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生活保護者の集いコミュの私は死んでいた 期せずしてコロナで生き返った 会えぬ母とつなぐ細い糸

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https://mainichi.jp/articles/20201231/k00/00m/040/084000c

 自分が「死んでいる」と分かったのは、東京都新宿区役所の窓口を訪れた時だった。緊急事態宣言が明けたばかりの2020年6月上旬。新型コロナウイルスの感染拡大に伴う10万円の給付金を申請した孝志さん(57)は、戸籍を見た職員から、2年前に「失踪宣告」が出ていると知らされた。「死亡届のようなものです」。驚きはなかった。唯一の肉親である母とは、もう20年以上会っていない。

 親族などの申し立てに基づき、長年消息の分からない人を裁判所が法的に死亡扱いとする失踪宣告。いったん宣告を受けながら、その後に取り消しが認められて「生き返った」人たちがいる。コロナ禍で人と「距離」を取ることが求められる中、失っていたつながりを取り戻した人たちは、どんな事情があったのだろう。そんな疑問から取材を始めた。世の中が様変わりしたこの1年、改めて生き方を考え直した人も少なくない。世間と絶縁して生きてきた人もきっと影響を受けているはずだ。宣告や取り消しの情報が記載された官報を頼りに首都圏のアパートや福祉施設を訪ね歩いた。

 「コロナがなければ僕は一生、失踪宣告のままのはずだった。生きているのか死んでいるのか分からない状態のまま、死んでいたんでしょうね」。10月下旬、新宿の簡易宿泊所で出会った孝志さんは、身の上を語り始めた。それは期せずしてコロナがつないだ、親子の細い糸をめぐる話だ。

母と見たランラン、カンカン
 高度経済成長期のただ中、孝志さんは新宿で母子家庭の一人息子として生まれた。光化学スモッグの発生が相次いだころ、幼子の健康を案じた母は、郊外の八王子に引っ越した。父親は、物心ついた時からいなかった。

 父の記憶は一つだけ。確か、6歳ごろだった。離婚した父の職場を、母に手を引かれて訪れた。現れたのは大柄な男性だった。怖くて口も利かずに逃げた。30メートルほど離れた道ばたから、母と話し込む姿を見ていた。

 デパートで働く母は、土日も仕事でいなかった。小学生のころ1度だけ、平日に上野動物園へ連れて行ってもらったことがある。パンダが来日してすぐのころだった。人混みの中、ほんのわずか見えたカンカンとランラン。今もはっきりと脳裏に浮かぶ。

 中学1年の時、母が再婚した。警備員だった義父は毎日、カップ酒を4、5本は飲んだ。夜になると板張りの台所に呼ばれ、正座したまま竹刀で体中を殴られた。理由はよく覚えていない。ただ連れ子が憎らしかっただけかもしれない。抵抗したこともある。目の前で母が殴られた時だ。酔った義父はなぜか「お前、えらいな」と言って殴るのをやめた。

 「逃げるよ」。高校入学直後の5月ごろ、母がそうささやいた。教科書と制服だけ持って飛び出した。新宿区のアパートで母子2人暮らしが始まった。苦しい生活と引き換えに、久しぶりの自由を得た。深夜までファミリーレストランで働き、学費をためた。帰宅は、母が眠ったあと。朝起きると、母はすでに仕事に出ていた。それでもテーブルにはいつも、昼食代の500円がきちんと置かれていた。

ファミレスをやめ夜の街へ
 高卒後、バイト先のファミレスで社員になった。間もなく店長に昇格し、都心の店を渡り歩いた。バブルの時代。早朝から未明まで立ちっぱなしで働き、家ではほんの数時間眠るだけ。母と顔を合わせる時間はほとんどなくなった。32歳で体を壊し、仕事を辞めた。

 「水商売は楽だし、面白いぞ」。元同僚の誘いで、夜の世界に足を踏み入れた。キャバクラ、ヘルス、ピンサロ。ファミレスほどきつくなく、月収が120万円に達したこともあった。楽しかった。寮や友人宅を転々とするうち、母の待つ家には帰らなくなった。

 5年ほどたった。明け方、店で働く女の子を送る際、家のそばを通りかかった。母のことを思い出し、車を降りて行ってみた。木造2階建てだったはずのアパートは、鉄筋3階建てに変わっていた。母はいなくなっていた。

音信不通の母が生きていた
 携帯電話もなかったころだ。母の行き先は知れず、自分の住民票がどこにあるかも分からなかった。でも、夜の世界なら働ける。健康保険証も年金手帳もないから、頼りは現金だけ。しゃかりきになって稼いだ。


普段生活する簡易宿泊所近くの公園を歩く孝志さん。仕事や住み家が見つかったら、母に会いに行くかもしれない=東京都新宿区で2020年12月14日、大西岳彦撮影
 「僕は結婚できないよ。住民票がないから、籍が入れられない」。交際相手にはそう告げた。結婚を望む彼女とは、やがて別れた。それから約20年間、歌舞伎町のカプセルホテルで暮らし続けた。横になれる空間と衣類を入れた三つのロッカー、大浴場もある。十分だった。母はどうしているだろう。40代まではふと考えることもあったが、50代になると思い出すことも少なくなった。

 東京・大塚の店に勤めていたとき、新型コロナの感染拡大が始まった。20年4月の緊急事態宣言を機に店は休業し、そのまま閉じた。収入の道が途絶えた。区役所で生活保護を申請した時、所持金は6000円に減っていた。

 6月に給付金をもらおうとしたら、失踪宣告が出ていることが分かった。このままでは給付金が受け取れない。翌日、東京家裁に取り消しの申請をしたが、身元を証明するものがなかった。古い友人や元交際相手を訪ね歩き、昔の写真でもいいからと探したが、一枚も残っていなかった。

 結局、自分が自分であると証明してくれたのは、母だった。家裁の調査官が行方を突き止め、連絡を取った。「うちの息子で間違いありません。よろしくお願いします」。母はそう語ったという。「お元気で暮らしていますよ」。生きているんだ――。いつしか、亡くなったと思い込んでいた。調査官の説明で、小さな安心感がわいた。

「表の社会」で働ける
 9月に宣告の取り消しが正式に認められ、孝志さんは社会に生き返った。簡易宿泊所で生活保護を受けながら、新たな仕事を探す。給付金は締め切りに間に合わなかったが、それでも良かった。「今までは金がなくなったら終わりだった。これからは表の社会で、一般企業で働ける」。語り口はいつも前向きだ。

 その後の取材で実父は7年前に亡くなっていたと分かった。孝志さんはまだ母と連絡を取っていない。50代だった母は、もう81歳だ。「いきなり現れても向こうも困るだろうし、何年もほったらかしにしてきた。会いづらいよ」。そして、会えない理由を探すように言った。「自分がコロナかもしれない。高齢者にうつしたら大変なことになるから」

 取材を重ねるうちに気づいた。母のことを口にする時、孝志さんの話し方には思いやりがにじむ。「お母さんも会いたがっていると思いますけどね」。そう尋ねると、少し間があって言葉が返ってきた。「仕事や住み家が見つかってコロナが落ち着けば、その時は会いに行ってもいいかもしれない」。細い糸はつながっている。木々に差し込む、冬の淡い日差しのように。【金子淳】

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