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構造構成主義コミュの構造構成主義への心優しきてっけつ(てっけつの漢字が出ません。変換法教えて下さい)ーーーーその1 現象とコギトについて

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言葉じりばかりを捉えた議論ばかりで、ちっとも先に進まないので(あれはあれでやりますから待っていてくださいね)、構造構成主義の中核的な問題について迫ってみたいと思います。
 「構造構成主義は、現象に出発点を置く。現象はわれわれが経験によって感じることのできるすべての何かであるので、疑いようのない存在である」(『現代のエスプリ475・構造構成主義の展開』P165~166)
 「池田(1990)は、外部実在を先験的に置かずに共通了解を可能にする戦略的出発点として、「私」「現象」「観念」という3つから開始した。誰もが了解可能な明証性を確保するために、論理的に疑いうるものは徹底的に疑うという「方法論的懐疑」により、疑っても疑いきれない3つの前提から戦略的に出発したのである」(テキストP113)
とあるように、構造構成主義は現象の上に組み立てられたずいぶんと時代がかった観念論(方法的観念論というのだそうですが)ということになるようです。
 まず、私・現象・観念は意識の3つの側面です。ここでの議論にあって、意識を離れた私・現象・観念はありえません。私という意識であり、意識現象であり、観念などは意識そのものです。現象というのは意識との関係性の中で現象足りうるのであって、意識との関係性を持たない現象というものがもしあるとすれば、それは単なる外部実在であってここでの現象の定義に反します。つまり、「意識現象が唯一の実在である」「我々に最も直接である原始的事実は意識現象であって、物体現象ではない。我々の身体もやはり自己の意識現象の一部にすぎない」「物の存在とは説明の為に設けられた仮定にすぎぬ」(西田幾多郎『善の研究』)のような大昔から綿々と連なる正統的観念論の一派と言えます。
 このデカルトや西田幾多郎のように私の意識から出発するような観念論の論理的帰結は、「独我論」や「不可知論」になります。
 私の意識現象が唯一の実在であるということは、この宇宙に実在するのは私(の意識)だけであって、他者もそれを含んだ世界のすべても私の意識(観念)の産物である、というのが独我論(著者いうところの単なる独我論)で、「他者も世界もすべてが『私』の『観念』であり何でも思い通りになるし、自分勝手に振る舞ってよいのである」(テキストP122)は、恐ろしく乱暴な独我論理解です。「独我論・観念論という批判への論駁」(テキストP121〜122)は、「批判への論駁」であって、独我論・観念論であることを認め、「方法論的」という形容詞づきではあるものの独我論を採用するとまで宣言しているのです。すごいですね。構造構成主義は独我論(方法論的)の上に組み立てられているのです。
 ここでいう「方法論的」とは、ある目的のためにある方法を採用するということで、具体的には、「信念対立に陥らず広義の科学性を確立するためには、一切の仮定に依拠することなく絶対的明証性を確保することにより、誰もが了解可能な科学論を構築する必要がある」という目的のために「疑っても疑いきれない『私』から出発する(独我論・観念論)」という方法を採用する、ということだそうです。ここでは、目的そのもの、方法そのものの妥当性は検証されておらず、さらに言えば、この目的のためにこの方法を用いることの妥当性言い換えれば論理的必然性も見えず、「この目的のためにはこの方法しかない」といった思い込み(恣意的採用)のように映ります。「方法論的」「戦略的」という言葉が、雑な議論のためのエクスキュースのように使われているようにも感じられます。わずかに説明らしきところといえば、「そしてそれ(独我論・観念論)こそが、相対主義に陥ることなく、共通了解を保証することによって、人間の主観的事象と客観的事象の両側面を包括する科学論を成立させるために不可欠な筋道なのである」とありますが、独我論が共通了解・・・?独我論が主観的事象と客観的事象の両側面を包括・・・?独我論が科学論・・・?まったくもって、分かりません。
 そもそも、「外部実在を先験的に置かず」が至上命題のように措定されていますが、「外部実在を先験的に置いて何が悪いのか」という問いにはどのように答えるのでしょう?「外部実在」という仮定も、西田幾多郎の「物の存在とは説明の為に設けられた仮定にすぎぬ」にしても、実践や実験によってその存在が検証されれば、もはや仮定ではありません。私も60年近く生きてきて、通常の意味で物の存在の明証性が破綻したことはありません(中学生の頃には、多くの少年少女がそうであるように独我論的世界に遭遇して、刮目させられはしましたが)。
 このように、目的−方法図式が水戸黄門の印籠のように用いられ、雑な議論が許されるなら、全く同格の水準で次のように言うこともできます。「信念対立に陥らず広義の科学性を確立するためには、主観的な観念に依拠することなく客観的実在性を確保することにより、誰もが了解可能な科学論を構築する必要がある」という目的のために「自明で誰もが納得できる外部実在から出発する(唯物論)」(ちなみに私がこう考えているということではありませんよ。先生の論法からは、こういったものも引きずり出されてしまうということです)構造構成主義では、「客観的な外部実在」をエポケー(判断停止)として「括弧に入れ」ましたが、ここでは「デカルト的な懐疑」をエポケーとして「括弧に入れる」のです。精神科医で精神病理学者の木村敏は、現象学的社会学者のA・シュッツの次のような文章を引用しています「現象学はエポケー〔判断停止〕の概念を導入した。現象学的にいうと、この概念はデカルト的な哲学的懐疑の方法を徹底的に押し進めることによって、自然な態度の克服に到達するために、世界の実在性に対するわれわれの確信を排除するという操作を意味している。これとは別に、人間は自然な態度のなかでもある特定のエポケーをーーーただし現象学者のいうそれとはまったく異なったエポケーをーーー使用しているといえるかもしれない。これは、外的世界とその諸対象とに対する確信を排除するものではなく、むしろ逆に、この世界の実在に対する懐疑の方を排除するものである」(『関係としての自己』P26)
 ここまでのところを整理すると、おそらく「信念対立に陥らず広義の科学性を確立するためには、一切の仮定に依拠することなく絶対的明証性を確保することにより、誰もが了解可能な科学論を構築する必要がある」という目的に問題があるために、「疑っても疑いきれない『私』から出発する(独我論・観念論)」などというトンデモ方法が導かれてしまったのでしょう。もっと言えば、このような問題の立て方を乗り越えて、ポスト・モダンの地平に達したはずなのですが、先生のおっしゃる「構造構成主義はポスト・ポスト・モダン」どころか、デカルトの時代(近代)に逆戻りしてしまっているわけです。池田清彦の「構造主義科学論」が構造主義的でないのは、このようなところに理由があります。
 さて、改めて「現象」について考えてみましょう。
 「現象はわれわれが経験によって感じることのできるすべての何かであるので、疑いようがない存在である」(田中博晃「構造構成的英語教育学研究法」)
 「疑っても疑いきれない『私』(という現象)」
 このように述べる時、忘れているものが一つあります。疑いきれてないものがあります。あまりにも自明なものとして、デカルトもフッサールも池田清彦も失念しているものがあります。それが、言語、言葉です。言葉はあまりにも私自身に同化してしまっているために、対象化しにくいということがあるのかもしれませんが、哲学的懐疑を徹底させるという問題設定では重大な欠落です。「疑っても」も「疑いきれない」も「私」も、すべて言葉です。これらのかぎかっこの中から言葉を取り去ったら何も残りません。《無》です。デカルトは、「哲学的懐疑」が言葉によってなされたこと、「哲学的懐疑」が生み出したものが言葉であることに気づくべきだったのです。デカルトの懐疑はフランス語でなされ、池田清彦の現象は日本語で立ち現われるのです。内田樹は、次のように記しています。
 「私たちは《言語のない世界における私》とか《言語習得以前の私》というものを想起することも記述することもできない。言語は私たちがすでにその中に嵌入しており、そこから一歩も外に出ることのできない究極の構造なのである」(『現代のエスプリ475』所収「構造主義の思想史的意義」P47)
 以上のことを整理すれば「意識(現象・観念・私)は、言語によって構造化されている」ということになります。これを分かりやすく説明すると、まず真っ白な一枚の画用紙を想定してください。これが意識です。私に現象が立ち現れるということは、現象が意識化されることです。つまり、真っ白な画用紙に何かが書き込まれることです。そして画用紙に書き込むためには、ペンなり鉛筆なりクレヨンなりの筆記用具が必要です。もうお分かりだとは思いますが、この筆記用具こそが言語・言葉なのです。同時に筆記用具によって書き込まれた痕跡すなわち現象そのものもまた言語なのです。この辺りは少々分かりにくいところかも知れませんが、筆記用具をシニフィアン、書かれた痕跡(内容)をシニフィエとすればご理解いただけると思います。ですから、現象が立ち現れるためには、意識と言語がセットになることが必要です。意識と言語の関係性のもとに立ち現れるといってもよいでしょう。そして何よりも言語とは関係性そのものです。《私》のなかには言語を媒介として他者が組み込まれています。《私》と言った時、すでに《他者》はもうそこにいるのです。ですから一切の関係性を捨象した無の空間での懐疑=コギトのような書斎派哲学が、思想史上のいちエピソードでしかないのはこのような理由によるものです。
 池田清彦は「・・・しかしシニフィエは現象ではないのです。なぜならば、私が経験する現象は時々刻々変化するなにかですが、シニフィエは同一性を担った不変のなにかです。変化するなにかと不変のなにかが同じであろうはずはありませんから、シニフィエは現象ではなく、従ってコトバがあろうがなかろうが現象は実在します」(講談社学術文庫『構造主義科学論の冒険』P70)と述べていますが、現象はコトバによって構造化されているわけですから、現象が時々刻々変化すればシニフィエ(コトバ)も時々刻々変化します。そもそも、コトバを切り捨てておいて、現象の実在なるものをどのように証明するのでしょう?
 意識と言語の関係については、内田樹は前述の「構造主義の思想史的意義」のなかで「マルクスは《言語は意識と同じだけ古い》と書いているし・・・・」と記しています。私はこれを「意識の発生は言語の発生と同時である」と理解していて、確か『ドイツイデオロギー』だと記憶していたのですが、文献にあたって見つけられなかったのでこの引用は留保しておきます。いずれにせよ、意識と言語の関係性が認識論の基底にはあるのですが、構造構成主義ではこれまでの観念論と同様言語に対する深い切り込みがすっぽりと抜け落ちています。ここで確認しておかなければならないことは、ここで取り上げている「現象」は認識論における「現象」であって、「零度以下になれば水が凍る」のような客観的事象における「現象」ではありません。私(主体)に立ち現れる主観的な「現象」であり、その故に幻覚、妄想、錯覚などの私の意識に立ち現れるものはここでいう「現象」ですが、私が無意識で行ってしまったような事柄は、ここでいう意味の「現象」ではありません.「無意識で行ってしまったな」という風に意識化された時点で「現象」となるのです。ですからここの文脈では、ラカンのいうような「無意識は言語によって構造化されている」のような文言は別の文脈での話として封印しておきます。
 以上の理由により、原理上(定義上)言語を持たない子供や動物には、現象は立ち現れません。ところが構造構成主義では、これと逆の記述があります(テキストP191)。例えば、動物どころか植物にだって、オジギソウのように人が手を触れれば動くし、動物ではパブロフの犬の実験のように現象しているように見えるものがあります。しかし、これらは当のオジギソウや犬すなわち主体にとっての現象ではありません。観察者にとっての現象でしかありません。零度以下になれば水が凍るような客観的な物理現象と同様、単なる生理的反応にすぎません。
 それでは、言語をもたない幼児で考察された「鏡像段階論」ではどうでしょうか。幼児は、鏡像を立ち現れた現象として認識し《私》を発見できているのでしょうか?この辺りは、『母子間の抱きの人間科学的研究』を著している先生の専門分野だと思われますが、私はこの「鏡像段階論」はラカンのやりすぎだと考えています。昨今の乳幼児の心理学はインフレーションをきたしています。赤ん坊の有能さを過大評価し過ぎていて、ひどいのになると胎児の記憶・心理なんてのもでてくる始末です。この乳幼児心理学の方法は、実験・観察によって状況証拠を積み重ねていくという感じですが、所詮は観察者の思い込みが投影された解釈であり、当の本人に確かめた者は誰もいません。つまり、乳幼児における行動は、極めてプリミティヴな生命維持、危険回避のための戦略的方法として生理学的にシステム化されたものです。乳児が鏡像に関心を示すのも、犬や猫が転がるボールにじゃれつくのも、このようなレベルで解されなければなりません。乳児が母親を認知(犬や猫も同様)するのも、母親や授乳が乳児(私・主体)にとって現象として立ち現れているからではありません(つまりまだ私も主体も確立されてはいない)。繰り返しますが、真っ白な画用紙に何の書き込みもできない状態すなわち言語による構造化が起こらない状態は現象とはいえません。「鏡像段階論」についての「否」のエヴィデンスを示すならば、もし鏡像によって初めて《私》を発見したというような、衝撃的な、エポック・メーキングな出来事に遭遇したのなら、その衝撃の記憶や何らかの痕跡があってしかるべきです。「私は物心つく前に鏡に映った自分を見て、初めて自己というものを発見した。あの体験は衝撃的だった」なんて言う人と会ったためしはありません。「言葉を獲得していないのだから記憶がないのは当たり前じゃないか」と言うならば、「言葉を獲得していないのだから、私もその私の現象もないのは当たり前じゃないか」となるのは論理的です。内田樹が記したように「言語習得以前の私というものは想起することも記述することもできない」のですから、言語習得以前の《私の現象》というものも想起することも記述することもできません。従って、言語を持たないコドモにも現象が立ち現れる、という言明にはやはり無理があるのです。

