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ラテン(イベロ)アメリカ文学コミュのオクタビオ・パス

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 オクタビオ・パスの没後十年。
 メキシコでは、記念エベントやら特集があちこちで組まれた。

 東京のセルバンテス文化センターにおいても、ふたりのメキシコ文化人を招いての講演会が去る五月二十三日に催された。
 わたしのマイミクさんもふたりほど出席したようで、そこから引用させていただきます。


「前回のこのような類の講演会っていつ聴きに行ったのか、と思い出していたら、もう半年近く前のことでした。なんて時間のたつのが早いのでしょうか。

世間一般には、文学、歴史、文化関連の話題は決して盛り上がるような話題とは言い難いし、学生ではないので、なかなかこのような話題に接する機会が少なくなってきたのが本当に残念に感じられる。

金曜日に、セルバンテス協会主催のオクタビオ・パス没後10年とメキシコ文学についての講演があった。講演者はお2人。どちらもメキシコ文学およびパスの研究において著名な専門家だった。

オクタビオ・パスはラテンアメリカ文学において、ボルヘスと並ぶほどの詩人、批評家、ノーベル文学賞作家である。ラテンアメリカ、メキシコ文学においては他にも有名な作家もノーベル文学賞を授賞した作家はいるけれど、彼らが成し得た世界文学においての偉業はなんだったのか?ラテンアメリカ文学をどう変えたのか?そこに彼らがもっとも重要な人物である理由があるという。

そこで、講演では"universal"と"intelectual"のキーワードを使っていたように私には思われた。後世の世界文学に与えた影響も非常に大きい。

パスもボルヘスも彼ら自身がintelectualesである。そして、両者が関わった偉大なる作家にAlfonso Reyesがいた。

文学と政治の関わり。政治的暴力や腐敗を批判すること。La voz públicaの役割について。

オクタビオ・パスが東洋文学に大変興味を持っていたということ。パスは松尾芭蕉の「おくの細道」を翻訳していることについて、参加者から質問があった。Aurelio Asiainも松尾芭蕉の「おくの細道」を研究されたことがあるようで、19世紀後半に江戸幕府は崩壊し、日本は開港し、明治維新が起こり、日本は近代社会へと向かう。西洋においては中国、インド、日本を含むオリエンタルなもの、たとえば、日本の「芸者」、「北斎」、「浮世絵]などにとても興味を示したが、パスは芭蕉の俳句における美学や哲学を深く評価していた。

他にもたくさんいろいろと述べていらしたが、もう私の頭はほとんど飽和状態に達し、頭の中は課題で埋め尽くされてしまった状態だった。

Christopher Domínguezは現在関西外語大で教えているそうだ。このような先生の講義を聴きながら、メキシコ文学を学ぶとは理想的である。

講演もその後の質疑応答も非常に有意義だった。
私自身の事前の下調べと基礎知識の不足が大変悔やまれた。 」


 セルバンテス協会のサイトでも、関西外大で教鞭をとっているのはドミンゲス氏であると記してあるが、じっさい関西外大のサイトをみてみると、教えているのはアンシアインのほうだと綴ってある。

 アンシアイン氏は、オクタビオ・パスの直系の弟子、在日メキシコ大使館の文化担当官を六年ほど務めたひと。

 ドミンゲス氏のことは、すでにこのトピで紹介済み。

 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=4468325&comm_id=25019

コメント(4)


 オクタビオ・パスの本、けっこう日本語に翻訳されていますね。数年前に何冊かは読んだんですが、なぜもこうパスの翻訳が多いのか、少し疑問に感じないでもありません。個人的にパスの本には興味があるので嬉しいのですけど(『もうひとつの声―詩と世紀末』が翻訳出版されたときは、かなり嬉しかった。『ソル・フアナ・イネス・デ・ラ・クルスの生涯―信仰の罠』は、かなりの浩瀚なので躊躇している次第で…)。
 対して、アルフォンソ・レイエスは…翻訳がほとんど無い(?)のでは。
 コッティーさん、コメントありがとうございます。

