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生活保護者の集いコミュの生活保護費減額に「最低」と言われる判決を下した名古屋地裁の論理

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https://diamond.jp/articles/-/241414

“自民党ヨイショ判決”では?
名古屋地裁に響く「不当だ」の叫び
 2013年に行われた生活保護費減額の取り消しを求める訴訟が、生活保護で暮らす1000人以上の原告と約300人の弁護団によって、全国29地裁で行われてきている。

 6月25日、最初の地裁判決が名古屋地裁で言い渡された。緊張感が漂う法廷に入ってきた角谷昌毅裁判長は、「原告らの請求をいずれも棄却する。訴訟費用は原告らの負担とする」という判決を述べると、足早に法廷から去った。傍聴席からは「不当判決だ」という叫び声が上がった。原告の完全な敗訴である。

 2013年の生活保護費減額については、正当化することのできる合理的な理由はない。理由らしい理由がないのに引き下げが実施され、生活保護のもとでの暮らしは締め付けられている。いわば、国が堂々と「生活費を充分に渡さない」という経済的DVを行っているようなものであり、“情状酌量”の余地はない。法廷での厚労省側の主張には、時に「もっともらしさ」を取り繕うことさえ放棄しかけているような節もあった。

 しかし、この経済的DVは、家庭内での出来事ではない。国家によって、200万人以上を対象として行われている。減額された保護費の総額は、数千億円に達する。原告が勝訴するということは、国が2013年から2018年までの5年間の減額分の保護費を原告に支払うということである。実行するためには、自民党が与党となっている国会で予算措置を行い、可決する必要がある。必要であっても、実現は困難であろう。

 以上の理由から、この種の訴訟の判決の定番の1つは、「生活保護法第8条によれば、厚労大臣が決定することになっている。それが違法であるわけがない」という「裁量論」である。さらに「それにしても、これはひどい」または「そこまでひどくはないでしょう」という「程度論」がセットになる場合もある。

 今回の名古屋地裁判決も、「生活保護法第8条に基づいて厚労大臣が決めました。そこまでひどくはないでしょう」という「裁量論」「程度論」の組み合わせであった。そこには、特に新規性はない。

しかし、今回の名古屋地裁判決には、「生活保護費は自民党が決める」「生活保護費に国民感情や財政事情が反映されるのは当然」という、驚くべき内容がセットになっていたのである。原告たちとともに訴訟に臨んできた弁護士たちからは、「最悪」「最低」という怒りの声が漏れた。

 筆者自身は「あまりにもあんまり」「これはひどい」といった感慨しか湧かず、数時間にわたって呆然としていた。単純な「不当判決」ではない。その、はるか斜め上だ。

生活保護費を決めるのは自民党?
平均6.5%が引き下げられた経緯
 2013年1月、厚労省は生活保護費の生活費分を平均6.5%引き下げる方針を発表した。2012年末の衆議院選挙で圧勝して与党となった自民党は、生活保護費の生活費分を10%引き下げることをアピールしていた。厚労省はそれに呼応し、しかし若干の緩和を行った形である。

 とはいえ、厚労省の資料のどこにも、「自民党が10%引き下げと言ったから引き下げました」という記述はない。もしかすると、「そんな事実、恥ずかしくて書けない」ということなのかもしれない。しかしそれ以上に、法をはじめとする数々の規範によって「決めるのは厚労省であって政権与党ではない」と定められている以上、厚労省は「決めたのは自民党です」とは言えないのだ。

 生活保護法第8条には、生活保護基準は「厚生労働大臣の定める基準により測定した要保護者の需要を基とし」「(健康で文化的な)最低限度の生活の需要を満たすに十分なものであつて、且つ、これをこえない」ものであると定められている。

 この文言だけを読むと、「時の厚労大臣が、内容も基準も方法も勝手に決めてよい」という解釈もできる。しかし、この部分の意味は、「確実なデータを根拠として、貧困や生活や健康の専門家たちに科学的方法で検討してもらって、さらに厚労省の官僚たちが検討して、厚労大臣の責任において『これが今年の生活保護基準です』と示す」ということだ。

そのとき、世論や財務省(大蔵省)の意向は参照されない。厚労省(厚生省)は、国民の健康を守るという使命を遂行する組織であり、政権からも他省庁からも独立して判断を行うのが原則だ。以上は、1950年に生活保護法が成立して以来、厚労省(厚生省)の文書や多数の判決などによって確認されてきている。今回の名古屋地裁判決も、判決文によれば、これらの法や文書や判決類を判断枠組みとしている。

 ところが判決理由には、以下のように示されているのだ。

「生活保護費の削減などを内容とする自民党の政策は、国民感情や国の財政事情を踏まえたものであって、厚生労働大臣が、生活扶助基準を改定するに当たり、これらの事情を考慮することができることは(略)明らかである」

