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カズエの夢日記コミュのスクワットハウス生活 2 

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・・・

ベルリンに来て、もうすでに2ヶ月目。
11月なのに、外を歩くにはコートが必要。
ここは、思ったより、冬が早い。
それに、これから4月まで冬が続くといっているし、寒い時にはマイナス20度まで気温が下がるという話だった。

実は・・・ここまで体当たりで来てしまったので、ドイツの情報はまるで知らなかった。
でも、そんなことを今更聞いたところで、暖かいところへ移動するお金もない。
しかも、旅行者保険もとうに切れているし、病院にいけるお金もない。だから、風邪なんてひけるお金も余裕もない。だから、病気にならないように、しっかりと栄養のある野菜をたくさん食べることにした。寒さには、首のまわりのスカーフで対処。首は全神経が通るところだから、首さえ冷やさなければ、まず風邪をひくことがないことは、今までの旅の生活で自然と心得ていたし、後は、どこまで寒いか・・・という問題だけ。

でも、辺りを見てみれば、結局、この町にもこうして人が生活しているわけだし、人間が耐えられない寒さではないだろうと、楽観的に思い、そうなれば、とりあえず、「来るなら来い!」という姿勢が一番自然にかなっていた。

「よ〜し、マイナス20度体験してやろうじゃないか!」
と、思ったものの、言葉ほど、そんなに気合は入っておらず、「何事も受け入れよう」という、いつものマイペースな姿勢だった。

そんなとき、下に住むミヒャエルは、たまにフリーマーケットをしているらしく、売り物用の古着のコートがあって、安く売ってもらった。ドイツ製のコートは、厚いフェルトでできていて、重いけど、なかなか暖かい。やっぱり現地には現地の気候に耐える生活用品があるものだと感心した。

週末だけの寿司作りも、これで寒さをしのげたけど、肝心な仕事の方はなかなか大変。
まず昼過ぎから、地下鉄で2つ行った所にあるアジア食材屋まで出向いて、いなりの缶詰と酢とのりを買いに行く。いなりの缶4缶と酢1瓶、しょうゆの瓶、のりは知れたものだけど、重量は3、4kgくらいになる。そして、帰り道がてら、近所のスーパーで野菜を買う。卵1パックときゅうり、にんじんも1kgパックしか売ってないし、コメ500gパックを3つ。これで、二つ目の買い物袋は一杯になる。パッキング用の紙袋とナフキンを買うのに、また違う店に行った。地下鉄代を節約するために、片道は歩いたりして、重い荷物を両肩にさげて帰ってくると、だいだい2時間くらいは経っていた。ベルリンの町は、思ったより大きい。

そして、台所に戻ると、前の夜から水につけておいたしいたけを切り、電気コンロでお米を炊く。寿司飯を合わせて、窓側において冷ましておき、その間に、他の具の用意をする。しいたけとにんじんを煮た汁を卵と混ぜて玉子焼きを作り、大きいきゅうりを長く切る。

料理しだして3時間。外は暗くなりかける頃、冷めた材料を巻き合わせ、お盆に乗せて町へ繰り出す頃には、もう外は真っ暗。時には、折角準備したのに、すっかり疲れてしまって、
「このまま全部食べてしまおうか、そうすれば、ここにいる人達のためになるし・・・」
と、自分に言い聞かせモードにして、テーブルでぐた〜となってることもある。
そうすると、
「どうしたの?行かないの?折角作ったのに行かなかったら、台無しになっちゃうじゃん。」
とみんなに説得されて、用意をして繰り出す。でも、元気が無いままでは、歩けても、声も出ない。

とりあえず、どっちに行こうか、目的の無いまま、ぶらぶらと歩き続ける。
でも、声をかけなければ、何も始まらない。

お盆を持ってだまって通り過ぎる私の姿は、例えば誰かの誕生日パーティーに差し入れを持っていく人のように写るだろうな・・・と想像したりしていても、結局何も始まらない。でも、やっぱり声が出ない。そうして、町を一周して、夜中になる頃にもう疲れて帰ろうとすると、酔っ払った人に呼び止められて、事情を説明すると、私の寿司と小銭と交換してくれる時もある。

