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広島原爆の記憶調査コミュの参考程度に(広島レポート'06)

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昨年のものも載せておきます。
昨年の方が、初広島だったので感想に近いですね。

文章自体は今読み返しても簡潔で読み易いですが、自分の頭の中だけで考えていて他者を意識してないです。個人的には今年の方が好きかな、といった感じです。



1.ヒロシマを考える

違和感はイベント表を見た時からだった。全てのイベントの名に含まれる、「平和」「へいわ」「ヘイワ」の文字群。個人的には、ここにどうしても一歩引いてしまう様な感覚がある。そこにコミットメント出来ない、と言えば良いのだろうか。とある友人が言った、「世界平和だとか反戦だとかを声をあげて主張することにかなり偽善的な嫌悪感を持ってしまう」という言葉は、多くの人に共通する感覚ではないだろうか。

一体なぜ、こうした「偽善的な嫌悪感」を持ってしまうのか。かつて21世紀はある種のユートピアと同義に語られていた。車は空を飛び、医療の発達で病はなくなり、差別など無意味な程に流動化した世界。そこでは、戦争や貧困や飢えで人々が苦しむ事もない...そんな期待を裏切るかの様に、戦争・レイシズム・抑圧たるグローバリズムという緊張をそのままに、21世紀は我々の前で無情にも佇んでいる。そんな世界で平和は尊いものであるし、誇るべきものである。にも関わらず、何故そこにきな臭さを感じてしまうのだろうか。それを広島で考えて来たつもりだ。

先にお断りしておくならば、今回の広島FWは自分として必ずしも満足のいくものではなかった。「分からないヒロシマ」という、シコリとも言うべきものが自分の中に沈殿している。おそらくこれからも付き合っていく事になるであろう、そのシコリを考える事で今回の旅の反省とレポートとしたい。


2.記号化するヒロシマ

今回の旅で感じた疑問を一言で終わらせ様とするのならば、ヒロシマが記号化しているのではないか、ということだ。多くの原爆イベントにおいて、広島は「平和」を喚起する記号としてのヒロシマでしかない。ヒロシマ=悲惨=平和という公式。それがヒロシマである必然性は全くないのだ。長崎でも沖縄でも南京でも平頂山でも、「平和」という言葉を引き出せれば何であっても構わない。その意味で、イベント表の中に「原爆と同様に負の遺産と呼ばれているアウシュヴィッツ展」があったのは象徴的だった。

ヒロシマの記号化が進むという事は、すなわち広島というアウラの剥奪と同義である。「その日、その時」の感覚から遊離してしまった「H i r o s h i m a」。それはもう、アルファベットに分節化され得る表音文字でしかない。その最たる例が、原爆の日の平和記念式典だろう。小泉前首相が来て形だけの平和を語らって(彼はその九日後に靖国参拝をしている)、何十羽という白い鳩を空に放つ。誰が為に、何の為に、ヒロシマは語られるのだろうか。記憶の風化とはかつての出来事が忘れ去られることだけではなく、それが呼び起こす意味・警告・スローガンが凡庸化・陳腐化する事を指す。行政化され、儀式としてのルーチン化によって形骸化したヒロシマは、人を揺れ動かす力を失っているのだろう。だからこそ、先に述べた様な感覚が喚起されてしまうのだ。

今回の旅では広島の「人」もなるべく注意深く見て、向こうの人とも話しをして来た。そこで受けた印象は、広島のイベントは市内で騒ぎ、そこに外の人が来るという事だ。街の人もそれにはもう慣れている、という様子であった。8月6日の広島の町並みは至って普通。だからこそ、原爆イベントが浮いて見えた。まるで大学受験日の朝の駅。毎年の定例行事として、朝の駅には多くの受験生が集い、そこではこれからある大イベントに向けて様々な感情が渦巻く。しかし、それに関心を払う通勤者はいない。受験生で混雑する駅を見て、通勤者はこう思うのだ。「あぁ、今年もそんな季節か」と。

戦争感情というものは、世代が下れば下るほど噛み合わなくなって来てしまうのではないだろうか。それは、戦争という記憶自体が忘れ去られていくという以上に、世代が下るに連れて戦争感情は当事者の感情から乖離し、それだけが際限なく再生産されていってしまうからだ。直接的に被害・加害に関わっ人間と、そうでない人間。いわゆる被害者と加害者と、そこに関心の無い者。そこでは、様々な歯車が聞くに堪えない不調和音を奏で出す。