 日常的な用語で言い換えると、以下のようになる。

「生活保護費は自民党が決める。自民党が国民感情や財政事情を反映したければ、そういう路線に沿って生活保護費が決まる。それでいいのだ」

司法が自ら司法の役割を放棄
逆の意味で“画期的”な判決
 背後で自民党が何を考えていようが、行政の厚労省が誤った判断をしているのなら、「それは誤っている」と示すのが司法の役割である。しかし今回の判決内容は、厚労省の誤りを指摘しないだけではなく、さらに「厚労大臣が自民党だし、自民党が生活保護叩きの国民感情を盛り上げていたし、財政的には社会保障削減方針で一貫しているわけだから、厚労省がそうするのは当然」と言わんばかりなのだ。

 司法が自ら、司法の役割を放棄しているのか。三権分立ではなく三権同一を、司法が積極的に目指そうとしているのか。この名古屋地裁判決の“画期的”な意義は、「司法自身による司法の無効化」に見出すことが可能かもしれない。

 生活保護費を政権与党が決めてもいいことにするためには、国会の審議と法改正が必要だ。それは司法の役割ではない。しかし本判決は、立法と司法の境界線を軽々と踏み越えてしまっている。俗に言う「謝って済むなら警察は要らない」を、はるかに超越した判決だ。

厚労省も認めない
政権与党と国民感情の優越
 厚労省にとっては、本判決は勝利である。しかし、内容にも納得しているのだろうか。

 判決の翌日である6月26日、本訴訟に関わった弁護士ら、支援団体関係者、もちろん生活保護で暮らす当事者らが、厚労省に申し入れと交渉を行った。問題は、判決だけではない。コロナ禍下で生活保護を必要とする人々が急増しているため、「必要で、経済的に困っていればすぐ使える」という本来の原則どおりに、生活保護を利用できるようにする必要があるからだ。

 このとき、元厚生官僚でもある弁護士の尾藤廣喜氏が「憲法や生活保護法に示されていない、自民党や財務省の意向、国民感情などによって、生活保護費を決定するのですか」と尋ねたところ、厚労省保護課職員からは「法に従って、公平に適正に行います」という当然の回答があったということだ。

 名古屋地裁判決に盛り込まれた「生活保護費は自民党が決める」という内容は、厚労省も認めていないのである。国会での立法や審議を経ずに、自らの役割や存在を司法に変えられてしまうのでは、たまったものではないだろう。

 今回の裁判官は、なぜ、このような「斜め上」の判決を下したのであろうか。

 名古屋地裁判決の背景として考えられることは、数多い。たとえばコロナ禍で、生活保護をはじめとする社会保障を必要とする人が増えている。総額をコントロールするために最も効果的なのは、生活保護費を減らすことだ。

 生活保護費は、他の社会保障制度や最低賃金など、約60にもおよぶ制度の参照基準となっている。生活保護費を減らせば、社会保障費総額は自動的に減らせることとなる。しかし本判決文は、3月末よりも前の時点で完成していたと見られる。コロナ禍を考慮して大胆な変更が加えられた可能性は、あまり考えられない。

次に考えられるのは、全国の28地裁で今後も続く訴訟、そして全国の8高裁で闘われる控訴審、さらに最高裁判決へと至る道筋の中における国側の戦略である。合計で約40のポイントが存在する訴訟を将棋に例えると、最初の地裁判決は、「歩」の最初の1個の進め方のようなものである。相手の立場からは、「ここで、理由はなんでもいいからボロボロに負かしておこう」という戦略は「アリ」なのかもしれない。しかし、行政訴訟に取り組んでいるO弁護士に聞くと、「戦略的に酷い判決を」ということは考えにくいという。

「あくまでも、判決は各裁判体(今回の名古屋地裁では裁判官3名)が作ります。裁判所間で情報共有をしていることはありません。事件によっては、司法研修所での勉強会を通じて情報の共有が行われることもあると聞いています。原発については、裁判官の会合が開かれて方針が共有されたような話もあります。今回の生活保護の訴訟で、そのような情報共有が行われていたかどうかは、わかりません。もしかすると、情報開示請求などで出てくるかもしれませんが」(O弁護士)

 O弁護士が「聞いています」「話もあります」「かもしれません」としか言えないのは、そのような勉強会や会合の存在は公表されていないからだ。稀に、裁判資料で存在が判明する事例もあるが、総数や全体像は全く不明だ。

裁判所の人事が忖度ならば
公正な裁判を期待できるのか

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 そして、今回の名古屋地裁の裁判体は裁判官3名から成っていたが、うち1名は判決前に、最高裁の調査官として異動し、裁判官のエリートコースを歩んでいる。

「最高裁は露骨な介入はしませんが、人事でコントロールしているのだと思います。名古屋地裁の裁判官は、そういう意味で“踏み外さない”判決を書いたのだと思います」(O弁護士)

 つまり、“忖度”なのである。

 裁判官は、選挙で選ばれるわけではない。最高裁裁判官の国民審査は、衆議院選挙と同時に行われるが、不信任となった裁判官はいない。“忖度マシン”と言うべき裁判所の人事システムに対して、現在のところ、市民にできることはない。そして、もしも紛争や事件に巻き込まれ、原告や被告となる時、私たちを裁くのはこのような司法なのだ。

(フリーランス・ライター みわよしこ)

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