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ルイ・ヴィトン哲学コミュの私のルイ・ヴィトン(その3)

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私のルイ・ヴィトン物語(14)

ーーーーー ここで、最初の訪問でも接待して頂いた、マダム・マリー・オリー(Marie Ory)さんに、私の持つ疑問点2つをぶつけてみました。資料やコピーを持ち出し、拙いフランス語と手振り身振りに額の汗を拭きながらの作業でした。

その疑問点の一つは、先の展覧会で気が付いたことです。この会場に入り、まず真っ先に見たかったのは、勿論、初代Louis が創業1854年から世に送り出したとされるグリ・トリアノン「Gris Trianon」生地のトランクです。

2004年12月14日付け読売新聞の展覧会1面広告には「創業当時のグリ・トリアノンをはじめ、、、を紹介している」と印刷されていましたし、本展主催者はこの展覧会冊子に「創業当時のグリ・トリアノンのトランク(アーチ型)のオリジナルは必見である」とありました。

このGris Trianonの、特に初期のものは内張やラベルが湿気や酸化で劣化するのを防ぐため、滅多に蓋を開けて見せてくれません。ですから喜び勇んでトランクの前に立ちました。ところが冊子の解説を読みながら眺めているうちに、何故か妙な違和感を覚えました。

保存状態が良いものをディスプレーするのは分かりますが、木枠を使い始めたのは1858年以降ですし、冊子には「1. 蓋に丸みのあるトランク 1854年頃」と書かれていました。 ーーーーー



写真左は「時空を超える意匠の旅」展冊子より。手入れの行き届いた綺麗なトランク。解説には書かれていないが、冊子後半の貸し出し目録では日本語で「グリ・トリアノン」になっていた。ライティングや色の経年劣化も考えられるが、このトランクが「グリ=灰色」に、どうしても見えない。私が知る「グリ・トリアノン」は、アニエールで見た右側の二つ。素人の私が35ミリカメラ(キャノン・イオス)で取ったものの方がグレーに見えると思うのだが。

コメント(31)

ほんとですね。名前が「グリ・トリアノン」ですものね。
ぼくの『ルイ・ヴィトン その秘密と全製品カタルグ』(グラフ社)p14でも、グレイです。

左はマル。
右はグレイの布貼り 1858
私のルイ・ヴィトン物語(15)

ーーーーー 蓋に丸みのあるトランクは、当時の移動手段である馬車後方の幌のない部分に乗せていたので、雨露が流れ落ち易い形状にしていたことは、歴史上疑いのないことでしょう。

そして初代Louis が1854年5月頃(?:未だ正確な開店日を特定できておりません)、17年間働いたマレシャル(Marechal)親方の元から、結婚・独立してカプシーヌ通り4番地(4, Rue Neuve des Capucines)に店舗を構えたことも、もはや間違いのないところでしょう。
彼は開店当初から、重い豚皮をやめてグレー(Gris)の布地(Toile)を張り、更に防水のためにニス(Vernis)を塗布したトランクを作り始めた、こと、になっています。

私も、資料の写真は勿論ですが、都内のブティックやASNIERESのミュージアムで、このLouis Vuittonの代表作である「Gris Trianon」に属する、数種類のトランクを見てきました。

それは微かに冷たいような、ほのかな青白いグレーでした。 ーーーーー



写真:アニエールのミュージアムには歴代のトランク他、ガストンが世界中から収集した貴重なトランクの宝庫になっている。

注:文中「ニス(Vernis)を塗布したトランクを作り始めた、こと、になっています。」は、果たして初代ルイはたった一色だけ(グリ・トリアノン)のトランクしか作っていなかったという記録も見つからず、また前出、展覧会に展示されたトランクの色からも、私自身が未だに確証が持てないから、あえて「こと、になっている」と表現したものである。
私のルイ・ヴィトン物語(16)

ーーーーー 私の違和感は今回展示されたトランクの「ラベル」によって大きく膨らみました。それは、果たしてこのトランクは本当に「創業当時・(1854年頃)」と、標記してよいものなのかどうか?または、何か説明が抜けているのではないか?と言うことです。

仮に「創業当時」と「頃」に15年(創業150年間の10分の1)の十分な余裕を持たせてみると、1854年から1869年の間に制作されたことになります。

このトランクのラベルをよく見ると、これは「A」のタイプではなく「B」と同様のモノであることが判ります。「A」については、ルイ・ヴィトン社(Louis Vuitton Malletier)発行の冊子(L'art de traverser le temps)にも載っています。

ここでラベルに書かれたものに年代を加えて時代順に列記すると、
「A」 3, RUE Nve(Neuve) des Capusines  ここを借りたのが1858年〜
    Rue de Congres ? Asnieres  工場が稼働し始めたのが1860年〜(土地の取得
                  は1859年)
    Exposition de Paris 1867年 (1867年、パリ万博:銀?・銅メダルを受賞)
    Exposition du Havre 1868年 (1868年、アブル万博:銀?・銅?メダルを受賞)
 従って、このラベルは1868年以降のものと考えられます。

「B」 Usine a Asnieres   アニエールの工場、つまり1860年〜
    Exposition de Paris 1867年  (1867年、パリ万博)
    Exposition du Havre 1868年 (1868年、アブル万博)
そしてポイントは次の
   1, Rue Scribe (スクリーブ通り1番地)

1,Rue Scribe には現在のスクリーブ・ホテルがあり、初代Louisが、当時ジョッキークラブがあったこの場所へ移転したのは、何と1871年です。そして、模造品に追われたルイが1873年、2番目の布地、ストライプ柄のトアル・レイエ(Toile Reyee)を発表、、、と歴史は続きますが、私が感じた違和感はこのことです。