昨年の夏に訪れた、瀋陽の「九・一八記念館」でもそうした印象を受けた。同行した人々は「靖国と同じ愛国教育」と言っていたが、それほど簡単な話しではないのではないだろう。なぜ、戦争の悲惨さ・実相というものが剥奪され、愛国教育(そう断然するにも問題はあるが)というところに行き着いてしまうのか。そこには、アウラの剥奪されたヒロシマと同じ構造がある様に思える。その中で反戦・反核・平和運動ばかりに収斂され、戦争の実相は消えていく。伝えようとするが故に、伝わらないのだ。

ただし、そうした「きな臭さ」という一言で広島の全てを語る事は出来ない。なぜならば、我々の使うヘイワという言葉と、被爆者の使う平和という言葉は違うからだ。そうした私的記憶としての広島を考える事が、集合的記憶の中で飼い慣らされたヒロシマの突破口となるのではないだろうか。


3.「広島」の遠さ

では、被爆者の体験談を聞けば良いのだろうか。知識として、ヒロシマを持っていれば良いのだろうか。

「実体験を付随しない過去の戦争は、決して内在化できない出来事かもしれないけれど、マクルーハンが言ったようにメディアが身体の拡張であるとしたら、アーカイブスで再製される過去の記憶は、知識として肉体化することはできるのでしょうか。」これもまた、とある友人に問われた事である。これは非常に難しい問いかけだろう。そもそも、記憶とは単なる過去の体験の記録・告白ではなく、現在の位置から再構成されるものである。記憶は現在の立場に基づいて、都合良く再編・漂白される運命にあると言っても良いだろう。特にそれは、語る(narrative)という場面において起こり得る。

8月5日に原爆ドームのすぐ近くにある、本川小学校で「平和を考える会」というものがあった。『裸足のゲン』で著名な中沢氏が小学生相手に当時の話しをするというイベントだ。被爆者は当時のその瞬間を鮮明なまでに覚えている。空襲警報で眠れぬ夜を明かした、真っ青な空の下。母は二階の物干し台で洗濯物を干し、父は玄関近くの書斎で新聞を読み、長女は居間で遅れがちな学校の勉強を、4歳になる弟は玄関前で遊んでいた。見渡す限りスカイ・ブルーの空に、ゆっくりと一機のB29が飛んで。小学校の校門に寄りかかって、友達の母親と空襲警報がならない事を不思議に思いながら話していた。そして...

被爆者にとって、「8月6日」は終わっていない。焼け爛れた皮膚を引きずる様にして歩き回る人々、動けない被爆者の水を求める合唱のフラッシュバック。原爆から20余年を経て死んだ母に、ほとんど残っていなかった骨。未だ名前すら分からないままに眠る人々。まさに、アーレントの語る「忘却の穴」へと落とし込まれた存在だ。一人の人間が、かつてこの世に生きていたことがなかったかの様に生者の世界から抹消されたことで、彼らは二重に殺されたのだ。平和記念館の出口に、未だに親族が見つからない無縁仏のリスト(そのリストに載っている名前も正しいかすら分からない)が張り出されていたのは戦争というものが何なのかを示している。中沢氏の原爆を伝える話し自体は、とても良いものだったと思う。

彼の中で永遠に続く「8月6日」。その苦しみ、悲しみ、そして虚しさ。しかし、体験を語らおうとする時、それは「その日、その時」という「時景」(鹿野政直『兵士であること』)を失い悲しみの物語へと還元されてしまう。飼い慣らされた記憶は、もはや不安を喚起するものではない。人間が本来的に領有できない、人の死という〈出来事〉が飼い慣らされてしまうのだ。そこでは、真っ暗な穴の奥底にうごめく〈出来事〉の記憶が、その壁を捩りのぼって「物語」(narrative)を突き破り、暴力に浸潤されたその記憶を滴らせながら私たちに迫ってくるということはない(岡真理『記憶/物語』)。それは形を変えた忘却だ。そこで、「悲惨だった」と語ることにどれほどの意味があるのだろうか。語ることは物語化を招き入れ、〈出来事〉は記憶の中で忘却されてしまう。私的体験の中に集合的記憶が入り込み、「悲しい物語」で終わってしまうのだ。

