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原発解体!!!コミュの元凶..原子力村

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原子力村という言葉も耳になじみ、今や原発事故の根源とも言われるようになりました。

よく『原子力村』といえば、電力会社の御用学者と言われる大学の教授陣や経産官僚のことを指している、というイメージを直感的に持ってしまいがちですが、実はその親玉は、電力会社におかれている原子力部門なのです。この部門は社長さえ御しきれない、いわば“聖域”と言えます。

東京電力の武藤栄・前副社長は3月11日金曜日の午後3時30分、東京・内幸町の東電本店を発ち、ヘリコプターで福島第二原発に向かいました。

後にマグニチュード9.0と判明する東日本大震災が、この日午後2時46分、日本を襲いました。とてつもない大きな揺れに襲われ、東電は「第3次緊急非常態勢」を発令、本店2階に対策本部が設置されました。

福島第一原発の1、2、3号機の原子炉は自動停止し、福島第二原発の職員から午後3時23分に「津波を目視した」との報告が入りました。武藤氏はその7分後には本店を後にしています。

武藤氏は原子力・立地本部長として東電の「原子力閥」の頂点に立つ人物です。東電には勝俣恒久・取締役会長と清水正孝・前取締役社長のほか、6人いる副社長の計6人も代表権のある取締役がおり、そのうちの一人です。東京大学工学部原子力工学科を卒業後、1974年に東電入社。以来、社内で「原子力村」と呼ばれる原子力部門を一賞して歩んできたようです。

福島第一原発の技術部長をつとめた経験もあり、2010年には取締役副社長(原子力・立地本部長)に就き、名実ともに「原子力村」の村長となりました。

津波で非常用ディーゼル発電機が故障したことが判明したのは、武藤氏が現地に向かった後の午後3時41分でした。それまで原子炉の自動停止にホッとしていた対策本部に一気に緊張が走ります。

「電源が失われると、このままではメルトダウンが進む」

原子力・立地本部幹部の一人はそのときをこう振り返っています。すべての幹部が危機感を共有しました。むしろ対策本部のメンバーでない者さえ、週末の予定をキャンセルするほどでした。

武藤氏は午後6時半に現地に着き、その日のうちに福島第一原発から5キロ離れたところにある緊急時の対応拠点「オフサイトセンター」で指揮をとり始めました。まず何よりは電気の復旧が先決です。午後10時すぎに電源車が到着、本店の対策本部に安堵の声が広がったのも束の間、事態は暗転します。武藤氏は会見で「つなぐところが冠水したため」と釈明していましたが、これは正確ではありません。事実は「ケーブルが短くて使えなかった。プラグも合わなくて」(東電中堅)。現地から「500メートルのケーブルが必要だ」と連絡が入ったそうですが、そんな長いものは社内を探しても見つかる訳がないのです。

この間にも電源は失われ、格納容器の圧力が高まっていきました。翌日午前2時半、1号機の格納容器内の圧力が最高使用圧力の2倍に達してしまいました。ところが、その3時間後に圧力は突如低下傾向を示しました。つまりこれは、外部へ放射性物質が漏れ出したことを示しています。東電は午前5時14分、外部に放射性物質が漏洩したとやっと判断しました。

菅直人・前総理が福島第一原発を訪れたのは、そんな緊迫した状況のさなかでした。武藤氏は20分もの間、首相に応対していました。前総理のいわばパフォーマンスに付き合わされた格好だですが、武藤氏がここで深刻な状況を打ち明けた形跡はありません。前総理は帰京後、私も参加した官邸であった緊急災害対策本部の会合で「現地の責任者や業者の皆さんと話をしてきました」と述べるに留まり、政府中枢に現状が伝わらないため官邸の危機感はまだ乏しいものでした

武藤氏が前総理と面談する約1時間前から、1号機では消防車を使って漉過水タンクから消火系ラインを用いた注水が始まっていました。しかし原子炉の水位はみるみる下がっていき、午前7時半には燃料棒の露出が最大10センチと確認されました。午後3時前までに漉過水タンクから8万リットルを注水したのですが、それでもまだまだ不足していました。

