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初代内閣総理大臣 伊藤博文コミュの伊藤博文についての発表準備

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伊藤博文についての発表準備の最終コーナーを回りかけています。 伊藤公が活躍した明治時代の政治全般を扱うので幅広い内容となりました。 



第199回、10月例会を下記のとおり開催します。

「日 時」10月28日(土曜日)14時〜16時
「場 所」四ツ橋ビル地下1階 四ツ橋ビル地下センター『会議室』
「電 話」(四ツ橋ビル 管理事務所) 06−6531−3686
(管理事務所 携帯電話) 070−5669−1510
「行き方」地下鉄:四つ橋線四ツ橋駅下車2番出口へ。四ツ橋ビルの
     地下1階に『会議室』があります。「長堀鶴見緑線線」並びに
     「御堂筋線」心斎橋駅及び「クリスタ長堀」とも連絡口で直結。

「テーマ」 『 伊 藤 博 文 』
「担 当」  大 圓
 
 伊藤博文 (1841〜1909)
「世界のどのような国でも初代首相や初代大統領は後世まで語り継がれる存在です。しかし明治の偉人のなかで初代首相伊藤博文について書かれたものは少なく批判的なものが多いです。朝鮮人安重根に暗殺されたことで安を英雄視して教科書で書か
れても、伊藤公が韓国併合に反対だったということは教えられていません。また伊藤公を知らずして明治日本やそれ以降の大日本帝国や日本の歴史政治問題は理解できないのです」


「参考資料」として以下55ページを作成しましたので、会場で配布いたします。

?  扶桑社の「新しい歴史教科書」(明治の国会と憲法、日本と朝鮮、の部分) 
?  伊藤を取り上げた問題意識 
?  年表 
?  年表についての注釈 
?  政治家としての資質や性格など 
?  逸話 
?  明治の精神と鉄道 
?  征韓論 
?  大日本帝国憲法 
?  教育勅語 
11 韓国と台湾 
12 暗殺
13 明治天皇

 
(例会参加費 会員500円 一般1000円)

「今後の予定」  
11・25『 第 2 0 0 回 ・ 記 念 大 会 』  
12・16『日野原重明先生の挑戦的な生き方』担当:寺井康裕氏 通常例会

連絡先
中村征四郎 TEL/FAX 072−632−1002
        携 帯  090−6053−6733

田中 弘  TEL/FAX 06−6551−6194



新しい文献などから今回新しく仕入れた情報を以下に転載します。 今までに調べたものは以下の私のコミュに掲載していますのでご覧下さい。
「伊藤博文」コミュ
 http://mixi.jp/view_community.pl?id=240830 


●【逸話】追加・「ランドセル」

幕末の西洋式軍隊の導入とともに「ランセル」と呼ばれる布製の背嚢が輸入された。それが「ランドセル」と呼ばれて華族の子弟が学ぶ学習院で通学カバンとして使用されたが、形はリュックサックのようだった。
伊藤はそれを皮製にして大正天皇が学習院に入学されたときに献上した。それが皮製のランドセルの始まり。学習院では通学服が自由であったがために服装の競争心をあおり、その結果制服が導入された。
そしてこの制服にランドセルという学習院スタイルが全国に普及した。

●【政治家としての資質】

評論家の福田和也はその著書「総理の値打ち」で歴代総理大臣の評価をしているが、伊藤に最高点を与え「功績不朽の名宰相」と紹介し、世界史に明記さるべき大宰相にして大政治家と絶賛している。彼は明治国家のリーダーとして主要な機構をほとんど一人で切り回し、このような溢れ出すばかりのバイタリティーを賞賛している。


【年表の注釈】追加

● 「世間では末永くこの塾にいたとように言われるが(在籍5ヶ月ほど)わしが松陰の世話にはあまりなっておらず、実際、当人にそんなに多く会っていない。そして吉田松陰先生からはあまり学ばなかった」と伊藤は述懐している。教養ある武士階級が集った松下村塾では、元百姓である彼は疎外感を味わったのではないかと想像される。また家の仕事との両立で忙しく、松下村塾ではあまり勉学できなかった。しかし塾生には彼は明るい性格で人気者であった。


