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生活保護者の集いコミュの無料のお惣菜がつなぐ「お助け相談所」、自身も家族問題やうつに苦しんだ店主の思い

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https://news.yahoo.co.jp/articles/13c284b99c5f31bea37c23b2e282cd1ce868fdd0

大阪の下町・庄内には、誰もが気軽に立ち寄れて、おなかも心も満たされる「居場所」がある。1つ100円の手作り惣菜は、20歳以下はすべて無料、店頭に並べたそばから消えていく人気ぶりだ。それを目当てに訪れたはずが、気がついたら自分の悩みを打ち明けている……そんな人たちが後を絶たない。家族問題に悩み、うつ病に苦しんだ過去を持つ店主・上野敏子さんの思いが詰まった、「お助け処」の物語とは―。

お惣菜は、話を聞くツール
 5月上旬だというのに、梅雨を先取りしたような曇天の朝9時30分。阪急宝塚線庄内駅にほど近い『ごはん処 おかえり』(以下、『おかえり』=大阪府豊中市)では、お惣菜作りが佳境を迎えていた。店主の上野敏子さん(53)は焼き飯を炒め、アジをフライにし、慣れた手つきでハンバーグをプラスチック製の容器に詰めていく。

 1日に作るお惣菜の種類は10品ぐらい。どれでも1つ100円とリーズナブル。それでいて、食の細い高齢者なら2食分はあるほどボリューミーだ。

 ボランティアを務める男性がホカホカと湯気が立つお惣菜の一部に“見本”と書かれたシールを貼り、店頭に並べる。そんな見本に誘われるように、路地裏の小さな店にお客が次々にやってくる。

 この日、最初に訪れたのは、買い物カートを押しつつ自宅から30分かけて歩いてきたという高齢の女性。唐揚げに焼き飯、コーンフライを手に取り代金の300円を上野さんに渡し、こう話す。

「スーパーにもお惣菜はあるけれど、防腐剤が使われているからね。でも、ここは手作りだし、熱々のできたて。なにより安いのがいい!」

 続いて現れたのは、自転車に乗ってやってきた女性(40)。

「上野さんのフェイスブックに“サイズ110センチ以上の子ども服が必要。余っている人は持ってきて”と書かれていて。それで、うちの子の服を持ってきました」

 女性はこう続ける。

「上野さんを通して、困っている人が身近なところにこんなにいるんだと知りました。ニュースでしか聞いたことのなかった貧困というものを、初めて具体的に考えられるようになりましたね」

 その後も入れ替わり立ち替わり、店を訪れる人の姿が引きも切らない。お惣菜を買うついでにひとことふたこと、上野さんと言葉を交わして去っていく大人もいれば、店の2階にある部屋で絵を描いたり、おやつを食べたりする子どももいる。

 この『おかえり』は老若男女を問わず、困りごとを抱えしんどい状態にある人たちの居場所にして相談所。数々のお惣菜は、安くておいしい逸品であると同時に「困っている人を店に呼び込み、話を聞かせてもらうためのツールなんです」と上野さんは言う。

 店の前をウロウロして入りたいのに入れない、わけあり風の人に対しては、上野さんがすかさす“どうしたん?”と声をかける。

「『おかえり』のSNSを見て来てくれたんやろうけど、声をかけると10人中、3人は逃げちゃう」(上野さん)

 “逃げちゃう”人たちは切実な事情を抱えている。100円のお惣菜を買うのに躊躇するほど生活が苦しい。困っているけれど、どこへ相談すればいいかわからない。特に最近、そうした若い人が増えていて上野さんは気がかりだ。

 夕方6時半になると、売れ残ったお惣菜3品を1パックにまとめて、店頭に並べていく。この時間帯のお惣菜は、すべて無料で持ち帰ってOKというから驚かされる。

「お惣菜はあえて余るように作っています。だから、黙って持って帰ってくれていいの。でも私、しゃべるのが大好きだから、話を聞かせてほしいわあ!」

 ボランティアの男性が店頭に並べると、どこからともなく人が現れ、20パックはあったお惣菜が瞬く間に消えていく。1人で2〜3パックを持ち帰る人や、毎日のように足しげく通う人も。近所に住む男性(66)も、そんなリピーターのひとり。

「ここの惣菜はおいしいよ。何回も利用してます。上野さんには行政の担当者と話をするとき、間に入ってもらったこともある。ああいうときは女性のほうがええねん。担当者の対応が違う」(男性)