言ってしまえば、中沢氏の話しは今までどこかで見聞きした話しであった。どこかで聞いたエピソードが所々に散りばめられ、「あぁ、そうだったんだ」と思う。それは、悲惨だった、良い話しだったで終わってしまうものに過ぎない。だからこそ、会場を一歩出れば一緒に聞いた友人とお昼はどうしようかという会話が成立してしまうのだ。そして、ただ「ヘイワ」という言葉だけが虚ろに漂う。

一体、この距離感は何なのだろうか。それはおそらく、語る側のステレオ・タイプ化と、語られる側の経験性の差異によるものだろう。ソンタグが語る様に「苦痛」はそれを経験した者にしか分からず、我々の想像する苦痛との間には無限の距離がある。想像とは、自己から他者への一方通行なアプローチだ。自分のいる側から、その理論でもって「他者」を解釈する。だとすれば、想像は自己が体験した事のないものを自己の理論で推し量る事であり、それでどれだけ対象に近付けるのだろうか。これは小学生相手の話しであったからという様な、皮相的な問題ではない。語るという事の危険性であるはずだ。

平和記念資料館では、被爆者の体験談をナレーション化したものが流れていた。どれも当時の内容が良く分かる様な語りではあったが...しかし、全ては叙情性というところに溶かし込まれてしまう。そこで流される涙は、「悲しみの物語」への涙でしかない。そう考えるのならば、被爆者の体験談(私的記憶)は常にヒロシマ(集合的記憶)へと回収されるものであり、安易に被害者の体験談を聞けば良いというものだとは言えないだろう。


4.ヒロシマから広島へ

我々はどんなに足掻こうとも、「1945.8.6」には到達し得ない。だからこそ、それを自覚するところから始まるのではないか。時景やアウラの回復とは、当事者性にべったりと寄り添うことではない。それは、原民喜の語る様に、「僕はここにゐる。僕はあちら側にゐない。」という絶望的なまでの断絶の自覚の上にこそ成り立つのだ。アウラが剥奪されればヒロシマを伝えていく事は出来ない。しかし、アウラに拠り過ぎれば、それは当事者性・一回性の域を出ずそこから何も始まらない。アウラに拠っている様に見えて、その実、集合的記憶に巻き込まれていることもあるだろう。「アウシュヴィッツは語れない」とは、そうした時景の保持を語っているのだ。

しかし、それでも語り伝えなければならない。その為にこそ、「自分の広島」を考えることが必要なのではないのだろうか。「自分の広島」から、広島へ繋げていく。20数万人の死と言われても、それは我々の想像の範疇を大きく超えてしまっている。もっと近付いて見ていかなければならない。

例えば、8時15分で止まった時計。その時計をしていた人はどんな人だったのか。大きさから考えて男ものだろうか。就職祝いに母から買ってもらった時計で、地方からこの軍事都市に出て来て銀行で働いていたのかも知れない。月の少ない給料からも、田舎に残した母や弟たちに仕送りをする日々。戦争の激化で仕送りが厳しくなる中も、ずっとずっと耐えて。そして、夏に入り、いつもの様に暑くセミが賑やかに泣いている日。銀行に出勤して、シャッターを開けて今日の営業を開始しようとした時。唐突に、何もかもが消えてしまった。

そうした当事者性のクローズ・アップは、あちら側とこちら側に横たわる深遠の認識を迫り、その超えがたさを認識することだ。その時計のエピソードは東京人である自分の、原爆を経験せずそれを直接的にも引き継がない自分の想像によるものでしかない。想像とは先に述べた様に、あくまでも自分の経験に基づいてそこから手を延ばしたものだ。そうした「自分の広島」から、広島へと繋げていこうとする時、それは自分の想像によるものでしかないという事に常に葛藤を抱える。理解とは、対象が人間であれ広島であれ、「こういうものなんだ」とラベルを貼る事ではないはずだ。

理解するとは、関係に挫折し苦悶すること。その現在進行形の葛藤を、人の輪としての広島から自分の問題を見出せないだろうか。一緒に広島へ行った先輩が、偶然にもそのさらに先輩との知り合いに出会うということがあったそうだ。その人は広島の歴史を編纂している人で、広島に調査に来たことを明かすと色々と話しをしてくれたと聞いた。広島の人々とそうした輪の中で、対面し深淵に葛藤を抱えていく。非常に抽象的ではあるが、そこで「自分の広島」を見出していくことが必要なのではないだろうか。自分はその輪にも入れなかったし、その意味で今回はただの旅行者に過ぎなかった。今手元にあるのは「分からないヒロシマ」だけだ。来年もう一度行って、考え直して来たい。

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