● 松陰辞世の句「身はたとえ武蔵野の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂」。これを伊藤も暗殺されたときに口ずさんだという。松陰は天皇崇拝の愛国者であり、攘夷派であった。彼は外国へ密航しようとして失敗しているが、外国で見聞を広めていたら伊藤と同じように開国論者に転向して、松下村塾の性格も変わっていたかもしれない。
なお伊藤は松陰の遺体を埋葬した数少ない門下生の一人だった。


● 井上が英語で渡英の目的を誤って言ったために井上と伊藤は船員として扱われ苦行の日々。その苦労があったからこそ2人は無二の親友となり艱難辛苦を乗り越える胆力がついた。イギリス留学によって語学力に堪能となり、のちの外国との交渉にも役に立った。英語力が伊藤ののちの人生を決めた。また留学体験により思想も攘夷から開国へと転向した。


● 馬関戦争の戦後講和交渉を高杉晋作とやるが、伊藤は通訳官アーネスト・サトーに天皇と幕府から受け取った「外国人を日本から放逐せよ」との命令書を密かに渡している。最終責任者は幕府であり、賠償金も幕府が払うべきことを暗に教えたのである。


●力士隊隊長の誕生  
高杉の功山寺挙兵のときに真っ先に参加した力士隊の隊長がなぜ伊藤利助だったのかのエピソード。 頭は驚くほど良いが、ひ弱な「青びょうたん」とあだ名される利助(伊藤)と 力自慢のガキ大将・ごん太が力比べをした。そして利助は知恵を使ってごん太に勝ってしまった。この時、ごん太はすっかり利助に感心してしまい子分となり、生涯の友人としてつきあっていくことになる。  
    
伊藤と井上はロンドン留学から急ぎ帰国して長州の攘夷論を取り下げようと進言する。しかし過激な攘夷論者や伊藤の身分の低さが気に入らない者達が闇討ちをしかけて来た。剣の腕には自信がない伊藤たちはたちまち追い込まれた。その時に謎の力士が現れ、刺客を一蹴。その謎の力士こそ、ごんの山ことごん太だったのだ。以後、第二次長州征伐までごん太は伊藤のボディーガードとして活躍する。


● 伊藤梅子は慶応2年(1866年)4月、博文と結婚(その前に入江すみ子と結婚していたが離縁する)
下関稲荷町の置家「いろは」の養女芸者で、伊藤俊輔(博文)と出逢い、後に妻となる。
伊藤は『酔うては枕す美人の膝、醒めては握る堂々天下の権』という自作の詩そのものの人生で好色(時に人の奥さんに手を出したり)の総理大臣だったが、梅子は良妻賢母と言われた。伊藤が横死した時も家の者をよくまとめ、「国のため光をそへてゆきましし、とし思へどかなしかりけり」と詠んだ。伊藤家には男子がなく養子をもらっていた。


● 伊藤が就いた役職

外国事務局判事 大阪府判事 初代兵庫県知事 大蔵大輔 参議 工部卿 内務卿 初代内閣総理大臣、そして第5代、第7代、第10代首相に就任 初代宮内大臣 初代貴族院議長、初代枢密院議長 初代韓国統監 公爵 元老。

大蔵大輔=大蔵省の上次官
民部少輔=民部省(民政一般が職務。諸国の戸籍・租税、
田畑・山川・道路などの土地区画など)の
下次官    
参議=  太政大臣・左右大臣につぐ明治初期政府の要職
工部卿= 工部省(官営事業としての鉄道、造船、鉱山、
     製鉄、電信、など近代国家に必要な幅広い事業
を行った)の長官
内務卿= 内務省長官、地方行政と治安維持を担当。首相
的権限をもつ

貴族院=衆議院とともに帝国議会を構成し衆議院とは同格の関係。衆議院には憲法上、予算先議権が認められていた。保守的な構成であることから当初から貴族院は衆議院の政党勢力と対抗することを意図して作られた。貴族院は解散がなく、終身議員(皇族議員と華族議員のうちの公爵議員と侯爵議員、勅選議員)以外も7年の任期を有し、改選も互選によって行われた。

