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江戸を見て歩こうコミュの江戸を残す写真集

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江戸を残そうとしている、その写真を掲載します。皆で収集するときっとガイドブックを超えるものになるでしょう。

簡単な説明、住所、撮影年月を記入してください。

写真についての意見交換は「江戸物語」または「ここがお勧め」でお願いします。

コメント(38)

池上本門寺五重塔

写真左:現在の五重塔  右:江戸名所図会に見える五重塔
慶長13年(1608)建立、宝暦3年(1753)再建
国重要文化財
江戸時代建立の五重塔で現在も有るのは、この五重塔と寛永寺五重塔のみである。

住所  :大田区池上
撮影年月: 2003/06
写真左:閻魔像(こんにゃく閻魔) 右:源覚寺

目を患った老婆の祈願に応え、閻魔様が自分の目を老婆に与えたのだそうです。
作は鎌倉時代、老婆の物語は宝暦(1751-64)のころ。
寺は建物に挟まれた、路地裏にありますが、ちょうど交差点にあり、交差点の名称が「こんにゃく閻魔」です。
閻魔像は区指定有形文化財

住所 :文京区小石川2-23-14
撮影年月:2003/06
  大場家住宅主屋      表門      お白洲
彦根藩世田谷代官屋敷として明治維新まで使われていたもの。
建築年代は、主屋が元文2年(1737)、表門は宝暦三年(1753)頃と推定。表門は長屋門形式で、正面右手に番所、左手に潜戸がつく。
国重要文化財

住所:世田谷区世田谷1-29-18
撮影年月:2002/06
     供養塔        墓碑         説明板
                         教育委員会設置

浄閑寺 新吉原総霊塔
江戸新吉原の一部分です。亡くなった遊女たちの多くはここに埋葬されました。先祖代々の墓に入れられることがなく、この寺、浄閑寺が終焉の場所でした。合葬の供養塔が建てられました。

「吉原で体を売り続けて死んだ遊女の死体は浄閑寺(荒川区南千住2-1)に投げ込まれ、その数延べ約2万という。墓に近く「生まれては苦界、死しては浄閑寺」の碑がある。」
   東京の地名がわかる事典  鈴木理生
区登録有形文化財

住所:荒川区南千住2-1
撮影年月:2002/12
    お行の松           不動堂         江戸名所図会

お行の松
JR山手線鶯谷駅のやや北東を根岸の里といった。現在の町名も根岸である。この根岸四丁目交差点のすぐ北にお行の松がある。この辺りを時雨岡(しぐれのおか)といっていたので、松の別名を「時雨の松」ともいっていた。いかにも風情のある名称である。

住所:台東区根岸4-9-5
撮影年月:2003/09
首尾の松「碑と松」         江戸切絵図の松     首尾の松 名所江戸百景

江戸時代隅田川のお蔵(現蔵前)に植えられていた名松である。現在は蔵前橋の東橋詰に記念の石碑が立てられ、3代目の松が植えられている。

住所:台東区蔵前1-37前
撮影年月:2003/04
現麻布一本松          江戸名所図会        絵本江戸土産

麻布一本松
麻布十番の西、暗闇坂を登ったところ、氷川神社の北にある。現在のものは植え継がれたもの。

住所:港区元麻布1-2-1
撮影年月:2003/10
  現在の太鼓橋         同         江戸の太鼓橋(広重)

目黒行人坂の下、目黒川にかかる「太鼓橋」。車社会の現在太鼓のような盛り上がった橋は架けられない。みな平らなコンクリートの橋になってしまった。平成3年に現在の橋になり、残っているのは橋に書かれた名前のみである。江戸の太鼓橋は石で組み上げたもの。正面のちょうちんは目黒雅叙園。


住所:目黒区下目黒1-7
撮影年月:2003/05
   男滝         女滝           十条の里 男滝・女滝(広重)

名主の滝
JR王子駅を降り、線路の西側を北西に少し行くと「王子稲荷」がある。その先が「名主の滝公園」。江戸時代王子村名主畑野孫八が自然の地形を利用し邸内に滝を造ったのが「王子七滝」の一つとして現在に至っている。


住所:北区岸町1-15
撮影年月:2004/10
芭蕉稲荷神社       「古池や、、」句碑        芭蕉庵(江戸名所図会)

kenさんに似せまして。芭蕉稲荷です。
松尾芭蕉が「古池や、、、」の句を詠んだのを記念し、芭蕉に石造りの蛙が贈られました。幕末に芭蕉庵が消失したとき石の蛙も無くなりました。それが大正6年にここで発見され、神社が建てられ、この場所が東京府の旧跡「芭蕉庵跡(古池跡)」に指定されました。

