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広島原爆の記憶調査コミュの広島レポート'07

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遅くなりましたが、広島での感想もまとめたレポート(まだ下書き)を。

本当は院試がなければ、感想→議論→下書き→レポート(完成版)と持って行きたかったのですが、一気に下書きを載せてしまいます。

長いです。
あっ、「荒らし」じゃないですよ(笑)



0.はじめに

「私は街に出て花を買ふと、妻の墓を訪れようと思つた。ポケットには仏壇からとり出した線香が一束あつた。八月十五日は妻にとつて初盆にあたるのだが、それまでこのふるさとの街が無事かどうかは疑はしかつた。恰度、休電日ではあつたが、朝から花をもつて街を歩いてゐる男は、私のほかに見あたらなかつた。その花は何といふ名称なのか知らないが、黄色の小瓣の可憐な野趣を帯び、いかにも夏の花らしかつた。」

原爆文学の巨頭、原民喜の「夏の花」は妻の墓参りから始まる。今、原家の墓には妻・貞恵の名のほかに、甥・文彦と民喜自身の名も記されている。墓に名が記されていなければ、小説の題材になっていなければ、そこで起きたエピソードなど知りようもないほどの昔。彼は何を思ってこの墓を参りに来たのだろうか。

昨年、私は自分と広島との間に如何ともしがたい「距離」を感じた。それは儀礼化された式典に「胡散臭さ」を感じたのも然ることながら、それ以上に、広島で見聞きしたことが自分の中に生きていないことに気付いたからだ。どれほど真摯に被爆者の話しを聞こうとも、過去の出来事に思いを馳せようとも、会場を一歩出れば自分の生活空間・生活感覚に戻ってしまう。被爆者の話しを聞いたすぐ後に「お昼をどうしようか」という会話になったことは、その会話に参加していた自分にとっても正直驚きであった。

例え3日間という短い旅行中はもったとしても、それこそ18切符で広島からの遠い距離を帰って来るまでに元の生活感覚に戻ってしまう。この体験で知識としての蓄積は為されるのかも知れないが、広島が自分の中に息づいているとは到底思えない。その意味で、今のヒロシマは一度見ておけば良いものでしかないのだ。そうして広島は日常の中では忘れ去られ、非規範的な言論が原爆というコードに触れた時だけ、ヒロシマというただお決まりの文句としてヒステリックに喚起される。

それにも関わらず、広島に来るとみな一様に反核・平和を唱え出すことに、私は何か言い知れぬ不可解さを感じる。ゼミの友人が「学生の間に広島に行き、原爆の悲惨さを感じてそれを伝えていかねばならない」と語りつつも、「(広島には)去年行ったからいいや」という矛盾した言葉を紡ぎ出したことは、この問題の本質に絡んでいる様に思えてならない。今回はそうした「分からない広島」に対する自分なりのアプローチである。

1.ヒロシマという記憶 ― 伝承と継承 ―

自己と広島との遠さには、伝承する側としての問題と継承する側としての問題の二つが絡み合っている。ここでは「広島の記憶」という大筋で考えるのではなく、それを伝承する側と継承する側とに分けて考えたい。ここで言う伝承者/継承者とは、単に、原爆を直接体験した人間/それ以外の人間という以上の分け方ではない。さらに言うならば、これは完全に二つに分類されるというものではなく、被爆はしていないが戦争経験を共有する同世代というマージナルな存在もいれば、次の世代に伝えるという意味においては継承者は二次的な伝承者にもなる。その余白は意識しつつ、話しを進めたい。

原爆という体験を共有し得ない我々、継承する側の人間は、決して1945年8月6日8時15分には辿り着けない。どれほどそこに近付こうとしても、自分の生活空間に足場を置く我々はそこへ飛び移ることは出来ないのだ。どれほど被爆者の話しを聞こうとも、被爆した建物の中で思いを馳せようとも、彼らの感じた痛みを自分の痛みとして引き受けることなど出来はしない。そして、次々と新たな世代が生まれ都市の人口が増加していく中で、広島を被爆当時のまま残すことなども出来ず、また自分の生活がある中で原爆のことだけを考えて暮らすことも出来ない。例え被爆者の中では、何十年経とうと「1945.8.6」が終わらなくともだ。だからこそ人は、何らかの形によって、せめて過去の記憶を留めようとする。それが、式典やモニュメントである。

