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本当の環境問題を話し合おう!コミュの肉食を卒業しよう!

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最近の鳥インフルエンザ騒ぎは異様です。
消毒で環境全てを塩素まみれにしてしまい、渡り鳥との接触を恐れる姿が、連日テレビ放映されています。

『<鳥インフル>鶏15万羽の殺処分を開始 愛知・豊橋
毎日新聞 - 01月27日 09:13
 愛知県豊橋市内の採卵養鶏農場(約15万羽飼育)で高病原性鳥インフルエンザに感染した疑いのある鶏が見つかった問題で、県は27日未明、遺伝子検査で高病原性の「H5型」ウイルスが検出されたと発表した。家畜伝染病予防法に基づき県は同日早朝から、発生養鶏場の約15万羽すべての鶏の殺処分を開始。半径10キロ圏内の鶏と卵を移動禁止処分にした。 』

果たして、それほどまでして、「肉」という食品生産工程を保護する必要があるのか?
このような感染を防ぐために化学物質で汚染まみれになった場所は、人間の食物の生産にふさわしいと言えるのか?
肉牛の口蹄疫ともあわせ、これらは人類の食生活に対する自然環境からの警鐘ではないか?と、私は感じます。

日本が本格的な肉食文化が起こったのは、明治の文明開化のころです。
それ以前の、食肉の盛んでなかった頃の日本人は、栄養が欠乏していたのでしょうか?
私はそうは思いません。
最近ではベジタリアンも増え、一切肉を口にしなくても、健康体を維持できることは立証済みです。


とはいえ、私も完全に肉を口にしない生活スタイルが確立できているわけではありません。
しかし、それを試行したいという思いは、最近とみに強まっています。
この機会に、「肉食」の必要性をいしょに考えてみませんか。

コメント(40)

1 桂さんへ

コメントありがとう。
実は、ここ2〜3ヶ月前から、食材として肉を買うのはやめています。
(とはいえ、10年来のなじみの焼き鳥屋へは今だに行っていますが・・・)
買わなければ買わないで、気にならなくなるものです。

船瀬俊介という方が、「しなやかなベジタリアン」ということを言っています。
この人です。↓

http://www.youtube.com/watch?v=GD8e4pn0rys

「しなやかなベジタリアン」とは、自分の可能な範囲でベジタリアンを志すということです。
人それぞれ付き合いなどがありますから、「私は肉を食べない」と断固言ってしまっては、人間関係に影響が出てしまうといったことはありがちでしょう。
そういった場面では、無理にベジタリアンを主張せず、郷に入らば郷に従うわけです。
また、食事を共にする家族にも理解してもらうには、やはり時間と根気が要るものでしょう。
たまに、実家に行くと、「子供の頃大好きだったでしょう」と、お肉モリモリが食卓に並びます。
そんな時、一口もつけないと、「体調でも悪いの?」と思われてしまいそうですし、せっかくの料理が台無しになってしまいます。
だから私は、時と場合によっては意地張らずに食べちゃうことにしています。
まだまだ修行が足りないから、正直肉はおいしいですし。
この方針で行くのが、現状のベストかな〜と思っています。
自分の精神的成長に合わせて、食生活も向上させていくというやり方。
> トピ主さん
江戸以前の日本は、肉を食べないことにより、今とは比べ物にならないほど体格も貧相で、寿命も短かったことをご存知ですか?
黒船来航の際、江戸の武士がびびったのは蒸気船という技術でなく、ペリーをはじめとする米国人の体躯を見て、今で言えば小学五年生が大人に睨まれたようなものを感じたからと聞いたことがあります
3 もんべなーさんへ
>江戸以前の日本は、肉を食べないことにより、今とは比べ物にならないほど体格も貧相で、寿命も短かったことをご存知ですか?

体が大きくなかったのは事実でしょう。
しかし、それが現代人より肉体的機能が劣っていたか?といえば、一概にそうとも言えないように思います。
たしかに、オリンピックのような記録で勝敗を分ける場合には非常に不利ではあるでしょう。
でも、その人が「一生涯つきあうもの」として肉体を考えた場合、大きいことはそれほど有利であるとは思えません。
動作が鈍い。疲労回復に時間がかかる。住む部屋や着る服やベッドが大きくなければならない。小回りが利かない。
私たちの時代の流行として、「大きな体格はいいものだ」という先入観が作られているだけではないか?そういう一面は少なからずあるように思います。
また、肉食によって寿命が延びたというのは、事実ではないでしょう。
下記のページに、「寿命の延びの長期推移(日米比較)」という図があります。
http://3rdworldman.jugem.jp/?eid=37
肉を常食していたアメリカも、日本と同様に少しずつ寿命が延びています。
おそらく、ヨーロッパや中国のような食事内容が数世紀以上変わらない国々でも、同じ傾向が見られると思います。
つまり、20世紀以降の寿命の延びは、肉食とは基本的に無関係だといえます。
では、寿命が延びた原因は何なのか?
一般常識的には医療が発達したからということになっています。
それが要因のひとつではあるでしょうが、他に大きな理由があるように私は考えます。
それは、個人が受け取る情報量が圧倒的に増加したことによる、脳の進化です。
江戸時代までの大抵の日本人にとって、自分の想像力が及ぶ範囲は、現代人と比べ非常に狭いものであったでしょう。
当時、獏(バク)は伝説上の生き物でしたが、今ではテレビや図鑑で見ることができます。
江戸時代には、「自分の村から一歩も出たことがない」という人が当たり前にいたはずですが、現代、そんな人はどこにもいません。
脳というものは、知識を吸収したり、創造したりアイディアを思い浮かべたりすることで活性化し、そういったことが寿命に関係しているのではないでしょうか。
将来、「寿命は栄養の豊富さと比例する」という現代の常識は否定されるでしょう。
そういった常識の多くは、科学あるいは医学といった、現状ではもっとも正しいことを言っていると見なされている学究や専門科の言説が根拠となっていますが、まだまだ近未来から振り返ると、迷信に支配されている、そんな状況だと思っています。
肉食のような、本来人体が必要としない食物を食べ続ける人は、寿命が頭打ちになり、むしろ病気によって短命化していく反面、味覚による欲求を克服し、精神的な生活にシフトする人は、どんどん寿命が延びていく。
「科学的」には全く根拠はありませんが、理論的には筋が通っているので、きっとそうなるだろうと、私は予測します。


>黒船来航の際、江戸の武士がびびったのは蒸気船という技術でなく、ペリーをはじめとする米国人の体躯を見て、今で言えば小学五年生が大人に睨まれたようなものを感じたからと聞いたことがあります

鎖国によって圧倒的に情報量の不足していた当時の人々にとっては、「海の向こうから鬼がやってきた〜〜!」みたいなパニックであったことは想像できます。
それと、大砲の音と威力。ビビらないわけがないでしょう。
しかし、だからと言って、大きな体は優性なのだということにはならないでしょう。
私も子供の頃は、大人たちから「大きくなれ〜〜。沢山食え〜〜。」と言われて成長しました。
でも、それって、今考えて本当にいいことだったのだろうか?
むしろ、「ほどほどに食え〜〜。よく噛め〜〜。」と育てられたほうが、健康面や生きる姿勢の上では、よっぽどありがたかったのでは?と、今になって思います。
名も無き詩人さん、お久しぶりです。
ぼく自身、ベジタリアンになって日も浅いですし、くじけることも多々あります(笑)ぼく自身、ベジタリアンになった理由も、思想的かつ自身の革命的な所が大きく、健康云々は、副産物に過ぎません。
現代の地球を考えていく上で、共生というのが一番重要になってくると思うのです。
自分だけとか、人間だけが快適に暮らせる地球なんてあり得ないわけで、すべての生き物が影響しあい、繋がって形成されているのが地球ですよね。肉食を止める事によって飼育に必要な大量の穀物や水。放牧の為にに必要な土地を確保するための無理な森林伐採などが防げるのです。
食料不足や水不足で苦しむ地域を助けることが出来るのではないでしょうか?
僕たちが肉食を止めるだけでこんなにも大きな影響力があるのです。
武器を持たない、平和的な革命が起こせるのですよね。
現に、色々な著名人やアーティストや科学者などかなりの割合でベジタリアンが多いと聞きます。体力的低下をおっしゃる方もおおいですが、カールルイスもベジタリアンであることからも、そういった問題もないかと・・・皮肉ではありますが、原爆を作ったアインシュタインもベジタリアンだったらしいです。

あくまでも僕の個人的な思想ですので、強制するつもりは全くありませんが、一人でも多くの人が肉食を止めてもらえればと願います。
5路上の帽子屋さんへ
>名も無き詩人さん、お久しぶりです。

ど〜も。

> ぼく自身、ベジタリアンになって日も浅いですし、くじけることも多々あります(笑)

私はまだベジタリアンだと人に言えるほどに達していません。ふらふら
でもがんばりま〜〜す。


>ぼく自身、ベジタリアンになった理由も、思想的かつ自身の革命的な所が大きく、健康云々は、副産物に過ぎません。

そうですね。環境や平和に対する思いと、自分の普段の生活のたたずまいとは、密接に関連しているな〜〜という気がしています。
私の場合、今こんなに健康なんだ、こんなに満ち足りているんだ、という心のあり方が、そのまま世界に向けたメッセージになる、そんな感じがしています。


>現代の地球を考えていく上で、共生というのが一番重要になってくると思うのです。
自分だけとか、人間だけが快適に暮らせる地球なんてあり得ないわけで、すべての生き物が影響しあい、繋がって形成されているのが地球ですよね。

そうですね。肉を造る工場、畜産農家やブロイラーは、今や外部環境からの隔絶(無菌地帯)が絶対条件になっています。
それは、現代科学という限られた領域のみが認める安全の下に生産されていますが、不自然で、全く別の観点で見れば、非常に危険です。
抗生物質と塩素消毒にまみれたものが、体に良いわけがありません。
肉食とは、そういった地球への暴挙に加担することに他なりません。
そういった側面を、もっと強く認識してほしいと思います。


>肉食を止める事によって飼育に必要な大量の穀物や水。放牧の為にに必要な土地を確保するための無理な森林伐採などが防げるのです。

牛一頭を養う穀物で200人(だったかな?)を一年間養えるという話を聞いたことがあります。
報道では、飼育工場を守るために渡り鳥(外部環境)を、人間の敵であるかのような態度で監視していますが、これなど本末転倒ですよね。
環境が悪いのではなく、人間がわがままななだけですから。

>食料不足や水不足で苦しむ地域を助けることが出来るのではないでしょうか?
僕たちが肉食を止めるだけでこんなにも大きな影響力があるのです。
武器を持たない、平和的な革命が起こせるのですよね。

そうですね。平和的な革命という意識は強く感じます。
しかし、資本主義経済にとっては、見過ごせない危機です。
誰一人欲望に目を向けなくなることぐらい、お金の流通を停滞させることはないですからね。
だから、テレビではグルメ番組で食欲を挑発するわけです。


> 現に、色々な著名人やアーティストや科学者などかなりの割合でベジタリアンが多いと聞きます。体力的低下をおっしゃる方もおおいですが、カールルイスもベジタリアンであることからも、そういった問題もないかと・・・皮肉ではありますが、原爆を作ったアインシュタインもベジタリアンだったらしいです。

去年「命の行進」で一緒に歩いた仲間にもいました。
最初は、「変なヤツ」みたいな印象を受けましたが、それが意外と理にかなっている。
「環境のために」と思ってやることが、実は自分の健康のためでもあるわけです。
実は、私の意識の変化も、そんな人との交流に強い影響を受けているのだと言えます。


>あくまでも僕の個人的な思想ですので、強制するつもりは全くありませんが、一人でも多くの人が肉食を止めてもらえればと願います。

また何かあったらコメントください。
待ってま〜〜す。
またまた、今日も騒ぎが広がっていますね。↓

鳥インフルエンザ:大分でH5型
毎日新聞 2011年2月3日 東京朝刊
 大分県は2日、大分市宮尾の採卵鶏農場で死んだ鶏が見つかり、遺伝子検査をした結果、高病原性鳥インフルエンザの「H5型」と確認したと発表した。県はこの農場で飼育されている約8100羽の殺処分に着手し、発生農場から半径10キロ以内を移動制限区域とする。今冬、鶏舎で鳥インフルエンザが発生したのは島根、宮崎、鹿児島、愛知に次いで全国で5県目。
http://mainichi.jp/select/jiken/news/20110203ddm041040090000c.html

ペン県はこの農場で飼育されている約8100羽の殺処分に着手

このような大殺戮に全く効果がないのはもはや明白ではないでしょうか。
全くお手上げ。
おそらく、冬の寒気が一段落しないうちは感染は広がり続け、
下手をすれば、

日本国内ニワトリひよこ 絶滅危惧種に指定。危険・警告

というとこまで行ってしまうかもしれません。
さて、ブロイラーばかりでなく、渡り鳥にもそれなりの感染被害が出ているようです。↓

『鳥インフル:福島のカモ死骸、5羽目も強毒性
毎日新聞 2011年1月31日 21時55分
 福島県は31日、鳥インフルエンザの陽性反応が出ていた渡り鳥「キンクロハジロ」(カモ科)の5羽目の死骸も強毒性ウイルス(H5N1型)に感染していたと発表した。
 既に強毒性が判明していた死骸4羽と同じ同県郡山市豊田町の貯水池で1月23日に発見された。半径10キロ以内の監視区域設定は当初2月8日までの予定だったが、20日までに延長する。』
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20110201k0000m040100000c.html


ふと、私はこんなことが閃きました。

渡り鳥はなぜ旅をするのか?
もしかしたら、病気で体力の落ちた仲間を置き去りにすることで、群れ全体の感染を防いでいるのではないか?

