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パスカルコミュの考える葦って??

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「人間は考える葦である」というフレーズに対する皆さんの意見を聞いてみたいです。まず、私が、コノフレーズに対して考えていることを少し。
 「人間は考える葦である」という言葉があります。でも、このフレーズはとても不思議なフレーズだと思います。
何で葦なんでしょう??例えば、「人間は考えるサボテンである」とか、「人間は考える薔薇である」でもよかったはず。パスカル自身、「自然の中で一番弱い一本の葦」という言い方をしています。しかし、葦は本当に弱い植物なのでしょうか。
葦は、植物辞典で調べるとどうやら水辺に群生し、2メートルの高さに達し、強い繁殖力を有しているらしい。
ここで着目すべきは「一本の」というこの言葉ではないでしょうか。群生する葦ではなく一本だけの葦である。群生の場を離れて一本だけで立つとき、逆に自然界で一番弱い存在になるのではないでしょうか。
問題は、そういう弱い一本の葦というイメージがなぜ、「考える」ということと結びつくのかということであります。「一本の葦」が考える葦になると考えると、意味がわからない。しかし、考えることによって「葦」が「一本の葦」になるとしたらどうでしょう?考えるということがどこまでも考えるということであり、自分ひとりに戻るということであり、その究極的なあり方は「死への存在」であるということだと思います。自分が死ぬことの可能性はどこまでも自分の可能性であって、他人に譲渡できない。死への存在の自覚し考えるということは代替されえない自己性に戻るということでしょう。「考える」ということは、この死すべき人間の単独性を含むことで成り立ちえるのではないでしょうか。
パスカルのいうように、そのとき葦は自然界のうちで一番弱い存在となるものと考えられます。しかしそれと同時に最も高貴な存在となりうるものとも考えられます。その理由は「人間が死ぬことを知っている」からだとされる。宇宙はその生成変化により環境全体を破滅させることもできる。ただし「宇宙」はそれを知らない。人間だけがそのことを知りかつ考える。
あたかも葦の1本1本が地表の葉や茎においてただ外面的に交じり合っているのに対して根株を通じての本当のつながりは見えざる地下でなされるのです。思惟の場は死への存在としての単独性の場であるとともに、他者と繋がる場であり、その場は宇宙との一体を自覚する場でもあるのではないでしょうか。
私はそのように考えるのであります。

コメント(13)

最後の文で道徳の原理って

キリスト教の道徳心かな

「道徳」なら分かるけど「道徳の原理」がわからん考えてる顔

教えてくれませんか?
葦って風に吹かれても、しなって折れないんですよ

木は台風で折れる事があっても、葦は折れないんですよ。

そこに人間の生命力を讃えた表現として「一本の葦」としてるのではないでしょうか。

「他の誰の物でもない私の死」の自覚こそが、一寸先は闇(風が吹く)かもしれない儚いこの世であろうとも強く生きていく生命力・精神力(折れない)を人に備えさせ、その生命力・精神力を讃えているのではないでしょうか。

「考える」という事はまさに死の自覚の事だと私も思います。

ガチャピンさんの考える「死は孤独」について、ハイデッガーも「人は私の代わりには死んでくれない」と言ってます。
ハイデッガーは実存主義哲学者であり「個」を重んじてます。

キリスト教も元々は個を重んじた宗教です。

キリスト教とパスカルの「一本の葦」は確実に切っても切れない関係にあり、「個」を脅かす科学すなわち「客観」への警告として、パンセの一節でパスカルは客観的普遍的な生物学上の死を知っている事(科学)に対して人間を讃えているのではなくて「自分(個としての私)が死ぬ事を知っている」と言っているようにも、私には思えます。



故にわいたんさんの疑問である道徳の原理とは、わいたんさんが考えるように「キリスト教の道徳心」の事であると私も思います。

パンセを邦訳すると「原理」とも「根源」とも取れるみたいです。

「原理」という日本語にあまり縛られる必要はないと思います。

あくまでも私見ですが「原理」でパスカルの徹底的な個への取り組みを、解釈しようとするならば”キリスト教の「天地創造〜最後の審判」という、『この世の存在意義・意味や人生の意味』の教え=道徳の原理”であると僕は解釈します。

なので「考える事=自覚=唯一絶対である私の死の自覚→「終わり」の理解=キリスト教の説く、天地創造〜最後の審判→キリスト教(この世の存在意義・意味や人生の意味すなわち道徳の理解)」

として考える事が道徳の原理であるとしているのではないでしょうか。
パスカルさんは

その時

葦を見ながら

そう思ったのか

机の前で

そう思ったのか


そんなことが気になります。笑
「人間はあたかも脆弱な葦が考えるように考えねばならぬと言ったのである。人間に考えるという能力があるお蔭で、人間が葦でなくなる筈はない。従って、考えを進めて行くにつれて、人間がだんだん葦でなくなって来る様な気がしてくる、そういう考え方は、全く不正であり、愚鈍である。」小林秀雄「パスカルの「パンセ」について」こばさんの意見に同感であります!ポールロワイヤリストパスカルはごりごりの原罪主義者であったのでしょうし!
パスカルの科学的思考と宗教観がどうやって理性的に結びついてるのか
自分なりに真意を20数年あれこれ考え続けてきましたが
やっと理解できた気がする今日この頃で
仕事が忙し過ぎてスローモーですが日記にその過程をアップしてます
やっと今月中には核心部分の答えに到達できそうです
正しいかどうかはわかりませんので
参考までに目を通してのご意見など伺えたら嬉しく思います
むしろ反論も自分の詰めの甘さをバサっとお願いします

