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NGO、市民運動「及び腰」クラブコミュの「市民」概念の終焉 −「市民」ではなく「大衆」の時代−

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以下、論考からの転載です。
http://lp.jiyu.net/imamoto-hyouron-new.htm
 
 「●●市の市民」という標準的な言葉の使用法とは別に、市民運動やNPO活動などにおいて「私たち市民」「市民パワー」「市民派」といった言葉が横行している。「私は国民という言葉は理解できるが市民という言葉は理解できない」とは中曽根康弘元首相の弁。こうした「市民」という言葉が乱発されるようになったのは、「市民運動」という呼び方が定着した80年代以降の話である。しかしその「市民」とは、「権力に対抗して弱者の権利を守るために立ち上がる人々」の代名詞であり、いわば公民権運動や女性解放運動などに見られる社会運動の担い手である「市民的不服従」の主体であった。

 しかしそうした「行動する市民なる主体」はすでに日本では70年安保闘争時代に消滅した。今、権力に対して気勢を上げているのはこうした学園紛争時代の元担い手たちの一部と、環境破壊や土地収用、税金の無駄遣いなどによって自分たちの利益を奪われる被害に遭っている一部の地域住民たちとその代弁者である。しかし後者はあくまで「偶発的・多発的に」無作為にどこかの地域において発生する現象であって、19世紀の市民社会で活躍した市民革命の担い手、あるいは自発的な政治的意志をもち政府そのものにプロテストする行動する「市民(citoyen, citizen)」の運動の担い手ではない。その後20世紀になり、社会や経済の分業化が進む中、これらの「市民」もまた、様々な階層やセクターに細分化され、戦後の先進社会において「一般市民」と呼ばれる対象はほとんど消滅した。

 にもかかわらず、こうした曖昧な「市民」概念を惜しげもなく乱発する人たちは、おそらく過去の西洋社会や政権転覆やクーデターなどが起きている途上国の「市民社会」の担い手と自分たちとをスライドさせて、一種の非現実的な「幻影」を追い求めているのであろう。しかし20世紀後半の先進国社会は洋の東西を問わずすでに「大衆社会」である。そこでの担い手はもはや「大衆一般」であり「大衆(mass)」たるものの特徴については、オルテガやマンハイムの指摘を俟たずとも、「受動的でメディアに流され、そのつどの情動的に反応する、非生産的な個人の集合体」である。「受動的ではない」と反論されるかもしれないが、大衆型経済社会においては、自己の経済生活を犠牲にしてまで、年中能動的な活動を行い、政府権力を監視チェックしたり、それに対して働きかけようとしている組織や個人などほとんど存在していない。

 ここで「大衆」的行動とは、自ら客観的な意見や代替案を表現できず、何か問題が起こるたびにメディアの報道やスキャンダルに対して騒ぎたて、騒ぎに乗じて孤独の裏返しに仲間を捜し求めようとする「自己実現」目的の運動である。そして政治の場は彼らの自己実現の表現の場であり、孤独からの解放のための連帯の場と化している。
 
 この大衆の感情的反応は、ときにはマスメディアを通じて権力者に対して大きなマイナスイメージやマイナス世論を形成し、その結果権力者側の意図が頓挫に追い込まれる場合がある。その限りにおいては大衆感情もまた有効である。しかしそれは一過的であり偶然的な反応が多いため、持続的で戦略的な政治的アクションとはけっしてなりえない。「熱しやすければ冷めやすい」のが大衆の特徴である。

 今さらながら自明のことであるが、政治とは個人の「自己実現」の場ではないし、仲間(自分)探しの場でもない。政治とは「私益を犠牲にして公益のために身を捧げる」活動の総体である。ところが「大衆」は、「最大多数の最大利益」という発想を当初から持たずにひたすらエゴイズムを追求したり感情的に動揺するだけであるから、そこで政治的に何ら新たな生産的な成果をけっして生み出しはしないのである。「利権のしがらみがないから」というだけの理由で、無作為に人を集めることができたとしても、大衆社会においては真に能力ある人材を厳選せずして、政治的社会運動が成功することはない。成功したとすれば、それは判断力と実行力で優れた聡明な逸材がその中に偶然にいたというだけのことである。

 こうした非生産的で何の成果も生み出さない「仲良しサークル」的な「市民」運動が、80年代以降相も変わらず作られては消え、消えては作られてきた。それでも自らを「市民」と名乗って恥じない「大衆」は、この運動をけっしてやめようとはしない。しかし彼らの当の改革の対象である社会組織や権力主体は何も変わらないどころか影響も微動だに受けない。ハーバーマスのいうような「対抗システムとしての合理性」を、「大衆」は組織化する術も意志も方法論も持ち合わせていないからである。