一般に、渡りをする理由として考えられているのは、「餌場を求めて」ということですよね。
あとは、「子育てしやすいところで卵を産む」とか。
しかし、それだけでは説明しきれていないように思います。
私に住む町は岩手県盛岡市ですが、渡り鳥であるはずの白鳥やカモの「留鳥」を近郊の川原で見ることができます。
白鳥やカモは、わざわざロシアの寒いとこまで旅をしなくても、生きていけるのです。
それなのになぜ彼らは、あえて危険を冒して旅をするのか?
それには、「餌と生殖」のほかに大きな理由があるのではないか?
その理由が、この度の鳥インフルエンザ騒動で合点がいくように思います。
鳥には手がありません。あたりまえですが。
私たち人間のように、住処をきれいに掃除することができないわけです。
だから、一箇所に密集して長期間暮らすと、衛生上非常に悪いわけです。
感染症に強い鳥は、さほど移動して生きなくても大丈夫。
カラス、スズメなど。
しかし、感染に弱い鳥は、群れの中で感染らしき「兆候」を感じたら、「とにかく付いてこれるものだけついてこい!」と、なるべく遠くに移動するわけです。
鳥は本質的に、どこかに留まって生きることができない。そんな生き物なのではないでしょうか。
鳥の命をつなぐものは「自由」なのかもしれません。

ふりかえって、養鶏場。
「飛ぶことを忘れた鳥は鳥じゃない」とかって、歌の歌詞みたいですが、まさに、あそこに閉じ込められたニワトリ達は「鳥じゃない」のかもしれません。
自由を与えずに、クスリでごまかしごまかし成長させる。
う〜〜おぞまし〜〜。
畜産業の方々には残酷なことをいいますが、「鳥インフルエンザ」と「口蹄疫」は、人間の力で押さえ込めるものではありません。
自由を与えてこそ生命を維持できる動物や鳥を、外界から隔離して育てるという、思想そのものが地球環境に相反しているからです。

人為的に外界と隔絶した環境を作り上げることが可能だ。

↑これは、現代科学のもっとも愚かな迷信です。
この迷信の成れの果てが原子力です。
私たちの世界は、宇宙の果てから地球の中心まで、密接につながっていて、他と独立した空間なんて存在しません。
いくら強力な殺菌剤を撒いてもダメ。
抗生物質をいくら餌に混ぜてもダメです。
「隔離空間における食肉の大量生産」という構想自体が破綻しているのです。
(続く)
(続き)
おそらく、現在養鶏場で飼育されているニワトリを今のうち全部解放すれば、それなりに生き残るものも現われるでしょう。
春になって、野山に生き残りを狩りに行く。
「今年はニワトリが豊作」なんて新聞に載ったりして。キノコか山菜みたいですね〜〜。
どうしても肉を食べたいのなら、そういうやり方しか成立しません。
今行なわれている養鶏場は、クスリを使っている時点でインチキなのです。

さらにいうと、抗生物質漬けのニワトリは、放し飼いに比べて、いっそう感染に弱いはずです。
これは人間の例を見ればわかります。
インフルエンザが原因で死亡する方は、ほぼ100%が日常的にクスリ漬けです。
抗がん剤、血糖降下剤、降圧剤、睡眠剤etc.
院内感染で、お年寄りが一時期に大勢お亡くなりになるのは、「鳥インフルエンザ」と同じ現象なのです。
インフルエンザが原因で死亡する幼児も、ほぼ100%クスリ投与後、様態が急変します。
タミフル、解熱剤注射etc.

「鳥インフルエンザ」は人には感染しないから、安心して食べてもいいです。

↑こんな話信じてはいけません。
ニワトリから間接的に摂取される抗生物質はクスリです。毒です。栄養ではありません。
体内に取り込めば取り込むほど、お迎えが近くなります。
信じて食べる方ほど、病院で生活する日が早まります。

健康にはクスリが必要。

↑この洗脳から一刻も早く自由になりましょう。
40〜50代?早ければ30代から、人は健康診断で脅かされて、クスリを飲み始めます。
メタボ健診、がん検診etc.
そこで医者は必ず「あなたは比較的不健康の恐れがあります」と言います。
そのときあなたは内心、自分の生活の改善すべき部分に思い至るはずです。
それを、クスリでお気軽で解決しようとしてはいけません。
その時から、あなたはご自分の人生の一部を放棄することになります。
急いで走ってはいけない。
酒を飲んではいけない。
塩もダメ。
甘いものもダメ。
その時から、病院へ向う時間、診察待つ時間が、あなたの人生の一部になります。

今のあなたは、「クスリがあるから健康」なのではありません。
「クスリに健康を質入れしている」のです。

そもそも、「長生きがしあわせ」という健康神話こそが、20世紀の迷信です。
 はじめまして、ととまろと言いますm(_ _)m。
肉、大好きですwwすいません。決して荒らすつもりはありません。
とはいえ食肉を全否定するとなるなら断固反対です。俺としては過剰化した畜産を抑制するという意見です。では肉好きはどうするか。
 狩猟をもう少し増やして、野生動物を食べることにしましょう。結果、お肉を食べる機会は少なくなるし、お高くもなっちゃいますけどそれはしょうがない。

 ベジタリアン兼動物愛護家からは反発を食らいましょうな。

 とはいえ、そういう人は環境問題を盾にして「殺し」を否定している方々なので、
正直お相手はしたくないです。
 堅苦しい話になっちゃうけど、「山川草木悉有仏性(さんせんそうぼくしつうぶっしょう)」という仏教の教えを考えれば、所詮魚であれコメであれ、俺たちは生きるためにはそれらを「殺し」て食べてるんじゃないか。

 ベジタリアン兼アンチ仏教者ならスジは通ってるけど。

 例えば、明治以前の日本人は一体何を食べていたか。コメ・大豆などの穀物・アワや稗などの雑穀・シイタケ・筍・ダイコンなどの野菜。肉を食べてなかった?とんでもない。手まり唄を聞いたことをありませんか?「あんたがたどこさ 肥後さ(ry
天羽山にはタヌキがおってさ(ry 煮てさ 焼いてさ 食ってさ・・・」ね?
 田舎の話だけじゃありません。《生類憐みの令》以後、動物は食べなくなったけれども(タヌキ・猪・熊・馬・鹿・犬[!])鳥は食べてました。鶴・鴨・雁・兎など。何故兎が含まれてるかは『宇宙家族カールビンソン[あさりよしとお著]』でも読んでくださいw。
 
 こういうことを書き込んでると「肉食肯定」と誤解されるだろうけれども、俺はあくまで「アンチベジタリアン」です。どこが違うのか?

 脳内タイムスリップをしてw江戸時代なり平安時代の肉好きの日本人にこう言ってあげましょう。
『タンパク質は鳥を食べなくても大豆で摂取できるから大丈夫』
『ビタミン類は果物に豊富に含まれてるんだよ』
『むしろ植物性の方がヘルシーなんだよ』
はい、通じるわけないwだが、これは現代の栄養知識が無いってだけの話ではないんです。もう一度繰り返します。明治以前の日本人は一体《何を》食べていたのか。

 それは、生きとし生けるものの「精」を{いただいて}いたのでしょう。

 人間は生きている限り「殺し」ている。少なくとも仏教信者ならそう認識していなければならない。だからこそ、俺は上っ面だけのベジタリアンに反発します。…とかすげえエラそうなこと言っちゃったwwwスイマセン俺そんなに信仰篤い人間じゃないです。浄土真宗(西)ですが坊さんじゃないし盆と大みそか以外お寺には近寄らない奴です。もう一度、エラそうな説教垂れてスイマセンと謝っておきます。m(_ _)m


9 ととまろさんへ
 >はじめまして、ととまろと言いますm(_ _)m。

こちらこそはじめまして。


>肉、大好きですwwすいません。決して荒らすつもりはありません。

いえいえ。率直なご意見大歓迎です。


>とはいえ食肉を全否定するとなるなら断固反対です。

このようなトピックを立ち上げていながら、私も数年前までは、肉食に全く疑問を持たずにいました。ですから、肉を食べたいという欲望は理解します。
ただし、あなたが考えるところの全否定がどのような意味合いなのかによって、答える内容が変わるように思います。
生命維持のための必須栄養素として肉が必要だという主張には、非常に疑問を感じます。
ベジタリアンを長年続けていて、しかも健康上全く問題のない方を、実際に見ているからです。


>俺としては過剰化した畜産を抑制するという意見です。

食品としての安全性の観点から見れば、養鶏場や牛舎といった集中生産システムは、完全に挫折していると思います。
それと、産業として成立するのか?という点も、今後は危ぶまれるでしょう。
畜産業の方々には厳しい予測かもしれませんが、伝染病は根絶できないと思います。
レイチェル・カーソンは著書で、農薬で害虫や雑草を根絶することはできず、かえって予想外の害虫・雑草を増やしてしまった事例を記しています。
鳥インフルも口蹄疫も原理的にはそれと同じです。殺菌消毒という対処療法では解決できないのです。


>では肉好きはどうするか。狩猟をもう少し増やして、野生動物を食べることにしましょう。

牧場が減れば、野生動物も増加するでしょう。そのいくらかは人間の食料になってもらっても、自然に大きなダメージは与えないでしょう。
もちろん、絶滅が危ぶまれるほど乱獲するのは論外ですが。
それよりも、私は擬似ミートをお勧めします。
わが家では最近、大豆タンパクや麩を肉代わりに利用しています。


>結果、お肉を食べる機会は少なくなるし、お高くもなっちゃいますけどそれはしょうがない。

というか、現状が間違っているように思います。
私が子供の頃は、牛肉なんか年に一度ぐらいしか食卓に並ばないほど高価でした。
現在肉が安いのは、食品としての安全性を犠牲にした結果なのでしょう。
肉食は一種のわがままなのですから、環境に負荷を与える分だけの等価の代償は支払う。
そんな意識を、肉食する人は感じてもらったほうがいいかもしれません。


 >ベジタリアン兼動物愛護家からは反発を食らいましょうな。

やはり、あまりいい顔はされないでしょう。
ただ、ベジタリアンが一般大衆とは別の次元の存在だといった見方をしてらっしゃるならば、正しいとはいえません。
地球環境のことを考え、自分の健康のことを考え、精神的成長や霊的進化(この辺は疑いを持たれる方も多いと思いますが)を考えれば、ベジタリアンは必然であり、最終的に人類全体が行き着く選択だと、私は考えます。
(続く)
(続き)
 >とはいえ、そういう人は環境問題を盾にして「殺し」を否定している方々なので、
正直お相手はしたくないです。

「食べるために生き物を殺すのは好ましいことではない」という考え方は、そうそう誤ったものでも極端なものでもないでしょう。
現代社会は、食欲に対する権利が過大に誇張されすぎているように思います。
贅沢を奨励して、できるだけ多く物を買わせることで成り立つ資本経済にとって、殺生に対する罪悪感などはナンセンスでばかばかしいものにしておきたいわけです。
しかし、世の中の風潮としてナンセンスに思えたとしても、真実ナンセンスなのかは別の問題です。
私たちは、常日頃、多少はそういった気持ちをもって生活すべきだと思います。


 >堅苦しい話になっちゃうけど、「山川草木悉有仏性(さんせんそうぼくしつうぶっしょう)」という仏教の教えを考えれば、所詮魚であれコメであれ、俺たちは生きるためにはそれらを「殺し」て食べてるんじゃないか。

食用として考えた時、動物と植物では大きな違いがあると思います。
ある種の植物は、他の生物に食される役割を担って繁栄しています。
たとえば稲は、おいしくて栄養価の高い米を実らせるように、世代を重ねるにつれ、人間が好むように変化してきました。
野菜として繁栄する種も、体の一部、根や葉や茎に栄養を集中させ、おいしくすることによって、「人間の食物」というポジションを獲得し、種を維持しているわけです。
魚だって、無数の卵のうち成長するのはごくわずかで、ほとんどが他の生き物の食料になっています。それは、見方によっては、無数の卵を他に与えることによって環境サイクルの中に居場所を確保しているともいえるわけです。
しかし、鶏や牛は他者に体を与える役割を担った生物ではありません。養鶏場や牛舎には、彼らに適した生活スタイルは存在しません。だから病気になります。
鶏本来、牛本来の生活の中で卵や牛乳を分けてもらうなら問題はないでしょう。それが鶏や牛が獲得した居場所なのですから。
こんな話に科学的根拠はないとおっしゃるかもしれませんが、科学的方法論は自然の摂理などを理解するのには非常に不適切であると、私は考えます。
科学の主張をあまりにも信じすぎたのが、現在の地球環境悪化の大きな要因だとさえ思います。


 >ベジタリアン兼アンチ仏教者ならスジは通ってるけど。

菜食が仏教が教える殺生の罪にあたるとは思いません。
菜食さえも殺生だと仏教のある宗派が言うのならば、それはその宗派が間違っているのだと思います。
私は、地球環境の摂理はもっとシンプルだと思います。
地球は私たちに、栄養を蓄えた実や根や茎は食べてもいいのだ、と言ってくれてると思います。


 >例えば、明治以前の日本人は一体何を食べていたか。コメ・大豆などの穀物・アワや稗などの雑穀・シイタケ・筍・ダイコンなどの野菜。肉を食べてなかった?とんでもない。

私もそう認識しています。
昔の日本人は、猟師が売りにくるシカやイノシシなどの肉を、収入に相応な分だけ食べていたのだろうと思います。
おそらく、年に2〜3度とかそのくらいの回数が一般的ではなかったでしょうか。

 
 >こういうことを書き込んでると「肉食肯定」と誤解されるだろうけれども、俺はあくまで「アンチベジタリアン」です。どこが違うのか?

