田裕二・和久井映見の恋愛に大地真央の天使がからむ東宝映画

《★10》『エンジェル僕の歌は彼女の歌』においてヘリコプターの発着シーンで使われたビルなのである。そしてそのビルに向かうときに左側に続く運河は

《★11》ホイチョイ・ムービー第2作『彼女が水着に着がえたら』においてジェット・スキーが疾走しまくった運河である。

まあ、これらの映画の記憶の薄い分、思い入れも希薄なことになり、ドライブを楽しむだけのひとときとなる。そうこうしているうちに、前方になにやら見た覚えのある建物が見えてくる。

ああ、ここは天王洲アイルと呼ばれる近年できたビジネスビル街であり、2年ほどまえにWOWWOWで放送された映画王選手権というクイズ番組を収録したテレビ東京のスタジオがここにある。あの問題と構成では、ボクではどうにもならなかったが、「TVチャンピオン」かなにかで、徹底した映画クイズでもやってくれたら是非出てみたいが、いちども企画されたことがないのは90分を映画というくくりで構成するのが無理だからだろう。

車は、遂に行きたしと思えども、果せずにいた【 泉岳寺 】に到着した。

<泉岳寺及び忠臣蔵についてのこぼれ話>
昭和30年代の東映オール・スター「忠臣蔵」三連発の時からの“赤穂浪士”フリークのボクにとって、正直“聖地”とも言うべき場所である。

《★12》多くの忠臣蔵映画が討ち入りをもってエンド・マークが出るため、泉岳寺そのものが登場する映画はあまりない。

ただ、そういって、すぐに思い出すのは深作欣二監督の『忠臣蔵外伝・四谷怪談』だ。冒頭の浅野内匠頭の墓前に集った赤穂浪士に対して野分とも言うべき風が吹き荒れる。

しかし、それも現在の泉岳寺でロケしたわけじゃないので、このルポの目的からは少し離れることになる。だが、日本映画最大の恩人とも言うべき“赤穂浪士”への敬意をこめて、この観光スポットをあえて取り上げておこう。

泉岳寺は港区高輪1丁目にあり、播州赤穂・浅野家代々の菩提寺である。浅野内匠頭長矩・阿久里夫妻の墓に、当然だが吉良邸に討ち入って本懐を遂げた四十六士の墓がある。

もちろん一隅に寺坂吉右衛門の墓もあるが、これは偉業を偲ぶひとびとのエールが実現させた招魂碑といわれ、萱野三平の碑とも伝わっている。

(また一部には薩摩の剣客・村上喜剣の墓だろうという説があるが、これは誤りだろうとされている。最近では、この村上喜剣そのものが余り忠臣蔵に登場しないため聞き慣れないが、この喜剣は大石が祇園などで遊興の日々を送っているときに憤慨。一力茶屋に押しかけて大石をなじり、唾を吐きかけて去った。だが討ち入り後切腹となった大石の泉岳寺の墓前で、大石の真意を見抜けなかったことを恥じ入り切腹して詫びた・・・というのだが、いかにも臭い。

こういう説も泉岳寺に残る「刃道喜剣信士」の墓碑が喜剣のものだという論による。最近の忠臣蔵では、祇園で大石に詰問するのは不破数右衛門などの赤穂関係の浪人・侍か、多くは吉良・上杉の隠密による探りとなっている。)
 

本懐を遂げた浪士一行は夜が明けかけたころ、引き揚げを開始する。そのとき上杉家からの討手を懸念して吉良邸(墨田区両国三丁目)裏にある回向院(両国2丁目にある。例の八百屋お七の振り袖火事:明暦の大火による死者を弔うために建てられた寺)に入ろうとしたが拒否され、そのまま徒歩で泉岳寺に向かった。

午前8時頃に到着し、浅野内匠頭長矩の墓前に吉良上野介の首級(みしるし)を供え、討ち入り成就の報告と焼香した。

寺坂吉右衛門は吉良邸から忽然と姿を消したため、泉岳寺には来ていない。寺坂は晩年山内主膳に仕え83歳で没した。

2004末にNHKの金曜時代劇にて6回シリーズで放送された『最後の忠臣蔵』は元禄時代を多く取り上げたドラマで達人であるはずのジェームス三木のシナリオをもってしても凋落NHKの勢いそのままに、どこかしょぼくれた出来になっていたが、これは寺坂吉右衛門のその後を描いたもので、大石からことの次第を関係者や家族に説明する役目を命じられた寺坂が、裏切り者、腰抜けの不面目に耐えながら、ついには大石とおかるの忘れ形見である娘を嫁入りさせるまでを描いている。

赤穂藩の家臣たちの給与と役職名が記された、いわば赤穂藩の社員名簿みたいな「分限帳(ぶげんちょう)」と呼ばれる古文書があるのだが、ここには赤穂藩の全従業員名簿のようなものだが、赤穂浪士四十七士のうち、寺坂吉右衛門をはじめ間十次郎(はざまじゅうじろう)、間新六(はざましんろく)、不破数右衛門、間瀬孫九郎、村松三太夫、矢頭右衛門七の名はない。

寺坂は吉田忠左衛門の家の小者で、浅野家からは禄を食んでいなかったからかもしれないが、ここで見ていて腑におちないことに気がついた。

昨年の『最後の忠臣蔵』では上川隆也扮する寺坂吉右衛門と、大石から特に請われて進藤源四郎(香川照之)という武士が脱藩して大石の遺児の世話にあたる人物を二人主役として捉えていた。

