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後南朝の伝説拾遺コミュの御霊

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 菅原道真を祀った北野天満宮に代表されるように、日本には古くから゛御霊信仰″と呼ばれるものが伝えられてきました。道真は死後雷神となって(史実とはいえない)内裏の貴顕を襲い、道真を天皇に讒言し流刑させた藤原時平も間もなく死去しました。

 御霊は、志半ばにして悲壮な死を遂げた者が、死後になって自分に敵対した者たちを呪い、場合によっては死に至らしめるものであるといいます。御霊となった(と信じられた)者には、京の菅原道真・関東の新皇・平将門などがいます。

 御霊には誰でもがなれるわけではない。尋常ではない゛念″や゛行動力″があった者のみがそれになる資格があるとされました。つまり英雄視された者が死後に猛る神となります。これを堀一郎氏は『人神思想』と表現しました。
 また御霊となる人物は、一所に永く留まるというよりは、諸国を経巡った者、折口信夫氏のいう『貴種流離』的な要素をもちます。
゛動的″な人物や集団が話題にされるわけです(ということは、それを伝えた伝承者も、動的な人々だったのではないでしょうか?例えば、木地師・津島の御師のような・・・)。



 このような御霊になったと思われた者で顕著なものは
・源平合戦末期に西国へ落ち延びてゆく平家の公達たち
・後醍醐天皇の皇子(宗良親王・護良親王が有名)やそのまた皇子た
 ち(場合によってはそのまた下の皇子まで登場する、良王といい
 津島神社に縁あり)
などです。
日本各地に落人伝説や平家伝説や後南朝伝説が醸成されてゆきま
す。



 長ったらしい文を書くも読むも退屈なので、説話を例示しておきます。

 《菅江真澄が見聞した長野県浪合の伝説》

 ・・・同じ彌生のなかばに、飯田の駅に著きぬ。應永の頃ならん。 尹良親王このあたりより三河の國に赴かせたまふおほん旅のなごり、しかすがに思しひかれたまひ硯めして、

「さすらへの身にしありなば住みもはてんとまり定めぬうき旅の空」
と詠めたまひて、千野伊豆守に賜はりたりけるとなん。
 斯くて良のみこは、此國の浪合といふ山里のあらき瀧河の邊にて、
「思ひきや幾瀬の淵をのがれ来てこの波あひの沈むべしとは」
とて、やがて隠れおましましゝとか。其御霊を其里の後(シリ)なる高山の末に神と祭りて、処(旧)の人良翁権現と崇め斎ひ奉り。」
(出典:柳田國男校訂『伊那の中路―眞澄遊覧記』1929年)

 こうやって親王様、御霊になったとされています。
こうした伝説を基として、様々な習俗が各集落・一族に伝承されてゆくわけです。



長野県飯田地方には、次のような伝説が残ります。

 尹良親王様が松尾村をお通りの節、相憎草鞋の緒が切れたので、一足譲つて呉れと百姓に頼んだ所百姓はそれを拒んで与へなかつた。尹良様は仕方なく、裸足のまゝで御落ち去りになり、波合の山中で賊徒の為めにお果てなされたと云ふのであつた。
 然る所、其の後松尾村の百姓にそれが祟り、代々足を病む者が絶えぬ所から、誠に申し訳がなかつたと云つて小さな社を造り『ゆきよし様』と云つて崇め祀つて居る。」

親王様、生き生きと祟ってらっしゃいますね、生前の無念を晴らすかの如く。



と いうように、落人伝説や後南朝伝説には、゛御霊″の要素が明確だと思われます。

自分としては、没個性とみられやすい日本人が、ひたすら我を剥き出しにして死後なお敵に襲い掛かる人物を崇拝しつづけたことが、
へぇ〜という感じがしたものです、ハイ。

こういう観点から、逆に個性・我の強すぎるように思われる(自分含め)現代日本人は、どのように゛バランス″を保つのでしょう?
つまり゛個″と゛集団″のバランスのことですが・・・。



まぁそれはおいおいと・・・

コメント(4)

SHUU27さん お初ですm(_ま_)m


?正しい後南朝系譜

ウ〜ムム
自分が知るのは
宗良親王―ユキヨシ親王(第二皇子)――良王(のち津島社神主)
                 l
                 ―崎之宮(額田の皇子)

くらいなものなんです、ハイ。

この系図も妖しいもんです。
 良王は津島神社の車楽の縁起にしか登場しません。市内の遺跡も2ヵ所ほどです(もちろん数の問題ではありませんが)
 崎之宮は、名前の通り神の゛ミサキ″(御先)だと思うのです。社では、もちを若宮社の社殿前に供えるのですが、「カラスが喰ってくだろう」という言い方をされてました。
 カラスのミサキ、で若宮を併設できる神社、といえば、すぐに推測されるところですよね・・・ただこれも推測にすぎません。




>研究している方がいたら教えてください。

ウ〜ムムムム・・・
郷土史家の方々しかいらっしゃらないでしょう。
自分からみて難しいと思うのは、ロマンを感じてやってらっしゃる方(出生した土地への愛着含む)、歴史学・古文書学・民俗学などの学問を経過してらっしゃらない方は、どうも難しい題材だと思うのです、後南朝は。
なので、れっきとした学者の方々は敬遠されますね。柳田氏も後南朝には太刀打ちできませんでした。
 それから皇室の問題。皇室について゛平衡感覚を保つ″、ということは、昨今では薄れてきつつあるとはいえ、なかなか常人にできることではありません。多くの戦中・戦後の郷土史家の方々は、これに足を絡めとられているようです。



 このようなことから(自分のような若者が言うのは失礼にも当たるでしょうが)自らの学問的姿勢、的なものを確固としてからでないと、研究は実りあるものとならないのではないでしょうか?史料集めから始め、系図学の権威の方の研究法を真似た上で、始められても遅くはないと思います。



 自分の場合は、日本民俗学とK教授、また大学の心ある教授の方々に指導の賜物を受け、どうにかやれた、というだけの話です。運と人脈、これに尽きるでしょう。

自分は院へ行く方向からは逃げましたけどねぇf′0`;
深く考えるのあんまり好きじゃないんで(苦w
上のカキコは、念のため残しておきます。

自分は、郷土史家ではありません。
また、れっきとした研究家にもなりませんでした。

曖昧な存在なのです。
でも、それなりに南朝に思い入れはあり、
また『伝説』の愉楽についてもある程度敏感なのです。


ここで小説家の言をひくのはどうかとも思いますが・・・

゛真実は いつもシンプル″(村上龍)



後南朝という題材があり、学問/先行研究というTOOLがあり、自分の脳があり、自分の嗜好があります。

このあたりを明確にしておかないと、後南朝は難しい題材です。
昔人の信仰/心性を探るのに、自らの心性/思い入れ に拘泥してはいけない、とは、なんと皮肉で孤独な作業でしょう。


でも、そういう厳しさからしか、実りは生まれないのでしょう・・・
なんだか嬉しいものを発見♪

http://www.nichibun.ac.jp/YoukaiCard/0160013.shtml


ユキヨシ親王がナニをしたか?に拘泥していては研究は進まない
祟る、という属性が大切だと思います(^^)

妖怪データベースに入るのもおかしな話ではあるが・

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