でも、結局1人か2人。
これでは、材料費の方が高くつく。

でも、調子が良くて、よく当たった日は、材料費を抜いて10マルク(約500円くらい)分はあった。
それは、みんなで食べる食事代や、余裕がある時は、日本の家族や友達に送るポストカードや、絵の具や便箋を買ってなくなった。本当に貧乏。生活の最低限のことしかできない。でも、時間はたくさんあるし、何不自由なく生活できていることに感謝した。

でも、常に「こんなんでいいのか?」と思っていた。それは、
「こんなに貧乏じゃ、今まで私にいろんなことをしてくれるみんなへのお返しができないじゃないか・・・」
という理由と、
「大学まで出してもらった両親に申し訳ない。」
という気持ちに焦りもないわけではなかった。
それに、あたりは寒くなってきてるし、他に自分にできそうなことをいつもいつも考えながら歩いていた。



ある日の朝食の日、いつものように、お金作りの話をしていとき、「そういえば、日本語教えるって言ってなかったっけ?」とバーニーが聞いてきた。

「そうだったね。」
「言葉を教えるのって、よく通りで貼り紙してあるじゃない?あれやってみるべきだよ!」

そういえば、旧東側のこのあたりは、横断歩道の脇の街灯や人が集まりそうな駅やスーパーの脇のガードレールなんかに、いろんな広告が貼ってあるのを見かける。

それは、同居人募集、ライブや演劇などの広告、私のように語学を教える人達の広告だったり、自転車修理や“迷子のネコを見かけた人は電話ください”なんていうのもあったりして、敗れかけのビラの上に重ねられて何枚も貼ってあり、よく見ると、貼り紙の下方には電話番号が書いてあって、見た人が軽くちぎって持っていけるように、切り込みが入っていて短冊状になっている。

そして、何日もそうやって雨風にさらされているらしく、中には雨がしみこんでビラビラになっているのもあるし、酔っ払いにちぎられて、テープだけ残っているのもあるが、本当にあちこちにある。

・・・だから、それは・・・、確かに、手と足とやる気さえあれば、誰にもできそうなことだけど・・・、
私もそうやってみるべ・き・・・なのかな?


「でもさ、私、電話もないしさ・・・。」
ちょっと逃げ腰になってみたりして・・・。でも、

「あるじゃん、ここに。」
「は?ここの電話使ってもいいの?」
「当たり前じゃん。」
「へえ〜、ありがとう。」
こんなに簡単に、このうちの共同電話の使用を快く許してもらうなんて、とってもびっくりした。

日本だったら、一般の電話番号を通りに公開することは、とんでもないこと。
どこからか、一日中することがない暇な人達から、無言やいたずら電話、悪質商法の電話がひっきりなしにやってくるかわも知れない。


「変質者から電話かかってきたらどうするの?」
「そんなのかかってこないよ〜。かかってきたら、無視しときゃいいじゃないか。俺達一緒に電話使ってるんだから、向こうだって、一人暮らしじゃないことくらい分かると思うよ。」
「そうだね。」

そんなこと言われては、この人たちを信じるしかなかった。
やってみるしかないと思わずにはいられなかった。
なんて親切な人たちなんだろう。
文字通り、背中を押して『力』になってくれる。


早速、ビラをつくることにした。

『日本語、教えます。』
「えっと〜、なんて書けばいいのかな?・・・」
『私は経験ある日本語の講師です。日本語、日本の料理や生活などの文化を習いたい人、連絡してください。』
一応、塾で日本語を教えてたことだし、書いてある事は全くの嘘ではないことをいいことにして、書き上げた文、これをドイツ語に訳してもらった。