しかし、この分限帳によれば筆頭家老の大石内蔵助で1500石、吉田忠左衛門で200石、片岡源五衛門で300石である。

しかるに進藤源四郎は400石。寺坂にとって主筋の吉田でさえ進藤の半分の禄高であった。すると素人考えでも、あのドラマで寺坂が進藤に対して同等のため口を利いているのは正しいのか?という素朴な疑問がおこるではないか。

進藤は実は大石の遠縁にあたり、ここからおかるの遺児を育てたという発想が起こったのであろう。

また『最後の忠臣蔵』には津川雅彦が綿屋善右衛門という赤穂浪士のいわばスポンサーである豪商を演じていたが、この綿屋こそ天野屋利兵衛のモデルと言われている人物である。

泉岳寺にはなんと天野屋利兵衛の墓があった。調べてみると京都にもあるとのことで、これだけ愛された赤穂浪士に関連する重要なキャラクターでは枚挙に暇がないのは当然であった。

で、泉岳寺だが正面に堂々たる風格の山門があり、その右側には大石内蔵助の立像(プレートに大石内蔵助良雄)が建っている。

ブロンズで製作された像で、右手を下げ、左手には帳面を持っている。すぐ背にポプラの木を背負って立っているように見える。

奥まった墓所に進んでいくと、右側に首洗いの井戸(オッペケペの川上音二郎建立!)があり高札に曰く[ 首洗井戸 吉良上野介義央の首をこの井戸にて洗い以って主君の墓前に供う ]とあった。

また天野屋利兵衛の墓などがあるのだが、最近建てられたのだろう四十七士の墓所に通じるなだらかな坂道にあたかも花道のようにアーケードが作られており、この両脇の石柱を建立しているのが松竹や東宝、そして名だたる歌舞伎役者や映画俳優の面々だから、このラインアップを見るだけでも話しの種にはなる。
善男善女が思い思いの義士の墓に香華を手向けていて、気持ちがよかった。

さて自分が役者だったとして、いったい忠臣蔵に出させてもらえるなら誰を演じたいか…?

こんな空想を小学生の頃から何百回と夢想したかわからない。結論から言えば、浅野内匠頭以外の役ならば何でもいいような気がする。

子どもの頃から、もう少し我慢すればいいのにと幼稚な批判は持っていた。好きなキャラクターはいる。それはなんと言っても多門傳八郎重共(おかどでんぱちろうしげとも)であり、関連して片岡源五右衛門である。

内匠頭が田村右京太夫邸にお預けとなって即日切腹となったとき、渡り廊下で片岡源五右衛門と主従の別れをさせてやる幕府の目付けだが、忠臣蔵において、この別れがない作品はまずない。

多門が書き残した記録によれば、別れののち、片岡が多門宅を訪れ、赤穂の塩を土産に礼を言いに来たと言う。浅野内匠頭以外なら、戸田局だってやりたいんですから!

★結局門前の売店にて赤穂浪士の全員の名前が入ったマグカップと、大石内蔵助の家紋入りふたつき湯のみを購入。オノボリサンはオノボリサンとしての使命をまっとうしたのでありました。

さて泉岳寺を後にして、車は国道1号線を北上。新橋を通過するとき、せんば自由軒の東京支店があることに気がついた。

「自由軒」といえば千日前の名物カレーのメニューで有名な老舗だ。豊田四郎監督の『夫婦善哉』には映画の中で3回も登場する。「こ、ここのカレーはな、ようまぶしてあるからうまいんや」と森繁久弥扮する惟康柳吉が淡島千景扮するお蝶に言う。

本当の直系は、なにも付かない「自由軒」であるが、「せんばー」も「みなみー」も弟子筋にあたるのだろう。
肝心のカレーの味は一緒だから、東京のひとなら一度ご賞味あれ。

車は新橋から銀座に入り、【 数寄屋橋交差点 】に入ってきた。

《★13》ここの交差点と、4丁目の服部時計店前の交差点ほど古今の映画に登場する交差点はないだろう。
むかし赤尾敏がずっと演説していた場所の北側に、なんと『銀座の恋の物語』の主題歌の歌碑が出来ていた。半円形の石の前面に金属板がはめ込まれていて、「銀恋の碑」と書かれ、作詞者、作曲者、そして歌詞と楽譜がレリーフされている。
映画の『銀恋』では早朝の銀座を人力車を引いて裕ちゃんが走るタイトル・バックだったと思うが、あれは4丁目だろう。

あくまでも映画というより、ヒット歌謡曲「銀恋」の碑で、それだけにスケールが小さい。

それよりもこの歌碑の道路を挟んでまん前の、屋上にでっかい【 プリマ・ハムの電飾があるビル 】こそ、いまやカルト的なファンを集める鈴木英夫監督の東宝映画『その場所に女ありて』で司葉子扮する女流コピー・ライターが所属する広告代理店「西銀広告」として屋上でロケされていると考えられるビルなのである。(この映画については、後にに重要なロケ地として再登場するので後述します。)

《★14》車はそのまま北上。京橋から【 東京駅 】に向かう。この八重洲口の大丸百貨店は、あの田中裕子とジュリーの結婚のきっかけになった山田洋次『男はつらいよ花も嵐も寅次郎』で田中が勤めていた店。そのまま北上。