わたしには、菜食主義を適正に理解していらっしゃらないだけのように思えます。
(続く)
(続き)
 >明治以前の日本人は一体《何を》食べていたのか。それは、生きとし生けるものの「精」を{いただいて}いたのでしょう。

現代科学が決して理解できないのがここでしょう。
私たちが食べ物をいただく時、科学はそれを栄養という観点でしか捉えることができませんが、食物には「精」つまり生命エネルギーという側面があり、むしろ本当に命に重要なのは、「精」で現されるものなのです。
抗生物質がふんだんに盛り込まれた鶏肉や牛肉は、栄養価はありますが、「精」がないのです。もしくは「歪んだ精」といった感じでしょうか。


 >人間は生きている限り「殺し」ている。少なくとも仏教信者ならそう認識していなければならない。だからこそ、俺は上っ面だけのベジタリアンに反発します。

植物の中には、他の生き物に実を与え、種を排泄物と一緒に遠くまで運んでもらうことを生存手段としているものがいますが、こういった植物には「殺された」という自覚があるのでしょうか。
命を捧げる相手に対し、「殺された」という意識を持たない場合、「殺し」とは言えないように私は考えます。
たとえば、軽トラックに乗せられ屠殺場へ向う牛が、目をむき出して怯えている姿を見たことがありますが、牛は明確に「殺される」と意識していると思います。


>…とかすげえエラそうなこと言っちゃったwwwスイマセン俺そんなに信仰篤い人間じゃないです。浄土真宗(西)ですが坊さんじゃないし盆と大みそか以外お寺には近寄らない奴です。もう一度、エラそうな説教垂れてスイマセンと謝っておきます。m(_ _)m

謝る必要はありません。このトピックは、肉の好きな方を責めるためのものではないのですから。
ただ、肉食を無意識に続けることに、多少なりとも疑問を感じてほしいのです。
浄土真宗といえば、肉食に対する人それぞれの心がけは、非常に「南無阿弥陀仏」的かなと感じます。
最近念仏の開祖法然上人の教えを勉強中なのですが、この方の教えは、見方によっては非常に矛盾しています。

誰でも死ぬ間際に念仏を唱えれば極楽浄土へ行ける。だから、一回心から唱えれば、どんな悪いことをしても許される。

↑といった感じに弟子たちが誤って解釈することに、法然上人は心を痛めていたようです。
しかし、教えを短絡的に解釈すれば、そう受け止めるのは可能なのです。
「南無阿弥陀仏」信仰は、それを信じる方の経済力、精神性などによって、難易度が変わってくる、そういう信仰なのだと思います。
肉食も、それぞれの生活観などによって、志すレベルは変わってくることでしょう。
決意をしたそばから誘惑に負けて、肉を食べてしまったからといって、地獄に落ちたり極楽に行けなくなったりはしないのです。
自分の心がすんなりと受け入れられるレベルで、できる限り肉食を減らしていくのが望ましいと思います。
こんな言い方をしたら反感を買うかもしれませんが、「肉食は決して正しいことではない」と、私は考えます。

 名もなき詩人で地球さん

 ご批判ありがとうございますm(_ _)m
家に帰ってPCを開いてみたら、「うわぁ、すっげえ批判されてるよ!」と
びっくりしました。いや、共鳴して貰えるとは思ってませんでしたけど、
むしろこんなにガッツリ書き込んでくるとは…と。

 ともあれ、「精」の部分だけでも肯定してもらえてほっとしてます。あ、あと
鶏を野生化しようという部分は俺もいいなと思います。まず何から書き込もうかな。

 「ベジタリアン兼アンチ仏教者…」のくだりは全くの筆足らずでした。申し訳ない。
この部分は結論の次に持ってこなきゃただの暴論に読めますね。もちろんそれでも
意味は通じにくいけれども。そうですねえ、つまり俺の関心は、環境問題としての肉食よりも個人の《脱肉食》における
うさんくささの指摘と食文化の再考、とでもいいますか。そこで「殺し」と言うやや物騒な単語を取り上げてみました。
 昔と今とでは命を奪って肉を食べるということの意味合いがかなり違うんじゃないか。
 栄養価を知らない昔の人は、何を食べていると考えていたのか。それは「精」ではなかったか。それは動物にも植物にも存在していると認識していたのではないか。
 「命」ではなく「精」と言う概念を想定するなら、食べるという行為において動植物の分け隔てが無くなるんじゃないか。…こういった論旨を主張したいわけです。

 魚を例にすると判って貰えるでしょうか。俺自身の経験はカニでしたけれど。
ぴちぴちと活きのいい魚を今から活け造りにしようとまな板に乗せ、腹から搔っ捌いて首(?)に刃を入れて血と内臓を抜き、骨に沿って身をそぎ、切り刻まれるその間、魚の口をじっと見つめていると、ひくひくと何かを言いたそうに動かしている。
その時、俺は「雉も鳴かずば撃たれまい」とちょうど逆の感慨を覚えたわけです。
「もしこの魚が助けてくれという悲鳴を上げたなら、果して殺して食べることができただろうか」と。そこが俺の出発点ですね。「菜食でさえ『殺し』て食べてることには変わりないんじゃないのか?」
 虫のいいことに、泣きわめかない魚を「殺し」ても平気なくせに悲鳴をあげて抵抗する豚を殺すのにはためらいがある。これはおかしい。「上っ面だけのベジタリアン」云々はそこいらへんの反発を表現したくて書きました。というか、昔の友人を思い出して…居たんですよそういう奴が。動物殺すなんて野蛮とかぬかす奴。
 そこで、乱暴なこじつけは承知の上で「山川草木悉有仏性」とつなげたわけです。特に「仏教のある宗派」ではなく独自の主張です。
弁解がましく思われるでしょうが。でも今んとこ自分的にはこの主張を曲げるつもりはありません。ただ、もっとスマートな論理ならいいのにとは思いますが。その辺、ご教授いただけるとありがたいです。

 ご指摘は大変勉強になりました。またぜひよろしく。

 しかしながら、「肉食は決して正しいことではない」という主張はとてもキワドイなと思います。「肉食文化は…」と容易に変質しかねない・あるいは読み手に誤解されかねないからです。日本人ならともかく、「モンゴル人は羊が居なけりゃ生きてないよ。」ってね。

 


13 ととまろさんへ
 >ご批判ありがとうございますm(_ _)m

批判をしているつもりはありません。
あなたの意見に対し感じたことを述べているだけです。
これまでの経験では、私に反論する方々は最初から敵意むき出しだったり、中身のない言いがかりだったりが多いのですが、そういったギスギスした雰囲気を感じないので、楽しく答えさせていただいてます。

 >ともあれ、「精」の部分だけでも肯定してもらえてほっとしてます。

「精」(私は生命エネルギーの東洋哲学的な表現だと思いますが)は、現在人類が食物と認めるもの全てに、同じように存在するとは思いません。
これから述べることには科学的根拠はありませんが、科学という方法論は根拠や証拠を求めるあまり落とし穴にはまり込んでいるという側面があると思います。
また、科学的根拠というものも、よくよく突き詰めれば、非常にいい加減で、権威が認めれば○、認めなければ×といった事例が多々あるように感じます。(これについては場を改めて詳しく述べることもあるかと思います。)
ですから、私は、根拠のある無しよりも、主張に筋が通っているか否かという部分を重視しています。
「精」は、採りたてのもの、加工しないものほど、清浄で無害であるように思います。
たとえば、甘み。
果物などの加工されない食物本来の甘みと、加工精錬した白砂糖の甘みは、科学的には糖度で比較することになります。
しかし、これが食物として私たちの体の血肉となる際には、大きな違いがあります。
白砂糖を食べると、血糖値がびゅーんと跳ね上がったりするそうですが、これは体が抵抗を感じていることの証です。
http://www.avis.ne.jp/~torebi/satou.htm
白砂糖の精錬加工とは、つまりは甘みと関係ないものを取り除き、甘み成分だけを凝縮するわけですが、この過程で、本来の食物のミクロ単位での精妙さが破壊され、「甘み」だけは確かに存在するものの、食物としての有害性を保有するようになるのではないでしょうか。
「血糖値がびゅーんと跳ね上がる」というのは、もはや食べ物に対する反応ではありません。クスリに対する反応です。
科学思想においては、食物は全て栄養価で評価されます。
この指標が信頼できるのか?という点で、私はおおいに疑問を感じています。
コンビニ弁当などは、栄養価という点では評価されますが、果たして「精」という側面からは評価できるものでしょうか?
売れ残りのコンビニ弁当を与え続けた豚が異常出産するという話があります。↓
http://www.asyura2.com/0505/health10/msg/421.html
この事例などは、科学による食物評価の指標である「栄養価」が、実は適正ではないことを示していると思います。
よく「あれは科学ではない。疑似科学だ」といった話を耳にしますが、実は「科学そのものが擬似である」という可能性をこそ、皆さんに気づいていただきたいと、常々思っておりました。
話を「精」に戻しましょう。
食物を摂取することで私たちの血となり肉となるものは、栄養価という指標では正確に把握できないのではないか。
私たちが指針とすべきなのは、東洋哲学が古くから教えてきた「精」にこそあるのではないか。
そのように考えます。
(続く)
(続き)
>つまり俺の関心は、環境問題としての肉食よりも個人の《脱肉食》におけるうさんくささの指摘と食文化の再考、とでもいいますか。そこで「殺し」と言うやや物騒な単語を取り上げてみました。

「うさんくさい」という印象はわからないでもありません。私もそう思っていた時期がありましたし。
菜食である。瞑想やヨガをやっている。ヒーリング?レイキ?なんじゃそりゃ?新興宗教?
みたいな感覚は、一般的にあるでしょう。
しかし、よく考えてみてください。
菜食やヨガや瞑想に評価を下し、それが社会的常識であるかのように喧伝しているもの。
それもやはり、根底にあるものは科学なのです。
つまり、私たちの常識感の基準は、科学が作り上げているのです。
その意味で、科学は今や宗教よりも宗教的です。
「殺し」という概念は、人間特有のものですね。
獲物を捕らえるライオンの脳裏には、「今俺は殺している」といった自覚はないように思います。
野菜などの植物は、大抵芽が出てから3〜4ヶ月ぐらいの短い命です。
畑に大きなキャベツがあるとします。ちょうど食べごろです。
そのままほうっておいたら、腐ってしまうでしょう。
果たして、キャベツは「余命いくばくもないんだから、殺さないでくれ〜〜!寿命を全うさせてくれ〜〜!」と願っているんでしょうか。
それとも、「今が食べごろだよ〜〜!早く食べて〜〜!」と思っているでしょうか。
野菜はなぜおいしく育つんでしょう?
そんなに食べられるのがいやだったら、やせ細って渋くて硬くてといった、食用に値しない方向に成長していけばいいんじゃないでしょうか。
またまた科学的ではありませんが、野菜は「他者に食べられる」という役割を担って、地球に居場所を手に入れたのではないでしょうか。
自分の体を犠牲にして他者を生かす。そんなありがたい命をいただいているんだな〜〜と思います。
ライオンは、草食動物を間引きする役割を担って、地球に居場所を手に入れたのです。
皆それぞれ、養分とするもの、養分として体を捧げるものが決まっています。人間を除いては。
人間が、地球によって与えられたものを食べる限りにおいては、「殺し」ではないと思います。
それは、人間が地球に与えられた役割の一部です。
与えられたもの以外の物を食べようとする時、あなたの言う「殺し」のような、破壊的な意味合いが生じるのではないでしょうか。


 >昔と今とでは命を奪って肉を食べるということの意味合いがかなり違うんじゃないか。

昔の人は、肉をもっとありがたみをもって食べていたと思いますね。
第一、今のような誰での簡単に安く手に入れられるものではなかったでしょうから。
もちろん、捧げられた命、シカなりイノシシなり、クマなりカンガルーなり、それらを食することで、自分の命と同化するといった信仰的な部分でも違いはあったでしょう。


 >栄養価を知らない昔の人は、何を食べていると考えていたのか。それは「精」ではなかったか。それは動物にも植物にも存在していると認識していたのではないか。

そう思います。
逆に、現代人には、「精」という観念が乏しいからこそ、おいしいものはなんでも食べ物なのだと勘違いしているのかもしれません。
化学調味料をおいしいと思う人は多いでしょうが、あれは食べ物ではありませんよね。


 >「命」ではなく「精」と言う概念を想定するなら、食べるという行為において動植物の分け隔てが無くなるんじゃないか。…こういった論旨を主張したいわけです。

上述したように、そうは思いません。
食べられることを容認した「精」と、そうでないものがあると思います。
(続く)
(続き)
 >「もしこの魚が助けてくれという悲鳴を上げたなら、果して殺して食べることができただろうか」と。