そして、これを手書きで一枚一枚白紙に書いて、下の方には、興味のある人がすぐに電話番号を破ってもっていけるように、はさみで切込みを入れていたら、アンディーが、
「コピーすれば早いじゃん。1マルクくらいあれば、何十枚かすれるよ。」
「うん、でもね・・・1マルクでも、今の私にはおしいんだよ。このペンのインク代とどっちが安いかなってくらい・・・」
すごい、せこい計算。
でも、本当に貧乏だった。

だって、もうすっかり全財産を今月の家賃で使い果たしてしまっていて、来月の家賃100マルク払えそうにない。毎週日曜日の寿司カンパ生活をざっと計算してみても、40マルクがいいとこで、家賃の半分もいってない。それに、生活費も必要で・・・結構せっぱつまっていた。

それでも、ビラを一枚一枚書いていると、全部は意味が分からなくても多少ドイツ語に慣れていっているような気がして、それに、まだ少しだけど前向きに進んでいるような気がして、そんな貧乏生活に凹んでいる暇はなかった。

そして、セロテープを買った。ガムテープはより少し安いし、インド製のよりはまだ使えるだろうと思われたけど、5個セット2マルクで、お得だったから。


さて出陣。
すぐに取り出せやすいように、バックの口をあけたままで、できたビラとセロテープを入れた。

まず、みんなが教えてくれたように、大学の掲示板に行ってみることにした。
ベルリンには3つ大学があるけれど、一つは遠い遠い南西にあり、一つは旧西ベルリンの中心駅の近くで、もう一つは旧東側のわりと近くにあった。

当時、地下鉄の切符は2時間乗り放題のシステムになっていて、2時間以上かかると、さらに1枚切符を買わなくてはいけない。ということで、出費がかさむ遠くの大学は無理。

ということで、近所の大学まで30分かけて歩いていった。

国立オペラ劇場の通りをはさんで、大通りに面した大学の庭には本のマーケットが出ていて、誰でも自由に入り込めた。

学生の振りをしてる振りをして、売っている本をざっと見ながら、校舎に入ると、人はあんまりいない。
掲示板らしきものもどこにも見当たらなかったので、通りがかった親切な学生に場所を聞いてみた。ドイツの町の人々は英語をあまり話さない。買い物や駅員など、公共のところにいる大人はまず、英語を話せない。でも、学生だったら、いくらなんでも英語が話せるくらいの教養はあるだろうとも思ったので、ちょっと聞いてみることにした。

そして、無事に教えてもらったとおりに行ってみたら、廊下の脇には高さ120cm、幅3mくらいの大きな掲示板があって、これまた無造作にぎっしりと貼られていた。
「うちの大学にはこんなのあったっけ?」
と大学の校舎をぐるっと一通り思い出してみたけど、やっぱり思い出せなかった。
「そうだよな〜。もうかなり昔の事だもんな〜。あれから、いろんな事があったもんな〜。」
と自分で納得していた。

その中の貼り紙は、語学チェンジの貼り紙が多かった。留学生がドイツ語を習いたいがために、自分の言葉を教える代わりに、ドイツ人の学生と交換レッスンをしようというもの。英語、フランス語、スペイン語、イタリア語、ポルトガル語、ロシア語、中国語、韓国語などで、日本語のもあった。

「ここは語学チェンジの場なのかな・・・だったら、私の張り紙は合わないな。でも、とりあえず・・・」
私は学生じゃない。一応、大学で授業の仕方を習ったわけだし、あの教育実習の大変だった経験を思い出すと、私の日本語の授業と、語学を教えたことのない学生のドイツ語と、いくらなんでも交換授業はしたくないな・・・と、プライドはあった。なんせ生活もかかっていることだし・・・。とりあえず、そこは、そうやって貼り紙をしてもいい場所で、何後ろめたい気持ちもなくできたことは良かったので、その中の古そうな広告のまわりを選んだ。