《★14》昔からの町名が残る【 呉服橋 】にくると、左側にレトロなビルというのか、昭和30年代を懐かしく思い出させるオフィス・ビルが見える。
この正面玄関に立つと、あの『社長』シリーズや『無責任』シリーズで何回使われたかわからないビル【 大和證券本社ビル 】である。ここは、「○○物産」とか「××商事」という名前で、例えば森繁が出社すると社員たちがうやうやしくお辞儀して迎える本社ビルとして使用された。あの『大冒険』にも植木等が電線にぶら下がるシーンの背景に見えていたように思う。

《★15》車は直進し、いつしか【 神田からお茶の水に向かうなだらかな坂道 】に入り上り坂となる。
奥に神田川が流れ、坂の真下はJRの中央線と総武線が合流した直後の軌道が見渡せる。この坂が印象的に出てきた映画がある。

いまや一部のファンに熱狂的な信奉者を持つ東宝の鈴木英夫監督『その場所に女ありて』である。

これは現在なら電通と博報堂みたいな広告代理店の戦いを描いた作品で、司葉子扮する西銀広告の女性プランナーが、対抗するライヴァル代理店の冷酷社員・宝田明との間の公としての丁丁発止の戦いに、私としての女の愛憎を絡めたビジネス・ハードヴォイルドである。

この坂はついに一夜をともにした彼らが朝の陽光を浴びながら出勤するシーンに登場している。(サラリーマンもので売った東宝なればこその映画であったと思う。司葉子の紛れもない代表作で、彼女は『乱れ雲』『秋日和』『紀ノ川』何より本作を代表作と誇っていい)。

《★16》車は坂を登りきって【 JRお茶の水駅 】横を左折。

すると有名な【 ニコライ堂 】が見えてくる。

ここはいくらでも作品には困らないが、ボクにとっては小津安二郎監督の『麦秋』で原節子が二本柳寛と珈琲を飲む喫茶店の窓から見えるシーンが最高だ。このシーンほど東京が絶対に地方都市にはない風景をもつ都市かを、地方在住者に思い知らせるシーンはないと考えるからだ。

摩天楼はそれほど胸を掻き立たせるものではなく、むしろ、そこに生活している人々の、日常のありふれた行いに関係している風景の、あまりのスケールなどに息を呑むことになる。

車は【 小川町交差点 】から靖国通りを進んで【 神田古書店街 】に入る。
【 神保町交差点 】から右折、白山通りに。道路左側に間口2間の【 誠心堂書店 】がある。

この店は昨年、小津生誕100年を記念して松竹が製作した候孝賢監督の『珈琲時光』で浅野忠信が古書店主を演じた店だ。

この店から1分以内に行ける【 喫茶店エリカ 】とともに昭和の匂いを色濃く残している。

日本でも古書店主が主人公になる映画はあるようでないはずだ。そういえば市川準監督の『東京兄妹』の緒形直人は神田古書店に勤める店員だったなぁ。

そのまま【 水道橋駅 】を乗り越えて、【 後楽園 】に。日曜とあって沢山の人が遊園地などに集っていた。
ここは、むかし「後楽園シネマ」という名画座があり、これといって特色のない番組だったが、あるとき<ロシア映画祭>というソ連映画の回顧集中上映があり、ボクはここで『戦艦ポチョムキン』『大地』『アジアの嵐』『母』『誓いの休暇』『僕の村は戦場だった』『戦争と貞操』『人間の運命』などの古典から、『別れのときに』『遠い日の白ロシア駅』などの新作を見ることができたのだ。
あの時見ていなければ、現在まで見ていない映画ばかりだった。これが縁というものだろう。

車は、いまはご夫婦で受験予備校を経営されている友人のハルキング氏が初めて学習塾を開かれた【 春日町 】から、第1回ロケ地探訪ツアーで詳しく述べた学者町【 西片町 】を通過。

文京区白山1丁目には、かの【 八百屋お七の墓 】がある。文京区教育委員会が立てた高札にはこうある。

[ 八百屋お七の墓:お七については、井原西鶴の「好色五人女」など古来いろいろ書かれ語られて異議が多い。
お七の生家は駒込片町などでかなりの八百屋であった。
天和(てんな)の大火(1682)12月、近くの寺院から出火して、お七の生家が焼けて、菩提寺の円乗寺に避難した。
その避難中、寺の小姓佐兵衛(または吉三郎)と恋仲になった。
やがて家は再建され自家に戻ったお七は会いたい一心でつけ火をした。
放火の大罪で捕らえられたお七は天和3年3月29日火あぶりの刑に処せられた.
数えで16才であったという。
三基の墓のうち、中央は寺の住職が供養のために建てた。
右側のは寛政年間(1789〜1801)岩井半四郎がお七を演じて好評だったので建立した。
左側のは近所の有志の人たちが270回忌の供養で建立したものである。
−郷土愛をはぐくむ文化財―文京区教育委員会 ] 

なるへそ、ね。八百屋お七の映画は覚えがないなぁ。富田靖子が『BU・SU』でお七を文楽仕立てで踊っていたことはあるが。

おなじく白山には、むかしよく行った【 三百人劇場 】がある。いまでも集中回顧上映ならここだが、黒澤明の『白痴』を初めて見たのもここだった。横長の変わったつくりだったという印象が強い。