枢密院=大日本国憲法下における天皇の最高諮問機関で、
事実上政府を制約する「政府に対するお目付役」
的機能を果たした。最初は憲法草案審議のために創設された。のちには国家の重要案件の諮問に答えたり、内閣と議会が衝突したときや、内閣総辞職の場合には、その可否を奉答する役割を果たした。政府=藩閥官僚と、議会=政党との対立、紛議の調停者としての役割を担わせた。諮問事項は憲法および憲法付属法令の改正案、重要な勅令、外国との条約および行政組織計画など。


●岩倉米欧回覧使節団はドイツに入りビスマルクの演説を聞く。「万国公法に対する大国と小国のかかわり方が違う。小国は孜々としてこれを守ろうとするのに対して、大国は自らの利益がある時は公法を固執するものの、ひとたび不利になると兵威をもってこれを踏みにじる」と話し、一行特に大久保利通に大きな影響を与えた。明治国家形成に大きな影響を与えたし、後年伊藤の憲法原案の作成にも生かされる。


● 大阪会議の成功。征韓論に敗れた下野した西郷、板垣、後藤、江藤、副島に加え、台湾出兵に反対して野に下った木戸もいなくなり、大久保利通を中心とする政府は孤立無援の状態であった。伊藤は大久保を大阪にやり、木戸、後藤、板垣など下野した元参議に政権復帰を働きかけた。この会合を大阪会議という。場所は料亭「加賀伊」、いまの北浜の「花外楼」。特に気難しい木戸に対しては木戸がかねがねやりたいと考えていた改革案を作成して説得したのは伊藤の凄さである。


● (急進的な憲法制定を大隈とともに作ろうとして伊藤と対立した)福沢諭吉が民権家と単純に思われていることには誤りがある。かれはあくまでも政権と民権を分けて考えていた。大久保は福沢に一度か二度会ったことがある。

その時大久保は福沢に「流行の民権論は大いに結構ですよ、だが人民が団結して 政府に権利を争えばそれ相当の義務が人民に生じますよ、今の人民がそれだけの能力があるでしょうか」このような見解を福沢に述べた。

それに対して福沢は大久保にこういった。「自分は民権家のレッテルを世間に張られているが、人民が反政府となり大騒ぎになったときは、この私があなたに最も忠実な人物であるということがわかるはずです」このように言っているのである。

つまり福沢は人民の政治参加にはかなり慎重な意見をもっていた。福沢は大久保に「あなたは政権をより強化してください、私はその根底 にある人権の確立に力を注ぎます」と言った。

大久保は福沢の印象について後に日記にこう記している。「さすがに有名に恥じず実に面白き人物である」と。大久保は福沢の政治への登用を考えていたらしい。しかしその前に死んでしまった。

 
● アインシュタイン博士が残した日本へのメッセージ?
「世界の未来は進だけ進み その間、幾度か争いは繰り返されて、最後の戦いに疲れる時がくる、その時、人類はまことの平和を求めて世界的な盟主をあげねばならない、この世界の盟主なるものは、武力や金力でなく、あらゆる国の歴史を抜き越えた最も古く、また尊い家柄でなくてはならぬ、世界の文化はアジアに始まりアジアに帰る、それはアジアの高峰、日本に立ち戻らねばならない、吾々は神に感謝する吾々に日本という尊い国を作って置いてくれたことを・・・」
これは1922年にアインシュタインが日本を訪れた時に、日本に託した言葉だと云われています。

●しかしこれはオーストリアの法学者シュタインの言葉
「近世日本の発達史ほど、世界を驚かしたものはない。この驚異的進展、そこには他の国と相違する、何ものかがなくてはならないと思っていた。果せるかな、三千年の歴史がそれであった。世界の文化はアジアに創ってアジアに還り、それはアジアの高峰、日本に立ち戻らねばならぬ。天はわれら人類のために、日本という尊い国を造っておいたのである」
が真実のようです。 残念ながら後世の人間による偽造の疑いが濃厚のようです。

(以下は次回)


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