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生活保護者の集いコミュの怠けているように見える生活保護受給者は「虐待サバイバー」かもしれない

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https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2023/01/post-100720.php

<生活保護業務に携わるなかで気づいた、被虐待児(元・被虐待児)たちの存在。18歳の若さで生活保護を受ける青年はこう言った。「どう生きればいいか、わからない」>

生活保護を受けるのはどんな人かと問われたら、なんらかの経済的理由を抱えた人を思い浮かべる人が多いだろう。

高齢で身寄りもなく、年金だけを頼りに生きている人とか、障害があるため社会的な扶養を受けなければ生活できない人とか、あるいは急な失業で収入が途絶えてしまった人とか。

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もちろん、それは間違いではない。しかし『ルポ 虐待サバイバー』(植原亮太・著、集英社新書)によれば、生活保護を拠りどころにしているのは、必ずしもそういう人ばかりではない。

ちなみに著者は、精神科病院でうつ病や依存症の治療などに携わったのち、福祉事務所の精神保健福祉士・カウンセラーとして働き始めたという人物。生活保護業務を行う部署で働くようになった結果、多くの児童虐待から生き延びてきた人たちの存在に気づかされたという。

被虐待児の多くは幼少時代に児童相談所や子ども家庭支援センターなどの介入によって保護されるか、助け出されてきたという経緯を持つ。

だが18歳を迎え、児童福祉法が定義する"児童"から外れると、要保護の対象からも外れることになる。以後は"大人"とみなされ、普通の人たちと同じように自己責任で生きていくことを余儀なくされるわけだ。

ここまでなら、すでに知られている話でもあろう。しかし意外なことに、そんな彼ら「被虐待児(元・被虐待児)」たちが流れ着く場所のひとつが生活保護だというのである。しかも彼らには共通点があるようだ。


それは、どんな困難に陥ったときも、人に頼らず、頼れず、孤立しながら生きているということである。(27ページより)

著者はそのことを、当事者たちの話を積極的に聞くようになってから実感するようになる。「こんなにも困窮しているのに、なぜひとりで耐え忍んでいるのか」という疑問を抱えながら。

もちろんそう感じるのは、一読者にすぎない私も同じだった。だが本書で紹介されている事例を確認するにつけ、少しずつ事情が把握できるようになっていった。

親から生き方を教わった経験がない
例えば印象的だったのは、18歳という若さで生活保護を受けることになったという男性(27歳)のケースだ。彼は母親からの虐待がきっかけで小学5年生のときに児童養護施設に入所したが、その後、母親が会いに来たことは一度もなかったという。

もともと人間関係が苦手だった彼は、以後、小中高を通して不登校になった。施設退所後の生活を見据え、働いて生計を立てていく試みをいくつかしたものの、奏功せず時間だけが過ぎていった。

現在は必要に応じて最長で22歳になる年度末まで措置延長できる場合があるものの、彼が入所していた当時は、前述したとおり施設にいられるのは原則として18歳まで。以後は退所しなければならなかったわけである。


 退所の期限は近づいた。施設側の提案はこうだった。
「生活保護の力を借りて、生きていきなさい」
 こうして、彼は児童養護施設の職員に伴われて生活保護の申請に訪れた。
 その申請の際に彼はこう言ったという。
「どう生きればいいのか、わからない」(33〜34ページより)

問題はここだ。つまり彼には、親から生き方を教わった経験がないのだ。したがって、そのまま施設を出るということは、丸裸のまま放り出されるようなものだったともいえる。

はたから見れば彼の姿勢は、自分の人生を能動的に考えていこうという意思を持たないようにも映るかもしれない。本人は純粋に「わからない」だけなのだが、「やる気がない」「怠けている」という誤解を受けやすいわけだ。

なお、本書で紹介されている他の事例についてもいえることだが、こうした被虐待児たちには共通点があることを著者は指摘している。


 子が親に頼らない、頼れない
 親が子の窮状に無関心で、共感がない(35ページより)

この国の福祉制度が彼らをさらに追い詰めている
なかには、自分の子を"積極的に攻撃"する親もいたようだ。しかしそんな親には、そうすることによって自分の子がどんな気持ちになるのかという視点がないという。にわかには信じがたい話だが、本書を読み進めていけば、読者はいやでもそのことを実感しなければならなくなるだろう。

それくらい、常識でくくることのできない親が存在するということだ。そして、親がそうである以上、子どもはなんらの虐待から逃れることができなくなるのは当然だ。


 彼らの家族の影は薄いか、気配をまったく感じさせない。
 それに付随するように周囲にも人がいない。実際にはいたとしても、危急が差し迫っても頼ろうとせず、彼らは、まるで人や社会を避けているかのようである。
 虐待を受けてきた彼らの自己主張は弱く、受身的だった。人と関わり、社会のなかで適応していくことに心理的な困難を抱えているようだった。(36ページより)

だとすれば私たちは、「あの子は意欲に欠けるよね」という具合に彼らを否定することはできるだろうか? そうやって片づけてしまっていいのだろうか?

ましてやそれに輪をかけて、この国の福祉制度が彼らをさらに追い詰めているのだと著者は指摘する。なぜなら行政が行う公的支援は、家族を単位として考えられているからだ。

しかもその家族の前提は、相互に支え合う機能を備えた(虐待が起きない)、いわゆる「普通」の家族。

要するに、虐待を受け、家族の支えや助け合いとはほど遠いところで生きている子どもたちは対象となっていないのだ。


 行政の支援というのは一面的である。よく言えば統一した対応がとられているのだが、悪く言えば形式的な対応に終始していて、十分に個々の事情を理解して対応できていると言えるほど機能していない。
 公的支援は、多くの人に幅ひろく適用できるように汎用性を持たせている。その反面、専門性は削ぎ落とされてしまっている。
 虐待による心の傷が原因で生活保護を受けることになった人には、公的支援だけでは不十分だった。そして、限界があった。(41ページより)

いわれてみれば当然の話で、住居の提供や生活費の支給、就労意欲の促進などをすれば心の傷が回復するというわけではない。だが逆から考えれば、もし回復できれば、彼らは生活保護に頼らず生きていけるかもしれない。

もちろんそれは、それは決して簡単なことではないのだが。



『ルポ 虐待サバイバー』
 植原亮太 著
 集英社新書

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[筆者]
印南敦史
1962年生まれ。東京都出身。作家、書評家。広告代理店勤務時代にライターとして活動開始。現在は他に「ライフハッカー[日本版]」「東洋経済オンライン」「WEBRONZA」「サライ.jp」「WANI BOOKOUT」などで連載を持つほか、「ダ・ヴィンチ」などにも寄稿。ベストセラーとなった『遅読家のための読書術』(ダイヤモンド社)をはじめ、『世界一やさしい読書習慣定着メソッド』(大和書房)、『読んでも読んでも忘れてしまう人のための読書術』(星海社新書)、『人と会っても疲れない コミュ障のための聴き方・話し方』(日本実業出版社)など著作多数。新刊は、『書評の仕事』(ワニブックス)。2020年6月、日本一ネットにより「書評執筆本数日本一」に認定された。

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