住所:江東区常盤1-3
撮影年月:2005/03     
志村一里塚(国指定史跡)

「織田右府(右大臣信長)の時より36町をもって1里(4km)と定め、1里ごとに「こう」(土偏に侯・里程標の意)を築きしめ標識せられしを豊臣家にて弥遵行(いよいよじゅんこう)有しが君(家康)関東へ移らせたまいし後同じく1里ごとに「こう」を築きその上に榎を植しめ給う」(「東照宮御実記付録」)
家康の一里塚築造は慶長9年(1604)2月、子の秀忠に命じたものが最初で、東海・中山・北陸の三道をはじめ、全国の主要街道に「双こう」を築いている。その形状は、5間(9m)四方の小山形の塚上に1本ないし数本の榎を植えるものであった

志村一里塚は中山道の一里塚で、江戸から里のところにある。

住所:北区志村1丁目
撮影年月:2004/04
浅草花川戸公園石碑        石碑          姥が池(江戸名所図会)

姥ヶ池の伝説
 浅草寺草創の頃のこと、浅茅ヶ原の一軒家に老女と若い娘が住んでいた。道行く旅人に一夜の宿を貸しては夜な夜な寝静まりに旅人の首を落とす。そしてみぐるみを剥ぎ取ってしまう。殺された人999人。これをみた浅草観音は和歌集に変身して老女の一軒家に泊まる。老女は例によって旅人をしとめるが、あけてみてびっくり。殺したのは旅人にあらずして我娘なり、老女は大いに嘆き苦しんだ。千人目のお客で彼女は仏眼を開き、大きな竜となって池の中へ消えていった。

住所:台東区花川戸2丁目 花川戸公園
撮影年月:2003/10       
高縄大木戸石垣           同左        高輪品川眺望之図 歌川国丸

東海道芝田町寄りには大木戸と高札場があった。高札は江戸六箇所の高札の一つで、天和2年(1682)芝田町4丁目(のちの元札之辻)から東側海手に移されたが、破損により正徳元年(1711)に西側に立て替えられた。大木戸は宝永7年(1710)に作られた。当初は柵・門・土手・石垣・門番所があったが、たびたびの類焼により文政11(1828)年当時石垣・土塁を残すのみであった。

住所:港区高輪2丁目
撮影年月:2003/06
  東海道 品川寺    甲州街道 太宗寺    中山道 真性寺

江戸六地蔵
「当国六地蔵造立之意趣」によると、「深川に住む地蔵坊正元が25歳の時に難病を患い、苦しんでいた折に、地蔵菩薩に一心に祈願する父母の姿に心打たれ、自身も一心に祈願し、ご利益が得られたなら多くの地蔵の造立を誓ったところ、不思議な霊験によってたちまち全快したことを感謝し、請願の通り地蔵尊の造立を発願して江戸庶民から寄進を募って造立されたとしています。

住所:
品川寺 品川区南品川3丁目   1708年建立
太宗寺 新宿区新宿2丁目     1712年
真性寺 豊島区巣鴨3丁目    1714年
 奥州街道 東禅寺   水戸街道 霊巌寺   千葉街道 永代寺

六地蔵
墓地の入り口、村の入り口など境界に立てる六体の地蔵。地蔵は地獄でも衆生を救うとか。六道能化(のうけ)といって六道のそれぞれに現われて衆生を救うとされた。この考えは日本独自のもので、11世紀の「地蔵菩薩霊験記」に初見し、鎌倉時代の「覚禅鈔」に図形化されている。六地蔵は、地獄(大定智悲地蔵・だいじょうちひじぞう)・餓鬼(大徳清浄・だいとくしょうじょう)・畜生(大光明)・修羅(清浄無垢)・人(大清浄)・天(大堅固)の六道を守る。

住所:
東禅寺 台東区東浅草2丁目   1710年建立
霊巌寺 江東区白川1丁目    1717年
永代寺 江東区富岡1丁目    1720年 (像は無し)
  第一番瑞泰寺       第二番専念精舎      第三番定光寺

始めの六地蔵(東都六地蔵)

前に紹介した「江戸六地蔵」は1708年から1720年の間に造立されました。この「始めの六地蔵」はそれに先立ち1691年に造られたものです。

 金仏立像八尺なり。慈済菴空無(くうむ)上人勧化(かんげ)の助力(じょりき)をもって建立あり。元禄4年(1691)に開眼供養せり。是を始めの六地蔵という也。そののち宝永年中沙門正元坊、丈六の金仏六躯を建立し、江戸の入口六ヶ所に建(たつ)る。是、後の六地蔵也。
    続江戸砂子