そのまま車は【 巣鴨地蔵尊 】へとひた走った。いまやお婆さんの原宿と言われる聖地だが、商店街の入り口に「春日三球の店」と大看板があるのが印象にのこった。

そして、ここからボクたちは午前中の「忠臣蔵」=泉岳寺につづいて、日本映画最大のヒーローの雄・新選組ゆかりの場所を訪れた。

《★17》それは【 板橋駅前 】にどんとあった。

【 近藤勇と新選組隊士供養塔 】である。東京都北区教育委員会の高札によれば、要約すると

[ 慶応4年(1868)4月25日、刑場にて斬首された。その後首級は京都に送られ、胴体はこの場に埋葬された。
本供養塔は明治9年、近藤に私淑していた永倉新八が発起人となり、明治幕府御典医であった松本順の協力を得て造立された。
高さ3,6メートル程ある独特の角柱状で、四面のすべてにわたって銘文がみられます。
正面には「近藤勇 、土方歳三 之墓」と刻まれており、二人は併記されている。
右側面と左側面には、それぞれ八段にわたり、井上源三郎を筆頭に、合計百八名の隊士らの名前が刻まれている。
裏面には当初は「近藤 明治元年四月二十五日  土方 明治二年五月十一日 発起人として永倉と石工の名前」が刻まれていたが、現在はわかりにくくなっている。
戦術方針の相違から一度は近藤と袂を分った永倉ですが、晩年は戦友を弔う日々を送ったと伝えられています。本供養塔には、近藤勇のほか、数多くの新選組ゆかりのものたちが祀られているので、新選組研究を行う際の基本資料とされ、学術性も高く、貴重な文化財です。 ] とのことである。

板橋駅前という繁華な場所にあるのだが、その一角は静寂に包まれており、左側には侍女というより、衛士のごとく「新選組永倉新八墓」と刻まれた墓碑がある。

かえすがえすも三谷幸喜の『新選組!』は傑作であったなぁと、熱いものがこみ上げてくるようだった。いつまでも止まりたかったが、そうもいかない。車は王子方面へとひた走る。

《★18》ボクたちがやってきたのは古来より江戸の人々の花見処として名高い【 飛鳥山 】である。

文献によれば江戸時代に庶民がお花見に興じるようになったのは江戸時代初頭で、上野寛永寺に植えられた桜がもっぱら愛でられたという。

しかし寛永寺は将軍家菩提寺であったため、お酒や鳴り物は持ち込み禁止で夕刻には解散させられたとのことで、現在の花見とは似ても似つかぬものであったという。

今も残る桜の名所の多くは八代将軍吉宗が造営したものだということだ。倹約一本で節約家のイメージが強い吉宗だが、寛永寺の状況を知り、隅田川堤や浅草観音裏、品川御殿山などと並んで造らせたのが飛鳥山であった。

したがって『旗本退屈男』のある作品には飛鳥山に花見に行くシーンがあったそうだが、作品名は定かではない。

この飛鳥山公園には王子らしく【 紙の博物館 】や、【 北区飛鳥山博物館 】そして明治維新後実業家として有名な【 渋沢栄一資料館 】など3つもの博物館があり、さすが首都の有名な花見処だと、田舎者には驚くばかりであった。

《★19》田坂具隆監督の傑作をリメイクした東宝の吉松安弘監督『陽のあたる坂道』で大金持ちである主人公の邸宅として使われた【 古河庭園 】は程近いところにある。

この庭園の中の洋館はよく映画に出てきた。『乱れからくり』や『瞳の中の訪問者』もそうだったと思うが、昔はツタを這わせた時期もあったが、現在はツタは払われていた。

三浦友和主演の同作は3度目の映画化。もとは『エデンの東』からヒントを得た原作は、いつも新人スターを売り出すときに起用された。そのまま車は道に沿って移動。

《★20》JR山手線・駒込駅近く、国の特別名勝に指定されている【 六義園 】は枝垂れ桜で有名なところだが、ボクたちの目当は桜の名所ではない!

その正面入り口の向かい側にひっそりと建つ1軒の日本料理屋、それが【 思い川 】である。

これはなんといっても熊井啓監督の畢生の傑作『忍ぶ川』のモデルとなった店である。

はっきり言って風情纏綿といった趣はなく、入り口上手にはヒノキの一枚看板があり、「芥川賞受賞作品

お昼の定食・とんかつ定食950円から上寿司ちらし2000円まで和洋食ちゃんぽんの大衆店で,映画のファンが駆けつけても少しがっくりくる現在であろう。

この佇まいでは、「おいっ」志乃が顔を向けて「はい」(太田六敏の素晴らしい録音の冴え!)と返事したあとに「水を持ってきてくれないか」とは頼みたくはないなぁ。

《★21》車はそのまま移動。
【 駒込霜降銀座商店街 】の町並みを通過する。

この辺り、実は北野武作品によく使われる。いまは取り壊しになっている空き地は『3−4X10月』で沖縄に行く前に登場した東京のシーン(マージャンの店)、『ソナチネ』での(組事務所など)が撮影された辺りである。

このことを今は監督となって『チキン・ハート』『メールで届いた物語』などの新作を送り出しておられる清水浩監督に確認したところセカンド助監督でついていた清水監督より間違いないと裏をとったとのFくんよりの情報であった。

どんどん新陳代謝を繰り返す東京・・・、5年経てば顔立ちは完全に変わってしまう。

《★22 〜 24》【 駒込〜田端間の線路 】は自主映画の古林洋二監督作品『出合い』において主人公のデートに近所の少女たちが超自然な笑顔で出演したシーンに使われた。

車は線路を見下ろすように小高い丘を走る。下に見えるのはJRの線路。この駒込・田端間の【 田端保線区 】は小沢茂弘監督のチョーおバカアクション映画の快作『裏切り者は地獄だぜ!』の冒頭近く、片岡千恵蔵と進藤英太郎が力比べをして貨車を手動で連結してしまうシーンに登場する。なんというおおらかな時代であったことよ!