生き物を食べることで感じるやましさ、という感覚は大事にするべきだと思います。
それはやはり、野菜よりは貝や甲殻類、魚よりは哺乳類というふうに、脳組織が発達した生物に対しより強く感じるはずです。
アイヌ民族やアメリカ・インディアンなどが、獲物を食べる前に入念な儀式をしたのも、食べ物から受け取る「精」に対し、他者の命と融合することの了解を得るという行為なのだと思います。
そこには、ある種の必然性が存在するように思います。「あなたの命を得ることによって、私の命を永らえることができる」といった。
それに比べたら、現代社会の肉食はいただけません。突き詰めればグルメ。個人的な満足ですから。
複雑に進化した生物を食べるほどやましさを感じるというのは、「精」の同化の困難さを表わしているのではないでしょうか。
生物が殺される前に悲鳴を揚げる、抵抗するというのは、他者の命の中に同化することの抵抗の大きさを示しているわけです。
そのように抵抗の大きいものの命をいただいても、「精」の同化が簡単ではないということです。
簡単でないから、どこかで歪みが生じるのです。肉体的な病原かもしれませんし、精神的な堕落に陥りやすいとか。


 >虫のいいことに、泣きわめかない魚を「殺し」ても平気なくせに悲鳴をあげて抵抗する豚を殺すのにはためらいがある。これはおかしい。「上っ面だけのベジタリアン」云々はそこいらへんの反発を表現したくて書きました。というか、昔の友人を思い出して…居たんですよそういう奴が。動物殺すなんて野蛮とかぬかす奴。

虫も魚も豚も栄養として等価である。これも実は科学信仰の1つだと、私は考えます。
この考えを突き詰めれば、人間だって栄養として等価、食べてもいいということになります。
命を栄養としてでなく、「精」として捉えた時、私はそれぞれの種に相違が生じると考えます。
魚よりも豚にためらいを感じるのは、「精」という観点では矛盾していないのです。


 >そこで、乱暴なこじつけは承知の上で「山川草木悉有仏性」とつなげたわけです。特に「仏教のある宗派」ではなく独自の主張です。

「仏性」の解釈が違うのだと思います。
野菜や果実のように、他者の養分になる役割をもってこの世界に生まれたものもいます。
それは、野菜や果実の「仏性」といえるのではないでしょうか。
すべてに「仏性」があるのだから食べてはいけない、というのは「仏性」の正しい理解ではないように思います。


>弁解がましく思われるでしょうが。でも今んとこ自分的にはこの主張を曲げるつもりはありません。ただ、もっとスマートな論理ならいいのにとは思いますが。その辺、ご教授いただけるとありがたいです。

ご自分の主張にこだわる姿勢は大切だと思います。
私も、とことん納得しなければ自説を変えないタイプですし。
でも。
「味覚」という喜びが、何事も犠牲にするに値するほど重要な人生要素なのか?
ということにも、多少は気を向けてもらえたらと思います。
肉+化学調味料。これは最強コンビですね。私も想像するだけでヨダレがでます。
肉食が、体力を一時的に高めるという自覚もあります。
でも。
それによって、犠牲にしていることもあるのです。
まずは、危険な食物に対する警戒を鈍らせます。
私は、肉食を控えることによって、気付きを得ることが多いと感じます。
肉を食べているうちは気づかなかったことがわかってきたのです。
これは、説明が難しく時間がかかります。まあ、ゆっくりと述べていきますが。
それより、実際に体験してくださるのが、一番です。


 >しかしながら、「肉食は決して正しいことではない」という主張はとてもキワドイなと思います。「肉食文化は…」と容易に変質しかねない・あるいは読み手に誤解されかねないからです。日本人ならともかく、「モンゴル人は羊が居なけりゃ生きてないよ。」ってね。

そういう部分は確かにあるでしょうね。気をつけます。
ただ、現代人の肉食と、モンゴル人やエスキモーの場合では、文化の成熟度、精神性、信仰的な意味合いなど、多くの部分で違いがあるように思います。
そういったことに関しても、少し考えを深めていかなければなりませんね。ご指摘ありがとうございます。
モンゴル平原の遊牧民のような肉食主体の人々と、私たち現代社会における肉食との違いを、私なりに考えてみました。
それに言及する前に、このトピックにおける私の論理的姿勢について、まずはみなさんに理解していただきたいと思います。


私は現代科学というものに有用性を感じていません。
むしろ、科学は不要であるばかりか、場合によっては非常に有害であると考えます。
科学は、前後ろを逆にはいたズボンのように、足をいくら深く入れても体にフィットすることはありません。
宇宙や生命の真理に科学がたどり着くことはなく、科学にできるのはただ、「科学では真理にたどり着けない」という絶望感を誠実に認めることぐらいだと考えます。
とある方とのネット上の議論で、以下のような意見をいただいたことがあります。↓

限界(適用範囲)やリスクが明らかになっているかどうかが科学か科学でないかの重要な判断基準のひとつである。

この意見は科学の本質を的確に表現するものです。
科学には、遠く宇宙の果てからミクロの世界の最小の単位まで、あらゆる状況に対応できる法則といったものは、永久に見つけられません。
この世界を取り巻く真理・法則といったものは、ここからそこまでを切り取って「はいこのとおり。それが真理です」といった形で、断片的に示すことは不可能なのです。
むしろ私たちが住むこの世界の真理は、イマジネーションの拡大を通して体感することでしか、把握できないもののように考えます。
科学には、体感したリアリティを数式に置き換える能力、翻訳する能力がありません。
能力がないにもかかわらず、科学者達はその不毛な取り組みを続けます。そこに未来はありません。
ですから、私は科学と隔絶した、全く別の観点から物事を論じる必要があると常々感じていました。
そのような姿勢で述べられる主張には、「はいこのとおり。」と指し示せる証拠がありません。
「証拠がないなら真理とはいえない」は科学による主張であり、本来真理には、人間の理解能力に合わせた箱庭的な証拠など、提出のしようがないのです。
ですから私は、証拠よりも論理の整合性、矛盾のないこと、そういった点を重視します。
証拠の提出を考慮しないことにより、科学に手の届かない事象にもイマジネーションを広げることが可能になります。
宇宙の始まり、生命の起源、命は何を目指し、目指す先には何が待つのか。
おそらく人類の中でも、そのような真理に到達した覚者は科学者の中には存在せず、イマジネーションを無限大に広げることで、わずかながら到達した方がいるというのが、人類の業績の正確な評価だと思います。
「わずかな覚者のみが真理に到達できる」というのは、科学思想に毒された現代人のいわれのないあきらめでしかありません。
「人間は誰しも覚者の萌芽を宿しており、その扉を開くヒントさえ与えられれば、一瞬で真理を体感できる」というのが、私の根幹主張です。
21世紀は、人類が証拠という形でいびつなピラミッドを積み上げることを止め、イマジネーションという鳥瞰図を手にして羽ばたく時代なのです。
「百匹目の猿」という現象が示唆されています。↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E5%8C%B9%E7%9B%AE%E3%81%AE%E7%8C%BF%E7%8F%BE%E8%B1%A1
これを認める科学はありませんが、真理に触れる事象であると私は考えます。
たった一匹のサルが獲得した発見・気付きは、空間を飛翔し、他のサルへと伝播します。
これは、人間にも当てはまることなのです。
「肉食からの卒業」は、そうした人類進化のひとつのカギです。
ある一定量の人間がそれに気付いた時、一気に加速し、人類総体としての意識は急激に刷新されるでしょう。
私はそのように考えます。


このような考えに到った経緯については、また別の機会に詳しく述べることとしますが、私の考えの根幹がそうであるため、私の主張は全く科学ではありません。
科学に慣らされた常識的な思考では、私の主張は時に突飛で、ナンセンスな印象を与えることもあるでしょう。
私は、その点に臆病になるつもりはありません。私が目指すのは、科学よりもより真理に近い洞察です。
私の主張に矛盾を感じたなら、どんなに小さなことでもかまいません。指摘をお願いします。
そして、どんな小さなヒラメキも、臆せずに意見してください。そこに大きな発展が秘められているかもしれないのです。
(続く)
(続き)
さて、本題に入りましょう。
人類の有史以前から遊牧という生活スタイルを続ける人々の肉食と、現代社会の肉食ではどのような違いがあるのか。
これを「調和」という観点で捉えた時、両者の違いは明確であると考えます。
モンゴル平原の遊牧民が5000年もの間、生活を維持し続けられたのも、そこに調和があったからでしょう。
ここには、遊牧民達が環境から手に入れたものは、彼らがそれを排泄物として環境に返す時、構成する原子の一粒さえ余さずに還元されてきたのでしょう。
いうなれば、モンゴル平原という環境のほうから遊牧民を要請し、羊や山羊の群れも生存のパートナーとして遊牧民を受け入れたわけです。
だから、非常に長い期間全く矛盾することなく環境が循環することができたのでしょう。
逆に、たった原子の一粒でさえ、環境に帰る筋道を失い、孤立したまま残存していたならば、この生活スタイルを維持することは叶わなかっただろうと思います。
仏教用語に業(カルマ)というものがあります。↓

『業はその善悪に応じて果報を生じ、死によっても失われず、輪廻転生に伴って、アートマンに代々伝えられると考えられた。』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%AD

もちろん、業(カルマ)の考えは科学によって支持されていませんが、「宇宙真理」の可能性を認めた時、法則として矛盾しない思想だと考えます。
遊牧民達が、何世代にもわたって、環境に深刻な業を残し続けていたならば、民族的繁栄はありえず、この生活形態はどこかで崩壊したことでしょう。
アメリカ大陸のインディアン、オーストラリアのアボリジニ、日本のアイヌ、そういったアミニズム文化の多くも、環境と調和していたからこそ、それぞれの地域で繁栄できたわけです。
これらの民族が行なってきた肉食は、人類進化の観点からは決して無害だとは思いません。
しかしそれは、サバンナでライオンが姿を消したら環境サイクルが崩壊してしまうのと同じように、環境自体がそれらの民族の出現を要請し、それに答える形で自らの役割を担って民族が繁栄したという点で、環境的に無害なのです。
余談になりますが、この考えは、現在の進化論と真っ向から対立します。
科学が述べる進化は、まず進化する生物が最初にあって、それに合わせて環境が変化してきたというものですが、私の考えはこれと正反対です。
まず最初に、草食動物が繁栄しすぎて調節を必要とするという環境からの要請があって、そこにライオンなり遊牧民なりがその役割を担えるように、形態的あるいは思想的な変化を整えてきたのではないか。
この考えに照らせば、ダーウィンの自然淘汰説、ドーキンス「利己的な遺伝子」説などは、非常に多くの矛盾を包含した仮説であると感じます。(この点に関しては、また機会を見つけて、より詳しく述べたいと思います。)
とにかく、遊牧民らの肉食が、人類進化の観点からは決して無害ではないとしても、環境の観点では全く無害でないという点は、現代社会の肉食との大きな違いでしょう。
(続く)


(続き)
さらに、「精」あるいは生命エネルギーという点から考えた場合、両者には大きな違いがあると考えます。(生命エネルギーという呼び方がふさわしいのかわかりませんが、ここではそう呼ぶことにします。)
これも科学は一切肯定しないでしょうが、他者の命をいただくということは、他者がその精において体感した記憶・心象世界をいただくという側面があるように思います。
私たちは、誰かを見、誰かに見られます。
他者の姿がなぜ目に映るのか。それは、他者が生命エネルギーを発しているからです。
つまり、容易に生命は空間を飛躍し、想念は環境に影響を与えるのです。
ですから、人の想念が水の結晶の美醜に影響するという「水からの伝言」は、それをニセ科学として退けようとする蒙昧な現代科学思想より、はるかに真理に近い考えであると思います。
水の結晶に与えられた想念によって美醜の差が現われるように、生き物それぞれの「精」にも、生きてきた環境によって精妙さや清浄さに差が出てくると、私は考えます。
つまり、自然と共に生き成長してきた生物の「精」は尊く業によって穢れていない、いわば「きれいな結晶」であるのに対し、養鶏場の息苦しい環境で育った「精」は「汚い結晶」なわけです。
これらは食料として体内に同化する時、大きな違いをもたらすと思います。
山すそから湧き出る水と、塩素消毒された水道水とでは、飲み続けることによって健康に大きな差異が生じます。(「精」の違いは、霊的な側面で生じるものですが、このような比喩をあげれば、私の主張も少しはわかりやすいかと思います。)

そしてもう1つ、その生き物が捕獲された状況も、「精」に影響するのではないかと思います。
もっとも崇高な「精」を、捕獲した生き物から得ようとするならば、生き物が対峙する人間を自らの命を与える存在と認める(見止める)瞬間が必要ななのではないか。
たとえば、アイヌが一本の弓矢でヒグマを仕留める瞬間。ヒグマにとってその瞬間は、自らも他者の命を糧としてきた経験から、納得せざるを得ない瞬間なわけです。
ヒグマの「精」は、正当な力と力のぶつかりによって認めた相手の中で同化し、それまで自然の中で培ってきた強さを、相手の中で現すわけです。
それは、自然の中で生きるアイヌにとって、必要不可欠な力の贈与でもあります。
ところが、現代の銃と猟犬を伴った集団狩猟では、多少意味合いが違ってきます。
「卑怯」という感覚がそこに介入するわけです。
「卑怯」感がより小さな形でこそ、自らの「精」を他者に同化させることに対する諦観がもたらされるのではないか。
言うまでもなく、最も「卑怯」な食肉生産は、養鶏場でしょう。
生まれた時から自由を得ることもなく、食べられるために育てられるニワトリにとって、諦観は存在しません。「精」のレベルで納得することが決してないのです。
自然の中で正当に仕留めた肉と、ブロイラーの肉。科学的にはなんら違いはありません。
科学には、果物が自然の恵みとして蓄えたビタミンと、工場で加工されたビタミンの違いも判断できません。
でも、そこに大きな違いがある。私はそう考えます。
そのように考えると、有名シェフのコショウの一振りで、料理のグレイドが格段に変わると思い込まされているグルメ思想には、真の「妙味」は存在せず、本当に力のある「食」を追求したいのなら、テレビ番組などに振り回されずに、自分で狩り射手座に行け〜!ということになるかと思います。
前回の記事に「僭称」というブログからトラックバックをいただきました。 
http://schutsengel.blog.so-net.ne.jp/2011-02-14
非常に興味深いご指摘が2〜3ありましたので、お答えさせていただきます。