パスカル曰く【考える葦】

特に聖書の原書(邦訳されてないもの)を確認してる方とか
是非ともご指摘いただけないでしょうか?
【傷つけられた葦】あるいは【いためつけられた葦】の
ユダヤ教からした正しい解釈をどなたかご存知ではないでしょうか?
かなり単純に、でもおそらくパスカル氏が最も主張したいことを中心に考えて解釈してみますと、
この断章のなかで、「葦」は、決して特別な意味合いを持っているとは思いません。
一つの洒落として、聖書から「葦」を選んだだけで、ここで特別なのは、あくまで
「葦」ではなく「人間」です。
ここでは大きく「自然」と「人間」を被造物という同じカテゴリーの中で対比しています。
ですから、「葦」は「自然」のなかの一つの「何の変哲もないもの」の象徴として考えるだけで十分でしょう。
人間が、一見被造物のなかで何の変哲もない自然の産物のようで、
「考える」という能力ゆえに宇宙に押しつぶされることはない。
単純ですけど、「葦」についてはその程度の意味合いで十分だと考えます。

われわれに似るように、われわれのかたちに、人をつくろう。
ー創世記1章26節ー
『聖書植物大辞典』を入手しまして
ルカ(7)、マタイ(11)の【風に揺れる葦】や
イザヤ(42)及びマタイ(12)の【傷ついた葦】は
カーネで英語ではreed
ヨブ(8)に出てくる葦の方は
アーフーで英語ではflag
とゆーコトが判明しましたのでご報告を

パスカルの【考える葦】は前者でした!

Rojaサマの仰る通り
聖書に出てくる葦の類の植物は単純に人間の例えに使われてて
群集を【風に揺れる葦】と形容してるのを
英語とフランス語しか確認してませんが慣用句として使ってます
なのでパスカルも意識せずに【考える葦】としてるワケですが
日本語の場合には上記のreedとflagの区別がナイので
ゴーメ(パピルス)以外はイグサもショウブもダンチクも
ほとんど総て葦とされてしまってて
それを【葦】だ、と思って読むと誤謬が生じるのです

「ヨブ記」の葦が別物とわかって納得が行きました
実際『パンセ』でも「ヨブ記」についてほとんど触れてなくて
病弱なパスカルが最も読んでいそうだと予想できるので
常々不審に思ってたのですが・・・
幼少時には読んでても乗り越えてしまったのかもしれませんね
>Roseauxさん

ご報告ありがとうございます。
大変参考になりました。勉強不足ですみません。

私が強調したいこととしましては、「葦」は人間の物質的な側面からみた時の「弱さ」の象徴であり、前の方のコメントに、「葦」の生命力の強さについて書かれている方がおられましたが、それはおそらくパスカルの意図とは違うだろうということです。
また、厳密に「葦」を数多の自然物のなかからの特別な「葦」ととらえて、葦に関する分類や特徴をとかく見極める、というような必要はないのではないかと思います。

人間の、物質的な弱さと、霊的な強さが強調できればそれで良いのだと思いますが。

それにしても、聖書植物大辞典なるものがあるなんて、キリスト教徒のくせに知りませんでした。

ついでに、私の好きな植物関連の聖書箇所を一カ所挙げておきます。なんとなく、言いたいことは「考える葦」と同じことです。

ーあなたがたのうち誰が、心配したからと言って、自分の命を少しでも延ばすことができますか。なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華をきわめたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。今日あっても、明日投げ込まれるのの草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄いひとたち。ー
マタイの福音書6章27~30節
Rojaサマ、パスカルが【葦】としたのは聖書に倣ってのコトでしかなく
そういう意味ではパスカルが【葦】をどう捉えてたかは議論の意味もナイです
ユダヤ人が預言者や救世主の目線から人間を【葦】に例えてるのは
人間の価値を貶めてのコトに間違いありませんので
それに対してパスカルはイエスの言葉に逆らいはしませんから
確かにそちらから見ればこちらは【葦】でしょう、と享受しておいて
でも【考える葦】であると思うのです、と人間には強い想いがあるコトを
訴えつつまた切望もしてるのです

>厳密に「葦」を数多の自然物のなかからの特別な「葦」ととらえて、葦に関する分類や特徴をとかく見極める、というような必要はないのではない

そうです、もちろんそんな必要は全くありません
但しパスカルが聖書をどう読み解いてたかを知るためには
誤訳による誤謬を避けたくて邦訳聖書の【葦】とされてる中で
パスカルがフランス語で【葦】と読んでナイ部分を
明確に取り除きたかったのです、種ではなく訳に拘ったのです
ちょっと誤解なさってるかもと思いましたので付け加えておきます

ついでながらトピ(コミュ)違いになりますが
引用されてるソロモンの衣装と比較されてるユリは白ユリではなく
『聖書植物大辞典』によれば緋色のユリ(Scaret Martagon)であったそうで
自分は豪華絢爛さと純白の清らかな美しさとの比較かと思ってたので
解釈が180度変わってしまいました・・・!
中央大学の須田先生が「そこからたちあがらなければいけない」という
考える葦の一節の先の個所を指摘されています。
http://www.yomiuri.co.jp/adv/chuo/opinion/20110613.htm
考える葦の一節の聖書的な由来をそのまま、その意味だとすることに疑問を感じるようになりました。なぜ、その一節を切り取って来たのか、そしてパスカルの文脈にはめ込んだ時の新しい意味は?こんなことを考えるのは、人間は基本的に考えない存在ではないかと思うようになったからです。以前、別の部分ですが、パンセにパウロのローマ人への手紙の影響があることに偶然気が付いて何か感動したのですが、人間は考えないだけではなく大切なことを忘れる存在でもあるので、すっかり忘れてしまいました。また、読み比べるつもりです。

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