そして【 山手線を見下ろす高台 】であるこの場所は、見ているものこそ少ないだろうが忘れられない映画がある。

それが小林正樹監督の松竹映画『この広い空のどこかに』である。2003年1月初見したボクは衝撃を受け水路にこう書いたのだ。

★大船の伝統の煌めき『この広い空のどこかに』
2003年1月12日偏愛モノ・ローグより転載。
★川崎駅前の川崎銀座で酒屋を営む一家の物語。
長男の佐田啓二が世帯主で、久我美子が彼の若妻。母・浦辺粂子は後妻で佐田とは義理の関係。妹・高峰秀子は空襲で怪我をしてビッコになり、そのために縁談がこわれ、立ち直れずに感情的に荒んでいる。
弟・石浜 朗は大学生。戦争という絶対的な災厄を経た、ほんとうにただの庶民が貧しさのなかで、いかに生活を前進させようとするかを正攻法・直球勝負で描ききった、後の超大作ばかりの重厚巨匠となる小林正樹からは想像もつかないほど爽やかな小品だ。

それにしても「商人ってのはね、利は薄いけれど日銭が入るからなんとかやっていけるんだ」とか、商人とは縁のない環境に育ったボクには頷くことばかりの科白が続く。

佐田は言う。「一人ひとりはみんないい人間なのに、難しいな、家族って」と。醤油1升売って160円の利がある商売。2級酒5合260円の売価である時代。貧しくて、贅沢とは無縁の日常だが、働く人々のなんと清潔なことだろう。

★映画には彼らのほか、久我のむかしの恋人で同郷の青年・内田良平。石浜の同級生で胸を病む苦学生・田浦正巳。店の元使用人で高峰に絡む純朴青年・大木 実。高峰の友人で抑留されて帰国できない夫を待つヨイトマケの婦人・中北千枝子(東宝から客演)らが重要な役で配されている。

そのほかに店の常連客で日守新一や三好栄子といった素晴らしい脇役が存在感たっぷりの名演をみせている。

★「この広い空のどこかに」というのは石浜が田浦に「この広い空のどこかに、自分を待っていてくれる女の子がひとりいる」という科白からきている。

しみじみと心に染み込んでくるような素晴らしいシーンがいくつもある。なかでも内田が久我を訪ねてきたことを知って佐田が川崎駅の改札口までやってきて郷里の義父にウイスキーを託すシーン。

嫉妬や迷いを封じ込めて内田への豊かな気配りを見せる。なんという大人の対応なのかと思う。そして、ここが映画の肝だと思うのだが、物干し台で佐田と久我が空に浮かぶアド・バルーンを見て、バルーンをボールに見立てて「幸福のボールよ、お金のないひと、仕事のないひと、恋人のないひとに飛んでいけ!」とシャドウ・キャッチ・ボールする場面の凄いこと、メガトン級である。

これは黒澤の『素晴らしき日曜日』での観客に拍手を促すシーンに匹敵するものなのではなかろうか。

★この映画があまり素晴らしかったので3回見てしまった。友人達へのメールにその旨を書いたところ、殊勝なひとがいました。そのメールをご紹介しましょう。「さっそく、TSUTAYAで借りて見ました。非常にまじめな映画でした。エンターティンメントなんて、眼中にもない、いい映画まっしぐらのように思いました。悪い意味ではけっしてなく。嫁姑問題は、いつの時代もあり、一生懸命に生きている姿がそこにありました。」(吉川威史氏)

★昔からもっともスペクタクルなものは、実は、日常生活のちょっとした襞をきちんと描写し誰もがみんな知っているのに忘れてしまっている、
そんなものをいうのではないかと感じていました。大船の伝統という、以前よりお題目のように言葉に出されたものの、ほんとうの厚みを感じずにはいられません。
★出てる役者がみんなイイ.みんな若くてみんなイイ。みんなまっすぐでみんなイイ。なんだか、また見たくなっちゃったなぁ。(★★★☆☆☆)
この映画は、その後東京の映画館やフィルム・センターでも上映されることがあり、松竹ビデオからもリリースされていて、TSUTAYAにも置いてあることから、少なからず小さな波紋が拡がっていった。同年輩の友人たちも、ボクと同じくこころ揺さぶられた様子で、中でも友人のFくんは、こんな報告をしてくれたのだった。


