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エディット・ピアフの人生コミュの10,戦争中のピアフの活動(1940〜1944)?

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この戦争の時期、フランスはドイツの支配下にありました。
街ではドイツ軍が歩き回り、パリの街はひっそりとしていました。
芸能界でも、いわゆる親独派と対独派とに分かれる格好になりましたが、後になって戦争が終わると親独派だった人間は、対独協力をしていたと民衆にささやかれ、結局売れないまま消えていった芸能人も少なくありません。

こうしたなかエディットは、どちらというのでもありませんでした。もともと彼女は政治的な姿勢を示さず、そういった歌を歌うこともめったにありませんでした。そういう方面に関しては、あまり興味がなかったと言うことなのかも知れません。けれど彼女は、ドイツ軍部の招きには応じませんでした。
当時の習いとして、ドイツ軍が一部の芸能の場においては上客でもあり、当然そういった軍部の人間達に歌う機会も多かったのです。占領軍は、彼女の歌を気に入り20回も招待したが、エディットはそれを拒み続けました。
 ただ、捕虜収容所で歌うのは、いつも引き受け、ギャラには決して手をつけませんでした。


そして、ここで有名なのが、エディットはレジスタンス運動をして、多くの捕虜達の命を救ったと言うエピソードです。

それはどういうことか?
彼女はドイツにあるいくつかのフランス人捕虜収容所の慰問係でした。まず彼女はその収容所に歌いに行きます。そしてショーの終わった後で、捕虜達と集合写真を撮ります。そしてフランスに帰るとその写真を現像し、大きく引き伸ばしをして、その捕虜ひとりひとりのニセの身分証明書を作ります。それをカンヅメのなかにしのばせ、次回同じ収容所へ行ったときそのかんづめを捕虜見舞いとして「ふるまい」ます。かんづめを受け取った捕虜達は、収容所を脱走し、あらかじめ決めてあった地点でエディットらと合流し列車に乗ります。列車が国境を越え検問を受ける際には、エディットは彼らのことを「自分の楽団員だ」と説明しました。往路はエディット・ピアニスト・デデの3人だったツアーが、復路はフル・オーケストラと一緒になって帰って来るというわけです。
こうしたことは当然ながら、秘密が知れると大変なことになり、それだけ危険と隣り合わせの作業でしたが、彼女は出来る限り、この行為を続けました。

こうして、エディットとデデは多くの捕虜を救い、再びの自由をつかませました。またデデの夫も捕虜であったので、こうしてぶじ生還できたのでした。
ただ、こういった行為に対して、エディットは反戦運動をしたとか、英雄的な感覚を味わったということではなく、それほど強い感情は持っていなかったようです。


一方で、44年3月3日に、エディットの父ルイ・アルフォンス・ガシオンが62才で亡くなり、それと前後するように母リーナ・マルサも死去しました。
エディットは父の死にショックを受けながらも葬儀をとり行い埋葬もしましたが、母の死に対しては同じようにはしませんでした。もともと母リーナは、年若い恋人と同棲していたものの従来からの麻薬の常用で命を落とした後、恋人に遺体を排水溝に捨てられたという悲惨な一生の終わり方でした。(そうなることを父ルイが予言していたともいわれます)
それはやはり、エディットの中に、赤ん坊だった自分を捨ててしまった母親への恨みがあったのではないかと思われます。というのは、以前彼女が生んだ娘マルセルが亡くなったとき、エディットは亡き娘をティエ墓地に埋葬しました。しかし、父親はペール・ラシェーズ墓地(パリでは、こちらの墓地が規模が大きく有名)に埋葬し、母が亡くなった際には娘のマルセルのなきがらをペール・ラシェーズへ移して、そのあいたティエに母を埋葬しました。離ればなれになったわけです。
後年、エディットの没後も彼女はこのペール・ラシェーズに眠り、また最愛の夫であったテオ・サラポもその後不遇の死を遂げ、いまは同じ墓に眠っています。常に世界中のファンがその墓を参りにやってくるので、エディットの墓所はいつも花が絶えることがなく、死後40年以上たったいまでも、その人気ぶりは今も変わってはいないようです。

コメント(2)

遅まきながら、ターボさんの「ピアフ評伝」読み始めました。
これから最後まで読みますが、これまでの内容だけでもすでに私の知らないことがたくさんあり、大変感銘を受けました。
生まれ育ち等々が特別でなくたってすごい人はいる、でも、やっぱり別格の超一流人には、それなりのすごい人生がある。──

今回の、戦時中のエピソードもすごいですね。
読んでいて、クラシックの指揮者で私の大好きなフルトヴェングラーという人を思い出しました。

彼はクラシック音楽の世界で終始生きましたから、世の脚光を浴びたときには権力に組み込まれることとなりやすく、大戦が終わったときには戦犯容疑をかけられました(非ナチ化裁判)。
しかし実際には、彼の頭の中にはドイツの音楽(芸術)しかなく、政治的にはまったくのノンポリ。音楽がよければ、ドイツの民衆にとってよければ、という考えしかなかったようです。

鍵十字の旗の前で指揮をし、ヒトラー生誕記念前夜祭で指揮をしつつ、ユダヤ系楽団員とその家族を助け(ベルリンフィルに残し続けた)、ユダヤ系指揮者の音楽を初演し(ヒンデミット事件)、占領地での指揮を拒み、最後にはヒトラー親衛隊(SS)に追われてスイスに亡命しました。
ゲッペルスには「フルトヴェングラーさえいなければ、ドイツからユダヤ人を一掃できるのに」とさえ言われました。

今回、ピアフのエピソードに初めて接して、「多くの捕虜を救いつつも、政治的なことに対してそれほど強い感情は持っていなかったようだ」という点が、彼に似ていると思った次第です。

きっと、音楽が命そのもののようになっている人にとって、やはり政治はあまりに猥雑で関心が持てず、疲労するばかりの面倒なものなのでしょう、ね。
>せんいちさん
書き込みありがとうございました。
お返事せずに、申し訳ありませんでした。

フルトヴェングラーという名前は、聞いたことがあるだけで実際にどういう方だったのかは知りませんでしたが、コメントを読みピアフの考え方とたしかに似ていると思いました。
実際、シャンソンには政治や風刺が多く歌われているのが歴史の流れですが、ピアフはほとんど政治的なシャンソンを歌っていません。きっと彼女もあまり興味がなかったというのが、本当のところだと思います。最後の

「>きっと、音楽が命そのもののようになっている・・・」

という文章に、強く共感を覚えました。

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