 これまでのところをまとめてみましょう。
 「私(主体・自己)に立ち現れる現象(主観的な)は、言語によって構造化されている」私に立ち現れる、ということはその現象が意識化されることです。意識化されなければ、その現象を認知することはできず、「立ち現れる」などということは言えないからです。そして、意識化の意識とは常に「何ものか」についての意識です。意識(観念)の中で、その「何ものか」を形成するものは言語です。表象やクオリアのような言語化しにくいものも「言語化しにくい」という形での言語です。従って、「現象に出発点をおく」という言明に置ける現象は、疑っても疑いきれない確固たる前提などではなく、その前提の前提である言語についての考察を見落とした「怪しげなもの」ということになります。
 もちろん、自己でも主体でもなくかつ言語による構造化が起きない動物や乳幼児に置ける現象はあり得ません。「鏡像段階論」などは観察者が幼児の目を通して読みこんだ、観察者にとっての現象でしょう。
 「方法論的懐疑=コギトにおける私は私として成立していない」
 デカルトは疑いうるものはすべて疑い尽くし、曖昧なものをそぎ落とし、明証的で確実なものを求めてたどり着いたのが「私は考える、それ故に私は有る」でした。しかし、デカルトには見落としがありました。疑い忘れたものがありました。空気のように自明で普段はその存在を意識しないもの・・・それが言葉です。デカルトは、「私」という言葉、「考える」という言葉、そして言葉で考えている時のその言葉については、全く疑問を表明していないのです。コギトはあらゆる疑わしいものを捨て去った結果としての到達点ですから、イメージとして思い浮かべてみれば、ありとあらゆる関連性、関係性を捨象した無の空間に浮かぶ「私の意識=私は考える、それ故に私は有る」とでもなりましょうか。独我論的世界といってもよいでしょう。でも、皆さん考えてみて下さい。全き無の空間に私一人がいて《私》という時のその言葉の意味を・・・。私という言葉は、関係概念です。対概念です。+と−、上と下、右と左のように、関係性の中にあって初めて意味を持ちます。私は私だけでは成立しえないのです。他者との関係において、私が立ちあがるのです。AでもBでもCでもない私として私は存在します。赤という色は、もしこの世が赤一色だけの世界だとしたら、その意味を持ちえません。色彩の体系の中で、青でもなく黄色でもなく緑でもないという差異として赤でありうるのです。ここで私がマキシマムに衝撃を受けたあのディスクール(言説)「・・・反対に、出発すべきは〈体系から〉で、すべては関連性からです」(ソシュール『一般言語学講義・第三回講義』P265)です。これまで私は、部分を積み上げて行って全体が出来上がる、という常識的な考えを疑うことは有りませんでした。まず色の体系があって、その中に差異としてつまり関係性として個々の色が立ちあがる、という発想は私にとってまさにコペルニクス的転換を迫られたところでした。(この辺りは、テキスト90ページに先生のいい引用があります)犬とか猫という単語が集まって日本語が形成されているのではなく、まず日本語という体系があってその中に犬とか猫という単語が析出するのです。(ここは、テキスト82ページの丸山圭三郎を参照してください)
 もうお分かりですね。疑っても疑いきれない私(疑いきってもいないし、私も成立していない)から出発するのではなく、私の体系=人間社会から出発してその中にAでもBでもCでもない私としてすなわち関連性の中で私は立ちあがるのです。
 木村敏は次のように述べています。
「自己とは、自己と世界のあいだーーー現在の事物的世界とのあいだだけでなく、当面の他者とのあいだ、所属集団とのあいだ、過去や未来の世界とのあいだなどを含むーーーの、そしてなによりも自己と自己とのあいだの関係そのもののことである」(『関係としての自己』P99〜100)

 終わりに一言。細切れで書いてきたために、まとまりのない素描といった感じのものになってしまいましたが、mixistの皆さんのご意見も伺えればと思います。
 以後、「その2 なぜ信念対立という語法はダメなのか」、「その3 関心相関性という相対主義」「その4 ソシュールについて」などを予定していますが、別トピの「弔辞」におけるトンデモコメント(たとえば、まこすけ氏は、あまりにわけのわからない理屈をこねくり回すので、mixistの皆さんにも分かりやすいように具体的な問題で議論しましょうと建設的な提案をしたところ、数百数千の文献にあたり2〜3年の時間をかけなければ責任ある見解は出せないという浮世離れした理由で逃げられてしまいました。これは、構造構成主義は、現前する喫緊の問題には何の対処もできないということを吐露したものでしょうか)に対する反論も書かなければならず、どうなることでしょう・・・・。おりしも、只今競馬はG?戦線の真っただ中ですし、空気も澄みヴァイオリンの音色もあまやかに響き渡る時でもあり、美しい音楽も待っています。
とっくり(おちょこ付き)ワイングラスも美味しいですし・・・・

 先生もまこすけ氏も、プロの研究者であり専門家です。ただ私の方がちょっとだけ長く(それが何なんだなんて言わないでね)人間と世界を見てきたという点で僭越ながらアドヴァイスをさせていただくと、あまりに手を広げ過ぎて一つ一つの学知に対する掘り下げ方が浅いのではないかと・・・。「弔辞」には「思想信条のデパート」と書きましたが、デパートではいくら品ぞろえが豊富でも一つ一つの商品の品質に問題があっては、看板に傷がつきます。それに、私がかつて働いていたこともある池袋の老舗デパートの三越がヤマダ電機日本総本店に変わったように、デパートという形態がもう古いのかもしれません。
 まずは、構造主義辺りを深く掘り下げて学習してみてはいかがでしょうか。お二人の咫尺の間のところに、好個のテキストがあるではありませんか。この小文でも引用した、西條剛央・京極真・池田清彦編集の『現代のエスプリ・構造構成主義の展開』における内田樹論文です。まこすけ氏程度の読解力があれば、内田論文が反構造構成主義であり、構造構成主義を否定したものであることは容易に読み取れるはずです。また、著述力なんてことを申しましたが、内田論文のロジックのシャープさ文体の持つ力などは大いに参考になるはずです。
 では、今宵はこれにて・・・・

コメント(43)

>行方不明だったので心配していました。
心配かけてしまい、もうしわけありません(笑)。学生は大学祭シーズンで、しばらく音楽のほうに打ち込んでいました。

きのう今日あたりから“学問モード”に切り替えようと思っていて、今日はさっそく、「現代のエスプリ」の内田論文を読みなおしてみました。もうすこし考えをまとめてから書いてみますね。

ふたたび、よろしくおねがいします。
 >ももとさん

 そうです剔抉です。これは部首索引でひっぱてきたものですが、昨日はその部首索引のウィンドウが2〜3秒で消えてしまって、どうしてもできませんでした。
 web上の辞書で検索、は妙案だと思いますが、PC初心者の私は、他を開くとこのコメント欄に書いたことが全部消えてしまいます。このコメント欄を保存しつつ他を開くのはどうしたらよいのでしょう?
 よろしくお願いします。
>5

私もPCは受身のユーザで強くないですが、win環境ならIE8を導入してみたらいかがですか?

Yahoo!の表紙から簡単にDLできます。タグブラウザ機能が随分と安定したので二つのブラウザを同時に使うくらいのことは楽にこなします。
> ガムスさん

 私は、哲学は素人なので、難しい用語や厳密な使い方は分からないのですが、素朴に疑問に思ったことを質問させて下さい。もし気が進まなければ、お答えを頂けなくても結構です。

> 。「独我論・観念論という批判への論駁」(テキストP121〜122)は、「批判への論駁」であって、独我論・観念論であることを認め、「方法論的」という形容詞づきではあるものの独我論を採用するとまで宣言しているのです。すごいですね。構造構成主義は独我論(方法論的)の上に組み立てられているのです。

 私には、私たちがあらゆる議論を始めるに当たり、「独我論」からしか出発し得ないということが、とても当然のように思えるのですが、それを「すごい」と形容されるガムスさんのお考えが理解できません。
 誰もが、根本的に「独我論」の出発点を背負っていることを認めるからこそ、その上にあらゆる議論が成り立つのではないのでしょうか。

 私たちの心には、ものごとの関係性しか認識する能力がありませんので、誰もその外に出ることはできません。そこであらゆる認識は、相対的になってしまいます。そのことを知っていれば、「絶対的な何か」を求めるような議論で時間をつぶす必要もなくなりますし、何か建設的なことを議論したいと思えば、参加者の間で「共通認識の土台」を戦略的に形成し、そこから始めることができます。

 私の目から見て構造構成主義は、心の構造ととてもマッチしていて、必然的に生み出された「心を効果的に使うためのノウハウ」として、誰もが活用できると思うのですが、いかがでしょうか。
> ガムスさん


抱石さんと同様の疑問を、やはり私も持ちます。

ベタの独我論と、方法的(戦略的)独我論とは全くチガウと思うのですが、その辺り、いかがでしょうか?