『この広い空のどこかに』・今回、改めて見て、ドラマの舞台の謎が解けた!
…フィルムセンターの解説文“東京近郊の酒屋を舞台に、若き小林監督が清新な演出を見せるホームドラマ”と書いてあります。確かに川崎の町が大半のロケ地になっている。それなのにセリフなどにしばし登場する東京駅や銀座など、中心地に近い設定になっている。今回見て、確信!これは台東か荒川の下町が舞台である。そう、謎は解けた。撮影に使われた川崎競輪場や野球場だがシナリオでは後楽園で書き込まれている?まちがい、ない!
…好きなシーンが三つある〜下町が全貌(おばけ煙突が3本に見える)出来る田端駅近くの丘で、大学生の石浜朗が親友に語らうシーンがその一つ。「僕はね、この頃思うんだ。物干しにのぼってさ、この空の下のどこかに〜」と空に向かいながら、未来の不安(1954の日本)を払い退けるように夢と希望を告げる。それは、胸を患っている親友への励ましでもある!
…そして二つ目はアドバルーンが近くに見える物干しの名場面。久我美子が手の平を広げて「誰にも見えない白いボールね。あたった人には良いことがあるの〜」「じゃ、投げてやろう〜」と、佐田啓二が答える〜二人は“お金のない人、当たれ〜!仕事のない人当たれ〜!病気のない人も当たれ〜!”と架空のボールを無邪気に投げ続ける〜そして戦争で、足が悪くなってすさんでいる妹の高峰秀子にも向かって投げる。何回見ても泣ける場面です!
…そして、もう一つ好きなシーンは、高峰が店で働いていたが、戦争を機に田舎に帰ってしまっている大木実に会いに行こうとする東京駅ホームです。弟の石浜が荷物を渡す。高峰は列車の中へ。階段を一旦降りかかった石浜は立ち止まり、再びホームに戻る。列車はすでに発車。石浜の見送る姿に余韻が残る!完


こればかりは、この映画を愛した、しかも東京在住の人間にしか書けない。50年前の映画がなぜにボクたちに迫ってくるのか、書いたように、松竹ホーム・ビデオからテープが出ており、TSUTAYAにも置いてあるので、ぜひ一見していただきたい。

《★25》田端駅近くから尾久駅に向かう。
【 尾久駅近く 】には数年前まで山田洋次監督の傑作『息子』で永瀬正敏が勤めていた鉄工所があった。いまは取り壊されてファミリー・レストランになっている。

近くの【 梶原商店街 】や【 王子駅周辺の川沿い 】など、ロケされたスポットは少なくない。【 西日暮里界隈 】、【 開成高校 】を尻目に北島康介に実家である【肉のきたじま】を通過。【 入谷鬼子母神 】から【 合羽橋商店街 】〜【 池波正太郎記念館 】を車窓より通過。ついにロケのメッカ・浅草へと入ってきた。

《★26》およそ【 浅草 】ほど映画に出てきた処はない。

戦前の映画なら田舎からやって来た客人を案内する繁華街として、大抵登場する。

今井正の『にっぽんのお婆ちゃん』のようにミヤコ蝶々と北林谷栄が都会に目を瞠る場所としても出る。東映映画では『関東テキヤ一家・浅草の代紋』というように題名にも登場する。もっとも、このときには浅草に「エンコ」という隠語のルビが振られていたのだが。まずボクたちは雷門の上手にあり、吾妻橋を見守るように建っている老舗の酒場【 神谷バー 】にて友人たちと落ち合うことにしていたので、店に進入する。

日曜日午後ということもあり、店内は超満員である。

《★27》この神谷バーといえば、わが『忍ぶ川』においてこんな台詞がある。

薮入りの休日を志乃と哲郎は初めて外出する。哲郎は兄の思い出が濃厚な深川・木場を案内し、志乃が育ったという洲崎を歩く。「私は廓の射的屋の娘なんです」と出自を告白する。かき氷を食べながら、志乃は浅草に行きたいという。

「でもせっかくの休みだから、栃木へいってきた方がよくはないかな」「たまの休みだからこそ、普段できないことをしてみたいんです」「そうかい、それじゃ、あんたのいいようにしよう」「嬉しいっ」孤独な魂が少しずつ寄り添っていく瞬間である。

脚本の熊井啓と長谷部慶次は廓の射的屋に生まれ、11歳の夏まで洲崎に暮らし、いまは小料理屋に勤めている志乃という女性を必要以上にでしゃばらない、それでいて綺麗事になり過ぎないように腐心して書いている。

原作では「だけど、神谷バーってのはいまでもあるのかな」「ええ、あると思いますわ。いつか栃木へ帰るとき、ちらっとみたような気がするんですの。映画見て、神谷バーへいって、あたしはブドー酒、あなたは電気ブランで、きょうのあたしの手柄のために乾杯して下さいな」と映画を知るものから言えば打ち解け過ぎた印象を禁じえないのだが、映画は志乃の台詞として「父はよく私を浅草に連れて行ってくれたんです。観音様にお参りして、映画を見て、神谷バーに行って、父は電気ブラン、私にはぶどう酒を頼むんです」という感じになっている。

それだけに長年夢に見た「神谷バー」デビューなのであった。さて、調べてみればみるほど、神谷バーといえば電気ブランであるといっても過言ではないものであった。

この電気ブラン、神谷バーにデンキブランと名付けられたカクテルが登場して、およそ百年の歳月が流れている。ランプ生活が主で電気がめずらしい明治の頃、目新しいものというと”電気○○○”などと呼ばれ、舶来のハイカラ品というイメージだったらしい。強いお酒で当時はアルコール45度だったという。