しかし、同様に伝承する側の問題として、ヒロシマという語り方自体にも問題があるだろう。平和記念資料館に代表される様に、ヒロシマを語るときには、まず定式化された被害者の声が取り上げられ、そこに科学的・歴史的裏付けが為されていく中で平和というメッセージへ行き着く。曰く、原爆は上空500mで爆発し、広島の町はいくつかの建物を残して全滅し、その年の暮れまでに14万人が死に、未だに23万にも及ぶ人が苦しみ続けている。もうこんな悲惨なことは繰り返してはならない、と。

どこかの神社に集まる人々とは違い、主張自体には正しさがあると思えるし、私もそうしたメッセージ自体には賛成している。だけれども、どうしてもそこに噛み合わなさがある。過去の出来事の客観的な把握と体験者の苦しみとが同じレベルで語られてしまっていることもそうであるし、過去に起きた自分とは直接に繋がらない出来事を、被爆者と同じ様に厳粛な気持ちで理解しろということにはどうしても無理がある。

まだ同時代として、戦争体験を共有できた世代ならば、かつての悲惨さを語ることで平和へとつなげる語りも有効であっただろう。モニュメントを建てれば、それによって喚起される「何か」を彼らは既に持っていたのだから。しかし、戦後も高度成長後生まれの我々にとって、モニュメントはあくまでモニュメントでしかない。モニュメントを見たところで ― 誤解を恐れずに言えば ― ヒロシマに行ったところで、我々は何も変わらない。ただ、そこにある無残な死に衝撃を受けるだけだ。伝承者と継承者には埋め難い溝があるにも関わらず、その溝はモニュメントや儀礼化された式典で隠され、おざなりなメッセージだけが宙に浮く。継承側の世代にとっては、悲惨な出来事と平和が実感として繋がっていないのだ。

それに反して、そのメッセージとそれへの態度の在り方は、妙な強制力をもって我々に迫って来る。しかし、それが本当の意味での「力」を持つことはない。テッサ・モーリス=鈴木はこう述べている。

「歴史的出来事への、持続する、可視の記念碑の設立というまさにその過程こそ、過去の清算という最終的声明書となり、忘却の出発点となる危険性を常に孕んでいる。(中略)ヤングの「対抗記念碑」設立の提唱には、石材や鉄鋼は記憶を維持できない、という確乎たる思想がその基底にある。記念碑に対する、終わりなき、そして移行し続ける未解決の論争こそ、記憶を維持させる唯一の方法だ、という思想である。」
     (テッサ・モーリス=鈴木『批判的想像力のために』110-111貢抜粋)

広島に行くならば必ず見て来なければならない、とまで言われる原爆死没者慰霊碑。しかし、「安らかに眠って下さい 過ちは繰り返しませんから」という誓いが記されたモニュメントは、ただのコンクリートの建造物でしかない。そこに死者はいないのだ。そのモニュメントの前で立ち止まることには意味はない。だけれども、多くの人々は初めからそう決まっているかの様に、そこで立ち止まり慰霊碑に花を手向け、そして何もなかったかの様に自分の生活へと帰って行く。それが、私が広島で受けた率直な印象だ。それをもう少し考えたい。

コメント(8)

2.「記憶の風化」とヒロシマという語り

― 8月6日の広島の町並みはいたって普通だった。

これは去年のレポートで書いた一節である。6日に限らず、4日・5日も広島の町は日常通りであり、その中で平和記念公園だけが騒いでいるという印象は誰しもが受けるものであろう。昨年、初めて広島に行くまでは、当然、町中のいたるところで慰霊が為されているのだと思っていたし、多くの観光客もこれと大差ない感覚で広島に来る。だからこそ、広島の日常通りの町並みが異常に見え、広島では原爆の記憶が風化しているのではないかと思うのだ。記憶の風化という言説の根拠は、かつての物が取り壊されモニュメントへと押し込められていく、そうした広島の状況に置かれている。