文字打ち込みのご苦労がよくワカリます(ワタクシは携帯からの発信です)ので、お答え頂かなくとも構いませんが、もしお答え頂ければ有り難く思います。


ガムスさん,みなさん,こんばんは。

ガムスさん,興味深い話題ありがとうございます。
まさにこの話題は「難問中の難問」という感じで,いろいろと見解も分かれるところですよね。考えるよいきっかけをいただきました。

さて,「難問は根から引き抜かなければならない」といったウィトゲンシュタイン(『反哲学的断章』より)に倣って,「独我論」「観念論」にかかわる問題は,構造構成主義からではなく,構造構成主義が「思考の原理」として継承した「現象学」(←根)から論じていった方がいいのではないか,というのが僕の見解です。

その前提で要点を整理しますと,

?私について
現象学の最重要概念ともいえるのは,「判断中止」「現象学的還元」ですよね。で,これらの遂行の後に見出される「思考の始発点」が〔方法〕概念としての『私』(フッサールは,「現象」とそれを記述する『私』を併せて「超越論的主観性」と呼んでますね)だと思うのですが,この時点で現象学は,デカルトの〔実体〕としての「私」を乗り越えているように思います。それを了解していただけるようであれば,デカルトとフッサールは,同じ独我論・観念論であっても別物,ということについても了解していただけると思います。

僕は,構造構成主義関連のテキストは結構批判的に読んでるつもりです。けれどデカルトの話は,構造構成主義が〔方法〕概念としての『私』(現象学)と〔実体〕としての「私」(デカルト)を比較吟味するために引用しているだけで,デカルトに戻ろうしているのではない(したがって現象学を継承する)ように読めたのですが,いかがでしょうか?

この辺りは,フッサール自身も『デカルト的省察』で結構分かりやすく述べてますよね。というわけで,デカルトの話をするよりも,現象学における方法概念としての『私』(や「現象」「超越論的主観性」)について議論した方がよい気がします。なんで現象学が「超越論的主観性」から思考を開始するのか,その点を含めた上で。


?現象と言語について
「現象」と「言葉」の話題は,?とも密接に関連し,かつ僕が誤解釈していなければ,デリダの現象学批判と同型(な側面がある)気がします。けれど現象学は,デリダや脱構築(ポストモダン)を乗り越える反論を展開していると思うのですが,その辺りはいかがでしょうか?

もし時間が許すようであれば,この辺りの批判―反批判の議論を,例えば竹田青嗣先生の『言語的思考へ』などで追ってから(僕レベルではとても説明できませんので(笑)すみません),ガムスさんが疑義を呈している点について論じていくのがよいのではないかと思いました

ちなみに,

>意識化の意識とは常に「何ものか」についての意識です。

はそのとおりだと思います。これ,現象学では「志向相関者」「志向相関性」の話ですよね?違いましたっけ??

>意識(観念)の中で、その「何ものか」を形成するものは言語です。

で,この話は上記したように,僕の誤解釈でなければ,デリダの現象学批判(と現象学からの反批判)と同型になる(側面がある)と思います。

ちなみに僕は,デリダも好きです(笑)
なので,デリダvs現象学の議論は,とても好きです(笑)


?その他の話題
結局のところ,?と?(両方とも現象学批判の話題)でそれなりの共通了解(議論の決着)が得られない(つかない)と,その先の問題はすべて共通了解には至らないだろう,というのが僕のまとめです(部分的に接近するところはあるかもしれませんけど)。

例えば,このまま「3 関心相関性」の話題にすすんだら,それが顕著に出てくると思います。3がだめなら,恐らく「2 信念対立」でも共通了解は難しい。「4 ソシュール」はどのあたりの話題なのか分かりませんが,「ラングとパロール」「シニフィアンとシニフィエ」の構造を援用して(あるいは構造主義を基軸として)議論をすすめていくようであれば,やっぱりこれも同じことになるとかと。

もうちょっと大きくいうと,ポストモダンからの現象学批判,現象学からの反批判を,ほとんど同型に繰り返すことになる気がします。そして,もしそうであれば,あまり建設的な話題にならない気もします。もちろん,あくまで気がするだけでなのですが……。


僕がいえるのはこれくらいのものですが,みなさんの議論の参考になる点があれば幸いです。
余計に混乱させたら,すみません。
いろいろな方が意見やアドバイスをくださっていますね。

ガムスさんの文章にはいくつものテーマが含まれているようだったので、どれから話し合っていくかを(返答を待ちつつ)様子をみていたんですが、まずは、みなさんが取り上げている、

「(構造構成主義の継承元である)現象学について」

というお題からはじめてみるといいかもしれませんね。これにかんしては竹田青嗣先生のテキストを参照するのが早道だとおもいますが、ガムスさんは竹田先生の著書はなにかお読みになりました?
ちょっと修正します。
眠たい目をこすりながら書いたので(笑),ちょっと誤解を生みそうな表現が。

?私について
〜〜〔方法〕概念としての『私』(フッサールは,「現象」とそれを記述する『私』を併せて「超越論的主観性」と呼んでますね)〜〜

これちょっと違ってますよね(笑)すみません。

「現象」を記述する方法概念としての『私』が「超越論的主観性」であって,「併せて」ではないですよね。すみません。そして大切なのは,〔なぜ〕現象学が「超越論的主観性」から思考を開始(現象=立ち現れを分析・記述)するか,というところですよね。

ちなみに超越論的主観性は,「確信成立の場としての意識作用」と言い換えておくと,ガムスさんの議論にも乗りやすいかもしれません。

またも,議論を余計に混乱させたらごめんなさい。


では,以降の議論を楽しみにしています(^^
 여러분 안녕하세요(みなさん・おはようございます・今日は・今晩は・お元気ですか→お好きなやつをピックアップしてください)ガムスです。

 たくさんの方のコメントありがとうございます。返事は追い追いということで、少し時間をくださいね。なにしろこのコミュのいいところは、だれでも自由に発言できることと、締め切りがないことですから(たけぞう先生、まこすけさん感謝です)。

 先生によれば、最近は書き込みも少なくなってきたとのこと・・・。落ち着いた仲良しクラブ的な雰囲気が、一匹のオカシナalien(ガムスのことです)の侵入で少々騒がしくなってきたようです。でも、こんな感じで活発な議論ができればと思っています。皆さんの積極的な参加をお待ちします(これを今見ているあなたのことですよ)。これからも、皆さんが突っ込みを入れたくなるような危なっかしいものを書いていこうと考えていますが、時には皆さんにもツッコミを入れられる側に回っていただけたらと思います。ガムスめが期待するのは、1にオリジナリティ、2にオリジナリティそしてやっと3にやっぱりオリジナリティです。プロの研究者の、査読と文献で濾過されて毒にも薬にもならない役人の書いたような論文を読むよりも、傷や欠陥が多くてもその中にキラリと光るものがあるようなものを読んでみたいと思うのです。初めてソシュールに出会った時のような知的興奮にめぐり合えるよう勝手に期待させていただきます。とにかく、落語の「目黒のさんま」で、お殿様に出された加工され、油を抜かれ、冷めてしまったサンマより、少々焦げていてまだ火の粉が付いていてシズル感に満ちたサンマを食べてみたいと思うのです。
これから本格的な議論に入っていくと期待しつつ、まず、[ガムス論の要旨]を箇条書きにしてみました。(なにか抜けてたり、まちがいがあったら修正します)。


1.構造構成主義が依拠している現象学は、時代がかった「観念論」である。
2.「観念論」の論理的帰結は、「独我論」や「不可知論」に行き着いてしまう。
3.外部実在を先験的に置く立場(唯物論)からの批判にはどのように答えるのか?

→構造構成主義の目的(信念対立に陥らず広義の科学性を確立する)に問題があるために、独我論・観念論という方法が導かれてしまったのではないか。

4.構造構成主義では、言語に対する深い切り込みがすっぽりと抜け落ちている。

→意識(現象、観念、私)は、言語によって構造化されている(例:「言語をもたない子どもにも現象が立ち現れる」というのは無理がある)。つまり、「現象に出発点を置く」という言明における現象は、言語についての考察を見落としている。

5.【結論】疑っても疑いきれない私から出発するのではなく、私の体系=人間社会の関係性のなかで私は立ち上がる。

6.Mixistのみなさんの意見を募集
7.インターネット言説における研究倫理の問題(論文同様の厳密な文献レビューをすべきかどうか)
8.先行研究(構造主義、内田樹)を検証する必要性
みなさん今晩は、ガムスです。

 皆さんの中に、構造構成主義と打ち込んだつもりが、小僧構成主義になったことはありませんか?何だかこれが可愛らしくて可笑しいんです。小僧寿しのあのイラストが何十何百も浮かんできて・・・・

 >抱石さん
 >stuttさん
 コメントありがとうございます。今回はお二人のコメントに対する私の見解を述べてみたいと思います。特に抱石さんは、私と同年代ということもあり、分かりあえる部分が多いのではないでしょうか。
 まず、最初に感じたのは、奇妙な違和感です。お二人が、独我論者であるかどうかは定かではありませんが、共通するところは「どうして独我論でいけないのか、独我論でいいじゃないか」というストレートな独我論肯定表明だと思われます。私のこれまでの生涯で、独我論者はもちろん、このようにジョークでなく独我論を肯定する方と遭遇するのは初めてだからです。しかも同時に二人、かつテキストも肯定しているわけで、このコミュは独我論者の王国なのか・・・なんて言う感じを覚えました。
 私は「独我論」は「アキレスと亀」だと思っています。両方とも常識ではありえないと分かっていながら、一応の筋道は通っています。「アキレスと亀」は設題者の理屈に乗っかていると論破できません。同様に、「独我論」もコギトのような問題の立て方の渦中にあっては、その論理的整合性を打破できません。常識に反していながら、論理的・・・というのは確かに魅力的です。ですから、これまでも、これからも亡霊のように現れるのでしょうね。
 「アキレスと亀」には、設題者の理屈とは別の数学的な解決法があるわけですが、そんなものに頼らなくても、また実際に競争をしなくても、アキレスが亀を追いぬけない、などということはあり得ないという共通了解は常識もしくは経験として成立している訳です。同様に「独我論」でも論理的解決が仮にできないとしても、常識や体験や実感というものが、「私以外のすべては実在しない」などということはあり得ないと教えてくれるし、それで何の問題も起きないし合理的でもあると分からせてくれます。「弔辞」のコメント欄にも書きましたが、バタイユの言葉です。

 「私は感性的体験によって生きているのであって、論理的釈明によって生きているのではない」(『内的体験』)

                         この稿つづく
> ガムスさん

 「自分の感性こそが正しいに決まっている」と主張される方を、私は、非常に多く存じ上げています。そして、それらの人々は、それぞれ違ったご意見をお持ちのようです。(どういう意味か、ご理解頂けると思いますが)