「あっしまった・・・はさみがない。」
でも、心配無用。安物のセロテープは少し力を入れて引っ張ったら簡単に切れた。
切れ口はいかにも伸びて、先っぽはもうどこにもくっつかないくらい汚かったけど、ビラが外れることはなさそうだから、この方法でいくことにした。続けて、電話番号のビラビラの少し上の方にも貼って、これで、最初のビラ張りは成功。こうして結局、3枚この掲示板に貼り終えた。




さて、次は問題のストリートへ。



通りにある貼り紙の様子をうかがいながら歩いた。
道沿いに、よく見かける同じようなものもよくある。
前の人もこの道を通ったんだということがわかるみたい。

幸いなことに、どこにも『日本語教えます』のビラはない。
「ちょっとラッキー!」
そういえば、今まであんまり日本人に会っていなかったかも。

「じゃあ、同業者もいあにことだし、私も・・・さっそく・・・」
と思って、貼ってみようとは思ったが・・・、

やっぱり恥ずかしくて、とまどってなかなか張り出せない。


「そういえば、みんなどうやって貼ってるんだっけ?」
この前、ポスターを貼っている人たちを見た。
二人組みで、リュックサックに二つ折りの厚いポスターを入れて、一人は横長の、毛の硬そうなモップ形の刷毛の柄を持って、その先は足元にある、ノリが入ったバケツにと続いている。

片方がリュックからA2大のポスターを抜いて壁に当てると、もう片方が、バケツに突っ込んだ大きな刷毛を持ち上げ、先からポタポタたれる糊をポスターの上から一塗りにして、その後、1人はリュック、もう1人はとモップとバケツを持ち上げて、次の場所に移動していく。
それは、本当に手際が良い作業で、まるで、毎日焼いてるたこ焼き屋のおばさんの手元を眺めているような感じと似ていた。

今思えば、ある鳥の子供は、始めてみたものを親を思うように、
情報のないまま始めてみた事は、まるで、それが当たり前のように写ってしまう。
この町にたかが2ヶ月の私には、その人たちは雇われているとは知らずに、それがこの町の当然の姿に写っていた。

「それよりは、テープの方がまだ地味だよな・・・」
と思い聞かせ、
「どうせなら、チラシ貼りのプロのような素振りを演じてみようか・・・。」
とさえ言い聞かせて、なかなか踏み出せない自分がいた。

今考えると、一体どうして恥ずかしかったんだろう・・・。
この町に私を知る人なんて誰一人もいないのに・・。
こんな貼り紙、しかも明日雨が降ってしまえば、ちぎれてなくなりそうなペラペラの紙のために、後ろ指を差されることなんてありゃしないだろうのに・・・。


「そういえば、日本の生活・・・。 
日本にいる時、いろんなことが妙に恥ずかしかったよな・・・」
歩いていてつまずいたり、電信柱のぶつかったり、転んだりすること、特に、1人でいる時は妙に恥ずかしかった気がする。別に、他人に何を言われることもなく、人ごみに混ざったり、その場からいなくなったらすぐに忘れてしまうことでも、一瞬顔から火が出るような恥ずかしい思いをした経験がある。

例えば、石にけつまずいて転んだとして、転んだ自分に加えて、「大丈夫ですか?」と倒れている自分を他人に起こされた時、そんなちょっとした惨事の状態でさえも、けがの痛さよりも、他人に心配される恥ずかしさの方が優先してしまう。それって、ちょっとおかしいよな〜。心ここにあらず、じゃん・・・。


日本の生活って、カッコつけてたよな〜。
そんなドジを、知らない他人に笑われてしまう事が妙に嫌だったり、買い物で横浜や渋谷や下北に行く時は、普段着ない、着心地悪い服を着て、みんなに見られているのを妙に意識してたような気がする。ストリートファッション雑誌に感化されているの丸見えで、流行の店からおしゃれな雑貨屋に、自分流おしゃれなものを探し回ってたなあ。でも一体、なんのためのファッションだったんだろ。人に見てもらうためだったんだろうか。他人の目を意識するためだったんだろうか・・・。