住所:
第一番瑞泰寺   文京区向丘2丁目
第二番専念精舎  文京区千駄木1丁目
第三番定光寺   荒川区西日暮里3丁目
   第四番心行寺     江戸時代の六地蔵の配置

始めの六地蔵続き

第一番、第三番は後に復元されたもの、第二番のみ当初建立されたもので、第四番心行寺の地蔵尊は頭部が当初からのもので、体は復元です。第五番、第六番は現在ありません。

住所:
第四番心行寺  府中市紅葉丘2丁目
第五番福聚院  台東区上野公園
第六番正智院  台東区浅草2丁目
宿場の主要な役割は荷物と人の取次ぎでした。
今はその施設は残っておりませんが、有ったという石柱が記念碑として残されています。
上の写真は千住宿の石柱です。
宿場には他にも残そうと思っている名残があり、それを見つけることも楽しいことであります。

住所:千住仲町(旧日光街道沿い)
撮影年月:2005/06
   明治11年(1878)       昭和52年(1977)           

目黒川の名所-1 恵比寿、目黒周辺

目黒川が作った涯線には江戸時代絵にかかれた名所がたくさんありました。その中で「目黒新富士跡」が見つからなかったのですが、最近ようやく見つけ行ってきました。
これからそれらを紹介します。
   左:目黒元富士     右:目黒元富士下道
   名所江戸百景 広重   絵本江戸土産 広重

目黒川の名所-2 目黒元富士

現在の江戸歩きは主に「江戸の富士山(塚)」探訪になっております。この探訪を始めたきっかけは上の2枚と後に紹介する浮世絵、目黒元富士と目黒新富士でした。「え?こんなのが有ったの?今どうなっているの?」と引きつけられ、探しだしたのです。

「目黒元富士」の下では縁台を出して桜の花見でしょうか、その平坦なところ、及び「下道」の人家のあるところは目黒川が作った河川敷なのでしょう。富士山は河川敷から立ち上がっているように見えます。
  目黒元富士跡     説明板         目黒川から見たマンション


目黒川の名所-3 目黒元富士跡

恵比寿駅の横を通っている道は「駒沢通り」です。ここを中目黒のほうに行くと坂の登りきったところに有るのが「槍が崎」交差点で、右折すると「旧山手通り」に入ります。右折してすぐの交差点左に入ると突き当たりにマンションがあります。このマンションのところが「目黒元富士跡」でした。
現在目黒元富士の所にあるのは「ここにあった」とかいた「説明板」だけでした。富士塚を撤去してマンションを造ったのだそうです。
交差点を左に入った道はマンションに突き当たると右にカーブし急な坂を下ります。マンションは崖の上にたっているのです。
「絵本江戸土産」に見られる富士山は下の平らなところ、目黒川の河川敷から立ち上がっているように見えます。おそらくこの崖を利用して富士山の裾野を造ったのではないでしょうか。それなら、非常に大きな富士山になり、浮世絵の状況も想像できるように思いました。
   目黒新富士       新富士山頂眺望     目黒新富士
   名所江戸百景 広重  絵本江戸土産 広重   目黒白金絵図

目黒川の名所-4 目黒新富士跡

広重の書いた浮世絵には目黒川から立ち上がっている富士山を見ることが出来ます。この絵を見たら「え、昔こんな富士山を造ったの?、今どうなっているの?」と思いますね。資料によれば「目黒区三田の国際電電研究所に痕跡がある」とありました。そこで、現在のKDD総務部に電話してみると「研究所は数年前に移転しました。前の住所はわかりません」なんて、不親切な回答なのです。
ところが先日恵比寿駅の近辺を車で走っていたらカーナビに「国際電電研究所」が現れたのです。1度目の捜索では見つからず、さらにもう一度訪問しあちこちと歩いたら「新富士跡」が見つかったのです。
   新富士跡        下から見たマンション    説明板
   マンションが建設中   階段の上が公園、その上が跡 

目黒川の名所-5 目黒新富士跡

JR恵比寿駅を通る駒沢通り、駅の西に「恵比寿南交差点」がある。ここを南(目黒方向)に入り、一つ目の信号を右に曲がり道なりに突き当りまで行ったところに「目黒新富士跡」がある。
現在マンションが建設中であった。「跡」を示すものは「説明板」だけである。
道の突き当たりと言ったが、徒歩ではその先に急な坂道があり下へ降りることができる。この道を「別所坂」という。この坂は目黒川涯線を川に降りる道である。
「新富士」はこの涯線を富士の裾野として利用したように思われる。江戸時代、目黒川から見上げると高い富士山があると感じていたのではなかろうか。
目黒川の対岸から見ると二つの富士山がくっきりと見えていたのだろう。
  名所江戸百景 広重  絵本江戸土産 広重   目黒白金絵図