 私たちの認識は、色々な視点から述べることができると思います。そして、もしそれらの視点のそれぞれが普遍性をもっているなら、それらは矛盾することなく単に座標系を移しているだけの関係性である、或いはそのようになるべきだと考えます。
 その一つが、論理という視点(或いは座標系)であると思います。
 他者との議論を行うのであれば、論理的な整合性は必須であると思います。もしそれが常識に反するのであれば、その理由を論理的に説明できなければ、その論理という座標系は普遍性がないと言えるでしょう。

 ガムスさんは、「独我論から始めざるを得ない」という文脈と、「独我論を肯定する」という文脈の差異を、あまり明確に捉えて居られないのではないでしょうか。

 ガムスさんの挙げられた例え話は、あまり妥当な内容ではないと思いますが、参考のために説明致します。
 「アキレスと亀」の話は、非常に簡単に論破できるものです。つまり、アキレスと亀の競走の過程は、無限に分割できますが、そのことと実際の競走に於ける時間経過の間には、何の関係も無いということです。
 説明者が、話をどんどん分割してゆく過程で時間を使うので、それがあたかも競走の時間もどんどん過ぎてゆくような錯覚を生むだけの話です。

 これは、非常に簡単な論理ですが?
>抱石さん

 続きを書いていたのですが、手違いで消えてしまいました。その間に抱石さんのコメントが入ってきたので、それについて書くことにします。

 >「自分の感性こそが正しいに決まっている」と主張される方を、私は、非常に多く存じ上げています。そして、それらの人々は、それぞれ違ったご意見をお持ちのようです。(どういう意味か、ご理解頂けると思いますが)

 私は「自分の論理こそが正しいに決まっている」と言う人には随分とあってきたような気がしますが、「感性」というような人と接触したことは記憶にありません。芸術家崩れの連中が言いそうな気がしないでもありませんが・・・。「感性」って、正しい、正しくないの文脈で語られるものでしょうか。正しい悲しみ、誤った喜び、もっと言えば正しいキャラクター、誤ったパーソナリティ等々。私の語法には馴染まない用法です。従って、どういう意味か分かりませんので、ご説明いただければ幸いです。

 >私たちの認識は、色々な視点から述べることができると思います。そして、もしそれらの視点のそれぞれが普遍性をもっているなら、それらは矛盾することなく単に座標系を移しているだけの関係性である、或いはそのようになるべきだと考えます。
 その一つが、論理という視点(或いは座標系)であると思います。

 これは抽象的すぎて、私の能力を超えています。

> 他者との議論を行うのであれば、論理的な整合性は必須であると思います。もしそれが常識に反するのであれば、その理由を論理的に説明できなければ、その論理という座標系は普遍性がないと言えるでしょう。

 これはどうも向いている方向性が違うような気がします。そして、具体的な話になっていないので分かりにくいんですね。あの「アキレスと亀」の話でいえば、設題者の論理によって導かれた結論が常識と食い違ってしまったその理由を論理的に説明するのを否定しているのではなくて、真実・真理に到達する方法は論理だけではありませんよ、と言ってるわけです。このケースでいえば、私が「設題者とは別の数学的解決法(これを抱石さんは説明して下さったわけですが)」と言った論理的手法よりも、経験や体験によって培われたいわゆる常識の方がはるかに簡単に正しい結論に達しうるということであり、またこれは信ずるに足るものなのだということです。「アキレスと亀」で付け加えると、抱石さんが説明してくれた理路よりも、設題者の理屈の方がずっとわかりやすく説得力もあると申し上げておきましょう。であるが故に、数千年も前のパラドックスが綿々と現在にまで受け継がれてきたのでしょう。

 >ガムスさんは、「独我論から始めざるを得ない」という文脈と、「独我論を肯定する」という文脈の差異を、あまり明確に捉えて居られないのではないでしょうか。

 「独我論から始めざるを得ない」についての説明が全くないので、この文章の意味もよく分かりませんが、
 「独我論から始めざるを得ない」や「誰もが、根本的に「独我論」の出発点を背負っていることを認めるからこそ、その上にあらゆる議論が成り立つのではないのでしょうか」からはとても否定とは思えないし、肯定でも否定でもないとしたら一体何なんでしょう?そして、そもそも独我論とは「私以外は誰も存在しない」ということですから、「誰もが」とか「議論」は明らかに言葉の矛盾です。私一人を「誰もが」とは言えないし、「議論」は私一人ではできません。もちろん「共通認識の土台」なんてのも同様です。
 では、続きはまた後ほど・・・
> ガムスさん

 それでは、別のことばで表現します。

「自分が常識であると認めたことこそが正しいに決まっている」と主張される方を、私は、非常に多く存じ上げています。そして、それらの人々は、それぞれ違ったご意見をお持ちのようです。(常識ということばは、ガムスさんご自身が使っておられますから、ご理解頂けると思います)

 私は、「独我論から始めざるを得ない」や「誰もが、根本的に「独我論」の出発点を背負っていることを認めるからこそ、その上にあらゆる議論が成り立つ」ということは、この領域を考察したことのある多くの人々にとって常識だと思っています。
 ガムスさんは、そうではないと考えておられるようですね。
 この時点で、常識ということから出発する議論は、不毛であることが立証されたと思います。

 そこで、常識という思い込みではなくて、その場で議論をしようとする人々の間で改めて「共通認識の土台」を作る必要がある訳です。共通認識の土台をもち得ないのであれば、最初から議論などしても不毛ですね。
 ガムスさんは、この場で議論を始めるに当たり、どのような共通認識の土台を提唱されるおつもりですか。その土台を認められる方は、ここに参加することに興味をもたれると思います。
 認められない方にとって、この場に参加することは、ほとんど価値の無いことになるでしょうから、無視すると思います。なので、なるべく多くの人々が認められる土台を提唱されることをお勧めします。


 
※すこし論点を整理してみましょう。出しゃばりだと思われたら申し訳ありませんが、「ぼくのなかで腑に落ちきっていないところを整理したい」という[目的]もあります。


まず、いま議論の俎上に載せられているのは、14でまとめさせていただいた[ガムス論の論旨]のなかでいうと、「1.構造構成主義が依拠している現象学は、時代がかった「観念論」である。」というところと、「2.「観念論」の論理的帰結は、「独我論」や「不可知論」に行き着いてしまう。」というところだと思います。

すでに現象学に対しては、ガムスさんとおなじような批判を加えている人がいます。以下の引用は、『コンサイス20世紀思想辞典』のなかの、「言語論的転回」についての解説です。

《近代哲学と現代哲学とを画する分水嶺となる動向を表す概念。デカルトの〈コギト〉の自覚に始まる近代哲学は、〈意識〉を確実な認識の最終的な基盤として中心にすえ、反省的方法によって、意識が世界を意味づけ、構成する過程を解明することに努めてきた。しかし、この意識中心の哲学は、意識の私秘性という壁に阻まれて、〈不可知論〉あるいは〈独我論〉というアポリアに陥らざるをえなかった。それに対して、19世紀末から20世紀初頭にかけて現われた一群の哲学者たちは、〈意識〉という自己完結した世界からの脱出路を公共的な〈言語〉のなかに求めた。いわば、哲学的議論の土俵を〈意識〉から〈言語〉に転換したのである。……》[1]

こうした言語哲学からの批判の対象にあがっているのは、デカルト、カント、ヘーゲルはもちろんのことですが、現象学は、「意識主義」「主観主義」あるいは「独我論的」の最たるものとして糾弾されています。[2]

これは、ガムス論の「1.」「2.」とそっくりそのまま、おなじ批判ですね。

(ひょっとするとガムスさんは、独学で研究なさる過程で、上記の「言語論的転回」にかんする文章にふれているのかもしれませんね。あるいは、「読んではいないけれど、学んでいくうちに、おのずと同じ論理に帰着した」のかもしれません。いずれにせよ、「先行研究とおなじだからダメ」だと云いたいのではありません。「ふだんはパン屋を営んでいる在野の研究家が、手づかみで専門家とおなじ結論にたどりついた」ということは、それなりに誇っていいことだと思います)。

以上より、【ガムスさんの批判は、(さしあたり論理の上では)言語哲学からの現象学批判のなかに位置づけることができる】と思います。また、10のコメントでvirginia@さんが指摘してくださっている「デリダの現象学批判」も、ここでいう言語哲学と同型(な側面がある)と思います。ジャック・デリダもまた、言葉に着目することによって、現象学批判を展開している哲学者です。

ということで、次に、「そうした言語哲学からの批判に対して、現象学はどう答えているのか?」というところを明らかにしていきたいと思います。(その過程で、「独我論から始めざるを得ない」ということの解説もしていきたいと思います)。結論を先取りして云えば、この問いに答えることによって、ガムスさんの提起してくださった問題にしても明確な回答が得られると考えています。

とはいえ、ひとつのコメントでいろいろ論点がブレてもいけないので、ここでいったん区切りを入れます。


【註および文献】(※論旨の妥当性を検証していただきやすいよう、付けておきます。)
[1] 木田 元・栗原 彬・野家 啓一・丸山 圭三郎(編) 1989 『コンサイス20世紀思想辞典』 三省堂 p.291
[2]このあたりの解説は、竹田青嗣 2004 『現象学は〈思考の原理〉である』ちくま新書 「?? 言語の現象学」のうち、p.126-127の記述を参考にしました。より詳しく知りたい方は、ぜひとも読んでみてください。
 >kamuyaさん

 コメントありがとうございます。わたしにはkamuyaさんのコメントが最もストレートにスッと入って来ます。論点の切り分け方、整理の仕方が見事だと思います。

 >virginia@さん

 あなたも論点をシャープに切り捌いていく膂力には感心させられました。ただ私にはちょっと専門的すぎるかな、と思います。デリダや現象学の深い森の中につれて行かれると、私はただ指をくわえて眺めているほかはありません。実は、デリダも現象学の主要書物もkamuyaさんに尋ねられた竹田青嗣も読んでいません。もっとも今、池袋のLIBROでデリダの『声と現象』を購入してきたところですが・・・。いきなり「超越論的主観性」なんてのにお目にかかりましたが、私の頭からは煙が発生しそうです。

 今回の「剔抉」の拙文もkamuyaさんのおっしゃるとおり「読んではいないけれど、学んでいくうちに、おのずと同じ論理に帰着した」のかもしれません。もっとも、オリジナルな考えとは言っても、人は他者からきた言葉で考えるわけですから、たかが知れているということでしょう。ただ、私の考えを私の言葉で表現したつもりであり、それが碩学の思想と似ているということであれば、それは光栄なことです。
 そこで私の希望を表明すれば、フィールドを『構造構成主義』のテキストに限定したうえで、私の考えに対するあなたの考えをぶつけてほしいのです。その過程で、文献や論者の論理を援用するのは構わないのですが、まず、あなたの考えを表明していただければと思います。ガムスの論理はこうで、ぼくの論理はこう、でも○○のようなこういう考え方もある、というようなのはOKですよ。

 ではまた、よろしくお願いします。
> kamuyaさん

 私にも分かるようなまとめをありがとうございます。
 しばらくの間、オブザーバーとして勉強させて頂きます。
 黙る前に、一つだけ書かせて下さい。

 私のような素人には、構造構成主義というものが、竹田先生から西條先生へと順当に展開してきたように見えたのですが、kamuyaさんの整理を読ませて頂くと、それほど平坦な道のりではなかったことが伺えます。