>>私は現代科学というものに有用性を感じていません。
>いますぐ回線を切って目の前のコンピュータを捨ててらっしゃい。あなたの言葉に傾聴の価値があるとすればそれからで、そうじゃなければただのHypeだ。

なるほど。遺憾に感じる気持ちはわかります。
最近私は、一つの気付きを得ると、また次の気付きが見えてくる、といった感じで、どんどん世界のカラクリが見えてくるような、そんな自分の状況に驚きを感じているところです。
先の主張は、「常識」という通常私たちが基準とする錯覚から開放された果ての、ほぼ確信に近い思いの表れです。
これを理解していただくには、もう少し私とお付き合いいただき、議論を深めてもらわければならないように思います。
というわけで、今回は先を急がずほんの少しだけ説明せていただきます。
私が今強く感じていることは、科学が追求する道筋と、生命体としての人類が本質的に希求し志向する道筋は、同じ目的地を目指していないということです。
たとえば、科学が目指す「健康」と、生命体としての人体が希求する「健康」を考えてみてください。
科学にとって健康であるとは、苦痛がない状態、そしてそれができるだけ長期間継続する状態ではないでしょうか。ですから、長寿は健康である事の最大の証明となります。
ところが、生命体として私たちが志向する健康とは、「清浄な肉体」なのです。
これをどう表現したらいいのか、うまい言葉が見つかりませんが、体全体の生命エネルギーの流通が不純物・不活性によって滞ることなく、整合のとれた状態とでも言いましょうか。
「清浄な肉体」を科学に求めることはできません。そして、そこに至らしめる日ごろの修養・鍛錬にも、さほど科学は役に立ちません。

それから、「いますぐ回線を切れ」という御指摘ですが、これも私の主張を理解していただく必要があるようです。
よくも悪しくも、人類はコンピュータという土俵でゲームすることを選択したわけですが、私たちに開かれているゲームはそれだけではないということです。
一例を揚げれば、小鳥や小魚の群れが全体で一つの生命であるかのような整列した動きをすることがあります。boidsと呼ぶそうです。
http://www.youtube.com/watch?v=io_dp60xFxY&feature=fvsr
これなどは、生命の本質的な機能に基づいたコミュニケーションであり、ロックコンサートなどで観客が感じる一体感や、サッカー選手が言うアイコンタクトなどは、これと同質のものです。
本来、意識は空間を超え、ダイレクトに他者に伝えることが可能なものなのですが、科学はそれを「証拠」がないといって否定し、わざわざネット回線という不便な道具を間に挟めなければ、コミュニケートできないと思い込んでいるのです。
これは一つの愚かなゲームであり、私がもう少し個人的な生活に重きを置いておれば「回線を切る」選択をすることもあるでしょう。
しかし、今の私は、みなさんに幾許かの「気付き」を感じてもらう試みをすることに使命を感じており、科学が取り決めたネットゲームに身をおく必要を感じています。
ですから、確かに今私はコンピュータという科学の恩恵に与ってはいますが、「生命の目的」に立ち返れば、これも本質的に不要のものだと考えます。
(続く)
(続き)
>>むしろ、科学は不要であるばかりか、場合によっては非常に有害であると考えます。
>このかたにその言葉をだれかに届けうる手段を与えた、と云う一点において、科学(とその成果のひとつであるインターネット)は確かに"有害である"側面を如実に示しているけれど、同時に有益な言説も数多くぼくに届けてくれるので、この点ではまぁ差し引き個人的にはプラスですね。

人類が生命に根ざしたコミュニケーションを放棄し、科学が認める交信方法のみを信頼する姿は、私に言わせれば、「耳がしっかり聞こえるのに補聴器を使」っているようなものです。
科学に意識を征服される以前の人類は、この能力を自覚し活用していたと思います。
この方は、そんなこと信じられないと言うでしょうが、それは、人類が何世代にもわたって、そう思い込むように教育を受けているからです。
今私たちがこのような能力を復活させるためには、それなりの努力が必要となるでしょうが、おそらく進化の道筋はそういった方向を向いている。そのように考えます。


>>科学に慣らされた常識的な思考では、私の主張は時に突飛で、ナンセンスな印象を与えることもあるでしょう。私は、その点に臆病になるつもりはありません。私が目指すのは、科学よりもより真理に近い洞察です。
>印象を与える、と云うか、根拠も示さずに「思う」「考える」だけでつながれていく主張は、単にほんとうに"突飛で、ナンセンス"なだけのものだとみなされてもしかたがないんじゃないかな。

表面的には同じ人間でも、気付くのが早い人遅い人がいるように感じます。
気付きの遅い方は、私が突飛でナンセンスだという印象をなかなか取り払うことができないでしょう。ですから、「突飛だ」「ナンセンスだ」と思われることは幾分やむをえないことだと思っています。
でも、最終的には「気付き」ます。
なぜならば、科学の世界観は虚構であることはもはや明白であり、人類は迷走しながらも、最終的に生命が目指す方向が科学では無いことに、思い至るでしょうから。


>>"常識的な思考"で理解できない主張は、たいていの場合常識を超えているのではなくて、単に常識に届いていないだけの場合が大半だ。

今日の常識は明日の非常識です。そんな例はいくらでもあります。
現在もっとも急速に非常識化している常識は、なんといっても地球温暖CO2人為説でしょう。
それと、従来は「脳細胞は分裂再生しない」が常識でしたが、今では覆されています。
http://www.naoru.com/nousaibou.htm
以前は化学調味料を料理に入れるのは当たり前でしたが、将来は「発病物質」として、全ての食物に対し使用を禁じられるでしょう。
現代の常識の多くは科学によって作られたものであり、その多くが将来覆される運命にあります。
もしも「今教えられている常識だけが真実なのだ」と思い込んでおられる方がいらっしゃるようでしたら、一旦ご自分を疑ってみることをお勧めします。
(続く)
(続き)
>>たった一匹のサルが獲得した発見・気付きは、空間を飛翔し、他のサルへと伝播します。
>>よく知られているようにこれはライアル・ワトスンによる創作であり、ワトスンが引用元として挙げている河合雅雄はこの現象をきっぱりと否定している。

ウィキペディアの記述では、「百匹目の猿現象」はこう書かれています。↓

『「ある行動、考えなどが、ある一定数を超えると、これが接触のない同類の仲間にも伝播する」という存在しない現象を指す。』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E5%8C%B9%E7%9B%AE%E3%81%AE%E7%8C%BF%E7%8F%BE%E8%B1%A1

「存在しない現象」という断定は現時点における常識に過ぎません。
「接触のない」2者間にはなんら因果関係が発生しないとする立場は、科学の古典的世界観である「機械論」に依拠するものですが、量子力学などによってこれは否定されています。↓

『また、量子力学の不確定性原理のようにそもそも決定論が当てはまらない物理現象も知られている。』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%9F%E6%A2%B0%E8%AB%96

「ある行動」「考え」といったものを、科学は物質として特定できるわけではなく、特定できないものの挙動を確認することは、科学にはできません。
よって、「存在しない現象」と断定することは、科学の能力を上回ることであり、ましてや真理に繋がる主張でさえもないのです。
「百匹目の猿現象」は、科学的な証拠を提出することはできないものの、理論として矛盾がないと私は考えます。よって、将来評価が反転する可能性を感じています。


>そう云うわけで、このことを根拠にした主張は端的に嘘なわけだけれど、まぁここまで読んできたこのかたのスタンスからすれば、嘘をつくことそのものを悪いことだとはあまりお考えにならないんだろうな、とは推測できる。

まさしく、立証されていないことは全て嘘だと断定する姿勢こそが、科学の限界を認めないための最終手段です。
「立証されていないこと」には、当然「将来立証されるかもしれないこと」である可能性が存在するわけですが、そのような浮動性を無視して嘘だと言い切ってしまうのは、事実ではなく信念がなせる業です。
今や、そういった信念の押し付けが現代科学の本質となっており、これは見方によっては非常に宗教的です。


>>ですから、人の想念が水の結晶の美醜に影響するという「水からの伝言」は、それをニセ科学として退けようとする蒙昧な現代科学思想より、はるかに真理に近い考えであると思います。
>これも単純に嘘であるわけなんだけれど、まぁ嘘つきが嘘の根拠に嘘を持ってくるのは、薔薇の木に薔薇の花が咲くのと同じくらいには自然だ(でもおなじくらいの溜息は呼ぶかもしれない。ほぼ逆の意味合いで)。

これも、上述と同じですね。
科学には、水の結晶の美醜を見分ける基準がないのですから、嘘だという断定は科学の能力を超えるわけです。
残念ながら、最後は科学信奉者特有の、レベルの低い信念の押し付けで締めくくられています。



>ただねぇ。
嘘が羅列されているだけの美しくもない文章を綴る人間が真理を語ったり、あまつさえ「詩人」を名乗るのは、傲慢とかそんな程度ではない、限度を超えた僭称だと思うのだよね。

科学という牢獄から世界を見回そうとする方には、真理というものが途轍もなく不可解に思えるのは理解できます。
真理はむしろ、科学の鎖を思考から取り去った時に、より感得されるもののように、私は感じています。
いつか、この方が、そういった心境を理解する日が来ることを願っています。
それから、「詩人」が人間の中でも何か特別な存在であるかのように考えていらっしゃるようですが、これも想像力の乏しい解釈ですね。
プロフィールに私はこのように記述しています。↓

この世に生を受けた人・動物・草や木。
​全てが詩を宿しています。
​命は詩。
​命は詩人。
誰もが、そして全ての生き物、現象が「名もなき詩人」なのです。

気付いておられないようですが、この方自身の生きる姿勢、人生が綴る物語も、一編の詩なのです。
やや小難しい話が続いてしまいましたので、ここで少しやわらかめの話をしましょう。
私の「肉食論」といいますか、肉食に対し、どのようなスタンスでいるのかを述べさせてください。

というのも、これまで私は、ネット上で知り合った方や旅先で出会った方などと、度々ご飯を一緒にした経験があります。
その中には、わざわざ御馳走を用意して歓迎してくださった方もいらっしゃいます。
そして、その中にはこのトピックをご覧の方もいらっしゃることと思います。

ピンクパンサー あの時あんなにお肉ご馳走したのに〜〜!肉食はダメだなんて馬鹿にすんな〜!

見たいな気持ちを抱く方も中にはいらっしゃるかもしれません。
いや〜〜心から感謝してるんですよ〜〜。
いろんな方と食事を共にする楽しさ。それは何にも変えがたいものです。
その時の喜び、共有感。それは生きる喜びのうち、最も優先すべき事柄の一つだと思います。
だから、出された食事は全て喜びの賜物として、いただきます。
できれば残さずいただきたいので、適量がありがたいです。

でも、やはり。
私はメッセージとして、肉食はなくしていこうね、とそういった方にも伝えたい。

もちろん、さまざまなスタンスの方がいると思います。

アラレちゃん 私は、自ら肉を一切口にしない生活を実践して、それを広めるんだ。

そんな決意の方は非常に尊いと思いますが、私はそれとは少し違います。
肉食は、人類が一体になって取り組んでいく課題です。
日本中・世界中の方が、少しずつ日々の食事に目を向けて、無理のない形で達成していくことが必要ではないか。

シルバーサーファー 肉食は罪だ〜〜!

といって、自分を責める必要はないんです。

栗頭大五郎 今日は、いつもより少しだけ量を減らして、その分味わって食べよう。

そんな心がけが積み重なることで、いつのまにか食卓にお肉が上がらないことが苦痛でなくなる。
そんな感じが理想かな〜〜。


ホンネは、肉大好きです。
盛岡は冷麺が本場ですからね〜〜。小さい頃から家族でしょっちゅう焼肉食べてました。
肉屋の前にローストチキンとかがあったりすると、ヨダレが出ます。
金がない時の牛丼屋は重宝ですし。

でも。食べなければ食べないで、最近あまり悔いはないですね。

ま〜、今のところ、魚までは放棄できないので、蛋白質が欲しくてしょうがない時は、かつお君に手が行ってしまいますが。


ってなことをふと思いました。
さて、やわらかい話の後は、ぐっと重たい話をしたいと思います。
肉食が陰謀によって普及したという話です。
日本で肉食が急速に普及したのは、明治の文明開化の頃からだというのは、ご存知の方も多いかと思います。
なぜその時から普及が始まったのか。
それは、明治天皇がちょんまげをばっさり切って、公然と肉を食べ始めたからです。
えんぴつはウィキペディアからの引用。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E7%8D%A3%E8%82%89%E9%A3%9F%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2)↓

えんぴつ 明治天皇が初めて牛肉を食したのは1872年(明治5年)である。同年、廃仏毀釈により僧侶を破戒させるため「肉食妻帯勝手なるべし」とされた。



「ちょんまげを切る」ことの重大さを、皆さんよ〜く考えてみてください。

イメチェン皿田キノコ綾小路麗華 してみました〜〜。今度の髪形似合ってます?