午後3時36分、1号機爆発。

もっと早い段階で海水を注入し冷却するという手があったはずですが、東電はこれに及び腰でした。現地の最高司令官だった武藤氏は、海水注入をいつ決断したか記者会見で再三再四問われても、「手元に資料がございませんので」「時系列を確認しないと」と、言を左右にして決して明らかにしませんでした。東電が1号機で海水を注入するのは、12日午後8時20分のことでした。官邸で開かれた原子力事故緊急理事会では、その2時間以上も前に前総理が東電に海水注入を指示していました。

東電は初日の会見で、勝俣会長が初めて「廃炉」について言及しましたが、当初は前総理が11日のうちに海水注入を指示したのに対し、東電が「炉が使えなくなる」と激しく抵抗していました。経産省の幹部の一人も、「東電が海水注入に躊躇した」と厳しく指摘しています。ある自治体の首脳は先日の会議の積で「東電は自分では決断できないのです」と言って、こんな話をしてくれました。彼が16日ごろ東電の企画部門の元幹部に、廃炉を前提に海水注入すべきだったと伝えたところ、「株主代表訴訟を起こされるリスクがあるので、民間企業としては決断できない。政府の命令という形にしてくれないと動けない」と言ったというのです。12日に菅や海江田万里経産相が東電に海水在入を命じ、まるでお墨付きを得たかのように東電が海水を注入し始めたのは、こうした背景があったのです。

1号機で海水注入を始めた際、2、3号機でも同様の措置を同時期に講じていれば、相次ぐ爆発を防げたと考えられます。しかし武藤氏はそう決断しませんでした。彼が海水注入をいやがったのは、おそらく原発の廃炉による経済的損失を忌避したからだと考えられます。彼は記者会見でこう本音を漏らしたことがありました。

「海水を注入すると、腐食などさまざまな問題を引き起こします」

海水を入れると、腐食の恐れやたまった塩分で再稼働は困難になります。原発1基あたりの新設には3千億円、廃炉には1千億円超の合計4千億円超もかかります。迷惑施設の原発の新設を受け入れてくれそうな自治体を見つけるのも、もはや事故後では不可能に近いです。

勝俣会長は記者会見で「東電による人災」という見方を「私自身はまずさというのを感じられませんでした」と否定し、こう語りました。

「(意思決定の)遅さは私自身は感じていません」

勝俣会長はいまや武藤氏と一蓮托生だが、そもそも東電の「原子力村」というのは、会長や社長でさえ手を出しにくい“聖域”でした。専門性が高く、他の部署の人間にはとうてい理解しにくい。安全に稼働するなら火力や水力よりも低コストのため、収益力が高く、文句もつけにくい。このような状況で他部門との交流は乏しく、閉ざされた部門であったと思われます。

かつて「村長」として君臨した池亀亮という豪快な副社長は、日本の原子力界のドンでした。1998年に某雑誌のインタビューを受けた際には、彼は日立製作所と東芝、米ゼネラル・エレクトリック3社の原発部門の経営統合を東電が促していることを打ち明けています。池亀の後を継いだ友野勝也も同様に、「日本の原発はオーバースペック。目立と東芝が共同設計し、コストを下げるべきだ」と、1999年の私の取材に語っています。

その後を継いだのが榎本聡明ですが、彼は02年の原発トラブル隠しの責任をとり在任わずか3ヵ月で副社長を追われてしまいました。このとき東電は荒木浩会長と南直哉社長が引責辞任し、平岩外四、那須期の両相談役も辞任する大がかりな体制刷新となり、原子力部門は総勢35人ものスタッフが辞任のほか降格や減給、厳重注意などの処分を受けています。

この粛正人事で原子力部門の実力者たちが相次いで失脚、相対的に浮かび上がったのは、当時電気事業連合会に出向中だった武藤氏でした。彼は東電に復帰すると、原子燃料サイクル部長、執行役員(原子力・立地本部副本部長)と順調に出世していきました。07年にも福島原発のトラブル隠しや柏崎刈羽原発でデ-タ改竄が発覚しましたが、それを乗り切り、遂には副社長にまで上りつめました。