 現象学の流れを地動説に喩えるなら、宇宙には絶対的な定点が定められないことを示した考え方になぞらえることもできそうです。ところが、「そんな考え方をしたら、〈不可知論〉あるいは〈独我論〉に陥ってしまう」という主張によって、むしろ定点的に扱える、或いは扱いやすいものとして、星の間の関係性である概念・言語の使用が提唱された。
 しかし、現時点での人類利では、概念・言語がどのように生み出されるかということについての、心の構造に関する知見が、未だ共通の認識となっていない。そうした状況下では、概念・こ言語、あたかも定点的な実体を表すものとして一人歩きし始めてしまった。
 その結果、人々は、その人の立場や常識から、暗黙の内に無意識に、地球や太陽、月などを定点として前提としてしまい、そこを基点として概念・言語を使い始めてしまった。すると、当然のことながらそれぞれの主張はかみ合わず、調和しない。形骸化した概念・言語には、それらを調整する機能が失われてしまっている。

 そのような中で、そもそも概念・言語は、絶対的な定点を持たない宇宙の相対的な関係性として生み出されたことを思い出させたのが、構造構成主義であるといえるのではないでしょうか。相対的であるからこそ、意識的にどこを定点とするか合意を形成し、そこから議論を始めることによって効果的に有意義な結果を生み出すことができる。

 かなり稚拙なたとえ話で恐縮ですが、大筋として妥当なストーリーでしょうか。もしそうだとすると、構造構成主義は、単に哲学を進歩させたということではなくて、概念・ことばの迷路にはまりつつあった人類を、そこから解き放つという極めて重要な位置を占めていることになりますね。
みなさん,こんにちは。
活発な議論が展開していますね(^^

>ガムスさん,kamuyaさん
先のコメント,あまり丁寧なものではなかったですね。すみません。
kamuyaさん,丁寧に説明して下さってありがとうございます。

 ちなみに,抱石さんのコメントにある,

> 構造構成主義というものが、竹田先生から西條先生へと順当に展開してきたように見えたのですが、kamuyaさんの整理を読ませて頂くと、それほど平坦な道のりではなかったことが伺えます。

の部分,ご指摘のとおりと思います。

 構造構成主義は,近年たけぞう先生のご著書『ライブ講義』『研究以前のモンダイ』などをとおして体系化された「構造構成的‐(質的)研究法」の提起,また『構造構成主義研究』の継続的な刊行もあり,「(表面上の)使える感」が(やや)強調されている印象が僕個人としてはありますが,その根底にある「原理性」は相当鍛え上げられ,現時点でもかなりの「深度」に達しているはずです。

 なお,「現時点でも」,と限定するのは,現在も発展途上にあるということができるからです。ちなみに発展の方向としては,?構造構成主義の原理性それ自体をさらに鍛え上げる,?構造構成主義の原理群を継承して当該領域の難問を解明する・新たなメタ理論を提唱する,の二つが主でしょうか。

 しかし,です。この原理性の深度,そしてその「意義」は,構造構成主義の継承元である「現象学(的思考法)」を論じることなくしては,恐らく伝わりにくいはずです。大きく括れば,現象学が「言語哲学」をはじめとする「ポストモダン」からの誤解・批判にさらされ,竹田青嗣先生・西研先生(世界的にはザハヴィなど)がそれを乗り越える反論を展開するまで,現象学の原理性や意義はなかなか伝わることがなかった。この誤解・批判―反批判の展開を追っておくのは,構造構成主義の原理性や意義を論じる(検証する)に当たっては,恐らく必須のはずです。

※ちなみに,かなり「論点先取り」になりますが,構造構成主義は,現象学の思考の始発点である方法概念としての『私』(超越論的主観性)を,自覚的・戦略的に方法概念としての「現象」に置き換え,さらにその先をめがけているわけです。そのことの意味・意義を受け取る(検証する)ためにも,〔その前に〕現象学について論じておくことはやはり必須だと思います。


 というわけで,ガムスさんが提起された難問中の難問は,現象学(←根)から論じていくことがよいのではないか,というのが,先にもコメントさせていただいた僕の見解です。


 これ以降は,kamuyaさんが「言語哲学からの批判について現象学がどう答えているか」,を解説してくれそうな予感があるので,その議論についても楽しみにしております。そして僕個人としても,ここから一つずつ論じていくのが,「遠回り」のように見えて一番「よい」(実は「着実」という意味での「近道」)と思います。


 ではでは。
>抱石さん  まず>18についてです。

 >「自分が常識であると認めたことこそが正しいに決まっている」
 私はこのような主観的な思い込みを「常識」と言っているわけではありません。理屈や論理や意見と言ったものではなくて、「亀は簡単にアキレスに追い抜かれてしまう」という客観的事実のことを言ったのです。抱石さんは、この事実に「奇妙な違和感」と言ったものを覚えますか?それとも、アキレスは亀を追い抜けっこないので、この事実を常識とする私の態度を思い込みとおっしゃるのでしょうか?

 >一方、
 「私は、「独我論から始めざるを得ない」や「誰もが、根本的に「独我論」の出発点を背負っていることを認めるからこそ、その上にあらゆる議論が成り立つ」ということは、この領域を考察したことのある多くの人々にとって常識だと思っています」
 のような考えを、思い込みというのです。私が「奇妙な違和感」と申し上げたこのような発想を常識と強弁されるなら、その根拠を示さなければ、客観的な認知を得ることはできません。「多く」とはどの程度でしょうか?その根拠は?

 「共通認識の土台」については、抱石さんのおっしゃる通り必要だとは思いますが、あくまで土台であり、必要最小限の、客観性を持った公理もしくは常識(それが何かということが問題にならないくらいの自明性をもったもの)で十分ではないかと考えています。もっともユークリッド幾何学に対して非ユークリッド幾何学があるように、公理や常識の部分に切り込む議論があってもいいわけですが、それは別の問題として扱えばいいでしょう。
 土台の上の、私には強迫観念のように思える皆さんのおっしゃる、共通認識や共通了解といったものには、思想の全体主義の臭いを感じます。(この辺りは、「その2 信念対立という語法はなぜダメなのか」で書くつもりでいます)

 >22 についてです。

 これも私とは全く逆の考え方です。
 「疑っても疑いきれない私」という絶対的明証性を定点とするのが構造構成主義のはずなので、抱石さんの構造構成主義理解は?です。
 これに対して、私は言語を基底に据えることによって、定点などというものを持つことなく、関係性と相対性の中に私を立ち上げようとする考え方です。
 抱石さんとは「分かりあえる部分が多いのではないでしょうか」と申し上げたのも、最初のコメントで関係性、相対性というようなことをおっしゃっていたからで、「私と同じだ」と思ったものでした。構造構成主義は、関心相関性というような構造主義の相対主義的な考え方を採用しておきながら、一方で何でもありの相対主義はダメといってるわけです。
 kamuyaさんのコメントにもあったように、迷路にはまりつつあったのはコギト的な私(意識・観念論・不可知論・独我論)の方であって、その迷路からの脱出法を示したのが言語だったのです。
>わたしにはkamuyaさんのコメントが最もストレートにスッと入って来ます。
どうもありがとうございます。「なるべく疑問点にそって説明する」というところに心をくだいているので、よかったです。

じつは、「“いまガムスさんが構造構成主義にたいして抱いている疑問”は、“かつてぼくが構造構成主義を学びはじめたときに抱いていた疑問”と非常に近いものだ」という印象を持っています。

ぼくよりずっと長く生きておられる“人生の先輩”にたいして失礼かとも思いますが(汗)、「ぼくはいかにしてその疑問を乗り越えたか?ということを記述しておいたほうが、共に理解をわかちあえる可能性が高まるのではないか」と考えたので、以下、ちょっとした“身の上話”をはさみます(笑)。これも、「構造構成主義の理路を学ぶにあたっての“誤解の一例”を開示することによって、よりよい理解を促進する」という[目的]にのっとっています[3]。

構造構成主義に関連する書籍をさいしょに読みはじめたころ、ぼくは、(文学を専門としていることもあってか)ソシュールの言語論についての議論のほうに興味がかたよってしまい、現象学についての理解がすっぽり抜けたまま、テキストを読んでしまっていました。(つまり、言葉を思考の基底に据えている現在のガムスさんとおなじスタンスだったのです)。

すると、あるとき、デリダを研究している友人と議論していたときに、「フッサール現象学と、それに対するデリダの批判について、ぜんぜん読めてない」と批判されてしまいました。その友人(デリダを研究しているということは、“文学くずれ”のぼくなんかよりも数倍、言葉について深い洞察を重ねているのはまちがいありません)がきちんと指摘してくれたおかげで、以後、(まだまだ勉強不足ではありますが)「現象学についてきちんと学んでおこう」と思うようになりました。

そういう経緯があったので、最初にガムスさんの文章を読んだとき、「なんだか、じぶんとおなじ“匂い”がする(笑)」という印象を持ちました。インターネットの世界に“匂い”なんて存在しないハズですが、じっさいに議論を重ねていくにつれて、「言語に関心を持っていて、竹田青嗣をはじめとする現象学についてはこれから勉強予定である」という、かつてのじぶんと同じスタンスの方だということが分かったので、「最初の直感はそれほど“的外れ”ではなかった」という確信が強くなりました。

本題に戻ると、ここで議論されている“言葉と私をめぐる問いかけ”は、現代思想の最先端においてなお、「きちんとした答えが得られていない状態」だと思います。19のコメントで記述したような「言語哲学やデリダからの現象学批判」については、いまだに専門家のあいだで議論されつづけていますし、完全に決着がついているとはいえません。

言語論的転回、つまり、言葉に対する深い方法意識が、現代思想における大きな一歩を踏み出すことを可能にしたのは、云うまでもありません。それゆえ、「迷路にはまりつつあったのはコギト的な私(意識・観念論・不可知論・独我論)の方であって、その迷路からの脱出法を示したのが言語だったのです」というガムスさんの言明は、おそらく1960年代(日本であれば、1980年代)ぐらいであれば、時代の最先端をいくものだったと思います。しかし、21世紀のいま、時代はさらなる転回、すなわち、“言語論的転回をさらに乗り越える地平”を切り開くことを必要としているのです。

かみくだいて現状をたとえるならば、「〈私〉という巨大な氷山を回避しようとした近代哲学は、反対に舵を切りすぎて、こんどは〈言語〉という流氷にとらわれて動けなくなった」という状態ではないかと思います。こうした状況については、“言語哲学の流れ”からも、また、“現象学の流れ”からも解決のための試みがなされています。構造構成主義は、控えめにいうと、後者の一例として示されていると云えるでしょう。

(これも余談ですが、「初めてソシュールに出会った時のような知的興奮にめぐり合える」ことをガムスさんは期待なさっていますが、フッサール現象学の枢要である「現象学的還元」がスッと腑に落ちたときの感覚は、ソシュールの言語論的還元に邂逅したときとおなじぐらい、「目からウロコ!」というに相応しい快感があります)。

