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生活保護者の集いコミュの 渋谷ホームレス女性殺害事件に思う、「他人」を排除したがる私たちの病理

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https://diamond.jp/articles/-/256881

渋谷女性殺害事件が関心を集める
今までとは異なる理由とは
 11月21日早朝、渋谷区で野宿をしていた60代の女性が、46歳の男性に撲殺された。一連の報道によると、女性は登録型派遣労働者として、スーパーなどで試食販売の仕事に従事していたが、2月以後はコロナ禍の影響で仕事と収入を失っていた。

 また、傷害致死容疑で逮捕された男性は、不登校や引きこもりを経験した後、現場近くの実家で家業を手伝いながら地域の美化ボランティアに参加するなど、一定の落ち着きのある日常生活を営んでいたという。犯行の動機は、「痛い目に遭わせれば、いなくなるだろう」ということであった。2週間以上が経過した現在も、世の中の関心は立ち消えていない。しかし筆者は、その関心に違和感を覚えている。

 もちろん、野宿者であるからといって、殺してよい理由はない。しかし、公園も地下街も歩道橋も、野宿者を決して歓迎していない。安全性を理由として追い出したり、そこで一時の休息を取ることもできないように謎のオブジェや謎の仕切りを設けたりし続けている。

 河川敷にブルーシートや段ボールで、仮の住まいを設けることも阻まれる。夏の暑さや冬の寒さをしのぐために、図書館などの公共施設が利用される場合もあるが、「悪臭を放つ」「多くの荷物を持っている」といった野宿者にありがちな事情は、飲酒や暴力とともに迷惑行為とされていることが多い。

 この世から居場所を失うたびに、人は少しずつ死に近づく。しかし、野宿者ではない人々にも、それぞれの事情がある。理由が何であれ、「今、自分の身近にそういう人にいてほしくない」という欲求はあり得る。

 毎年、決して「少ない」とは言えない数の野宿者襲撃事件が発生しているのだが、報道されて関心を集めることは非常に少ない。紛れもなく傷害や放火や殺人であるにもかかわらず、罪に値する刑に処せられることも少ない。

今回の渋谷区の事件では、容疑者の男が傷害致死容疑で逮捕され、実名報道されている。他の野宿者襲撃事件とどこが違うのだろうか。筆者は、長野県駒ヶ根市議の池田幸代さんに尋ねてみた。池田さんは1990年代から野宿者支援、特に女性の野宿者支援に携わり始め、地方行政や国政の舞台裏で経験を積んだ後、郷里の駒ヶ根市で市議を務めている。

「多数のメディアが断続的に取り上げ続けている理由として、女性が最近まで登録型派遣労働者としてアパートで自活していたこと、しかし新型コロナ感染症の影響で収入を喪失したことなど、現在の女性の貧困を象徴するような事件であるという背景が考えられます」(池田さん)

 誰が同じ状況に陥っても、不思議ではない。野宿者は、自分と無関係な誰かではない。そう感じさせる現実が、共感を広げているのかもしれない。

本当は私たちすべてが持っている
言いたくても言えない「ホンネ」
 しかしながら、筆者はどうしても釈然としない。なぜ、今回の事件に限って、容疑者は強く非難されているのだろうか。「わが街」をより居心地よくするためにボランティアに参加していた容疑者は、自分なりに「地域のためになる」と考えて、女性を排除しようとしたのであろう。「街を美化するために野宿者を襲撃して殺した」という言い分は、過去、10代の子どもたちによる野宿者襲撃事件でも主張されているのだが、世間の特別な注目を集めることはなかった。

「その男性が、引きこもりの『8050問題』の前触れ状態にあると認識されていることも、今回メディアの報道が続く理由なのかもしれませんね」(池田さん)

 比較的若年の人々が、不安定さを内包しながらボランティアや福祉に関わることは少なくない。相模原障害者殺傷事件の植松聖死刑囚も、そのような若者であった。そして、自らの「社会のため」という思いに基づいて、障害者たちを殺傷した。今回の容疑者は、植松死刑囚との間に「パターナリズム(強い立場にある者が、弱い立場にある者の利益のためという名目のもとで、一方的に介入・干渉・支援すること) 」という共通点を有しているかもしれない。

 この点について、「福祉の社会化」を志向して活動する社会福祉協議会職員の濱口一郎氏は、このように語る。

「ボランティア活動をしていたという容疑者の男性による被害女性へのパターナリスティックな言動と、男性優位主義的な言動は、一見矛盾しているように見えます。しかし、自分を『正しい』側に置きたいという傾向は、通底しているのでしょうね」(濱口さん)

 植松死刑囚も今回の容疑者も、自らの確信する「正しさ」を疑う機会がないまま犯行に至った。

「今回の事件は、彼の日常の生活実践の上にあるわけです。それを考えると、より根深い問題であるといえるでしょう。野宿者に『いなくなってほしい』と考えるのは、現代社会においては、『ふつう』のことです。市井の人々の中、あるいは世間的マジョリティの中で、疑いを持たれていない『ホンネ』です」(濱口さん)