デンキブランのブランはカクテルのベースになっているブランデーのブランで、そのほかジン、ワインキュラソー、薬草などがブレンドされているというのだが、配合のレシピは未だもって秘伝 になっているという。バーという名前のために、学生のボクには訪れようという気持ちすらおこらなかった。34年
損した気分だ。

舐めてみると琥珀色のねっとりとした舌ざわりで、ほんのりとした甘味があった。
ちなみに現在のデンキブランはアルコール30度、電氣ブラン<オールド>は40度。

『忍ぶ川』が映画化された昭和47年頃には電気ブランは1杯70〜80円。オイル・ショックの影響か、毎年のように値段が上がっている時代であった。

しかし、このあさがお型のグラスもレトロでいいが、現代の穴倉といった雰囲気の店内は、どこかしら昭和を思い起こさせる。見ていると、電気ブランを頼む客の多くは生ビールを頼んでいる。なるへそ、強いブランをビールをチェイサー役にしているのだ。

それじゃあ効くぞぉ、と思ったら、案の定、店員ふたりに両脇をかかえられて強制退場になる爺さんを2,3人目撃した。(神谷バーは1階が酒場、2階以上はレストランや割烹となっていてさながら酒のデパートだ。電気ブランは一杯260円と安価だが、全体におつまみは脂っぽく、値段もそう安くはなかった。旧き良き時代から、肉がご馳走であった時代からのスタイルなんだろう。こういうスタイルは崩すべきではない。)友人たちとの楽しい再会・・・、下戸のボクでもメートルは上がる一方であった。

一人にて酒をのみ居れる憐(あは)れなるとなりの男になにを思ふらん 萩原朔太郎(神谷バァにて)


《★28》神谷バーを後にして仲見世付近をあるく。この裏辺りには有名なすき焼き屋の【「今半」】がある。

この今半には本店、別館など東京に数ヶ所あると聞くが、なんといっても映画ファンに忘れられないのは今半本店が加山雄三の『若大将』シリーズの主人公田沼雄一の実家とされるすき焼き屋「田能久」のモデルであることだ。父親・有島一郎、祖母・飯田蝶子、妹・中真千子の田沼家の面々ともども懐かしい。

また程近いところにある【「今半別館」】は独特の佇まいで趣がある。ここは大林宣彦の『異人たちとの夏』で主人公を心配して甦った両親と別れの食事をする店である。この映画の主人公は離婚して環八沿いに住んでいるシナリオ・ライターだが、幼いときに過ごした浅草を何気なく訪れ、少年の頃に死別した両親と再会する。両親に会う、それは、それを信じさせる町・浅草を飲み込むことだった。常識や理性を抜きにして、懐かしさに身を委ねる・・・。

そのファンタジーを信じさせる空間そのものであったのだ。映画はよく出来ていて、なにも、あんな無理やりの怪奇展開にしなくてもいいはずだが、あの頃、ああいうシーンを交えなければ製作のゴー・サインがでなかったのだろう。

<今半トリビア>東京ではいまもなお肉を食べさせるお店の屋号に「今○」といった名前がある。これは当時、明治時代にすき焼屋を始めた店で「今」の文字を使う店が多かった名残だそうで、明治時代牛肉を食べる文化が出来た頃、東京に持っていくとどんな牛でも売れるということで、正規のルート以外から牛が入ってきたのだそうだ。

それには、病気で死んだ牛、老衰でとても食に適さない牛などさまざまな牛があったという。その頃政府が営業していた屠殺場が今里村(現、芝白金付近)にあり、そこで、「今半は今里村から来た牛肉だけを使用しています」と言う意味で「今」の文字を使ったと言われている。そして、「半」は創業者の名前が「半太郎」というところから「今半」となったらしい。


《★29》ボクたちは歩いて、歩いて浅草を楽しんだが、歩いてみて驚いたのが、浅草には老若男女、あらゆる年齢層の客がひしめいていることだった。また、それを十分に受け取ることの出来る歴史も、店も、あることが十分に感じとれたのである。
さしかかった店は【 レストラン・アリゾナ 】、かの永井荷風が愛好した店として全国に知られている洋食屋である。

たしか死の前日にもここで食事をして、店先で転倒した。荷風はアリゾナでは毎日、「タンシチューとグラタン、それにお銚子が一本。これが三ヶ月ぐらい続くと、今度はチキンとレバーの煮込みとカレーライス、そしてビール大瓶」を食べていたというから大食家である。

正月以来一日の休みもないまま浅草通いを続けた荷風が、昭和34年3月1日に昼食後転倒。「アリゾナ主人の介抱を拒絶して独り遅々として大通りまで歩みタクシーに乗って八幡町の家に帰った。この日が荷風の浅草行きの最後となった」と荷風研究者の第一人者である秋庭太郎の『新考永井荷風』には書かれている。

荷風も「断腸亭日常」の同日の記載に「三月一日。日曜日。雨。正午浅草。病魔歩行殆困難となる。驚いて自動車を雇い乗りて家にかへる」とあり、秋庭太郎は店の名こそ書かれてはいないが「アリゾナ」であると断定、以後定説となったのだという。
まあ、どこでもいいようなものだが、ファンにとっては大変な新説を発表したのが新藤兼人で、荷風を描いた『墨東綺譚』もあるくらいだから、まったくの門外漢ではないだろう。平成4年に荷風が浅草で最後に食事をしたのは「アリゾナ」ではなく蕎麦屋の「尾張屋本店」ではなかったかという新説である。