しかし、ふと立ち止まって考えたとき、私はなぜ自分がそうした印象を受けたのかを疑問に思った。なぜ「日常通りの町並み」が異常なのか。裏を返せば、そこには記念式典が正しいものであるという共通の意識があるのではないだろうか。むしろ実際は、記念式典の盛り上がりの方がおかしいのかも知れないが、6日に平和記念式典というイベントを盛大にやることに疑問を抱く人は少ない。観光客はそのイベントを見るためにこそ、6日に合わせて広島に来るのだから。

私は6日の朝、被爆カフェ「アンデルセン」での悠長過ぎたモーニング・ブランチの後、時間を気にしながら出勤の人波とは逆方向に市内を足早に駆け抜けた。商店街を走り抜け、信号をギリギリで渡り、街を横切った先にある爆心地で8時15分を迎えた。そこで既に待ち構えていた幾人かと共に黙祷を捧げ、そこから商店街を抜けて一気に視界が開ける平和記念公園へ向うと、むしろ式典の盛り上がりの方が異常に見えた。

そこには犬を連れて散歩をする人もいなければ、出勤するサラリーマンもいない。代わりに、元安橋のたもとには「戦争反対」「核廃絶」を叫びながら式典へ行こうとする団体と衝突する機動隊がいた。相生橋から原爆ドームを左手に見て平和記念公園へと下る道筋でも、警察が立て看板と共に待ち構え、そこからさらに下って式典の上座へ至る道は完全にシャットアウトされていた。整然と律せられた平和記念公園の様子は、式典があくまで行政のものだということを象徴的に表している様に思える。警察が出て来ていることは、まさにその現われであろう。

こうして考えたとき、このイベント化した式典が、そして平和記念公園自体がある種の異常な空間であると言える。それはいわば、特権的権力による原爆の記憶の可視化である。そこでのおざなりな宣言が、客観的視点での語りが、完全に共有することなど出来はしない原爆の記憶を分かった様な気にさせてしまう。

式典の時間は引き潮で、ちょうど水位の下がった相生橋の下には花が手向けてられていた。その花が相生橋から飛び降りて死んだ被爆者の遺族のものかどうかは分からない。しかし、死者は間違いなく、市長や総理が立つ式典より下に眠っているのだ。式典があり、記念館があるここには本当の意味での死者はいない。だけれども、人々は皆そこに参加し花を手向けて帰って行く。それを当然に思い、そこに疑問を抱かない感覚こそ、この問題を考える上で重要なのではないだろうか。式典に参加する人間がいて、会場に入れなかった人間がそれを取り巻いて、さらにそうした様子を伺う人間で平和公園は溢れ返る。この中で一体どれだけの人間が来年も広島に来るのだろうか。整然とした式典に出ることを当たり前に思う感覚と、「去年行ったからいいや」という感覚は繋がっているのだ。
3.ヒロシマを巡る規範

では、なぜそれを当たり前と思うのだろうか。そこにこそ、今の広島をめぐる問題の根源があるはずだ。

広島に限らずこの国では、原爆の記憶を伝えるに当たって、正統/非正統という分け方が為されていると言える。我々は常に原爆の記憶に触れるに当たって、「直立不動で厳粛な気持ち」で見ることを強いられる。その態度こそが正統と考えられるものであるからだ。原爆ドームの前で撮る写真で楽しげにピースなどしてはならないし、6日の町並みは原爆の記憶を喚起させる様な非日常的なものでなければならない。そう思わせる何かが、我々の中には植え付けられている。

例えば、広島の原爆の記憶を調査に来た団体の中で、一人だけ6日の式典に出ないと言ったらどうだろうか。口には出さなくとも、多くの人間が「広島に来たのになぜ?」という感覚を抱くはずだ。そこには式典に出るのが当たり前という意識、そうしたイベントが正統な慰霊・記憶の継承であるという意識があるのだ。


それは正統/非正統という区分けを可能にする権力である。その存在を強く意識したのは、6日の朝早くに原爆ドームに行った後輩が、ギターを弾いている人間がいて煩かったという話をしていたのを聞いた時だった。我々にとって、原爆ドーム前でギターを弾くことは慰霊ではなく騒音なのだ。ギターでの演奏は正統な慰霊ではない、という解釈コードが我々の中に植え付けられていて、それを規準に考えられた結果のリアクションなのだ。今のヒロシマにはそうした唯一絶対の聖典(身体化された解釈コードに基いた記憶の在り方)があり、それを受け継げという伝承のされ方が為される。