目黒川の名所-6 爺が茶屋・茶屋坂

「字味噌下には落語「目黒の秋刀魚」で有名な農民彦四郎及びその子孫が営んでいた一軒茶屋がある。三代将軍家光は鷹狩で来訪するたびにこの茶屋を訪れ、彦四郎の人柄を気に入って「爺、爺」と話しかけたという。別名爺ヶ茶屋。以降幕末に至るまで歴代将軍の訪問は三十数回に及んだ。」
<日本歴史地名大系>

と、資料にはあります。広重の絵も残っております。ところが江戸時代の地図「目黒白金絵図」には「茶屋」も「茶屋坂」も記入されていません。そこで他の資料も加味し独断で茶屋と茶屋坂を「ここ」と決め付けました。いずれ目黒区教育委員会に行き調べてきたいと思っています。
   茶屋坂       茶屋坂の表示柱     爺が茶屋の説明板

目黒川の名所-7 爺が茶屋跡・茶屋坂

「所在:中目黒2丁目と三田2丁目の堺を茶屋坂トンネルの上から東へ下り、途中で南へ曲がって田道小前に至る坂道
 由緒:江戸時代に将軍が目黒へ鷹狩に来た時、よく立ち寄ったと言う『爺々が茶屋』と呼ばれた一軒茶屋があったことによる。」
目黒の文化財 目黒区教育委員会

現在「茶屋坂」といわれているところは目黒警察署の脇から中里橋を通り北東に真っ直ぐ登る坂道を言っているが、江戸時代の「茶屋坂」はその坂から道一つ東に入ったところである。(表示、茶屋説明板などは江戸時代の本来のところに設置されている)
勾配をなだらかにしバスも通る、いわゆるバイパスを造り、通称で江戸時代の名称を残しているのであろう。
千代が崎        千代が崎(推定赤楕円部分)
  江戸名所図会      目黒白金絵図

目黒川の名所-8 千代が崎

「千代が崎:渋谷宮益町より目黒長泉律院へ行く道の傍ら芝生の岡をいう。佳景(かけい)の地にして永峯(ながみね)に属せり。絶景観(ぜっけいかん)というは松平主殿候(まつだいらとのもこう)の別荘の号にして閑寂無為(かんじゃくむい)自然に其地(そのち)に応ず。」
江戸名所図会

目黒川の北側、目黒川が作った涯線が景観の地で観光の様子が描かれている。人の居る場所の先は急傾斜で河川敷に落ち込んでいる。
目黒白金絵図では千代が崎は一箇所に限定されているように見えるがもっと広い地域のようである(赤楕円の部分と推定)
   目黒千代が池          目黒千代が池             
   名所江戸百景 広重       絵本江戸土産 広重

 目黒川の名所-9 千代が池

この台地、千代が崎にあった九州島原藩主松平主殿候の下屋敷は景色が良く「絶景館」といわれた。この屋敷の庭には千代が池と呼ばれる池があり、台地から湧き出た水が何段にも折れる滝となり池に落ちていた。

「天正13年(1358)、武将新田義興が足利基氏等に謀られ、多摩川矢口の渡しで殺された。義興の死を知った側室の千代は『死ねば義興の側にいける』と悲しみ邸の庭の池に身を投げた。千代を哀れんだ人々は、この池を千代が池と呼ぶようになり、それが地名ともなった。」
めぐろの文化財

目黒区教育委員会遍「めぐろの文化財」には池に落ちる滝について「庭園には三田用水を利用した三段の滝や泉があり」と記入されている。しかし、三田用水が出来たのは江戸時代の初め、寛文4年であり、側室千代の伝承はそっれよりもずっと早い話である。この伝承を採用した場合には「池の水は台地より湧き出していたもの」と考えたほうが良いと思われる。
しかし、江戸時代の景観としては三田用水を利用していたのであろう。
  千代が崎跡説明板   説明板のある公園   説明板の設置場所

目黒川の名所-10 千代が崎跡

「千代が崎:権之助坂上から恵比寿方面に向かい、区立三田児童公園(三田2-10)あたりまでの目黒川沿いの台地  めぐろの文化財」

今はこの地名を残すものは無い。どこかに説明板でもないのだろうかと探し回ったところ、日の丸自動車学校の向い側、小さな公園の前で見つけた。この公園のはずれは急な崖になっている。この急な崖でも現在はそれをさらに抉って宅地造成された建物が建っている。

