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エディット・ピアフの人生コミュの16,レ・コンパニオン・ド・ラ・シャンソン(「シャンソンの友」)とのコラボレーション

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イヴ・モンタンとたもとを分かったエディットは、その後も自分がよしと思った新人を発掘し続けていくことになりました。今で言うプロデューサーといったところなのでしょう。

イヴ・モンタンの次に彼女が手がけた新人は、複数で、それも9人という大所帯の男性コーラスグループ「Les Compagnons De La Chanson (シャンソンの友)」でした。
彼らはもともと1941年に、非占領地域であったフランス・リヨンに生まれたレジスタンスの団体「レ・コンパニオン・ド・ラ・フランス(フランスの友)」が慰問のコーラス・グループを作ろうとして、集められた「レ・コンパニオン・ド・ラ・ミュズィーク(音楽の友)」というユニットが前身です。
この当時から彼らは、古いフランスの民謡のいくつかをアレンジし、アカペラで聴かせるというのがおもなレパートリーでした。
最初はあまりぱっとしませんでしたが、エディットは彼らの歌に触れ、おおいに彼らを気に入り、いろいろと公私に渡って世話をするようになりました。中でもグループメンバーのひとりである、ジャン・ルイ・ジョベールに好意を抱き、一時期彼らは恋仲となりました。

そしてそれ以上に、エディットは彼らの成功を願い、それにむけての助力を惜しみませんでした。
エディットは彼らのレパートリーに、まず提言しました。フランスの民謡を扱うことはすばらしい・・彼らのコーラスの資質もすぐれている・・だからこそ、より成功をめざした歌も歌うべきだと。
そうして、彼女が提示した曲が「LES TROIS CLOCHES(『谷間に三つの鐘が鳴る』)」でした。これは、以前からエディットがあたためていたジャン・ヴィヤール(ジル)の作詞作曲によるもので、彼女はこの歌を自分一人だけでなく、誰かと一緒に重唱するプランを持っていたようです。

エディットは彼らにこの歌を勧めましたが、彼らは「自分達むきの歌ではない」と、あまり乗り気ではありませんでした。そこで、彼女は「じゃ、私と一緒に歌ったら?」と提案したのです。こうして、彼らはこの歌に取り組むことになりました。それでも彼らはなかなか慎重でしたが、この歌をジャン・コクトーが
「彼らの歌と、それに混じった彼女の声を聴くのは楽しい。彼女の歌は彼らのブロンズと黄金の鐘の中に、めのうの層のように鋳造されている。。。」と、この『谷間に三つの鐘が鳴る』に対し、讃辞を送りました。こうしたことにより、青年達はあらためてピアフの考えが正しく、その力が偉大であることを再認識するのでした。


この『谷間に三つの鐘が鳴る』は大成功でした。この曲は空前の大ヒットとなり、レコードの売り上げが100万枚を超える、ミリオンセラーとなりました。そしてこの歌は、海を渡ってイギリス・カナダ、アメリカでも大いに広まりました。この歌の主人公である「ジャン=フランソワ=ニコ」はアメリカでは「ジミー・ブラウン」と呼ばれ、この歌は「The Jimmy Brown song」(ジミー・ブラウンの歌)となって、1959年にもリバイバル・ヒットしました。これがこの後、彼女がアメリカに進出する足がかりともなります。
また、エディットは彼らと他にもいくつかの曲を共に歌い、それを吹き込んでいます。

1946 「CELINE」(セリーヌ)
1946 「LE ROI A FAIT BATTRE TAMBOUR」(王は太鼓を打てと命じた)
1946 「DANS LE PRISONS DE NANTES」(ナントの囚人)
1947 「C'EST POUR CA」(そのおかげで)

また、エディットは彼らと共に、1947年ジョージ・フリードランド監督の映画「9人の若者、ひとつの心」に、彼らと共演。『谷間に三つの鐘が鳴る』『そのおかげで』などのヒットナンバーを歌いました。