と、これもまた次の議論へつなげるための“補助線”ということで、いったん区切っておきます。


【註および文献】
[3]構造構成主義の理路のなかでは、こうした条件開示のための方法論を「構造化に至る軌跡の開示」として定式化しています。今回は、それをすこし援用するかたちで、“誤解の構造”を示しておくことにしました。
西條剛央 2005 構造構成主義とは何か 北大路書房 p.155-157
> 25:ガムスさん

 私は、ガムスさんのように「自分の常識は「客観的事実」であり、他者の常識は主観的である」という主張を、多くの方がそれぞれ違った意見の中でされていると申し上げております。そこで私は、自分が常識であると思っていることも自由に疑い、その場に合った「共通認識の土台」を合意によって形成することが適切であると考えている訳です。

 アキレスと亀については、16で、論理的に簡単に説明できることを示しました。他者の発言を無視しないで下さい。

> 構造構成主義は、関心相関性というような構造主義の相対主義的な考え方を採用しておきながら、一方で何でもありの相対主義はダメといってるわけです。

 多分、このご意見は、適切ではないと思います。「何でもありの相対主義はダメ」と言っているのではなくて、「効果的ではない、もしくは建設的ではないので、そこから始めて有意義な結果を構築する方向を考えましょう」と主張されていると思います。
 詳しくは、専門家の方のご意見をお待ちします。

> >22 についてです。
>  これも私とは全く逆の考え方です。

 迷路にはまるかどうかは、ものごとの位置づけをしっかりできているかどうかによると思います。そもそも独我論からしか出発し得ないはずのものを、そうでないものと位置づけてしまえば、自身の位置づけが見えなくなってしまいそれこそ独我論の土俵から出ることはできなくなります。
 これは、自分を知れば知るほど自由になるという心の問題とも重なるところだと思います。
> ガムスさん

 後はより適切な表現をされるであろうkamuyaさんにお任せしますので、私がお答えしなくても悪く思わないで下さい。
>抱石さん
いろいろとご意見を投げかけてくださり、ありがとうございました。ぼくも勉強中の身なので、考えさせていただく手助けをいただいたと思っています。どうもありがとうございます。

これから現象学についての解説に入っていくことになりそうですが、ここでひとつ提案があります。それは、「“独我論”というコトバを使わずに、現象学の“本質”を記述してみよう!」というものです。

ぼくは現象学の専門家ではないので、竹田青嗣先生のわかりやすい解説書をもとに学んでいるにすぎないのですが、すくなくとも、ぼくの読んだ限りでいうと、「方法論的独我論」だとか「独我論的前提から始めるしかない」というのは、現象学者のあいだでは共通了解が成立している“大前提”のようです。

しかしながら、この「独我論」というコトバ、ちょっとクセが強すぎて、ごくふつうに世界をみている自然的態度の方々や、とりわけ独我論にたいして強い先入観をお持ちの方々にとっては、「このコトバを聞けば聞くほど、現象学にたいする誤解が深まってしまう」という、“つまづきの石”になっているのではないでしょうか。

「コトバがじゃまをして本質的な洞察に至ることができなくなる」というのは、ここでの議論の本意ではないと思います。(インターネット言論においては、“専門的な厳密さ”よりも“一般の方々にかみくだいて伝える”という側面のほうが、どちらかというと重要だと思うので)。それゆえ、ここからは、「方法論的独我論」という大前提をあえて括弧に入れて、現象学の本質をほりあててみるという実験をしてみようと思います。それこそ、正攻法でいけないときは、回り道をする作戦です。

(ぼくは音楽をやっていますが、楽器を載せた台車が重くて階段を上れないときには、車イスの方のためのスロープを通らせていただくことがあります。遠回りですが、安全面も考えるとそのほうが妥当な選択ですし、もしも出会いがしらになってしまえば、逆戻りして道を譲ればいいわけです。“目的地”さえまちがわないかぎり、そこへ至る“道筋”については、柔軟にえらべばいいと思います)。

さて、いま大学のパソコン室にいるんですが、つづきの原稿は自宅のパソコンのなかにあるので、今夜帰ってから書き込むとします。
 >抱石さん

 >「自分の常識は「客観的事実」であり、他者の常識は主観的である」

 私が事例に即して具体的に話しているのに対して、抱石さんは一般的抽象的な言葉だけで語っているので、自分で自分の議論が見えなくなっているのですね。もう一度だけ言います。私が「ここで」言っているのは、論理、理屈ではなくて「誰もが」認めうる客観的事実を常識と言っているのです。「アキレスは亀をいともたやすく追い抜いてしまう」ということを、抱石さんは認めるのですか、認めないのですか?認めるのならば、私「だけ」の単なる思い込みではなく、客観的事実ということに何の問題もありません。認めないのならば、設題者の詭弁に同調することになり、抱石さんお得意の論理的説明は崩壊します。

 以下も、いちいち申し上げませんが、理路の通らない議論に終始しています。
 >26についてです。

 kamuyaさん今晩は、当「穂高山荘」は日曜日のほかに月に一度第3月曜日が休みなので、今回割とパソコンに向かう時間が取れました。次まで少し間があくかもしれませんので、いくつかの質問を書かせていただきます。

 >26については、大まかなところは理解できました。そこで質問ですが、

 「21世紀のいま、時代はさらなる転回、すなわち、“言語論的転回をさらに乗り越える地平”を切り開くことを必要としているのです」

 についてですが、「言語論的転回をさらに乗り越える地平」とはどういうことでしょうか。又それが必要とされる理由についてもご説明願います。

 「〈私〉という巨大な氷山を回避しようとした近代哲学は、反対に舵を切りすぎて、こんどは〈言語〉という流氷にとらわれて動けなくなった」という状態。

 これを具体的に・・・

 kamuyaさんが目からうろこであった「現象学的還元」が、コギトやカントの物自体の発想と決定的に違うところはどこなのでしょう?

 【註および文献】が>26の中でどのように適用されているのか、よくわからなかったのですが・・・。それとテキストP155〜157に書かれていることは、例えば医療の現場などではごく普通に行われていることのように思われますが、どこが画期的で、新しいことなのでしょうか。

 以上です。よろしくです。
> ガムスさん

 本論が始まる前に、枝葉の問題を解決しておきますね。

> 15:ガムスさん
私は「独我論」は「アキレスと亀」だと思っています。
両方とも常識ではありえないと分かっていながら、一応の筋道は通っています。「アキレスと亀」は設題者の理屈に乗っかていると論破できません。

> 16:抱石
 ガムスさんは、「独我論から始めざるを得ない」という文脈と、「独我論を肯定する」という文脈の差異を、あまり明確に捉えて居られないのではないでしょうか。
 「アキレスと亀」の話は、非常に簡単に論破できるものです。
 説明者が、話をどんどん分割してゆく過程で時間を使うので、それがあたかも競走の時間もどんどん過ぎてゆくような錯覚を生むだけの話です。

> 17:ガムスさん
あの「アキレスと亀」の話でいえば、設題者の論理によって導かれた結論が常識と食い違ってしまったその理由を論理的に説明するのを否定しているのではなくて、真実・真理に到達する方法は論理だけではありませんよ、と言ってるわけです。

 私は、「アキレスと亀」のような例は、簡単に論理と常識が一致することを示しました。ガムスさんは、未だに「常識と論理が一致せず、常識で考えた方がより適切である」という例を挙げられていません。
 つまり「アキレスと亀」の例から、「だから常識的に考えることが正当である」とするのは、まったく論拠の無い一般化であると考えます。

 私たち人類の歴史には、常識を覆す事実が何度も現れていますし、現時点でも山のように事例があると思います。ですので、常識にとらわれない深い洞察を求められているのではないでしょうか。
すいません。こないだ29のコメントのなかで「今夜帰ってから書き込む」と言っておいたにもかかわらず、その後、しばらく静養しておりました(笑)。みなさま、季節の変わり目で体調くずされてはいませんでしょうか?

本題に戻るまえに、31でガムスさんが提起してくださった問いについても、ひととおり返答しておこうと思います。


>「言語論的転回をさらに乗り越える地平」とはどういうことでしょうか。又それが必要とされる理由についてもご説明願います。

これについては、今後、現象学について解説していくなかで、また、その過程で「言語哲学からの批判にたいする現象学からの反論」についてみていくなかで、おのずと明らかになるのではないかなと考えています。これについては、やはり、「哲学史の流れをひととおり復習してくことが必要になる」と思うんですよ。

長い哲学の歴史のなかで、さまざまな考え方が編み出され、そして、批判とそれにたいする反論を経て、少しずつ洗練されていくというプロセスをくりかえしてきました。そうやって生みだされた知見は、すべて、「いいところ」(=有効性)と「わるいところ」(=限界)を併せ持っています。

ソシュールが提起した言語論的転回をもとにして生まれた「構造主義」や「言語哲学」、あるいは「社会的構築主義」の場合も例外ではなく、それらが生まれた当時は先端の思想であったでしょうし、現在それについて学ぶことにもひじょうに意義があると思いますが、やはり、それらが生みだされた頃の“歴史的な制約”を引きずっていたり、(理路そのものはいいにしても、実際の思想運動としては)先行する思想の反動で極端な方向に走ってしまったり、ということはありえます。

それを踏まえたうえで、「誤っている部分まで鵜呑みにするのではなく、思想の内実をきちんと吟味して、批判すべきところは批判し、改善すべきところは改善しながら継承していく」というのが、あるべき“建設的な態度”だと思うんです。(もちろん、こうした態度は構造構成主義を取り扱う場合にも必要です。それゆえ、このトピックで行われている“理路の検証作業”は、たいへん意義のあるものだと考えています)。

ぼくが読んできた哲学関係の入門書のなかで、とくに構造構成主義との関連性が深いものを挙げるとすれば、竹田青嗣・西研両先生がおまとめになった『はじめての哲学史 強く深く考えるために』[4]がオススメです。この本はほんとうにわかりやすく、個別の思想・哲学の本質を突いた記述になっているように思えるので、「哲学史の流れをつかみ、個別の思想の有効性と限界をふまえながら、じぶんのモノの見方を洗練していく」という[目的]に照らして考えると、最適な良書だと思います。


さて、つづいて、次のご質問について。

>【註および文献】が>26の中でどのように適用されているのか、よくわからなかったのですが・・・。それとテキストP155〜157に書かれていることは、例えば医療の現場などではごく普通に行われていることのように思われますが、どこが画期的で、新しいことなのでしょうか。

ぼくも思っていたんですが、たけぞう先生のテキストのなかで「構造化に至る軌跡の明示化」としてまとめられている方法論は、医療現場で以前から実践されていた(たとえばインフォームド・コンセントといわれるような)方法論に近いのではないかと考えています。

ぼくの場合、26の【註および文献】のなかでは「それ(注:構造化に至る軌跡)をすこし援用するかたちで」と書いたのですが、むしろ「逆用するかたちで」と言ったほうが分かりやすかったかもしれません。「こんな読み方をすると誤読する可能性がある」という“誤解の構造”、つまり、「構造化に至らない軌跡の明示化(笑)」を試みたわけです。看護の領域でいう「ヒヤリ・ハット」に近いですね。“じぶんが経験し(かけ)た失敗例について記述しておくことによって、おなじ失敗をくり返さないための方法を共有する”ことが[目的]にあるわけです。