それは知識としては蓄積し易いものだし、一回見れば事足りるものでもある。それを一回見て満足する者、そこに胡散臭さを感じて反発する者、逆にそこにコミットメントする者。具体的な目に見えるリアクションは違えど、我々の中に植え付けられた倫理コードを出発点にしているのだ。そうした倫理コードは正統なものとして理解されているからこそ、敢えて疑問を投げかける者はいないし、投げかけたとしてもすぐに潰されてしまうだろう。

広島にまつわる記憶表象はそうした強い権力を持つものだからこそ、儀式には我々も含めて、広島(広島の正統性)を利用したい人間が集まるのだ。6日の平和公園でやたら見かけた、おそらく社会派の団体であることをアピールしたいのであろうボーイスカウトの団体。「平和」「反核」とただ叫びたい平和団体。参院選に大敗したからか、まるで6日に合わせたかの様に原爆症規準の見直しの検討を告知し、式典では自身のカラーに反して護憲を語った安倍首相。「直立不動で厳粛な気持ち」で聞かなければならないヒロシマという在り方は、そこに寄り添う行動に、寄り添う者に、正統性を与えてくれる。ここには、正統性を巡るパワーポリティクスがあるのだ。
4.ヒロシマの伝え方と役割り

そうした状況を検証する上で、「8月6日」をメディアがどう報じたのかを考えたい。

あまり意識されることは少ないが、端的に言ってメディアとは商品である。「メディアがブームを創る」といった言い方も為されるが、それが商品であり販売数や視聴率といった「売れ行き」を保たねばならない以上、メディアは消費者が何を求めているのかに敏感でなければならない。こういった言い方が許されるか難しいところではあるが、ある意味、メディアとは独自の意見を主張するものではなく国民の代表という形で国民の中にある意見を語るのだ。視聴者がメディアの内容を決定し、そうした路線をメディアが取ることで、逆にそれによって視聴者が影響を受けるという循環が起きている。これを社会学ではメディア・フレームと呼ぶが、そうしたメディアの伝え方を分析すれば、「8月6日」が社会的にどう認識されているのかを考えられるだろう。

似島からの帰りのフェリーの中で見たNHKの特番は、8時15分に人々が黙祷する姿から番組を始めていた。初めに幼い息子・娘を連れた母親が街中で黙祷を捧げる姿が映され、次に老人ホームの人々が黙祷を捧げる姿、職場で直立不動で黙祷を捧げる人々と場面は移って行く。6日の中国新聞の特報は子供が祈る姿、同じく6日の毎日新聞夕刊は慰霊碑の前で目を瞑り祈る少女を一面に載せ「8月6日」を報じている。中国新聞の写真のキャプションは「一心に手を合わせる親子ら。ヒロシマの願いが次代に継承される」である。これらは「正しい」継承の仕方を映し出している。この写真が、原爆ドームの前でピースをして記念撮影をする大学生の集団に差し替わってはならない。例え、後者の方が多かったとしても、それは厳かで清廉な「正しい」継承とはみなされないのだ。

その意味で、6日の朝にアナウンサーと思しき女性が、緊張しながらも直立不動で厳かな声で中継の練習をしていたのは印象的だった。そうした形で報道しなければ不謹慎だという、暗黙の了解があるのだ。平和式典のクライマックスで空に放たれる鳩も、数時間前から檻に入れて準備され、ここぞというタイミングで、鳩が群れで飛ぶ時の習性をよく踏まえた上で放たれる。そうした意識でヒロシマは作り上げられているのだ。

これらはヒロシマを前にした時に、ほぼ全ての人の中でそうあるべきだと認識するであろうものだ。私自身も批判的な態度で見ていなければ、特におかしいとも思わず流してしまう記事・番組。しかし、果たして、その規範が実際にどれだけ噛み合っているのだろうか。私は8時15分に爆心地にいたが、車はいつも通り走っていたし、人も普通に歩いていた。むしろ、こんな道路の真ん中で立ち止まっている自分たちの方こそ邪魔者であっただろう。
5日に行った三滝寺にも、幼い息子・娘を連れた母親がいた。交通安全の慰霊碑の前で母親が手を合わせると、二人の子供も母親の真似をして手を合わせたが、幼すぎる息子はその意味がよく分かっていない様だった。父親の姿が見えないことを考えると、邪推かも知れないが、もしかすると父親が交通事故で亡くなったのかも知れない。それでも、幼い息子は手を合わせつつ、ちらちらと母親の方を見ては「まだやるのかな?」という顔をしていた。

よくよく考えれば、それが普通の感覚なのではないだろうか。自分と意識の上では直接の繋がりを持たない存在、手を伸ばそうとも決して届かない存在。そうした存在の死は、どうしても実感を伴い得ない。しかし、「そうすべき」という規範が、なぜそう感じるのかという問題を置き去りにしたまま、不届きな態度という形で追いやってしまう。そうした規範によって、式典は形作られ、その式典によってそうした意識が確認される。それらは社会的に準備されたものなのだ。現状では行政が最も効率よくそれを利用しているが、行政がそれを創り出したわけではなく、あくまでも文字通り利用しているに過ぎない。その存在が問題を捉え難くし、人によってはヒロシマに対する「胡散臭さ」だけを残してしまう。

継承と伝承は重なり合うものでもあるが、やはり根本は違うものである。互いの距離を意識しつつ、その二つの視点で見ていかねばならないにも関わらず、「こうすべき」「こう思うべき」という決まった社会規範があり、それが我々に内在化されてしまっている。だから広島に来る人の感想は根本を同じくしているのだ。

「勉強していったのに何だか、広島の人や広島に来る人はそんなに原爆のことを知らなくて勉強損だった。」「何だかよく分からないけれど、平和・反核を叫ばれると一歩引いてしまう。」「去年行って見たから今年はいいや。」これらは全て、ゼミや大学の友人から実際に直接聞いたことのある感想だ。ここからはそうした倫理コードと我々の実感の齟齬、そしてその倫理コードに基いて期待される役割が見て取れる。

それは広島市民に求められる役割り、広島に来る人間に求められる役割り、原爆者に求められる役割り、である。広島市民は原爆についてよく知っていて、6日は厳粛な気持ちで迎えなければならない。広島に来る人は「直立不動で厳粛な気持ち」で原爆の記憶に触れ、決して原爆ドームの前でピースなどしてはならない。被爆者は清廉な存在で平和・反核の旗手でなければならない。例えば、広島は軍都だったから原爆を落とされても「仕方なかった」とか、あいつは嫌いだったから死ねば良かった、などとは決して言ってはならないのだ。

人々はそうした倫理コードに基いたヒロシマを確認しに来るのであり、それを見ることが出来なければ何か違うと言い、それが期待通りであれば、逆に胡散臭さを感じたりや一度見たからいいやという感想を抱くのだ。伝承/規範という二つの視点で見ていくと、そのどちらにも含まれず、それでいて両方の根本を規定する(被爆者とは重なり合わない意味での)規範が見えて来る。
5.記憶を辿る

広島の至るところに根付いていたはずの記憶は、広島の復興と共に取り除かれ、モニュメントという形に押しやられている。伝承者と継承者の絶対的な遠さは置き去りに、ハコモノ化した記憶を、直立不動の厳粛な態度で聞かなければならないという倫理コードが力を持っているのだ。

もし今、平成生まれの何も知らない子供が広島の町を見れば、平和公園の中だけで原爆という事件が起きたと思うかも知れない。遺族にとって、そして後に彼らを慰霊する者にとって、最も重要なのは式典の有無ではなく、彼がいつどこで死んだかという事実だ。だからこそ、交通事故の遺族は、事故現場に花を手向けるし、未だに東南アジアに眠る日本兵の遺骨の調査に出かけるものがいる。彼が死んだ場所は例え事実でなくとも、そう納得出来るのならば良いのだ。それは、他者によって規定された場所では意味を為さない。今、広島の記憶はそうした場所性を喪失している。

今年は、5日6日と稲荷大橋のたもとにある牡蠣料理店で昼食を取った。事前に下調べをしていったこともあって、今年は昼から随分と豪華だ。だけれども、牡蠣を食べながら京橋川を臨んでふと思う。この川でも多くの人々が亡くなっているはずなのだ。原爆で肌が爛れ焼けてしまうと体温を調整する汗が役割りを果たせずに、体温が上がり続けて、多くの人が意識が朦朧としたまま川に飛び込んでしまう。そこ待っているのは、溺死か、次々に飛び込んで来る被爆者に押し潰されるという圧迫死だ。