さらにエディットは、自分のためにとっておいた、アンドレ・グラッシ作のシャンソン『LA MARIE(ラ・マリー)』を彼らに与え、この歌で彼らは1947年度のACCディスク大賞を受けるという栄光を手にしました。その後も彼らはたくさんのヒット曲を生みだし、その後も40年近い長い間、現役のステージ生活をつとめました。レ・コンパニオン・ド・ラ・シャンソンがこうして、国際的なスターとして活躍できたのも、やはりエディット・ピアフの貢献があったからこそと、言えると思います。

コメント(1)

☆今回の「レパートリー」☆

●1946 LES TROIS CLOCHES
「谷間に三つの鐘が鳴る」(ジャン・ヴィヤール 作詞作曲)

フランス語の原題は「三つの鐘」です。
通称「ジル」こと、ジャン・ヴィヤールが作詞・作曲とも手がけた、美しい作品。
ピアフは、1945年に作られたこの曲を以前から自分のためにとっておいていましたが、レ・コンパニオン・ド・ラ・シャンソンと共演するにあたり、この曲を持ち出しました。

題の「三つの鐘」とは、人間の誕生・結婚・葬儀の三つの節目に鳴らされる鐘のことで、人間の一生になぞらえながら、宗教に裏打ちされた人としての一生を全うするすばらしさが、歌われています。

「谷間の奥の村に、ある星の夜ジャン・フランソワ・ニコと名付けられた男の子が産まれた。ひとつの鐘が鳴り、こだまして、『この鐘はジャン=フランソワ=ニコの魂を迎えるために鳴る』と告げる・・・それから19年、ジャン=フランソワは美しいエリーズを妻に迎えた。ああ、すべての鐘が鳴る、鳴る。2人はこの教会で結ばれ、『永遠に清らかな炎であれ』と牧師は言う・・・谷間の村で、時が過ぎ、フランソワは天に召される。肉体も野の花や穀物と同じように枯れていくのだ。ひとつの鐘が鳴る。鐘の音はくりかえす。『恐れることはない、人々よ。神はあなたにいつか合図する。そのときあなたは永遠の生命、永遠の愛を見いだすだろう」



●1946 DANS LES PRISONS DE NANTES
「ナントの囚人」

17世紀の末頃から伝わる、フランスの古い民謡です。この曲は日本でも早くから「シャンソン・ド・パリ」というSPレコードで、シャンソン解説者の蘆原英了氏により、日本に紹介されていました。歌唱はイヴォンヌ・ジョルジュ(1896〜1930)で、彼女は薄命でしたが、たとえばエリック・サティの「JE TE VEUX (おまえが欲しい)」などもレコーディングしています。
ピアフはこの曲の他にも上に列記したように、何曲かフランスの古謡をレ・コンパニオン・ド・ラ・シャンソンとカバーしています。

「ナントの牢屋にはひとりの囚人がいた。彼の世話をするのは牢番の娘だけ。ああ、ああ・・・ある日、囚人は娘に聞いた『ぼくの噂を聞いた?』『明日、死刑になるそうです』ああ、ああ・・・『どうせ死ぬなら、足の鎖をはずしておくれ』娘は幼いので、鎖をはずした。ああ、ああ・・・この気高い囚人はロワール河に身を投げた。ナントの鐘が全部鳴った。ああ、ああ・・・・」



● 1947 C'EST POUR CA
「そのおかげで」(アンリ・コンテ作詞 マルグリット・モノー作曲)

ピアフは、レ・コンパニオン・ド・ラ・シャンソンと共に、初めてのアメリカ遠征を行いました。そのツアーの際の新曲として作られたもので、レ・コンパニオンとパートを分け合いながら掛け合って歌っています。後のニューヨーク・カーネギーホールのコンサートでもこの曲がオープニングとして使われ、ピアフはソロでこの歌を歌いました。この曲は映画「9人の若者、ひとつの心」の中でも歌われました。

「昔、恋する娘がいたが、恋人に愛されず彼女は死んでしまった。花はしおれ、地上は暗くなってしまった。愛の神は泣き、天は身を隠す場所を探した。人々の心は秋になり、愛の神は友達を失った。でも、このおとぎばなしは花飾りの下で踊ろうとしている。愛の神はすべてをちゃんと元通りにしたのだ。泣きたいなら泣くがよい、歌いたい気持ちの方が強いのだから。そのおかげでいまではアコーディオンが流れ、街は歌にざわめいている。」

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