どこが画期的で新しいかというと、「関心相関生を軸にして基礎づけた」というところです。これは、「方法そのものが自己目的化して、暴走する」ということを予防する上で有効です。(※ガムスさんは、この「目的-方法」という枠組みに疑義を呈されていますが、それについては「その3 関心相関性という相対主義」の章であらためて俎上に載せていただくことにして、ここではさしあたり「目的-方法」という枠組みにのっとって回答させていただきました)。

さて、もうすこし詳述したかったんですが、いつまでも本題に入れないのも何なので、つづいて現象学の解説に入りたいと思います。


【註および文献】
[4]竹田青嗣・西研(編) 1998 はじめての哲学史 強く深く考えるために 有斐閣アルマ
さて、先日も提案させていただいたように、「独我論」という表記を用いると誤解を招きやすいため、以後、このコトバをあえて使わずに現象学の“本質”について記述することを試みようと思います。

ただし、15のコメントでガムスさんが吐露していた「奇妙な違和感」についてはお答えしておくべきだと思うので、簡潔に書いておきます。結論だけ云えば、【現象学(や構造構成主義)は、独我論ではない】ですし、このコミュニティが「独我論者の王国」だということもありません。

というのも、現象学では、「客観的実在はあるのか、ないのか」という問いかけじたいを「判断中止(エポケー)」[5]してしまうからです。したがって、〈ある〉と考えようが、〈ない〉と考えようが、結果としてはどっちでもかまいません。

ここでの議論は、14でまとめた[ガムス論の要旨]のなかでいうと、「3.外部実在を先験的に置く立場(唯物論)からの批判にはどう答えるのか?」というところにあてはまると思いますが、あっさりと認めるならば、日常生活の文脈であれば、「客観的な物じたいが存在する」という“自然的態度”で考えてさしつかえないと思います。それこそ、パン屋さんが“パンの実在”を疑いはじめたらマズいですし(笑)、ここでは、さしあたり、「客観的外部実在は〈ある〉」という前提のもとで考えてみましょう。

さて、ガムスさんは、このトピックの本文のなかで、ご自身の60年間の“経験”に基づいて、「通常の意味で物の存在の明証性が破綻したことはありません」という“確信”を導きだしています。おそらく、ぼくをはじめとして、この議論に参加しているみなさんも、そして、見守ってくださっているコミュニティのみなさんも、(日常的な文脈においては)ガムスさんの“確信”に同意する方がほとんどだと思います。

いずれにもせよ、現象学の主眼は、そうした“自然的態度”を批判することにはありません。さて、それでは、現象学の枢要はどこにあるのか? ということになりますね。

・・・じつは、これまでの記述のなかで、すでに“目からウロコの現象学的還元の枢要”について言及しております(笑)。さて、どこだかわかりますか??

・・・もういちど巻き戻して、みてみましょう。

《ガムスさんは、ご自身の60年間の“経験”に基づいて、「通常の意味で物の存在の明証性が破綻したことはありません」という“確信”を導きだしています。》

ここで、物の存在が客観的に〈ある〉と“確信”しているのは、いったい誰なのか?ということです。

結論的には、ガムスさんと云うしかありませんよね(笑)。

つまり、「客観的実在を前提とする“自然的態度”に基づいてものごとを見定める」のであったとしても、そこにはやはり、「客観的実在が〈ある〉という“原的な直感”に基づいて思考している“私”」(=つまり、ガムスさん)が〈いる〉と仮定しないことには、論理のつじつまが合わない。現象学ではそのように考えます。

しかしもちろん、「それでは、ガムスさんの主観がすべてなのか? それ以外は何も存在しないのか?」というと、そうではありません。ここでの思考はやはり、ものが〈ある〉という“知覚直感”に基づかないことには成立しないわけで、「私以外誰も存在しない」というのは、さすがに言いすぎでしょう。(その意味において、現象学は「私以外は誰も存在しない」という“ベタな独我論”ではありません)。

ここで重要なことは、「“対象”(=客観)をめがけていく“心”(=主観)のはたらきについては、さしあたり疑うことはできない」ということです。(いや、もちろん疑ってもいいのですが、万一疑ったとしても、疑ったその時点で、疑っている「私」がアタマをもたげます。ひゃあ)。

「客観的存在が〈ある〉という前提でものごとを考える」という“自然的態度”を端的に否定するのではなく、「客観的存在が〈ある〉と確信している“私”」というふうに、思考の出発点をひっくりかえしてしまう。それが、「現象学的還元」[6]であると、ぼくは理解しています。

さて、そうだとすれば、次に、「そのことを強調することにどのような意義(有効性)があるのか?」というところが問題になると思います。しかしながら、コメント欄の文字数には制限がありますし、一人でコメントを連投するのはあんまり好きではないので、ここでいったん区切っておきます。


【註および文献】
[5]ここでとりあげた「判断中止」と「現象学的還元」については、たけぞう先生のテキスト[3]のp.32-50にて説明されています。より詳しく知りたい場合は、その継承元である竹田青嗣先生の著書にあたってみるのがいいと思います。
竹田青嗣 1989 現象学入門 日本放送協会出版
[6] [5]の竹田先生の著書でいうと、p.35-74に詳述されています。
> kamuyaさん

 とても分かりやすい労作をありがとうございます。

 kamuyaさんのコメント連投、全面的に支持します。(^^
>34 kamuyaさん コメントお疲れ様です。十分静養はなされましたか?

 私も今日は豊島園《庭の湯》にてプチ静養をしてまいりました。寒空の下で湯につかり、購入した馬券に祈りを込めてテレビ付きの寝椅子で競馬を哲学し、ビールとっくり(おちょこ付き)を少々聞し召し、至福のひと時ではありました。

 さて、私が「剔抉」で言いたかったことは、kamuyaさんが紹介して下さった、

 《近代哲学と現代哲学とを画する分水嶺となる動向を表す概念。デカルトの〈コギト〉の自覚に始まる近代哲学は、〈意識〉を確実な認識の最終的な基盤として中心にすえ、反省的方法によって、意識が世界を意味づけ、構成する過程を解明することに努めてきた。しかし、この意識中心の哲学は、意識の私秘性という壁に阻まれて、〈不可知論〉あるいは〈独我論〉というアポリアに陥らざるをえなかった。それに対して、19世紀末から20世紀初頭にかけて現われた一群の哲学者たちは、〈意識〉という自己完結した世界からの脱出路を公共的な〈言語〉のなかに求めた。いわば、哲学的議論の土俵を〈意識〉から〈言語〉に転換したのである。……》[1]

こうした言語哲学からの批判の対象にあがっているのは、デカルト、カント、ヘーゲルはもちろんのことですが、現象学は、「意識主義」「主観主義」あるいは「独我論的」の最たるものとして糾弾されています。

 に尽きます。私は、大まかにポストモダン(構造主義)による近代の超克という風に考えておりまして、これで主客問題にはケリがついたのだと思っていました。《私》から出発するというような問題の立て方ではだめなのだ、と・・・。具体的に近代哲学批判の手法については全く知らなかったので、自分なりにコギトを取り上げて考えてみたのが「剔抉」だったのです。もう一度繰り返せば,「私は考える・・・と言った時、私と他者は同時に在る、のであり、なぜなら言葉を使用している以上、私という対概念は私単独では成立せず他者との関係性のもとで私は立ちあがるのであり、同様に他者は私(もしくは他の他者)との関係性のもとに成立する。私は他者の言葉で考え、話すのであり、他者はまた別の他者の言葉で考える。他者が認知された時点で、客観世界は実在し(独我論を引っ張りだせば、それらのすべてもまた自分の観念ということもできるが、外部世界との関係性を否定する独我論が外部世界との関係性そのものである言葉を用いるのならば破たんする)観念論は崩壊する。もしくは、観念論と実在論は、同時的相補的に成立する。つまり、存在するとは知覚されることであり、知覚するとは存在されることである、がセットで成立すること」
 のような考え方、および言語哲学(これも私は知らなかった)は、現在どのような論法で批判されているのか、が私の知りたかったことです。

 今見つけたことですが、テキストP157に「認識論的多元主義を前提とする構造構成主義においては、真偽を問う認識論も、真偽を問題にしない認識論も、現象の構造化の1つのツールとして、原理的には(出発点としては)等価として扱うことになる」とありましたが、構造構成主義が認識論的多元主義という認識論的にはなんでもあり、ならば今までやってきた議論は一体何だったのでしょう?

 「関心相関性」というのは、別に構造構成主義の専売特許ではなく、構造主義でごくふつうに用いられる相対性と関係性の方法と同義であり、画期的なものとは思えないのですが・・・。この辺りの説明でよく用いられる「万有引力」の「発明」について、私の方法による表現は(言っていることは同じですが)、「万有引力はニュートンが言語化することによって存在するようになったのであり、ニュートン以前に万有引力はなかった。ニュートン以前には、なぜリンゴが木から落ちるのか、という問題そのものが存在しなかったし、もし問題があったとすれば、理由も意味もないこととして処理されるか、神の御業とされただろう。いやそんなことはない、引力は宇宙の開闢以来存在していたはずだ、というツッコミは、現在の視点でニュートンの時代を判断してしまっているからで、その時代時代の構造(関係性と相対性)の中でしか生きられない人間の限界を知る必要がある。」ということになります。

 >35については、また・・・
「一般的に人間は欲望の充足で生きているから、その欲望を果たすことができれば幸福感を持ちます。だから片方で、何が真実かを常に自ら考え、学び続けなければならないと思いますね」(小椋佳・毎日新聞2009・11・27夕刊)という言葉をかみしめつつ、今度の日曜日はジャパンカップです。ソクラテス流に言えば「キミは競馬に当たれば幸福な気持ちになれるが、外れればキミは哲学者の気分になれる」とすれば、哲学者の気分にならぬように斎戒沐浴してコトに臨むつもりです。

 このトピックも核心部に進入しつつありますが、kamuyaさんとvirginia@さんの二人の現象学派の論客が大活躍ですが、この辺りでアンチ現象学、言語哲学、構造主義、ポスト構造主義等々のmixistの方々の参加を見ることができれば、より議論は面白くなるのではないでしょうか。また、ここは女人禁制ではないはずなので♀の方も思慮深く微笑んでばかりいないでどうぞお越し下さいませませ。

 そして>35についてです。
 まず、確認しておくことは、「エポケー」や「還元」は現象学の本質や目的ではなく現象学的存在論(認識論)のための方法、ツールであるということです。テキストでも現象学の本題(本来の目的)は無視して、「エポケー」と「還元」だけを思考法としていただこうというスタンスになっています。だとすれば、現象学的思考法というよりは、判断停止的思考法とした方がより正確だと思われます。そもそも「エポケー」はギリシア語であり、古代ギリシアの懐疑主義に由来するものです。また、デカルトの『方法序説』におけるエポケーも戦略的エポケーと捉えられています(内海健『「分裂病」の消滅』p180〜)。