 上野さんによれば、男性は生活保護を受けながら時折、働いて暮らしている。生活保護の利用者には“行政不信”の人が少なくないという。

「(福祉事務所の対応がまずくて)嫌な思いをしたり、(担当者に対し)乱暴な口調になったりする人もいます。だから私が間に入ると、対応がスムーズになるんです」

 役所の窓口に一緒に出向いてサポートする“同行支援”を行うことも頻繁にある。筆者たちが取材をしている間にも、上野さんの携帯電話にはLINEや電話でのSOSが飛び込んできた。

 そんな上野さんだが、かつては「福祉に頼るなんておかしい。そんなの自己責任、と思っていたクチだった」と話す。いったい何が彼女を変えたのか。波瀾万丈な人生を追いかけ、ひも解いていきたい。

ミナミのホステスから看護師に転身
 上野さん自身、若いころはしんどい状態にあった。1987年、19歳のときに大工見習いをしていた2歳下の男性と入籍した。10代で結婚に踏み切ったのは、切実な理由があったからだ。

「うちの家庭環境が悪すぎて。私が稼いだお金を渡すように言われ、渡さないと暴力を振るわれる。いわゆる毒親だったんですよ。そんな実家から逃げようと思ったときにつかんだのが、結婚だった」

 夫は落ち着きがなく、こだわりが強くて、何かあれば黙り込んでしまうタイプ。それでも夫を支え続け、結婚した翌年には長男が誕生。さらに翌々年に次男が生まれ、次々と子宝に恵まれた。

 1992年、長女の千草さんが生まれる直前のこと。出産準備で実家に帰っていた上野さんが健診用紙を取りに自宅へ戻ると、洗濯物が整然と干され、家の中が妙にきちんと片づいている。家事は上野さん任せだった夫が、こんなふうにきれいに保てるはずがない。

「見なかったことにしようかと思ったけれど、近所のおばちゃんがわざわざ教えてくれたの。“あんたの友達の女の子、ずっと来てたんやで”って(笑)。それで長女が1歳になる前に別れました。まぬけな話だけど、浮気相手は私の親友だったんです」

 シングルマザーとなった上野さん。やむなく実家に戻り子どもを両親に託して、大阪きっての歓楽街・ミナミのサパークラブでホステスとして働き始める。ところが悪いことは重なるもので、ギャンブル依存だった父親の悪癖に拍車がかかった。負けが込んで家で暴れる父親を見て、長男はおびえ、次男には吃音が出るようになってしまった。

「元夫に電話して“とにかく子どもたちを1週間、預かってほしい”と頼んだんです。快諾してくれたけど、これが息子たちとの“最後の別れ”になってしまった。それっきり会えていないんです」

 元夫には息子たちを強引に引き取る思惑があったのだ。取り返したかったが、乳飲み子の長女を抱え、父親の暴力にも悩む上野さんに裁判を起こす余裕はなかった。

 以来、上野さんはミナミでのホステス業を本格化していく。持ち前の明るさで人気を集め、売れっ子になるまで時間はかからなかった。収入も跳ね上がり“給料袋が(分厚いことで)テーブルに立つ”状態に。生活は派手になり、気に入った洋服は値札を見ることもなく買い漁った。

 1995年、27歳のころ。千草さんの保育園で親の職業について話す催しがあった。

「千草から“お母さんの仕事って何?”と聞かれたんです。出かけるときはすっぴんなのに、きれいに化粧して帰ってくる。それで“どんな仕事なんだろう?”と思ったんやろうけど、言えなかった。私がやっていたホステスはひと言でいうと、“男をだまくらかす仕事”(笑)。そんなの子どもに言えない。それでスパッとやめました」

 この先どうしようかと考えながら大阪の副都心・江坂を歩いていると、“看護助手を募集”と書かれた張り紙が目に留まった。しかも“資格不問”とある。

「よっしゃ、これならいける!病院勤めなら、子どもも保育園で言える。そんな単純な理由で、看護助手の仕事に飛び込んだんです」

 当時、看護助手の月給は手取りで12万円ほど。テーブルにドンと立つほどだった給料袋は、情けない状態で寝そべった。「顔が生意気だから」という理不尽な理由で、先輩たちからいじめにも遭った。

 それでも頑張り続ける上野さんに、看護婦長が声をかけてきた。「看護学校を目指して頑張れへん?助手で終わるのはもったいないよ」と─。そこで看護学部のある短期大学に入学。夜勤を続けながら昼間は大学に通い、看護師の資格を取得した。