「2度の不祥事で上がみんな飛んでしまって、それで繰り上がった方です。率直に言って印象がない人なのです」

東電の中堅は、そう語ってくれました。

しかし、村の権益には異常なまでに敏感でした。使用済み核燃料を再処理してプルトニウムを取り出す核燃料サイクルは、巨費を投じる割には効果が乏しいため、経産省の改革派官僚たちが例年、費用対効果の低い核燃サイクルの撤退を模索したことがあります。このとき東電社長だった勝俣は「政府が腹を決めるなら再処理をやめてもいい」と一定の理解を示したそうですが、ヒトと資金が張り付いている核燃をやめられない、と抵抗したのは当時電事連にいた武藤氏でした。

「彼が親玉です。社長さえ御しきれない関東軍の司令官です。ふだんは紳士なのですが、核燃撤退を進言したらケモノのような目で僕を見ましたよ」

3千億円強ある経産省のエネルギー対策特別会計・電源開発促進勘定の配分も、「そういう世界のトップは武藤さんです」と打ち明けていました。

原発爆発、そして放射性物質の放出とい、2つの未曾有の災害をもたらしたのに、東電は当初、国民への説明はほとんどが課長級任せでした。説明は武藤氏の部下たち、原子力設備管理部の課長や広報部付の部長に委ねていました。代表権のある役員が8人もいるにもかかわらず、です。そんな状態を憂えた元経営幹部は「うちの指揮系統が見えない」と経営陣に苦言を呈している。当然政府としても課長級に全てを押し付けるような会見のやり方に不満を持っており、私自身も東電に足を運んだ際に言及したことがあります。

それが効いたか効かなかったかは分かりませんが、3月14日夜の緊急記者会見に一度だけ顔を見せた武藤氏が21日以降、連日メディアの前に現れて説明するようになりました。21日午後7時制分から東電本店でおこなわれた記者会見では、彼の手はずっと小刻みに震えていました。長身の偉丈夫ですが、声は小さい。「もっと大きな声でしゃべってください」記者から2度そんな声があがっていました。

武藤氏の会見は典型的な役人答弁に終始しています。返答に窮するような質問には、あらかじめ用意していたと思われる「発電所を一刻も早く安定的な状態に戻すことが大事と思っております」という同じ台詞を繰り返していました。どんな質問にも使える便利な言葉を、彼は21日の会見で少なくとも4回使っています。と同時に、自身の責任が問われそうな質問には、決して言質を与えない。そういう点は非常に「賢い」のです。

この日の会見終了後、足早に引き上げる武藤氏に追いすがって、どこの時点で判断を間違えたか記者の一人が尋ねていました。彼は立ち止まって、「えーと、うーん」何か言いたそうでしたが、すぐ思い返したようで、

「まあ、そこを含めて、また」

連日の記者会見をこなしていくうち、彼は次第に自信をつけているように見られました。マスコミの追及は大したことがない、と。部下を従えてどっしりと座り、泰然とした態度で会見に臨む。浅い知識の質問には露骨に見下す態度をとり、しかし責任を追及されそうな質問には決して言質を与えない。もはやその頃には、手は震えていませんでした。

今では副社長を辞任し、一線からは身を引いていますが、しかし彼がなし得た業績はそう簡単には消えません。原子力閥で築き上げた人脈、高嶺のように屹立した原子力村を守る城壁、いずれも武藤氏が作り上げてきたものです。

今でも、大学の教授の中には「武藤さんをもう一度経営陣に戻すべきだ」という人もいます。それほどに、原子力村に蔓延るものはしぶとく頑丈です。

とあるマイミク様が、「何よりも強いのは、人と人とのつながり。組織・体制など脆弱である」とおっしゃっていました。まさにその通りです。今や堅牢な原子力村を打ち破るためには、市民の力を結集しなければなりません。



Professor.さんの日記より
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1771311527&owner_id=40384416

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