みたいな、人気アイドルが髪型を変えるのとは、わけが違います。
天皇が自らの神格化の象徴である髷を切るのは、お坊さんが袈裟を脱ぐ、あるいはキリスト教神父が十字架を外すようなもの。
言ってみれば、自らの思想的・信仰的基礎を否定するようなものです。
なぜ、明治天皇はそんな思い切ったことをしたのでしょうか?

孔ピー ほ〜〜、鎖国しとったから気付かなかったが、世界は広いもんだの〜〜。
   わしも、西洋に見習って文明を取り入れよう。

↑とかいうのは、表向きの話です。
「日本」という国名の由来は、「日の出ずる国」。
つまり、

世界で一番尊い国富士山 なんだ〜〜!なんせ生き神様がいるんだぞ〜〜!

という自画自賛的な意味ですよね。
そんな唯我独尊の日本国が、間違っても、他の国の文明のほうが素晴らしいなどと、考えるわけがありません。
(「しまった。油断してるうちに軍事力が遅れてしまった〜〜!」という焦りはあったでしょうが。)
ましてや、その生き神様本人が、

私、今日から、普通の男の子孔ピー曹ピー に戻りま〜〜す。

などといった、あからさまな敗北宣言をするはずがないとは思いませんか?
その証拠に、

えんぴつ天皇が食してしばらく後の1872年(明治5年)2月18日、御岳行者10名が皇居に乱入し、そのうちの4名が射殺、1名が重傷、5名が逮捕される事件が発生し、後に「外国人が来て以来、日本人が肉食し穢れて神の居場所が無くなった為、外国人を追い払うためにやったのだ」との動機が供述されている。

天皇の体たらく振りに憤慨した人々に、命まで狙われる派目になっちゃったわけです。
さて、核心にズバッと触れましょう。
明治天皇は西洋支配が影で操る傀儡だったという説があります。↓

明治維新から米国支配が始まった〜明治天皇も本物は暗殺され偽物!
http://310inkyo.jugem.jp/?eid=631

スッパマン そんな話誰が信じるか!

と、お怒りになられる方も、相当数いらっしゃるかもしれません。
でも、私は、ちょんまげ時代の天皇様(左写真)とざんぎりの天皇陛下(右写真)では、言行や姿かたちがあまりに違いすぎる、まるで別人のようだ、という印象を非常に強く感じます。

なぜ、明治から急速に日本が軍国化していったのか?なぜアジアを侵略し始めたのか?
↑西洋諸国が自分の手を煩わせる代わりに、日本を操って、甘〜〜い汁だけ横取りしていた。

なぜ、それまでの漢方医学を切り捨て、西洋医学だけを重用し始めたのか?
↑東洋哲学に基づく生活習慣を根底から覆し、科学思想を植えつけるため。

つまり、日本がエジプトのムバラク大統領のような、欧米のいいなり政権を据えられた「操られ国家」だったという事実に、ぜんぜん気付いていないのは、世界中で唯一、お人よしな日本国民ピースケ だけなのです。
(続く)
(続き)
その後の、明治・大正・昭和のあまりにも理不尽な日本のアジアに対する行いを考えてみてください。
東洋哲学が思想の根底に流れているはずの国にしては、あまりに西洋的な非道・残酷さではないでしょうか。
そして、あまりに単純な右翼思想の方々。
そんな愚かな時代の、非道・残酷な日本をノスタルジックに栄光視している。
すっかり、だまされ続けてる。
竹島?尖閣諸島?あ〜〜くだらん。
そんなちっぽけな島を大事のように問題視する方々は、ご自分の脳内ウィルスに気付いていらっしゃらないのでしょう。
ウィルスの感染元はテレビ。
中国漁船の流出映像なんかに振り回された方。はやいとこ、ご自分の洗脳を振りほどいてください。同じ国民として恥ずかしいです。

たびたび主張していますが、真の日本は、西洋に毒される以前の江戸時代までの姿です。
日本を本当に愛するならば、その頃の日本に立ち返るべきです。
それでこそ、真の愛国者、真の右翼だと、私は考えます。
くだらない軍服もどきなど、今すぐ脱ぎ捨てなさい。
そして、椿油でテラッと光るちょんまげを復活させるべきです。
最近は長髪を後ろで束ねる方も増えてますので、それほど不自然ではないかもしれませんよ。


ところで、肉食の禁止は、世界のあらゆる宗教が戒律・いましめとしているものです。
仏教はもとより、キリスト、イスラム、ヒンドゥーetc,
日本がそうであたっように、世界中のどこの宗教も肉食は、かつては厳しい禁止行為でした。
それが、世界各国で緩和された背景には、欧米諸国の思想侵略が大きく影響しています。
それでは、西洋には肉食禁止の歴史はなかったのか?
私はあったと思います。
それが、教会の支配力の低下と共に廃れてしまったのではないか?
教会、つまり宗教を廃れさせてしまったのは、科学です。
つまり、現代の肉食の流行は、科学の賜物なのです。
科学が、人類に誤った選択をさせてしまったわけです。
人類は、科学によって、自分に命が与えられた理由、命の進む道を、すっかり忘れさせられてしまった。
代わりに、快適さ、おいしさ、贅沢といった、肉体的な悦楽を与えられ、それが人生の目的だと思い込まされて、人生を浪費しています。

科学は正しく、宗教は迷信である。

↑これが現代の常識であると、義務教育や社会活動を通して、皆さんは刷り込まれています。
私は、むしろ、こう考えます。↓

古典的宗教にはいくばくかの真理が存在したが、現代科学は全てにおいて迷信である。

科学に限界が見える今こそ、宗教を無下に否定せずに、回帰の心を開くべきです。


おそらく、私の話を今すぐ信じることが難しいという方も多くいらっしゃるでしょう。
しかし、「気付き」の時はいつか必ずやって来ます。
どうか読んだことを、脳裏の片隅にでもとどめておいてください。
あなたに、心の用意ができた頃、きっと深く共感していただける。
そう信じています。
さて、私の陰謀説はいかがでしたか?
もうそろそろ、私が、なぜこうまで「科学は無用だ」と言い切れるのか、そのきっかけとなった話をしましょう。
まずは、こちらをご覧ください。↓

'10命の行進 9月23日 日本美人は石鹸を使わない


http://www.youtube.com/watch?v=h90TsjEaFSU

いや〜、懐かしい、ピースウォークの仲間達です。
そろいもそろって「濃い人たち」というか、ほっしゃんとAKOちゃんという極めつけのロハス2人が参加した去年のウォークほど、化学物質や食品添加物に注意が喚起されたことはなかったと思います。
行進を終えた車中での会話がおもしろくて、私がビデオを回したのですが、後でよくよく考えた時、「!」と感じるものがありましたね。
というのも私は、自分だけはマスコミのプロパガンダや政治洗脳から完全に自由な人間だと、慢心していたことを思い知らされたからです。

私たちは、自分の体臭を消すために、石鹸やシャンプーを使いますが、これって何のため?って考えたことがありますか?

病院 体臭は雑菌が繁殖している証拠。雑菌が体内に入ると悪さをするから。

というのは、科学の言い分です。
しかし、雑菌を殺す消毒薬や臭いを誤魔化す芳香剤は、人体に無害なのか?といわれれば、決してそうではありません。

病院たとえ有害でも、微量であれば人体に影響はない

これも科学の言い分です。というか、常套句です。
つまり、科学的見地では、猛毒の化学物質も微量であれば、雑菌よりも安全だという判断なわけです。
体臭を消してわざわざ違う臭いをつけることには、もう1つ大きな理由があります。

指輪 石鹸は清潔。汗は不潔。

という社会通念に従って、一般的に宣伝されている「いい臭い」と思われているものを体に付けるのは、他者に対するマナーだということです。
つまり、私たちは、「雑菌は危険だ」という科学的主張と「汗は不潔」という社会通念のあわせ技で、「体を洗う」という生活習慣を取り入れているわけです。

しかし、生命体としての肉体を考えた時、雑菌が死んでしまうほどの化学薬品を体中に付けるのって、賢明なことといえるのでしょうか。
地球外生命夜 が地球へ観察に来たなら、「人間ってこんなに愚かなの〜〜?!」ってきっと思うであろうことのベスト3以内にランクインされるぐらい、おかしなことかもしれません。
人間は、化学薬品によって雑菌を殺すと同時に、自らの肉体をも弱体化させているわけですから。
よ〜く考えてみてください。
「石鹸は清潔。汗は不潔。」という通念は、生命からの要請でも生活のうえの便宜でもなく、社会が作ったルールためにあるのです。
社会は、肉体が弱体化することを、ルールとして大衆に強いているわけです。
体のために良くないだけではありません。
環境にも大きな問題です。
若い女性が、「朝シャン」とかいって洗剤を排水すれば、それだけ水道水が必要になります。

病院 水道水不足はダムによって補う。

これも科学の言い分です。
全ての日本人が、体を石鹸で洗うことをやめれば、水不足は解消し、高温の生活排水はそれだけ少なくなり、日本近海が(海水の)温暖化で環境破壊されることもなくなるかもしれません。

私は、このことに気付いてからというもの、人工的な臭いをぷんぷんさせた女性に魅力を感じなくなりました。
むしろ、自分が洗脳されていることに気付かない、このような女性達を気の毒に思います。
というか、汗の臭いがぷんぷんしそうな南国の女性乙女座 の健康的な美しさに惹かれます。
そんな話はど〜でもいいか。
(続く)



(続き)
科学と科学が作り上げた社会通念は、生命が目指し進むべき道と、決して合流しないでしょう。
科学に捉われ、社会通念に捉われれば捉われるほど、自分の命が目指すものからどんどん離れていってしまうのです。
科学はむしろそのためにこそあります。
私達に、明確な目標を見失わせ、つまらないものに散財し、そのために時間を犠牲にしてお金を稼がなければならないように仕向け、いつまでも社会牧場の羊であることを要求します。
この「清潔」という観念がまやかしであることに気付いた時、オセロがパタパタとひっくり返されるみたいに、全ての社会システムにまやかしが介在していることに気付きはじめます。
それは、最初のうちは緩慢かもしれません。しかし次第に加速し、急激に自分の生活スタイルを変えたいという欲求を生み出します。
それに素直になることが、「自分の生まれた理由」を見つけ出す手がかりとなります。


さて、私は、この出来事以来、石鹸・シャンプーを使わなくなりました。
今では、歯磨き粉も使いません。(歯ブラシはします)
ちょっと恥ずかしいことを告白しますが、去年の行進に参加する前には、頭皮の痒さに悩まされていました。
あまりに引っかきすぎて、膿が出ていたほどです。
「はげ予備軍の仲間入りか〜〜。」と密かにあきらめていたほどです。
また、アレルギー性の発疹が、飲酒の次の日などによく出ました。
遠い昔には、皮膚科でクスリをもらって飲んでいた時期もありました。(これはヤバイ、落ちるとこまで落ちるぞ〜〜!と思い、あるとき決心してクスリを絶ちました)

現在、肌の調子は見違えるほど快調です。
抜け毛も驚くほど減りました。

みなさんも試してみたほうがいいと思います。
日本中に、汗の臭いむんむんの自然美の女性乙女座が増えることを期待します。
YouTube動画で、美人の後ろに映ってるのが、名もなき詩人で地球さんですか?
予想に反してモテてるように思いました。
石鹸ノーの場合、ウォシュレはオッケーなのでしょうか?

すごい勢いで肉食を始めた中国にも、頑張って布教活動を行っていただけると有り難いのですが。
28 N田さんへ
>YouTube動画で、美人の後ろに映ってるのが、名もなき詩人で地球さんですか?

私は、ビデオを回していたので、映像には移っていません。


>予想に反してモテてるように思いました。

予想では、おらはぜんぜんモテないよ〜に思われとんのけ〜〜。ま〜、ぜんぜんモテんけど。


>石鹸ノーの場合、ウォシュレはオッケーなのでしょうか?

お尻をしゃ〜〜ってやるやつね。別に問題はないと思います。
ただ、ほっしゃんは、切れのいいウンチくん の場合は、紙も使わなくていいといっていますね。


>すごい勢いで肉食を始めた中国にも、頑張って布教活動を行っていただけると有り難いのですが。

中国語が堪能であればよかったですけど。
私は、肉食卒業は、チーム活動だと思います。
うちのカミさんは、時々反抗的?にベーコンとか買ってきますし。
実家で夕食を両親と食べる時も、「肉食は体に良くないよ〜〜」と言い続けてたら、しぶしぶながらも、献立から肉が減ってきたように思います。
日本人の意識に肉食卒業が定着すれば、周辺国にも広がるんじゃないかな〜〜。
というか、「100匹目のサル」信者の私としましては、日本が目覚める時は、周辺国も急速に目覚めるものと考えます。
30 たーぼーさんへ
>環境保護活動とか、フェアトレードとかやってるのに、肉食の問題には目を向けない人が多い事に疑問を感じてるんですが、同様に闇の政府とかの「陰謀論」を唱えてる人たちも、この問題はスルーしてることに疑問を感じてます.