 「孤独からの解放」というテーマは次世代、若年世代の運動家にさらに大きな意味をもって受け継がれようとしている。人は孤独であればあるほど「幻想」としての「仲間」を創造したがる。そこで生まれたのが「市民同士の連帯」といった類の「幻想」である。これは大きな組織や団体に所属しない人たち、所属できない人たちの共通用語のように広まってきた。「市民と共に政治を」を謳う地方自治体の市民派議員の共通のモットーは、大型公共事業への反対、行政の不正告発や情報公開、組織や既成政党には頼らない勝手連選挙、政治献金を受け取らないクリーンな議員活動である。

 しかし組織や権力の行なうことが「悪」であり、それに戦う「正義なる市民」という単純な構図はいつも政治的に正当性を担保されるとは限らない。しかも既に指摘したように「正義なる市民」は感情と一時のムードで動く「不特定の無名の大衆」である。それらの「無名の大衆」を代表する「市民派議員」とは果たして何の代表なのだろうか。代表する人間はいても、代表される当の「市民たち」は不在である。だから選挙の時だけは盛り上がって集まっても、選挙が終わってからは散会してしまい、「市民派議員」をつねにバックアップする人たちはほとんどいない。かくして彼らは孤立感にさいなまれる。「組織」や「政党」そのものを批判しているため、選挙自体も顔の見える個人頼みとなる。このような個人で動くことがもっとも得意でかつ実力を発揮する人々は、けっして連帯して「組織化」したり、運動をともにすることはできないだろう。できたとしてもそれは理念、スローガンの宣言やパフォーマンスどまりである。

 政治献金イコール悪であるとはいえないように、何が政治的に正当であるかは、たとえそれが民主主義社会であっても、つねに「多数の言うことが正しい」とは限らない。政治は結果論であり結果的にそれが最大多数の利益になればよいのである。しかし最大多数の利益につながる提案が、つねに最大多数の側あるいは非権力的主体の側から発信されるかといえば、必ずしもそうではない。権力か非権力かという二元論ではなく、エリートか市民かという座標軸でもない。正しさの基準は主体の「外部」に存在するのであって、「誰が」ではなく「何が」という合理的基準に基づいて、総合的判断を下すことのできる第三者、識者が答えなければならない「権利問題」(事実問題ではなく)である。この「公平な第三者」の視点が不在であることが、この国の政治的レベルの向上を阻んでいる最大の原因である。

 ここで相も変わらず一部の人々に幻影を見させている当の「市民」概念自体を私たちは捨てるべきではないのか、と筆者はあえて問いたい。自発的「市民」なき大衆の時代を警告したニーチェに倣えば、「市民は死んだ!君たちが市民を殺したのだ!」と言うことによって。 

 もはや大衆ニヒリズムの時代を生き抜く処方は、何かといえば「市民」なる幻影に頼ろうとするような軟弱で非現実的なアナクロニズムの宣言ではない。「市民ではなく自分自身」にのみ頼ろうとし、自分自身を取り巻く現実を積極的に受け止め、肯定しようとする「超人」の思想である。この「超人」は思いやりとか同情とか共感とか、そういった軟弱な「弱虫思想」「畜生道徳」には一切頼ろうとしないし、「私たち市民」という文句をスローガンのように乱発することはしない。「超人」とは、自らの力で自らを分析・反省し、現実を克服しようと努力する強靭な意志をもった「一匹狼」であり「サムライ」である。すべての個人が「サムライ」になれ、ニーチェはそう現代人に呼びかけているのだ。

 本気で政治の地図を塗り替えたいと思う者なら、ここでニーチェに倣い、「市民」なる曖昧で不確かな「弱虫道徳」に頼ることなく、新しい「超人=強者の道徳」(強者とはニヒリズムを克服し、誰にも依存することなく孤独を超越する強い精神と意志を持ち合わせているという意)に生きることを自らの政治生活・社会生活の指針として宣言するべきだろう。そして今後一切自らの言動において「●●市の市民」という以外の「市民」概念を使用しないし、受け容れないことを公私共に宣言すべきであろう。

※参考【「市民派」に対する批判的分析】
http://www1.kcn.ne.jp/~imashu/shiminha.htm
http://www.ritsumei.ac.jp/kic/~lp004998/class/dd1/senkyo.html
http://park19.wakwak.com/~osamuchan/sangiinsenkyoofurikaette.htm
http://minoh.jugem.jp/?eid=19
http://www.voicejapan.net/report/southasia/report1.htm

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