イヴ・モンタンの次に彼女が手がけた新人は、複数で、それも9人という大所帯の男性コーラスグループ「Les Compagnons De La Chanson (シャンソンの友)」でした。 彼らはもともと1941年に、非占領地域であったフランス・リヨンに生まれたレジスタンスの団体「レ・コンパニオン・ド・ラ・フランス(フランスの友)」が慰問のコーラス・グループを作ろうとして、集められた「レ・コンパニオン・ド・ラ・ミュズィーク(音楽の友)」というユニットが前身です。 この当時から彼らは、古いフランスの民謡のいくつかをアレンジし、アカペラで聴かせるというのがおもなレパートリーでした。 最初はあまりぱっとしませんでしたが、エディットは彼らの歌に触れ、おおいに彼らを気に入り、いろいろと公私に渡って世話をするようになりました。中でもグループメンバーのひとりである、ジャン・ルイ・ジョベールに好意を抱き、一時期彼らは恋仲となりました。
そしてそれ以上に、エディットは彼らの成功を願い、それにむけての助力を惜しみませんでした。 エディットは彼らのレパートリーに、まず提言しました。フランスの民謡を扱うことはすばらしい・・彼らのコーラスの資質もすぐれている・・だからこそ、より成功をめざした歌も歌うべきだと。 そうして、彼女が提示した曲が「LES TROIS CLOCHES(『谷間に三つの鐘が鳴る』)」でした。これは、以前からエディットがあたためていたジャン・ヴィヤール(ジル)の作詞作曲によるもので、彼女はこの歌を自分一人だけでなく、誰かと一緒に重唱するプランを持っていたようです。
この『谷間に三つの鐘が鳴る』は大成功でした。この曲は空前の大ヒットとなり、レコードの売り上げが100万枚を超える、ミリオンセラーとなりました。そしてこの歌は、海を渡ってイギリス・カナダ、アメリカでも大いに広まりました。この歌の主人公である「ジャン=フランソワ=ニコ」はアメリカでは「ジミー・ブラウン」と呼ばれ、この歌は「The Jimmy Brown song」(ジミー・ブラウンの歌)となって、1959年にもリバイバル・ヒットしました。これがこの後、彼女がアメリカに進出する足がかりともなります。 また、エディットは彼らと他にもいくつかの曲を共に歌い、それを吹き込んでいます。
1946 「CELINE」(セリーヌ) 1946 「LE ROI A FAIT BATTRE TAMBOUR」(王は太鼓を打てと命じた) 1946 「DANS LE PRISONS DE NANTES」(ナントの囚人) 1947 「C'EST POUR CA」(そのおかげで)
17世紀の末頃から伝わる、フランスの古い民謡です。この曲は日本でも早くから「シャンソン・ド・パリ」というSPレコードで、シャンソン解説者の蘆原英了氏により、日本に紹介されていました。歌唱はイヴォンヌ・ジョルジュ(1896〜1930)で、彼女は薄命でしたが、たとえばエリック・サティの「JE TE VEUX (おまえが欲しい)」などもレコーディングしています。
ピアフはこの曲の他にも上に列記したように、何曲かフランスの古謡をレ・コンパニオン・ド・ラ・シャンソンとカバーしています。