住所:目黒区三田2-9
撮影年月:2006/02
  目黒川への坂道   教職員研修所入口   千代が池跡説明板  

目黒川の名所-11 千代が池跡

目黒駅から恵比寿方面へ少し歩くと「ホテルプリンセスガーデン」がある。その先を左に曲がると急な下り坂になるが、その坂道を下る途中右手の「東京都教職員研修所」のあるところに「千代が池」があったようである。門の右脇植え込みの中に「千代が池跡の説明板」を見つけた。
この坂は崖のような急坂を車が通れるようになだらかにしてあるが、それでもまだ急である。坂の上は目黒川沿いに建つ高いビルの上よりもまだ高い。
松平さんの屋敷は崖の上にあり、池はその崖の中腹に作られ、そこへ落ちる水は滝のようになっていたのであろう。

住所:目黒区目黒1-1
撮影年月:2006/02
   目黒白金絵図      権之助坂の表示      上から見た権之助坂

目黒川の名所-12 権之助坂

「JR目黒駅から目黒通りを西へ向かう坂。中目黒田道にいた名主菅沼権之助がこの坂を開発したので、権之助坂といわれている。」
めぐろの文化財
   行人坂        行人坂
   江戸名所図会     目黒白金絵図

目黒川の名所-13 行人坂

「目黒へ下る坂を云う。寛永の頃湯殿山の行者某大日如来の堂を建立し大円寺と号す」
江戸名所図会

「目黒区下目黒1丁目大円寺前を太鼓橋まで下る急坂。『江戸名所』に『行人坂とは白金台町より西の方目黒に下る坂をいう。寛永のころ、羽州(出羽)湯殿山の行者ここに大日如来堂を建てたる所なり。又五百羅漢の石像あり明和9年の造立とす。明王院の夕日が岡は紅葉多かりしというも、今は名のみなり。太鼓橋は行人坂下に架す』とある。明和9年2月29日、この坂側の大円寺から出た火が延焼して江戸600余町を焼き払った。これを行人坂火事という。大円寺には八百屋お七の恋人吉三郎が、お七の処刑後その菩提を弔うために僧となって修道し、この坂を改修し太鼓橋をかけたという。」
日本地名大辞典  角川書店
 富士見茶屋       富士見茶屋
 江戸名所図会      絵本江戸土産 広重

目黒川の名所-14 富士見茶屋

江戸時代の絵は残っているが、資料として残るものは現在のところ見当たらない。
目黒太鼓橋     太鼓橋・夕日の岡      太鼓橋
 名所江戸百景 広重 絵本江戸土産 広重     江戸名所図会

 目黒川の名所-15 太鼓橋

目黒川にかかる橋。目黒区下目黒1丁目〜2丁目を結ぶ。別称石橋。江戸初期の唐式石拱橋。「再校砂子」に「石橋。行人坂の下にあり。享保の末木食某願主にてかけたり」とあり、「新編武蔵」には「一円相唐橋行人坂にあり。目黒川に架す。長八間三尺・幅二間、石梁なり。水涯より石を重ね上げて造る。その形円なるゆえこの名あり。また、太鼓の状にも似たれば太鼓橋ともいう。延享年中廻国の僧九州にてこの形の橋を見たりとてその製作にならい作りしが、欄干いまだ成就せざりしを後人継いで造作し、宝暦14年より明和6年にいたりてついに落成す。そのことにあずかりし人々の名を碑に彫りて橋下に立つ」とある。現在の橋は昭和6年竣工。
 日本地名大辞典  角川書店
富士見茶屋跡説明板  行人坂道標      太鼓橋

目黒川の名所-終 現在の行人坂

目黒駅前、目黒通りを目黒川に降りていくのが「権之助坂」でこの坂の左側、目黒雅叙園に降りるのが「行人坂」です。
行人坂に入り、坂の降り口右側に「富士見茶屋跡説明板」があります。坂を降り、中ほど、大円寺の手前左側に「行人坂の道標」があり、坂の説明があります。
さらに降り、雅叙園を過ぎると目黒川に出、ここに架かる橋が「太鼓橋」であります。橋には「太鼓橋」と書かれています。車が走る現在は太鼓のような橋は掛けられませんので普通の橋になっています。
目黒川の少し下流には「夕日が岡」というのがあったようですが、今のところ跡の説明板もみつけておりません。

目黒川の涯線に沿った江戸時代の名所はこれで終わります。

撮影年月:2003/05

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