(新藤の『老人読書日記』にも書かれているという。だが新藤は溝口健二と田中絹代がベネティア映画祭に洋行したときに肉体関係があったという説も発表して、関係者から苦情が出たこともあり、高齢となって依然としてチャレンジャーな言動が少なからずあるため、慎重に聞いたほうがいいのかもしれない。)

とにかく、荷風は芸術院会員でありながら浅草のストリッパーたちとの親交も深く、亡くなる直前に出版された荷風全集の空前の売れ行きで、死亡時当時のお金で2千万円以上の預金があったという。(現在なら3億円近いだろう)

こんなことから文壇のみならず、世間からも興味津々に云々されたのは想像に難くない。

前回のロケ地探訪ツアーパート1において回った三ノ輪などと同様に、浅草には現代においては古めかしいと切り捨てられかねない時期を乗り越え、その古さが人々の郷愁を呼び覚ます町なのであろう。

【 浅草公会堂 】の前や【 浅草六区 】すなわち、最近『タイガー&ドラゴン』にて毎週目にしている風景を楽しんだのだが、簡単に言うなら、この風景は25年前に既に古めかしいものであった。

こういう町は、これからがますます真価を発揮するだろうと思われる。ただの古い町はどこにでもあるが、それを魅力に変えるマン・パワーは首都圏にしかないからである。

《★30》浅草を後にして、ボクたちは帰り支度のなかに、その上に映画の残影を求めつづける、厄介な欲張りファンであった。ボクたちが向かった場所、それはかつて花柳界において、その名を馳せた場所【 柳橋 】だ。

かつては新橋、神楽坂、赤坂に並ぶ東京の花街のひとつだったという。昔、高砂部屋があったため、よく小錦が歩いていたという町。鉄でできた、どうということもない橋だが、とくにここを訪れたいと思ったのは、最近アメリカ映画で、この場所が重要な登場をしていたからである。

それは『THE JYUON/呪怨』である。

あの映画の最初のほうで、『インディペンデンス・ディ』の大統領役が印象ふかいビル・プルマンがマンションのベランダから投身自殺する。そのとき、夫人が下を見ると、柳橋を映しこんで,プルマンが路上にぺしゃんこになっていた俯瞰カットがあったのだ。

橋の下に流れる神田川に浮かぶ釣り船も映っていた。さっそくプルマンと同じ位置で記念撮影をしたボクであった。

《★31》車は柳橋を後にし、【 押上 】に向かう。ここは先頃発表された新東京タワー構想の場所であるらしいが、ボクらには今朝見たばかりの三田明・酒井和歌子の『街に泉があった』で、酒井和歌子が住む古いアパートが建っていた場所で、まん前の川だけが想い出を伝えている。


《★32》つぎに『パッチギ!』のなかでオダギリ・ジョー扮するジ・アルフィーの坂崎幸之助の実家である酒屋は実は東京のこの辺りにある。

さっそく【 坂崎酒店 】を見学。そのまま【 亀戸天神 】から【 錦糸町界隈 】を通過。友人のYAKKO KIJIMARE さんが住む【 千田町 】マンション前を通過し、【 木場ランプ 】より高速道路に入る。

《★33》目指すは東京都大田区城南島四丁目2番2号といってもわからないだろうが、昨年の邦画において、最高の衝撃であった『犬猫』と言う映画がある。

このなかで主役の二人の若い女性藤田陽子と榎本加奈子が中国に旅立った友人の小池栄子を送ったあとに、彼女の乗った旅客機を見送るシーンに出てきた【 城南島海浜公園 】である。

ここ、城南島海浜公園は東京湾に面した城南島の東端にあり、羽田空港とも隣接しているために、すぐそばを航行する各種の船舶や離着陸する旅客機を見ることができる。

まさに旅客機の腹を真下から見られる。キャンプ場の施設もあって、東京都民の憩いの場として人気は高いということだ。まあ行ってみて分ったが、東京モノレールの流通センターから徒歩40分の距離にあるここに、大して仲の良くない二人がやってくるとは、著しくリアリティに乏しいけれど、映画そのものは瑞々しい、新しい才能に溢れているので、レンタルも出たばかりだし、どうぞご覧に戴きたいとお願いしたい。

そしてボクたちは羽田空港に向かい、前回も書いたように『 誰も知らない 』に出てきた辺りを散策し、宮崎から所用で上京していたS尾くんを送り出し、空港の雑踏に人酔いしながらも、簡単なビュッフェでビールで再会を祈念した。

今回のロケ地探訪ツアーPART?は、なにしろ濃かった。「忠臣蔵」と「新選組」と「浅草」だものね。予想外に手間取ったのは、なんと言っても、そういう理由による。


しかし、このツアーが成立したことには、大きく3つの成因があると判断している。

[東京に対して興味津々のエトランジェ(異邦人)であるボクがいたこと]
[昔よりロケ地そのものに興味を持ち、なにより東京の地理・道路を熟知している友人のFくんがいたこと]
[なによりふたりが、そういうことに喜びを感じるイチビリであったこと]
である。

そしてなにより、このルポを発表できる「映画水路」があったことと、読者のみなさんがいてくれたことでした。ご迷惑とは存じますが、どうぞ「バカだなぁ」と呆れて読んでくださいませ。  亭主軽薄。

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

北京波の新世紀映画水路 更新情報

北京波の新世紀映画水路のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング