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Cinema Daysコミュの梅清回顧録1

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シネマ屋家業

今回の当コーナーは『梅清回顧録』です。弊社社長が戦後すぐの子供時代から現在まで
の、上映会の歴史などを聞き編者が綴って参ります。今回はGHQ検閲でカット・変更
された映画の話など興味深い内容になりました。ニートル伊藤の『マニアック・映画話』
と交代で連載しますので、お楽しみ下さい。

梅清回顧録?(昭和21年〜35年頃)

父の映画会社を手伝い出したのは、昭和21年13歳の頃。夏休みに石川・七尾へ巡回上映に
行っていた父から、お金をもらう為に夜行列車に乗って七尾駅まで行ったのが最初だった。
着いてからお腹が空いて駅前で「ところてん」を食べたら、大阪のと違って
蜜でなく酢がかかってて海草臭くてマズいと思った憶えがある、子供だったからかなぁ?
当時は、終戦で物資がなく食料もない暗い時代だったが、今の暗さと違って建設的で
ヤル気のある時代で、他の娯楽が無かったから、たくさんの人が見に来てくれましたね。
北陸の巡回上映へは、無声映画の『瞼の母』(映画会社各社で映画化された人気作)、
泉鏡花原作の『滝の白糸』(原作:泉鏡花)の2本を持って行ってました。
2作ともGHQの検閲で『瞼の母』はチャンバラ部分がカット、『滝の白糸』
に至ってはラストで主人公が自殺するシーンを「暗すぎる!」と主人公が夢の世界へ
旅立つ様なシーンに撮影しなおし。
今から考えると、娯楽がなかったからそんな映画でもお客さんは喜んでくれましたね。
翌年は、石川・輪島に電気が通ったからと上映依頼があって手伝いに行ったら3日くらい
しか居られなかったけど村の青年団の人達が出迎えてくれ、山海の幸が豊富で
お腹いっぱい食べさせてくれて、嬉しかったですね。
しかし、北陸では昭和23年6月28日に死者を3858人も出す福井大地震があって、市内は空襲が
起こったかの様になってしまいました。その時に、福井新聞主催の上映会で鉄筋造りで倒れ
なかった福井東宝へ慰問に行き『瞼の母』を上映しました。
その時、泊まる所が無くお茶屋さんに泊まりました。
この時の上映、正に『ニューシネマパラダイス』の世界!やってね、後方の席で、
抱き合ってる人とかがいて驚いたなぁ。
そして、当時ウチに専属の弁士で“椿 四郎”という人がいて、この人は偽者でね。
当時、松竹座の洋画専門の主任弁士だった“椿 三郎”の名前を真似てたんやね。
この偽者が下手でね、うなる所を普通の調子で言ったりする。でも巡回上映の帰りに、
福井の敦賀で逃げてしまった。
さて、大阪でのこれからの上映の弁士は・・・となった時、白羽の矢がたったのが僕でね、
とまどったけど“門前の小僧、習わぬ経を読む”で、結局13歳から18歳くらいまで弁士を
やりました。最初にやったのがドイツの学術映画で出産の映画と性病の映画やった。
今から思えばR指定の映画を15歳の子供が弁士してるんやから、すごい時代ですね。
学校も旧制中学(本来は4年制)やったから、終戦で体制が変わって3年で卒業したんで
15歳から専属弁士になってやってたね。
でも、実は映画の仕事が嫌いやったから、少し大阪の丼池筋の服屋に勤めたりしてたけど
結局25歳の時に父から引継いで、仕事をやりはじめました。
昭和20年代後半には弁士が要る映画は無くなりましたね。
巡回上映時の映写機の話をすると、22年に福井へ行った時は備え付けのアークの映写機。
これが暗かったなぁ。その後、アメリカの16mm映写機「Natoko」が入ってきた。
各学校でアメリカの情報宣伝映画を上映しないといけなかったから、、先生達が映写免許
を取りに行ってたね。
でも、もともと日本には「光音」という映写機があって、満州へ記録映画用に持って
行かれてたモノですが、とても丈夫でしたね。
今まで見た映画で好きなのはフレッド・ジンネマン監督の映画『地上より永遠に』や、
『終着駅』『心の旅路』とかやね。

他にも、当時活躍していた人気弁士の話や、映画会社が合理化していった話を聞いたの
ですが、編集中に編者が“本人の経験に基づいたモノにする”との考えで省略致しました。
次回の掲載は、シネマデイズ4号です。

(Cinema Days2号に掲載分から抜粋)










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