 看護師となってからは、精神科の急性期病棟で働き始めた。ここで上野さんは、さまざまな疾患を抱える患者に出会う。

「出産を終えたばかりのお母さんが、全裸の状態で運び込まれてきたんです。子どもを手渡され“私の子じゃない!こんな子いらない!”と、パニックを起こしていました」

 こんな世界があるとは……、衝撃を受けた。

「認知症の女性が入院したとたん、金属製のベッドを壊しながら“ここから出せ!”と叫び、暴れたこともありました。でも症状が落ち着くと、温厚でかわいいおばあちゃんに変わる。人間の極限の姿を見せてくれる病棟で、興味が尽きなかった。人が変化していく様子は、私にとって最大の好奇心(の対象)なんです」

 看護師として中堅になった2005年、上野さんはホステス時代に知り合った銀行員と再婚した。2人の間に'10年には長男が、'14年には次男が誕生。はた目には順風満帆に映るが、上野さんは新たな苦難に見舞われていた。

うつ病を引き起こした「毒母」の暴言
 2014年に誕生した次男は重度のダウン症だった。のちに、長男にも発達障害があることが判明する。

「ちょうどそのころ、父親が脳梗塞で倒れて、介護のため実家に戻ったんです。これがそもそもの間違いやった。下の子に重度障害があることを知った母から“あんたみたいな子は、あんな子(障害のある子)しか産めへんねん”と言われたんです」

 母親の暴言にショックを受けた上野さんに、夫の言葉が追い打ちをかけた。

「次男は心臓にも疾患があって、医者から“あと1年、生きられるかどうか”と告げられたんです。すると夫は“それなら早く死ねばいいのに……”と。そう聞いて生まれた夫婦の溝は、いまだに埋まっていません。“この子は私が守らなあかん”と思った」

 度重なるショックのため、うつ状態に陥った上野さん。ストレスが原因とされる突発性難聴も発症した。

 こうした心身の不調から勤務先の病院を退職したが、体調はよくならない。食欲はまったくなく、眠れない。母親の前ではストレスで過呼吸を起こした。死にたい気持ちにとらわれ、子どもたちの前でも口をついて出る。

 この時期、うつ病で苦しむ上野さんを支えたのは、長女の千草さんだった。

「本格的に弟たちの面倒を見始めたのは、大学3回生のときでしたね」(千草さん)

 うつで育児ができない上野さんに代わり、朝目覚めたら弟たちを着替えさせ、朝食を食べさせ、学校に送り出す。夜も夕食を作って食べさせ、弟を風呂に入れ寝かしつける。その合間に上野さんのケアもしなければならない。

 千草さんが述懐する。

「母は自殺願望が強いとき、“生きていてもしょうない”と包丁を握り締めたり、コップの破片を手首に当てたりしていたんです。“人目が怖い”と言って、弟の保育園の送迎もできませんでした。今は誰が見ても“元気で明るい母”って感じだと思いますけど、まるで違っていましたね」

 家族の世話に追われた千草さんは就職活動もままならず、大学も半期遅れで卒業せざるをえなかった。あのころを思うと、上野さんは申し訳ない気持ちでいっぱいだ。

「『おかえり』にやってくる学生ボランティアは生き生きと、楽しそうにしています。でも、同じころに娘がどうだったかというと、授業に出て単位を取ることさえ難しい。楽しいことを何ひとつやらせてあげられなかった……」

 そんな母の言葉に、娘の千草さんは「後悔はない」と言い切る。

「私の大学時代はキラキラしたものではなかったけれど、全く悔いはないんです。今は結婚して、子どももできて幸せですし、これからのことをいちばんに考えています」

 当の上野さんも涙をぬぐうと、こう語り始めた。

「思い出すと泣けてくるんですけど、起きたことは起きたこと。振り返ったところで変えられない。そう思わないと、前に進めないんで……」

ばっちりメイクでホームレスに炊き出し
 うつ状態から徐々に回復してきた2015年5月。上野さんがテレビをつけると、ホームレスへ炊き出しをする様子が映し出された。

「支援者と野宿者のおっちゃんたちが、友達同士のように話していました。それを見て“おもしろそう。私も話してみたい”と思ったんです」

 持ち前の好奇心が再び、ムクムクと頭をもたげた。こうなると上野さんは行動が早い。翌日にはホームセンターでプラスチックケースを購入、パンやバナナを積んで、友人と一緒に扇町公園へ出かけた。


 

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