ヒロシマの記号化が進むという事は、すなわち広島というアウラの剥奪と同義である。「その日、その時」の感覚から遊離してしまった「H i r o s h i m a」。それはもう、アルファベットに分節化され得る表音文字でしかない。その最たる例が、原爆の日の平和記念式典だろう。小泉前首相が来て形だけの平和を語らって(彼はその九日後に靖国参拝をしている)、何十羽という白い鳩を空に放つ。誰が為に、何の為に、ヒロシマは語られるのだろうか。記憶の風化とはかつての出来事が忘れ去られることだけではなく、それが呼び起こす意味・警告・スローガンが凡庸化・陳腐化する事を指す。行政化され、儀式としてのルーチン化によって形骸化したヒロシマは、人を揺れ動かす力を失っているのだろう。だからこそ、先に述べた様な感覚が喚起されてしまうのだ。