 メキシコの現代文学史を考えるうえで、オクタビオ・パス、あるいはアルフォンソ・レジェスの存在は避けて通れない。

 何年もオクタビオ・パスを読んでいれば、それはそれ、言いたいことはそれなりにあるにきまっている。

 たとえば、「孤独の迷路」についても、ふたつほど指摘したいことがあるのだけど、ただの思いつき的に綴ったのでは、いかにも上滑りしそう。

 そこはやはり、ある程度、論理的に話を運んでいかないと恥ずかしい。

 と、もったいぶって、いつか、時間をみつけてまとまったことでも記そうと思っていると、やはり、そんな時間はけっして訪れてはこない。ついには、忘れてしまう。

 インスピレーションがわいたときがすべてなのか。

 しかしそこはSNS,あるいはミクシーのモンダイもからんでくる。

 いったい、自分の考えをまとめて提出したところで、どれだけのメリットがあるものか。

 いや、ネットというのは、基本的に無償性から成り立っているのだから、自分にとってのメリットなどという発想はご法度である、というふうにいわれることもある。

 つまり、ミクシーがあろうがなかろうが、頭に何かの考えが浮かび、そして気がつくこともなく、考えはどこかに消え去っているというのが、ふつうのひとのパターンではないだろうか。

 何回か記したこともあると思うが、アカデミック系のみなさんは、どこかに帰属している世界があるわけで、担当教官にしろ、がっこうの仲間にしろ話し相手はいくらでもいるはずで、わざわざネットまで出向いてこなくても、言いたいことが言えなくて欲求不満(笑)になるということはないはず。

 一方、かつてアカデミック界には属してはみたものの、ドロップアウトし、いまは周りに専門領域(一般的な教養的テーマといってもいいけど)について語り合えるひとたちがいない、そんな場合にはネットに書き込むことは、存在理由をもつに至るはず。

 と、話は堂々巡りして、はじめに戻ってくる。
 手ごたえのない独り言をつぶやいてどうなるのか(さいわい、今回はコッティーさんがリアクションしてくれましたが)。
 このへんが、よくいわれるように、ミクシーのひとつの限界のような気もする。
 かといって、かつてのアカデミック界に戻りたいな、なんていうスケベ根性で綴っているわけでもない。

 と、堂々巡りはなおもつづく。


 さて、ソール・ファナ・クルスの本は、光文社古典文庫からも刊行されましたが、オクタビオ・パスのソール・ファナ論の翻訳は、いったいだれが読むのだろうかと深く疑問を抱きました。

 アルフォンソ・レジェスは、大層な全集はびしびし刊行されたものの、普及版がすくないという声は以前からあがっています。
 短篇集しか読んでいませんが、これだけの味のある作品がなぜ本格的に紹介されないのか、これもまた不思議でなりません。
 邦訳では、サンリオ文庫のラテンアメリカ選集にアランダ大佐の左手、とかいう短篇がはいっていたはず。
 読んだひとは少ないかもしれませんが、人間にとっての頭の重要さが意識される時代において、手というものの意味を考えさせてくれる、それこそ味のある作品です。

 

パス『孤独の迷宮』、一番著名な本だと思うのですが、探していたときに古本屋にたまたまなかったので、いまだ読んでいないし、たぶん、まず読むこともこれからないと思いますが、
私がパスの本で興味を感じながら読んだものは、『弓と竪琴』『泥の子どもたち』『もうひとつの声』、『二重の炎』『デュシャン論』…といったところです。
シュルレアリスムがロマン派の継続、という趣旨が書いてある『泥の子どもたち』、後になって西脇順三郎の評論を読むと同じようなことが書いていて、ちょっと面白く感じました。

ソル・フアナ・クルスについては、これは、パスの詩論で高く評価されているので、私は強い興味を持ったのですが、肝心のフアナの文章の翻訳がなく、ようやく光文社古典新訳文庫からフアナの文章が翻訳されたので、さっそく手に取った次第です。散文の翻訳が大部を占めていますが、フアナのひたむきな学業への意欲が伝わってきて、フアナの肉声のなにぶんかを看取できて、いささか嬉しいものでした。


アルフォンソ・レジェス(レジェスなんですね)、この人は、やはり、ボルヘス関連で私は名前を知り、一つの短編を読み、しかして、二つ目の短編を読んでいない人です。
引き続きの翻訳紹介が…そのうち出るのかどうなのか…



オクタビオ・パスの電話の留守録音用の音声あり。(YouTubeはるのはじめてなので、うまくいくか)

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