戦後62年も経てば、遺体の鮮血に染まった川辺の洗い流され、壊れた橋も取り壊され、ただ残るのは橋のたもとに置かれる申し訳程度のモニュメントだけ。川辺をコンクリートで均し、塗り固めた上に、「牡蠣亭」が出来た。多くの人がそこで被爆者が亡くなったのは知っている。だけれども、牡蠣店のランチは美味しい。我々はその距離感の中でしか生きられないのだ。だからこそ、そのコンクリートの下で芽を出さぬままに埋もれてしまったものの存在こそ考えねばならないのではないだろうか。被爆者の実相を記憶という名のコンクリートで塗り固め、その上に反核・平和という御旗を立てている。そこからは、我々が理解し得ない、被爆者の深く静かな絶望は削ぎ落とされてしまう。原爆を伝えるということに心血を注いだ原民喜は、なぜ戦後6年という時代に自ら命を絶ったのか。我々は彼の絶望を理解することは出来ない。

今年は原民喜の避難した経路を自分の足で歩いてみた。広島市内から縮景園を経由して、白島交差点にある彼の墓をお参りして、常葉橋を通って饒津神社へ。そこから、東照宮を通り過ぎ、その山奥にある金光稲荷神社までおよそ6kmほど自分の足で歩く。夏の花の真似をして黄色い花も持って彼の墓に行ってみたけれど、原民喜が見たであろう全壊した広島の町並みも、死者累々の風景も見えては来ない。

どれほどアンテナを立てようとも、そこには飛び越えられない深い深淵がある。我々は伝承者が伝えようとする全てを、継承者として受け継ぐことができるわけではない。それは違う生活意識に基く者の宿命であるし、これが唯一絶対のヒロシマという聖典だ、と言われてもどうしても実感は持てない。それを「直立不動で厳粛な気持ち」で聞かなねばならないとなればなおさらだ。それは自分の手で、自分の足で掴まなければならない。

しかし、そうして考えた時に、ふと疑問に思うことがある。広島ではそうしたことを想像して町を歩くけれど東京はどうだろうか。戦時中には東京でも空襲で多くの被害者が出て、東京空襲では焼け野原となった。被害者はたった1日で10万人とも言われ、45年の年末までに14万が死んだ広島に匹敵する被害者数である。しかし、それはほとんど忘れ去られていると言って良い。東京と広島を比較したとき、あまりにも広島の被爆者というカテゴリーが強過ぎるのではないだろうか。原爆でない広島の記憶などは取り沙汰されず、全ては原爆というところに収斂されてしまう。そう、「原爆の記憶」。その言い方が正しいはずである。本来はそう言わねば伝わらないにも関わらず、私もずっと「広島の記憶」と繰り返している様にそれでも話しは通じるのだ。いかにヒロシマ=原爆と考えられているかの現われであろう。

そうしてその考えは、被爆者の「役割り」をも明確に規定してしまう。実は、今のヒロシマで、誰が何を伝えようとしているのかは不明確なのかも知れない。
6.伝承の意味、継承の意味

では、なぜ我々は広島を伝承/継承しようとするのだろうか。
なぜ伝承しようと思うのかについては、それほど難しい問いではないだろう。それはおそらく、自らのアイデンティティに関わる重大な事件を語りたい(もしくはアイデンティティに大きく関わるからこそ、語りたくないという逆ベクトルの感情)というものだ。原民喜は戦後にその被爆経験から、非常に秀逸な原爆文学を書いたという評価を得ているが、私はその認識は片手落ちだと思っている。おそらく彼は書こうと思って書いたのではないのだ。彼にはそれしか選択する道がなかったのだ。

日常のどの場面においても、原爆の状況がフラッシュ・バックして来る。どれほど復興し、原爆の傷跡が町並みから消えても、例え済む町を変えても、決して忘れることはない。それはトラウマの様に、突如として襲い掛かって来る。彼には原爆を忘れ、普通の生活を送るという選択が初めからなかったのだ。原爆は彼の内面までもを食い荒らした。伝承者にとって、語るにせよ、語らないにせよ、その根源的な動機はその事件の(自分に対する)衝撃の大きさだ。