現在の環境運動の主流的な考え方は、自分達が問題視する事柄以外に論点を広げては、複雑化しすぎて手に負えない、といった感じだと思います。
私は、それがかえって、問題意識を市民に広めることの妨げになっていると感じます。
たとえば、原子力と核兵器といった、共通性の高い問題でさえ対立が生じているのが現状です。
私たちの社会を取り巻くさまざまな問題を、つぶさに検証すると、あらゆることが資本主義という社会構造の欠陥に由来しているのだという結論に至ります。
今、環境運動に必要なのは、そんな広角的な視点で問題を把握する姿勢だと思います。


>穀物飼料メジャーの策略に踊らされてないで、みんなはやく「気付いて」ほしいですね。

最近鳥インフル、メディアが騒がなくなりましたね。報道規制が働きだしたのでしょう。
そんなからくりにもうそろそろ「気付いて」ほしいものです。


>遅かれ早かれ今のような畜産業は崩壊すると思いますが、もしかしたらここ1、2年で牛肉が食べられなくなるかもしれませんよ。

その可能性はないとはいえませんね。
畜産業の方々にはお気の毒ですが、これはある種の命の法則といった出来事なので、逆らうことは困難です。


>現在、世界の飼料穀物生産を支えている、アメリカのオガララ帯水層(広大な地下水層)が、ここ1、2年で枯渇する、という話を聞きました。もし本当に枯渇したら、日本の畜産は潰れてしまうでしょうね。

環境に対する悪影響がめざましく顕現化する今日では、大規模化・合理化という方向性は必ず反動を生み出します。社会体制は今だに発展意識から抜け出せない状況ですが。


>もしかしたら、「ここ1、2年で枯渇する」というのも、穀物メジャーによる情報操作かもしれませんが。

その可能性もあり得ますね。
最近、石油の価格高騰が騒がれていますが、これも実は情報操作ではないかと思います。


>いずれにしても、やつらに踊らされることなく、健康のために環境のために平和のために無用な殺生を極力しないために、要は自分が気持ちよく生きるために、肉食を卒業したほうがいいですね。

このトピックのような活動を通して、それぞれの人がそれぞれのスタンスで無理なく意識的な目覚めをしていくのが理想かな〜と思っています。


>同様に、自分が気持ちよく生きるために、ぼくもシャンプー、石けん、歯磨き粉、洗濯洗剤や食器用洗剤などを使ってません。酢、塩、炭、重曹などを活用してます。

そういった役立つ知識はぜひ、このトピックなどで広めていただきたいですね。
特に、うちのカミさんは洗濯に対する洗脳からなかなか抜け出せないようで、今だに毎日洗濯物の山ですからね〜〜。
家庭内のせめぎ合いというのが、それなりに熾烈というか、そこを根気よく対処してこそ、少しずついい方向へ向うんだと思っていますが。


>自分をもっと大事にして、本当に自分の為に考えたら、自然と周りのためになると思います。

まさにそうですね。
環境と人の心は密接に繋がっています。
「肉食なんかしなくても平気」という100匹目の人間が、早く現れることを心待ちにしています。


>偉そうなこと言って僕自身はまだまだなんですが

それは私も同様です。
でも、自分が完全に実現できていないことだからと言って、口をつぐむということはしたくないと思っています。
ところで、環境運動の問題に触れたついでに、付け加えておきたいことがあります。
私のメールに、このようなものが届いております。↓

脱原発全国イベント準備会議開催のお知らせ
http://mixi.jp/view_event.pl?id=60448771&comm_id=2499291

率直に申し上げて、私は現在のこのような活動に全く期待を持っていません。
おそらく、「全国規模で署名キャンペーンをしよう!」とか、「大きなイベントを上関原発予定地で!」
とかいったアイディア以上のものは出ないでしょう。
そういった活動にはなんら効果がないことを、主催者自身気付いています。
気付いていながら、それ以上のことをしようとしない。
なぜしないのか?
脱原発が実現するとはホンネで信じていないから。
あきらめているのです。

脱原発を実現するには、選挙運動にしか活路はありません。
市民は非力だから、当選させられないとあきらめている。
なぜ信じきれないか?なぜあきらめてしまうのか?
想像力、気付が足りないのです。

私の中では、脱原子力社会へのシナリオはすでに出来上がっています。
これに賛同する、つまり「気付いた」方が大勢協力してくだされば、可能です。
「気付き」とは、「洗剤こそが最大の環境汚染だ!」「義務教育で教えられた六大栄養素は仕組まれた罠だ!」などといった、普段の身近なところから始まります。
だから、私はこのトピックを立ち上げて、皆さんの気付きを促そうと思ったわけです。

私は上記のようなイベントには、進んで参加する気はありません。
去年参加したNONUKS FSUTAの経験から、行っても無駄足に終わる公算が強いと感じます。
とはいえ、あちらから要請があれば参加します。
当然、その時には、「市民型の選挙のあり方」を話し合うという前提のもとでですが。
もう1つ、MIXI事務局から、このようなメールが来ています。↓



『こちらは mixi運営事務局です。
このたび、運営事務局にてお客様の投稿を確認いたしましたところ、利用規約
に違反する内容がございましたので、該当する箇所を削除いたしました。
mixi では以下のような行為を禁止しております。運営事務局が発見次第、投
稿を削除したりアカウントの利用を停止したりする場合があります。

・法律や条例に違反する行為の勧誘や取引について持ちかけること
・法律や条例に違反する行為の経験について書き込むこと 』


これは、今議論している大麻解放に関するトピックにける、私の反論者による圧力で mixi運営事務局が動かされた、ということです。
もし、私に現在ほどの影響力がなければ、アカウントごと剥奪される危険性もあったのでは?と思っています。
まあ、遅かれ早かれ、そういった状況は訪れるでしょう。
そうなる前に、できる限りの「気付き」を皆さんにお伝えしたい。
それが、現在の私の活動方針です。
まあ、このまま、誰も気付かぬうちに、私が社会から抹殺されるとしても、それも地球の運命でしょう。

みなさんには、引き続き、そんな私の行く末を見守っていただければ、と思っています。
牛乳も危ないようです。↓

『乳がんの発生に牛乳が関与する
外見上、女性をおんなたらしめているのは乳房である。乳房は女性の魅(観)せる「秘蔵品」で、乳がんは欧米女性が最も怖がる病気はである。存在の根源にメスを入れる破目になりかねないからだ。アメリカの女性は8人に1人が乳がんになる。欧米では女性の乳がん死亡は肺がんに次いで2位であるが、患者数では断突1位のがんである。この点で日本女性は幸せで、乳がんになるのは20人に1人ほどである。現在(2000年)の日本女性のがん死亡は、1位胃がん、2位大腸がん、3位肺がん、4位乳がんである。乳がんの発生数は明らかではないが、毎年約2万人の女性が乳がんにかかり、ほぼ1万人が乳がんで死亡している(2000年には9171人)。乳がんにかかる日本女性の数は毎年増えている。 』
http://www.eps1.comlink.ne.jp/~mayus/eating21-30/mammarycancer1.html

ピースウォークで一緒に歩いたAKOちゃんの講話↓
牛乳は乳がんのもと


http://www.youtube.com/watch?v=kFE77uAqbGw
とある方からの情報です。日本食は放射能対策にもいい!


●食で放射能をなるべく放出する方法。

過去の広島や長崎の前例から。
砂糖類摂らない。 水分控える。 塩を努めて摂る。 海藻、味噌、玄米。 玄米にすり黒胡麻塩。 放射能は体を冷やす極陰性、自然治癒力が働く温める陽性の食を、そして放射能を排出する働きの食をできるだけ努めて摂る。

●放射線を防ぐ食品をお探しの貴方へ  
〜福島の方は今すぐ召し上がってください〜

「ヨウ素をたくさん含む食品ベスト10」
乾燥昆布一切れ1枚1グラム
トロロ昆布大さじ販売1グラム
乾燥ワカメ5グラム
いわし中2匹96グラム
さば1切れ100グラム
かつお1切れ100グラム
焼き海苔10枚3グラム
ぶり1切れ80グラム
塩鮭1切れ60グラム
寒天1角の半分4グラム

●放射線を中和する食品をお探しの貴方へ

放射能は極陰性、焼き梅干、玄米、昆布、で中和されるようだ。広島原爆の時も知識ある人は焼き梅干で中和したと文献で読んだ。砂糖、小麦粉、牛乳を飲まないようにする事で放射能被害の症状悪化は防げる。しょっぱいもの、塩気のものを取ってください。

「爆弾をうけた人には塩がいい。玄米飯にうんと塩をつけてにぎるんだ。塩からい味噌汁をつくって毎日食べさせろ。そして、甘いものを避けろ。砂糖は絶対にいかんぞ」

(秋月辰一郎著「死の同心円−長崎被爆医師の記録」講談社刊・絶版)

1945年長崎に原爆が投下され多数の方が放射能を浴びて亡くなられました。その中で放射能による被害を免れた、爆心地から1km程度のところにあった聖フランシス病院内科部長であった秋月博士の体験されたことが、下記URLで紹介されていますので、是非ご参照ください。秋月博士や救助にあたった人すべてが強烈な放射能を浴びながらも原爆症になることはなく、助かったそうです。秋月博士は最近までご健在でした。それは、玄米、味噌汁、昆布などの海草類からなる伝統的日本食を摂ることによって、体内の毒物を排出することができたからです。一般に塩辛いものは身体に悪いとされますが、強烈な放射能に晒された非常事態下、秋月博士は味噌汁は塩分を濃くし、できるだけ辛くするように指導しました。そして甘い砂糖の使用は一切厳禁とした食事の結果、救助に当ったすべての人が放射能の被害から免れることができたとのことです。

http://otsukako.livedoor.biz/archives/30327358.html

★注:上記で助かった方でも白砂糖一舐めで体がパンパンになり急逝したそうです。
酵素の働きがとても環境にいいようです。
簡単にできてお金もかかりません。
皆さんも是非読んで、試してみてください。↓


□酵素とは何か(要約)

酵素とは主に町内で食べ物を消化・分解してくれる物質です。
食べ物の消化・分解は腸自体が行なうのではなく、酵素が行ないます。
酵素がないと食べ物の消化・分解が適切にできなく、未消化のまま血液中に流入てしまいます。
未消化物質は血液を汚し、体細胞に未消化物質を沈殿させます。(肥満の原因)
ドロドロ血液は血行不良を起こします。(肩こり、腰痛、冷え性)

● 酵素とは何ですか?
まず『酵素』でどのようなことが出来るでしょうか?
腸の中にある3〜5キロの宿便を排泄します。
血液中の毒素をなくし、血液をサラサラにします。
血液がサラサラになることにより、体内の脂肪分等を排泄します。
肝臓・賢蔵の負担をなくします。
腸の中の悪玉菌を減らし、悪玉菌の発する有毒ガスを取り除く。ことにより、体臭・口臭を消し去ります。

●腸の中にある3〜5キロの宿便を排泄します。
人間の腸の中には普通の人でも3〜5キロの宿便をもっていると言われます。
日常排泄される便以外にそれだけの宿便をもっているのです。
この宿便は腸の中にいる悪玉菌のえさになります。
悪玉菌は大腸菌などの人間に害を及ぼす菌で、体臭・口臭を発する有毒ガスを発生させています。
さてこの宿便はどうして『酵素』によって排泄されてしまうのでしょうか。
私たちは食べたものを胃や腸で消化・分解しますが、この働きをしているのが『酵素』です。
宿便が腸の中に溜まるのは、食べ物が分解しきれないでそのまま居残ってしまうために起こるのです。
つまり『酵素』不足により宿便は溜まっていきます。
『酵素』を補強してやれば、たちまち宿便は分解し、対外に排出されます。

昔の食事には、たくさんの『辞素』が含まれていました。
たとえば、漬物・納豆・みそ・しょうゆ・生野菜
でも最近ファーストフード店とかコンビニなんかで手軽にお弁当などが食べられるようになると、急激に『酵素』が減ってきたのです。
なぜかと言えば、『酵素』は42〜70度の熱を加えると、死んでしまうのです。


● 血書中の毒素をなくし、血液をサラサラにします
なぜ、血液中に毒素が充満してしまうのか。いわゆる、ドロドロ血液ですね。
毒素とは腸内で分解し切れなかった食物(未消化食物)の分子です。
これは分子が大きいので栄養として吸収されません。
だから内臓に溜まって、いらない脂肪なんかになったりします。
でもこの毒素も、ちゃんと腸で分解されれば、栄養として吸収されます。
食物を分解するのは『酵素』です。
だから血液がドロドロなのは『酵素』不足なのです。

★ 冷え性も酵素不足★
冷え性って、手足の末端まで血液が行かないために起こりますよね。
手足の末端にある毛細血管は、赤血球がひとつよじれて通らなければいけないくらい、細いのです。
これが血液がドロドロでは、通ることが出来ません。
だから、血液がサラサラであることが重要なのです。

●血液がサラサラになることにより、体内の胎肪分等を排泄します。
 本当は血液はいらないものを体外に運ぶ仕事もしているんです。
だけど血液中の毒素が多すぎると、運ばないで体のどこかに置いてっちゃうんですね。
でも血液がサラサラだとちゃんと運んでくれます。
いままで置き忘れていたものも、ちゃんと持っていってくれます。
(続く)