 次に、なぜ判断停止が必要なのかについて、テキストp41では次のように述べられています。
 「先の引用では、そのような自然的態度に基づく生活が確信を構成している基盤となっているのは確かだが、そうであるがゆえに、《自然的な世界生活》の態度では、確信を成立させている条件や構造は《研究されえない》と述べられている。自然的態度とは、確信を絶対的なものとしてしまう態度のことであるから、必然的にそのような反省的研究を行なうことはできないことになる。それゆえ、そうした自然的態度を差し控える《判断中止》への根本的な態度変更が必要なのである」
 そしてkamuyaさんのけんかいです。
 >さて、ガムスさんは、このトピックの本文のなかで、ご自身の60年間の“経験”に基づいて、「通常の意味で物の存在の明証性が破綻したことはありません」という“確信”を導きだしています。おそらく、ぼくをはじめとして、この議論に参加しているみなさんも、そして、見守ってくださっているコミュニティのみなさんも、(日常的な文脈においては)ガムスさんの“確信”に同意する方がほとんどだと思います。
 >《ガムスさんは、ご自身の60年間の“経験”に基づいて、「通常の意味で物の存在の明証性が破綻したことはありません」という“確信”を導きだしています。》

ここで、物の存在が客観的に〈ある〉と“確信”しているのは、いったい誰なのか?ということです

 ここで、先生のそしてkamuyaさんの叙述でしきりに登場する《確信》という言葉を私は全く使用していないし、先の引用となっているフッサールの文章にも《確信》という言葉は出てきません。なぜなら自然的態度における生活において、通常の意味での物の存在は確信などする必要がないほど自明なことだからです。Kamuyaさんは目の前にあるパソコンの存在を日々いちいち確信していますか?つまり私は逆の捉え方をしています。「日常の自然的態度における生活こそが《判断中止》状態であって、哲学する時(物の存在を疑う時)に《判断開始》するのだ」と。
 従って、先生の《判断停止》の必要性の説明は全く理解できません。
 自らの意思で《判断開始》をすれば、「何が真実かを常に自ら考え、学び続けることができる」のです

 次に、kamuyaさんが何の考察もせずに前提としてしまっている《私》、virginia@さんが方法概念としての《私》(超越論的主観性)について考えてみたいのですが、次回ということで・・・
どうも、おはようございます。


>抱石さん
>kamuyaさんのコメント連投、全面的に支持します。(^^

どうもありがとうございます。ただ、じぶんのコメントをあとで読みなおしてみたら「ちょっと長すぎたかな(笑)」と思っちゃったので(笑)、これからは簡潔に、なるべく「1回につき1コメント。1コメントにつき1テーマ」ということを心がけていこうかなと思います。パソコンで長文を読むと目がチカチカしますしね(^^;。

ぼく自身、“書きながら学んでいる状態”なので、勇み足になるよりも、しっかり自分の理解を深めながら、ゆっくり書いていきたいと思います。そういうわけで、今日は短めに書きますね。


>ガムスさん
>このトピックも核心部に進入しつつありますが、kamuyaさんとvirginia@さんの二人の現象学派の論客が大活躍ですが、この辺りでアンチ現象学、言語哲学、構造主義、ポスト構造主義等々のmixistの方々の参加を見ることができれば、より議論は面白くなるのではないでしょうか。

そうですね。いろいろな立場の人間が意見を出し合えば、それだけお互いの理解も深まるかもしれませんからね。

ただ、いちおう付け加えておくと、ぼくは、かならずしもじぶんのことを「現象学派」とは思っていません(笑)。いまは現象学の解説をすることが[目的]なので、“じぶんの考え”をあえてカッコに入れて記述していますが、ほんとうは、「自己の内なる他者=コトバ」を出発点として考えたほうがしっくりきます。したがって、ガムスさんとぼくは、けっこう近い立場だと思います。(virginia@さんもデリダがお好きだということなので、かならずしも現象学派というわけではなさそうですね)。

現象学についての解説がひととおり終わったら、ぼく自身の考えもすこしだけ書けるかもしれません。

さてさて、ガムスさんが疑念を表明されている「判断中止」「還元」「確信」あるいは「信念」といったコトバを扱うならば、やはり、フッサールの文章に直接あたってみる必要がありそうですね。

いま、『イデーン』や『デカルト的省察』を座右に置いて読んでいるのですが、なかなか読み応えがありますし、「何の考察もなしに《私》を前提としている(=昔ながらの観念論である)という批判は、(デカルトには当てはまっても)フッサールには当てはまらないのではないかな」というのが素朴な感想です。

というわけで、次回からはフッサールの著作からの直接引用もふやしながら、現象学(ならびに、それに対する批判)について考察していこうと思います。
みなさん今晩は、ネット上(www.freeml.com/swansong/2833/latest)でおもしろいものを見つけたので紹介します。言語哲学批判で、本文で私が書いたものの批判ともなっています。このような根本問題の考察は、哲学の醍醐味と言えるかもしれません。私も考慮中ですが、皆さんの解決法もぜひご披露ください。

 「 現代において、哲学の趨勢は言語哲学一色になりつつあります。私たちは、何を表現しようとも、具体的には言語によって示すほかないからです。

 しかし、言語哲学の唯一、見落としている部分は、そもそ言語とは何かという言語の成立基盤をなんら明らかにしない点です。言語は既にあるという前提のもとに成立してしまっています。

 哲学という学問において、問わない領域があるという点において、すでに哲学の資格を喪失してしまっています。哲学はどんな問題にも果敢に答えようとして初めて成立する学問です。そのような領域に不問の問いがあってはならないのです。

 こうしたことを隠蔽して、自らこそ学問であるとしているのです。私は、こんなものは、一日も早く消えてなくなるべき領域だと考えています。

 そもそも言葉は論理に従っている限り、通じるという了解のもとに言語哲学は成立してしまっています。こんなばかげたことがあるでしょうか。」
>40の続きです。「言語の実在性は何によって担保されるか?」の解答と言うよりも、今考えていることの一端を示してみたいと思います。

 >40の言語哲学批判と同じ文脈で、次のような現象学批判はいかがでしょうか。

 「現代において、現象学の人気は根強いものがあります。私たちが知覚し、私たちに立ち現れるものは、意識が捉える現象でしかないからです。

 しかし、現象学が唯一、見落としている部分は、そもそも意識とは何かという意識の成立基盤を何ら明らかにしていない点です。意識は既にあるという前提のもとに成立してしまっています。

 以下2段落同文。

 そもそも意識は、自明のものという了解のもとに現象学は成立してしまっています。こんなばかげたことがあるでしょうか。」

 みなさんいかがでしょうか。何かおかしくありませんか?
 そして、言語哲学と現象学のあいだには、テキストでは全く触れられていませんが(だから掘り下げ方が浅いというんです)以下のような問題があります。(www.freeml.com/swansong/2833/latest)

 
 「現代の西洋哲学界において、言語哲学と現象学が二大潮流となっています。しかし、お互いが手を組んで可能性を模索しているのではありません。弁当屋さんの元祖争いのように、お互い、侮蔑しあっています。

 現象学者は、言語哲学を瑣末な問題に関わっている卑小なものと見下します。言語哲学者は、現象学を大きな風呂敷ばかりを広げた誇大妄想のようにあげつらいます。

 本当に現象学と言語哲学は水と油のように決して交わることのない犬猿の仲なのでしょうか。

 フッサールが創始した現象学において、超越論的還元は世界それ自身を超越論的な我において、見出すための方法として構想されました。構成された世界を以前的なあり方、構築される前へと、われわれを連れ戻すための壮大な仕掛けです。

 超越論的還元は、エポケー(判断中止)によってなされます。私たちは、世界のさまざまな事象について、無意識のうちに、これは見間違いだ、あれは正しい、これはおかしい、間違いだ、などと常に判断してしまっています。フッサールはそうしたいっさいの判断を停止してしまって、世界のあるがままの姿を見出そうします。世界はいかにあるかを考えるにあたって、人間の勝手な判断に任せず、世界の裸の姿を現そうとしたのでした。

 ここから現象学が始まります。現象学によって、世界が構成されるのです。その構成の担い手として、フッサールは間主観性(共同主観性)を取り出します。論理は、そこにおいて成立してきます。

 実は、現象学が構築する間主観性こそ、言語哲学が拠って立つ場なのです。論理が成立し、一義的に真偽が決定されていく場、それが現象学における世界の構成であり、同時に、言語哲学が成立する場でもあるのです。この場において言語哲学は、論理の輪を着実に広げて行きます。

 この意味で、現象学が十分に成熟した世界を構築するためには、言語哲学の活躍が必要だったのでした。お互い、嫌いあっているのに、真相は助け合っていたのでした。」

みなさん、あけましておめでとうございます。しばらく議論から離れてしまい、すみません。。

いま現在、ぼくは「修士論文」という強敵を相手取っての“不逞極まる血戦”の最中です。本来ならば修士課程は2年間なんですが、いろいろあって現在3年目です。「一年延ばせばじっくり研究できるかな」と期待していたのですが、結果的には“わからないこと・知りたいこと”が一年分ふえただけで、心残りなことばかりです。まあ、「腰を据えて研究するのは博士課程に入ってから」ということにしようと思います。

さて、このトピックでの議論についてですが、ガムスさんが40-41で取り上げてくださった問題提起はなかなかおもしろいと思いますよ。けっきょくのところ、「言葉」と「私」をめぐる問いかけは、哲学の最先端においても現在進行形で論じられつづけていて、決着がついていない状況だと認識しています。

さしあたり修士論文を片付けたら、またコメントさせていただこうと思います。今年もよろしくおねがいします。

みなさん、本年もよろしくお願いいたします。富士山とっくり(おちょこ付き)

 それでは、>40、>41の問題です。

 「言語の実在は何によって担保されているか?」については、そもそもこの問い自体が言語によってなされているように、前提とか仮定とかいう前にもうそこにすでに存在しています。つまり、言語の実在は、それが使用されることによってなされる、ということで、言い換えれば言語の存在は存在することによって証明される、というトートロジーにならざるを得ません。すべての人が、言語を前提として使用できまた実際に使用しているならば、それはもう前提と言うような仮定的な存在ではなく、実在と言えるのではないでしょうか。つまり、言語の存在は、共通了解として成立し「公理」としてしまって差支えないのではないか、ということです。もしも、言語がないとしたら、「意識」も「世界」もなく、それは私たちの「実感」に反します。背理法的にも、言語は存在しないわけにはいかないのです。
 意識が言語によって構造化されているように、言語もまた意識によって構造化されています。しかもそれは「他者の意識」です。言語は自他の意識=自他の主観の集積でありまた交通手段です。私たちは、他者の言葉で話し、他者の言葉で考えます。この言語の存在こそが、外部世界、客観的世界の存在証明であり、構造構成主義のいうように言語を使っていながら「外部世界を仮定せずに私(という意識)から出発する」というような形而上学的な発想は、人間科学の原理という旗印に背くものです。

 意識の実在についても、「公理」とすることに問題はないでしょう。コギトにおいて「あらゆるすべてのものを疑いぬいても、その疑っている私自身(私の意識)を疑うことはできない」のこの実感(意識)まで否定してしまえば、このような議論も、私という存在も、世界の存在もすべては無に帰してしまうということです。

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