ではなぜ、我々はそれを継承したいと思うのだろうか。
そもそも原爆の記憶を継承しようと思って広島に行っているのかは甚だ疑問である。かつてこの国であった悲惨な出来事を継承しようと思うのは、自然な気持ちなのか、はたまた政治・倫理的なものなのだろうか。

それは、「直立不動で厳粛な気持ち」を一度内面化したからこそ出て来るリアクションなのではないかと思う。だから、動機は単純なのだ。「見るべき」と思っているから見に行く。小学校、中学校、高校と学び、一度は見るべきという倫理コードが身体化されるからこそ遠い広島まで見に行くのだ。そして、先に述べた様に、その倫理コードに基いて広島を見る。この倫理コードは多くの人間を広島に送り込む力はあっても、そこから先に進める力はない。むしろ、その規範はそこで我々の足を止めてしまう。

記憶の継承とは、全てを網羅した聖典を次世代に手渡すということではない。継承とはあくまで継承する側の主体的なアプローチだ。掴もうとして手を伸ばし掴んだつもりになっても、手を引き寄せて開いてみれば、結局その手には何も入っていない。そして、また手を伸ばす。継承とはその繰り返しの中にしか立ち現れない。継承とは静的なものではなく、動的なものでなければならないのだ。継承とは、ヒロシマを知識として、「直立不動で厳粛な気持ち」で受け継ぐということではない。そうでなければ、100の価値を減価償却いていくのと同じ様に、ただ記憶を食い潰していくに過ぎないのだ。その意味で、継承とは名詞形ではなく、常に動詞形としてしか存在し得ない。その過程で、基点となる「自分の広島」を見つけていくのだ。
7.おわりに

三滝寺で母親の見よう見まねで手を合わせていた幼い男の子。確かに、彼は今その意味を理解してはいないだろう。だけれども、彼が大人になったとき、自分が(もしかしたら、その時にはもういないかも知れない)母親と走り回り、遊び育った場所には被爆者もいることを知る。そのとき、彼は何を思うのか。

その場所に刻みつけた被爆者の記憶、想いには決して辿り着き得ない。そして、その場所の記憶を「直立不動で厳粛な気持ち」で見るのが継承というわけでもない。むしろ継承とは、かつて被爆者が記憶を刻みつけたその場所に、今度は自分が記憶を刻みつけることだ。6日の朝はアンデルセンで朝食を取った。その旧帝国銀行で被爆した人の想いに辿り着けはしないが、そこで珈琲を飲み広島を話し合う。近付くところまで近付いて、そこに絶対に越えられない深淵を見たならば、今度はそこに自分の記憶を刻み付ける。これが継承であり、書き込んで更新し続ける場が「自分の広島」なのだろう。アンデルセンで朝食を取りながら、4人で広島を語り合っていた時には「これだ」という実感、今ここに継承が立ち現れているという「実感」があったが、それはすぐに立ち消えてしまうものの様だ。結局は「これだ」を繰り返し、更新しかないのだろう。


正直なところ、今回は去年の課題であった「分からない広島」を考える為に、ヒロシマから取り残される継承者というところに力点を置いて考えた。ヒロシマに感じる「胡散臭さ」は何なのか。「学生の間に広島に行き、原爆の悲惨さを感じてそれを伝えていかねばならない」と語りつつも、「(広島には)去年行ったからいいや」という矛盾した言葉が紡ぎ出されるのはなぜなのか。それを考えてみたかった。

しかし、ヒロシマから取り残されているのは我々だけではない。被爆者も、語られないままに広島で眠る人々も。我々は一番取り残してはいけない人々を、そのまま取り残してしまっている。

自分が手を伸ばし更新として継承していく。それはある意味で、被爆者を置き去りにしてしまう議論でもある。そして、それは靖国の様な言説を批判できないという限界もある。来年はその辺りも考えたい、と思っている。

終盤は雑感になってしまたが、これが今回広島で考えて来たことだ。
長くなりましたが、こんな感じです。
では、お休みなさい(笑)

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