(続き)
●肝臓・賢蔵の負担をなくします
血液は、運んだ毒素を肝臓・賢蔵に持っていって、排泄の処理を頼みます。
しかし、この毒素の量が多すぎると、肝臓や賢蔵も困ってしまうのです。
胃や腸でちゃんと栄養になる分子まで分解していれば、肝臓や賢蔵に負担をかけなくとも良いのです。
特に肝機能障害がある人は、酵素を補充する必要があります。

●腸の中の悪玉菌を減らし、悪玉菌の発する有毒ガスを取り除く。ことにより、体臭・口臭を消し去ります。
 腸の中にはかなりたくさんの菌が存在します。
 この菌の中には大腸菌などの悪玉菌や、乳酸菌などの善玉菌が存在します。
悪玉菌は有毒ガスを発生させます。いわゆるオナラです。
でもこの有毒ガスはおしりから出るだけではないのです。

腸から血液中に吸収され、肺に送られ、口臭として発せられます。
また、皮膚から染み出て、体臭として発せられます。
『酵素』は腸内洗浄をし、悪玉菌を減少させます。
悪玉菌は腹の中の腐敗物がたいへん好きなのです。
宿便や未消化の食物をえさにして、どんどん増殖していきます。
だから、宿便を排泄し、食物を完全に分解してしまえば、悪玉菌のえさがなくなって、減少していくのです。



★悪玉菌は脂肪がお好き★
悪玉菌の栄養源は脂肪です。だからアメリカ的食生活は要注意!
コンビニ弁当・ハンバーガーばかり食べていると体が臭くなってしまいますよ。
逆に善玉菌のお好きなのはオリゴ糖。
たまねぎや大豆から取ることがおすすめ!
あまり乳製品などの動物性食品からとることはお勧めできません。


●酵素の種類
人は食物を摂ったらそれを分解して消化しなければ栄養として吸収することはできません。
その消化の工程に欠かせないのが、「消化酵素」です。
消化された栄養分は吸収され、体を形作って行きます。
その工程を代謝と呼びますが、代謝に欠かせないものが、「維持酵素」です。
人が生きていく上で不可欠な2つの工程が、実は酵素の働きによって成り立っているのです。
この酵素が不足すると、消化不良を起こしてしまったり、体内の代謝がうまくいかずに、逆に体内毒素が蓄積される結果になります。
っまりは、私たちの体の運動はすべて酵素の働きによって営まれているのです。
生きるために絶対に必要な心臓の活動も、呼吸をすることも、手足を動かすことも酵素なしでは成り立ちません。
人は年とともに新陳代謝が遅くなり、ついには全く止まってしまいます。
その新陳代謝にどうしても必要なのが「維持酵素」です。
維持酵素なしでは細胞が分裂し新たな細胞にバトンタッチすることができません。
私たちは寿命というものを意識しています。
寿命の期間というものは、実は酵素のたくわえがある期間のことをさしているのです。
これほど大事な酵素は、体内にある酵素の原材料ともいうべき「潜在酵素」から生成されていきます。
もともと人間は、食物から得た酵素を「潜在酵素」と引き合わせることによって、人体に欠かせない「消化酵素」と「維持酵素」を生み出していました。
(続く)

(続き)

●酵素レシピ

酵素って何???
酵素とは一言に言って分解!!です。人間の体の中には一定の酵素があるらしいです。その酵素たちが一生懸命休むことなく、働き続けてくれるおかげで私たちは、生きていけるらしいです!!どうして〜??それは、体の中の善い菌、悪い菌を分解して自己免疫力を強くしてくれるからです。しかし、暴飲暴食を繰り返していくと、酵素さんたちもー生懸命働けど、だんだん酵素が少なくなっていくみたい…
そうすると、自己免疫力が弱くなって様々な病気がでてくる、という考えみたいです。
そんな体に大切な酵素がタダ同然で作れるという話を聞きました。いろいろな形で、酵素は売られているけれど、結構高くて。。。
でも自分で作れるのなら、ぜひとも作ってみたい〜!!っと思い、いざ実行!!

☆酵素の作り方☆
用意する物 500mlのペットボトル 水(八分目) 砂糖小さじ1(蜂密、てんさい糖、どんな砂糖でもOK!)
上記は、必ず初めに必要!!酵素の大好物は糖分!!このペットボトルの中に、果物を適当な大きさに切って入れる。私がよく入れるのは、ぶどう、バナナ、りんご(もちろん皮もOK!)、みかん、なし、等々)季節に応じて変わります。あとは、ハーブとか、野草(どくだみ、ヨモギ、お茶の葉っぱ、松の葉、はこべ、おおばこ、スギナ、等々)こちらも、旬の体に良さそうな草を選んでいれます。
果物や野草を入れてペットボトルを数回振ります。あとは、2〜3日置くと、出来上がり!!1日数回ペットボトルを振ったらいいみたい!
どうやって酵素が出来たか確認するの〜??それは、まず、水の色が薄く白黄色っぽく濁ってきて、小さな泡が水の上に浮いてきます。発酵していたら、ふたを開けるとシュワッ!!と小さな音がします。臭いは、うまく表現する音素がみつかりません。。。ごめんなさい。でも、明らかに水の香りから発酵した独特の香りになります。腐ったにおいではあはせん。一度発酵(分解)を始めた酵素は腐ることはなく、お酒になって、最後はお酢になるそうです。だからお酢になったら、ドレッシングにも使えるよ!白い糸みたいなのが、出てくるときがありますが、全く心配いりません。これこそが菌なので!!私も初めはちょっと心配してましたが。。。これで出来上がり!!使っていくともちろん減っていきますが、半分以上なくなったら、水を足し、たまに発酵を促すのに果物や野草を入れてあげるだけで、永久においしい酵素を使い続ける事ができます!!!いっぱい発酵すると無糖の炭酸ソーダーみたいになって、子供は喜んで飲んでくれます。後は、1日数回飲んでみましょう!初めはお腹を壊すことがあるかもしれませんが、好転反応なので、心配はいりません。すべては、自然の物から授かった物なので、副作用は、ないはずだと思っています。
酵素は体の腸の中の食べ物の消化の分解、腐敗菌の分解を助けてくれたり、血をサラサラにしてくれたり、脂肪を排泄してくれたりと、様々なお掃除をしてくれるらしいですよ!そうそう、もちろん体の中だけでなく、外の世界のお掃除にも大変役立ちます!!これが、ほんと驚きでした。よく洗剤に酵素パワーって書いてるのをみたことないですか?まさに、酵素パワー全快!私が、今、実際に使ってる酵素の使い方を紹介します。
台所編:食器を洗う前に、まず、汚れた食器に酵素水につけます。(酵素水とは、水の中に、酵素をキャップ数杯入れた水)10分位つけた後、そのままスポンジで洗います。汚れや油が分解して、あとは水ですすいで、出来上がり。もちろん泡はでないけど、酵素水で洗った水は、川に流れて海へいく。酵素の働きで、川や海の水の汚れが分解して少しでもきれいになる!!つと考えると、洗剤よりも断然いい!!やっていくうちに、食器洗いが楽しくなってきました。スプレーの容器に酵素水を入れて、コンロや壁の油汚れをを掃除しています。その他に、スポンジやたわしや布きんや金タワシを酵素水につけておけば汚れやにおいが分解されてきれいになりますよ。三角コーナーの生ごみの入れ物にも酵素を振ると腐った臭いや底の部分のドロドロしたものもなくなりました。その後に、我が家の畑の土に埋めたら、生ごみの分解を促進して、早く元気な土になりました。

トイレ編:私の家はボットン便所で、今年の夏は子バエに悩まされました。っと言うことで、酵素を便器にキャップ数杯入れると、翌日、一匹も子バエがいなくなりました。トイレの臭いが気になる人は水洗トイレでも酵素を流してみてはどうですか?

赤ちゃんのいる家庭で、布おむつを使っている方は、洗う前に水につける時、酵素水につけてみて下さい。こちらも、効果抜群らしいです。
(続く)

(続き)
お風呂編:お風呂に入る前に、酵素をキャップ数杯入れると、血行がよくなり、お肌つるつるに!!なんかお風呂の水が分解されて軟水になったように感じます。歯磨きの際のうがいも酵素水でやったり、洗顔も酵素水で洗ったり、髪の毛も酵素水をなじませたり、お風呂も楽しくなりました。

洗濯編:我が家では、使ったお湯を洗濯に使います。寝る前にお風呂のお湯を洗濯機に入れて洗濯物を入れて、酵素をキャップ数杯いれて、翌朝に、洗濯します。その時には、洗濯機の中の水も、洗濯物の汚れも臭いある程度分解されて、少量の洗剤できれいになります。目指せ、洗剤を使わない生活を!!

ここまで読んで、エッー!?ほんと〜??と思うでしょう〜。私も実際使う前までは思ってました!!でも、いざ作り始めて使ってみると、驚きの連続で、毎日の家事がだんだん楽しくなり、試行錯誤しながらも、いろんな事に挑戦しています。一度出来た原液酵素は半分以下になったら、また水を足すだけでいいみたいなんで、ほんとに永久にタダ同然で使えるんです。すべてにお金を払わないと、生活が出来ないと思っていた、そう思い込まされてきた世の中の現実と真実を、もう一度、考え直したほうがいいのかもしれませんね。すべては自然と繋がっているという原点に私もやっと素直に戻ってこれたように思います。

次に、色々な用途にあった酵素の使い方を紹介します。

米ぬか酵素:酵素水に残米をいれて2〜3日したら、そのうわずみが洗濯の洗剤代わりに!!臭いもなんかカルピスみたいよ!お米のとぎ汁を水の変わりに入れて、酵素を入れたら発酵が早まるみたい!友達は、洗剤なしできれいにふわふわになるよ〜と言ってたよ!

生ごみ群集:大きなペットボトルを半分に切って、その中に酵素水を入れて、みかんとか入ってる網をその水につけて生ごみをその中に入れると、全く腐敗しないで、分解を始めるので、その生ごみを畑の土に返すとさらにいい土に!!もちろん蓋付のバケツに生ごみを入れて、酵素をいれても同じ事です。

納豆酵素:食器洗いに最適!酵素水+納豆

全粒粉(薄力粉)酵素:天ぷら、パンにも数滴いれると、つなぎがしっかりして、卵なしでもいけます。

酵素化粧水:私は、顔や荒れたところにも塗ってます。そのままの原液でももちろんOKですが、私が教えてもらった化粧水の作り方を紹介しますね。

作り方:小さな瓶にホワイトリカーにどくだみの花やすぎなをつける。卵の皮(これは、たまごを割ったら殻についてるとても薄い白い皮を殻から剥いて乾燥させた物。この皮はヒアルロン酸をとても含んでいるらしい)。酵素水。割合は、入れ物に対しての薬草つけホワイトリカー半分、酵素液半分、卵の皮、香りのよい花びら。
(続く)


(続き)
酵素オイル:これは、マッサージオイルの時とか、荒れた肌や乾燥した顔とかに塗っています。

件り方:オリーブオイルに香りのよい色の出る花びら入れて、あと半分に酵素液を入れる。酵素液とオイルは分離してるので、使うときは振ったほうがいいかも。
酵素って、考え方かえると、重曹とか、EM菌みたいですね。こんな感じで酵素だけあれば、ほとんどの家事がまかなえるんです!!私はマイ酵素を出かける時に持ってでかけま〜す。まだまだ使い方はあるよ〜!!

かゆみや、かぶれや、傷に塗ったり、動物の飲む水や餌に入れると体臭が消えたり、便のにおいが優しくなったり、くさ〜い靴や頭の髪に、ガラスや網戸や窓や床も気持ちよく、綺麗になります。咽が痛くなったと思ったらすぐに酵素液でうがいをしてみてください。周りの空気が悪いな〜と思ったら酵素水スプレーをシュッと振ってみたり、口臭にも!耳かきのめん棒にも酵素をしみこませてみたり、元気のなくなりかけてる野菜を酵素水に少しつけたり、花瓶のお花の水にも辞素を入れると、みるみる元気になりますよ!私は、お米を炊く時や味噌汁にも酵素液を数滴入れます。もちろん排水溝にも効果抜群!!
酵素の使い方に善い悪いはなく、すべて自分流で良いと私は思います。きっと、まだまだ使い方はいっぱいあると思います。それを、みんなで伝え合って、共有できれば最高です!!でも、一番大切な事はタダだから良いだけではなく、この世の中の自然があるから出来る事だと、私は思います。だから、各自の都合(便利さ)と利益だけでなく、すべての生き物と自然(大地、山、川、海、空気、植物、動物、微生物、等々)に敬意と感謝の心を忘れず、生きていきたいです。


最後にひとつだけお願いがあります。

それは、この酵素でお金儲けを考えないでください。これでお金儲けを考えてしまったら、またひとつ世の中の矛盾が増えてしまいます。是非とも、酵素の事が気に入ったら一人でも多くの人に伝えてください。みんなが、洗剤の使い方を工夫し、酵素を水や土に返す事で、この地球が喜んでくれたら幸いです。

そして、みんなで今ある資源*エネルギーの使い方を工夫して、楽しく生きていける世界になったらいいな〜と願い続けます!

追記
レンコンの皮やフシで、花粉症に効くポリフェノールを含んだ酵素ができます。
大根やにんじんetc.野菜のくずを入れた酵素を作って、ヌカと塩を説いてヌカ床を作り、白菜の葉も一枚ずつでよいし、大根も輪切りを一枚ずつでよいというように、簡単漬物ができあがり。

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