学生時代にヨーロッパを旅行した時、パーカーのフード、あのかぶり帽子が、本当にかぶるものだということを知ったことを思い出した。日本では、ファッションでしかない。フード付の服を持ってたけど、サルのものまねをするくらいしか、そのフードをかぶったことが無い。

でも、こっちに来てから、フードっていうものは、小雨がぱらつく日や少し風があって寒い日に自然から身を守るものだって知ったんだ。ここには実用的な人ばかり。日本みたいに、たまに不自然なようにも見えるおしゃれしている人は見かけない。薄汚い上着を重ね着して、破れてても気にせず、見る人見る人、自分の生活の中に生きている感じがしていて、そんなところも、ベルリンの好きなところだった。

そう思うと、その一瞬思い出した日本の思い出は、この曇り空の下、大砲で撃たれた後の残っている、部分々々崩れそうなブロックの塀の脇に薄汚い古そうな車が無造作に停められている通りの風景の中に混ざっていった。日本とは到底似ても似つかないあたりの景色の中で日本の事を思い出しても、現実味がない。今は進むべき時だという意志と、普段見慣れている、実用的さを重んじる『いつもマジ』なドイツ人の姿の方が、既に私にとっては近いものだった。

ぶつぶつといろいろ回想しながら、通りを歩いた。

と、突然、鼻がむずむずしだして、くしゃみが出た。

「ゲズンタイト!」
と、通りがかりの人が、歩く速さも変えずに、私の方に振り返って言った。

この「ゲズンタイト」って言葉。
ドイツ語で、健康っていう意味だけど・・・
『お大事に』っていう感じかな・・・。

そういえば、ここでは、友達といる時はもちろん、電車でもトラムでも、通りを歩いていても、くしゃみをすると必ず、どこかから「ゲズンタイト」と聞こえてくる。知らない人でも、それで一瞬笑顔を交わし、「ダンケ」という習慣がついていた。くしゃみをした後は、誰かが声をかけてくれるんじゃないかと期待までしても、必ず、その期待は叶った。その100発100中度は、本当に気持ちが良かった。
逆に、誰かがくしゃみをすると、知らない人でも「ゲズンタイト」と言い、「ダンケ」と言われるようになった自分も嬉しかった。町の人みんな、私の健康を願っていてくれて、私も町の人の健康を祈る、その不思議な言葉のコミュニケーションは、日常をほんのちょっと楽しくするものでもあった。お陰で、毎日楽しい。

「ここは、心地いい。ここに住みたい。それとも、おとなしく日本に帰るのか・・・?」
と、ぶつぶつつぶやきながらも、しばらく歩き回った後、
「やんないと、意味が無いだろ・・・。折角書いたんだし・・・。」
と思い直って、勇気を出した。

そして、人通りも多少あっても通りからそんなに目立たないところにある柱に立ち止まってみた。
「だれがこんなとこ見るんだろ・・・」
とも思ったけど、ここで戸惑っていたら、どこにも貼り出せない。とりあえず、練習だ・・・

ビラを一枚をカバンから出して、柱に当て、セロテープをはがしてビラの上の部分に貼ろうとしたところ、こんな時に限ってうまくはがれないセロテープ。切り口をつめでポリポリして、やっとギギーっと伸ばしてみたものの・・・

「やばい、指紋がいっぱいついちゃった・・・」
って、これって、もしかして刑事ドラマの見すぎ!?・・・。

だって、いくら考えたところで、こんな貼り紙くらいで指紋調査されたりするわけがない。家に警察がわざわざ指紋をとりに来る絵を想像したけど、あんまりありえそうな感じはしない。第一、路上で太鼓演奏していた時だって、怒られただけで済んだわけだし・・・。

