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後南朝の伝説拾遺コミュの南朝皇胤の墓について

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南風競わずといった劣勢の中、全国各地で粘り強く皇位
回復運動を展開した南朝皇胤およびその関係者達のお墓を
紹介するトピです。皆さん情報提供を宜しくお願いします。

コメント(3)

・教尊の墓

・所在→島根県知夫村郡(松養寺)


〜コメント〜

南朝後亀山天皇の曾孫、小倉宮教尊の墓。教尊は南北朝合一後に

後醍醐流の正嫡と目された小倉宮聖承の子息で、北畠満雅が南朝

勢力として反幕の兵を挙げた際には、小倉宮聖承により称光天皇の

あとに教尊を皇位につけようする企てがあったという。しかしながら

北畠満雅が敗死すると聖承は皇位回復を断念したのか、教尊を将軍・

足利義教の猶子として得度させ、真言宗勧修寺門跡に入室させたが、

その2年後の嘉吉3(1443)年9月に起こったいわゆる禁闕の変

との関係を疑われて翌月に捕らえられ、後醍醐天皇と同じく隠岐島へと

流罪となった。


※後醍醐天皇から教尊までの系図

後醍醐−後村上−後亀山−小倉宮恒敦−小倉宮聖承−教尊
・良成親王の墓

・所在→福岡県八女市矢部村北矢部御側


〜コメント〜

後征西将軍宮・良成親王の墓。良成親王は後村上天皇の第六皇子とされる

人物で、正平22(1367)年頃に叔父の征西将軍宮・懐良親王の留守居役として

太宰府に下向した。その後、武家(北朝)方の九州探題に任じられた今川了俊に

より、太宰府が陥落させられると征西府は高良山、菊池へと退くこととなった。

そして文中3(1374)年には征西将軍の職が懐良親王から良成親王に

譲位され、一時は勢力を盛り返したものの、菊池(隈府)城が落城すると、

良成親王は居城を染土城から深山の「たけの御所」、続いて八代の奥にある

「高田の御所」に移すことを余儀なくされ、元中8(1391)年には五條頼治を

頼り、天険の要害である矢部の大杣の地に在所を定めた。良成親王は

元中9(1392)年の南北朝合一後も、あくまで南朝再興を目指したが、

親王の動向を知りうる最後の史料は元中12(1395)年10月20日に

矢部大杣から五条頼治にあてた感状であり、これにより、当時親王が矢部に

いたことが知られるが、その後、親王の消息を記したものは見当たらないため、

まもなくこの地で没したものと考えられている。九州における南北朝時代は、

中央よりやや遅れて、ここに実質的な終わりを告げることになったのである。
尊義王(小倉宮皇子)の墓。かくし平行宮
(御所)跡からさらに200mほど奥にある。

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