「それは違う」「許さない」と
声を上げるリスクが大き過ぎる
 濱口さんの言う通りなのだろう。うかつに「野宿者を排除したい」という声に反論すると、「それなら、あなたが養えばいい」といった反論が返ってくる。むろん、個人の貧困は個人の責任ではない。貧困な誰かを救うには、個人はあまりにも無力だ。この社会で誰もが生きるために、公共が存在しているはずだ。しかし、濱口さんは「公的な場も、例外ではありません」という。

「私たちが厳しく目を向けるべきなのは、加害者個人の責任や表象のあれこれではなく、私たちが自分自身の安心安全のためにコソコソと話す『ホンネ』です」(濱口さん)

 濱口さんはさらに、性被害を訴えたために住民投票でリコールされた草津町議会議員の周辺にも、「同じ構図が見えます」という。

「草津町は、町の品位を口実として都合の悪い女性を排除するという、恥知らずな『ホンネ』を暴走させてしまいました」(濱口さん)

 規模や程度はともあれ、似たりよったりの出来事は、日本のあちこちで起こり続けているのだろ
「今回の渋谷区の事件について、『被害者女性を助けるために、何かできなかったのか』と問い続けることは、もちろん大事です。しかし、課題は発生し続けています。それなのに、私たちの社会は、『こんなことは許さない』『それは違う』と声を上げるリスクが大き過ぎる社会です。結果として、暴力から逃げることすらできない人が、たくさんいるわけです」(濱口さん)

 事件の「真相」があるとすれば、「自分たちの安心安全のために誰かを排除する『ホンネ』の暴力」(濱口さん)。「真犯人」がいるとすれば、「他でもない私たちがつくっている社会」(濱口さん)。被害者女性が「彼女は私だ」であるのと同様に、容疑者男性も「彼は私だ」なのであろう。まさに「我がこと」である。決して、他人事ではない。

誰もが「貧すれば鈍する」という
当たり前の現実から見直すべき
 では「我がこと」として、誰が何をすればよいのだろうか。野宿者を含め、生活困窮状態にある人々に近づいたりアプローチしたりすることは、決して容易ではない。「清く貧しく美しく」というイメージが成り立つことは少ない。自分の心身を良い状態に維持するために必要不可欠な、「毎日、安心して寝られる住まい」をはじめとする衣食住や社会生活を購入できない状況にあるということは、「付き合いにくい」「イヤな感じ」に直結する場合がある。

 池田幸代さんは、20代の時期からの約30年間の経験を踏まえて、「今回の事件については、詳しい状況はわかりませんが」と前置きしつつ、次のように語る。

「野宿に至っている方々は、その過程で多くの困難を経験しています。そういう方々だからこそ、自分からコミュニケーションを取って何らかのサポートに繋ごうとしても、一筋縄ではいきません」(池田さん)

 だから、ファーストコンタクトが大切だ。文字通り、「最初が肝心」なのである。また、いったん拒まれたかのように見えても、諦めずにアプローチし続けることも大切だ。池田さんが経験を踏まえてまとめたノウハウと心構えは、フェイスブックとツイッターで公開され、大きな反響を呼んでいる

池田さんは、「私たちから見た野宿者」だけではなく、「野宿者から見た私たち」を意識する必要もあるという。

「私たちの社会は、野宿の人を『得体の知れない人』として見ています。その私たちの眼差し以上に、野宿を余儀なくされる人たちが私たちを『どこの誰なのかわからなくて怖い』と思うのは、当然ではないでしょうか。ですから、私はまず自分から、どのような人間であるかを付け加えて名前を名乗ります」(池田さん)

 言われてみれば、当然の「はじめまして」だ。

 誰かが相談に来るのを待たず、こちらから出向いて相談に乗り支援する福祉は、現在は「アウトリーチ」という名称で社会福祉のテキストに掲載されている。しかし相手にとっては、「他人に見せたくない個人的な領域に踏み込まれる」ということかもしれない。身を守る壁やドアがない野宿の人々にとっては、なおさらであろう。方法がないわけではないが、「相手が支援を求めているはずだから簡単だ」という思い込みは成り立たない。

都市空間のあらゆる場所から
野宿者が締め出されている現状

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 もちろん、公的制度のあり方についても、見直しが必要であろう。

「多くの都市空間で、『野宿者が目の前からいなくなればよし』とする住民感情と行政施策により、野宿の人たちが安心して体を横たえたり、休んだりできるような場所が減っていきました」(池田さん)

 野宿者が横になれないように公園のベンチに設けられた肘掛けは、乳児のオムツ交換の妨げにもなる。路上に設けられた謎のオブジェは、歩行の妨げになり得る。歩道橋の階段の下に設けられた立ち入り防止柵は、誰もそこで雨宿りできない状況をもたらす。

 なんといっても、住居を喪失したり喪失しそうだったりするとき、生活保護が権利として安心して利用できるとは限らない現状は、このままでよいわけがないだろう。

(フリーランス・ライター みわよしこ)

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