「別に、指紋がついたところで、このビラは商売のチラシじゃないし、日本語をただ純粋に教えたいだけなんだ。お金の事なんて書いてないし、滞在ビザの範囲もあるし。だから、別に私は悪いことをしているわけじゃあないんだ・・・もしこれで罰せられるというのなら、この街角に貼ってある貼り紙はどうなんだ。こんなに貼ってあるわけ無いじゃない・・・。もっと常習犯がいるよ・・・そんなの・・・」

と冷静になりがら、そのまま、セロテープで柱を一巻きした。
そして真中の部分も一周。

捨てきれない恥ずかしさを抑えて、やっと一枚張り終わった。


そして、
「このビラで当たりますように・・・」
とビラの前で数秒願いの呪文を唱えて、気を取り直しては、次の場所を探した。

でも、何でもそうだけど、『最初が一番大変』。
喉元過ぎれば暑さ忘れてしまものだ。
貼っていくうちに、だんだん手馴れてきて、場所選びにも余裕も出てきた。

貼り終えた後から次ぎの場所を見つけるまで、
「だるまさんが転んだ、だるまさんが転んだ・・・今度は5回だるまさんが転んだ・・・」
と頭の中で繰り返して、リズムをつけて歩いて、止まったところに貼っていった。

選んだ場所は、だいたい、「あそこに貼ったら、目立つだろうな・・・」というのの手前か後ろが多いような気がしたけど、
「まいっか。ゴレンジャーでいうところの、赤レンジャーにはなれない青レンジャーみたいなところだけど、いや緑レンジャーかも知れないな・・・」
と、わけわからないことも考えて、とりあえず、そこでよしということにした。そんなに目立だって、たくさん電話がかかってきたら大変だし・・・とも思っていたし。

外は息も白くなるほど寒いけど、幸い厚手のコートを着ているので、手先もあまり目立たないことをいいことに、歩き回りながら、貼れそうなところにビラを貼っては、
「30枚のビラを貼り終えるのに、後何枚・・・後何箇所・・・」
と数えながら、

やっと貼り終えた。


達成感も何もあったものじゃない。
「最悪、滞在がバレて、日本に連れ戻されてしまうことがないといいな・・・」
という不安もあったけど、やったことは仕方ない。週末にはそんな不安も忘れ、誰もきっと電話して来ないよ・・・と諦めモードもあった。


それから、1週間たって、
「電話なんてかかってこないよ。ビラなんて雨が降ったから、2,3日しかもたなかったんだよ。きっと・・・」
と思いかけていた頃、バーニーが1階に住む私の部屋に下りて来て、
「電話だよ。」
と言った。

その頃、私にわざわざ電話をかけてくれる人は特にいなかったから、早速、貼り紙のおかげだと思ったけど・・・、残念ながら・・・、その電話は日本語の話ではなかった。











「あの、通りで貼り紙を見つけたんだけど、日本料理の教室をやってるんでしょ?」

ちがう・・・。
「・・・うううんんん。あれは、日本語レッスンの貼り紙で、料理ですね・・・えっと・・・やろうと思えばできるかもしれませんが、えっと〜、食材が調達できませんよ。基本のだしになるかつおぶしが手に入らないし・・・ちょっと無理かも知れませんよ・・・でも、日本語は興味ないですか? 」

「え?ことばはね〜・・・、やめとくわ・・・ダンケ〜・・・ガチャッ」
と電話を切られた。
確かに、『日本語、日本の料理や生活などの文化を習いたい人、連絡してください。』なんて文句書いてしまったけど・・うううんんん・・・


そして、その2,3日後にももう一つ電話があった。
でもやっぱり・・・日本語のことではなく、受話器の向こうの男性は、

「あの〜、ラーメンを作りたいんだけど、一緒に作ってみませんか?」
と言った。

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