ラベルに、「スクリーブ通り1番地」が記載されている以上、15年の余裕を与えても、このトランクが「創業当時」や「1854年頃」の説明だけではどうしても理解しきれないのですが、如何でしょうか。ーーーーー




写真左:ラベル「A」。トアル・レイエのトランクの天蓋に貼られていた。

写真中央:「時空を超える意匠の旅」展冊子に載っていたトランクの天蓋(拡大)に貼られたラベルと同デザインのラベル「B」(写真右)。ラベル中央にはっきりと 1, Rue Scribe とParisが読める。
注:ラベル「B」上部に赤で書き加えられた2行については、いずれ「ラベルを眺めつつ」で紹介予定。
また、本文中万博でのメダルに?を付けたものは、実際のラベルに記載していることから受賞し得たと考えるが、受賞記録が見あたらないため、敢えて?マークとしたものである。
私のルイ・ヴィトン物語(16)

ーーーーー 展覧会を何度か見学してから、手元の資料を読み直し、私なりに仮説を立ててみました。

蓋の丸いトランク自体が1854年以前から存在していたことは、三浦氏の論説からも多くの資料からも認められていますし、3代目Gaston氏のコレクションでも確認しました。では逆に「いつ頃まで造られていたのか?」は、今後も尚、解明に時間が必要でしょう。

従って、所謂「蓋の平らなトランク」が、1858年、2代目Georgesの一才の誕生日を祝って発表されたシリーズであるとのHenry氏の記述を引用するならば、その表現から、1858年以後も一時期(数ヶ月?数年?)、2タイプの蓋を持つトランクがLouisの店頭に存在していたと考えられます。

そして或る顧客が、不幸にもトランクを破損(特に蓋や内装を損傷)し、Louisに相談したら、彼はどうしたでしょう。修理可能と判断すれば、彼一流の技術を以て直したであろうことは想像に難くありません。そして最後に、修理を終えたトランクの天蓋に、その時代(1871~)の「ラベル」を貼付して顧客の元へ、、、少し飛躍しすぎでしょうか? 

しかし、そうであれば、このトランク自体は1854年頃のものとして、ある程度は納得できます。このトランクはAsnieresから貸し出されていますので解明を依頼してきました。 ーーーーー




写真左・右:共に「トアル・ダミエ」のトランクに刻印あるいは貼られたラベル。http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=21869733&comment_count=19&comm_id=2396029の(15)(16)参照。
書かれている場所の年代は、
1 RUE SCRIBE
    1871~1914
149 NEW BOND STREET. W. LONDON
    1899~
「モノグラム」の登場は1896年であることから、ダミエは、最低でも3年間は、並行して作られていたことになる。このことから、初期のトランク(蓋の丸いもの、あるいはグリ・トリアノンなど)も、2種類が並行して作られた時期があったことが十分に推測できる。
私のルイ・ヴィトン物語(18)

ーーーーー  もう一つはGris Trianonに続いて考案されたトアル(布)地Toile Rey?e(ベージュ地に赤のストライプ)の年代に関するものです。

今展覧会冊子をはじめ、いくつかの資料で「1872年」が使われており、手元の資料や記事を捲ると、その後のマイナーチェンジとも言えるベージュ地に茶色の縞模様の「Toile Reyee」は、1876年で一致していますが、不思議なことに最初の「Toile Reyee」に関しては、1872年と1873年とする、2つに分かれています。

模倣品に業を煮やしたLouisが、新たに創り出したトアル地の年代の方が曖昧なことは、未だ解けない謎の一つです。

三浦氏も参照された、1996年(Monogram生誕100周年)Louis Vuitton Malletier発行の「La Toile Monogram」では1873年ですが、同じく同年、同社発行の「L'art de traverser le temps」では1872年になっているのです。

多分微妙な時期なのでしょう。ですから総合的に判断すると、この「トアル地の完成」は1872年の年末頃で、「製品」として出来上がったのは1873年であろうと、しかし、これを裏付ける資料がないため、想像の域を出られません。 ーーーーー



写真左:Louis Vuitton Malletier 1996年発行 「La toile Monogram」より。

写真右:Louis Vuitton Malletier 1996年発行 Edition No.5 「L'art de traverser le temps」より。
雑感(4)


一般雑誌は勿論だが、Louis Vuitton Malletier発行でもLouis Vuitton Japan発行でも、印刷内容にミスを見つけることは意外と多い。しかも歴史的事実を左右するようなミスに出会うと、結構ガッカリすることがある。

写真左・中央はLouis Vuitton Malletier発行(特に左は、日本語版と英語版を上下に並べてある)、右はLouis Vuitton Japan発行のものだが、これらは、個人的にどうしてもミスしてほしくなかったものである。

特に写真左は、1999年、スペシャル・オーダー展に於いて、パトリック氏に直接校正していただいた。

3枚の写真から間違いを見つけることが出来るだろうか。
右の写真「トアル・レイエ」1860→1872〜73
    「トアル・ダミエ」1885→1888
でしょうか?

中の写真 ガストンに、L.またはLouisが落ちている?
(字が細かくて読み取れません)

左は、分かりません。勲章がまちがいかなあ。
Officer 受勲であって、功労賞ぐらいの意味?
アカデミーが勲章を出すのかなあ。タイトルならわかるけど。
あるいは、メダルとか。

私のルイ・ヴィトン物語(19)

ーーーーー  Louis Vuittonについて、まだ知りたいことが山のようにあります。

ごく素朴なものでは、1896年に考案されたMonogramの中心ともいえる、「L」と「V」を重ねたのは、いったい誰だろう? パリ・コミューン(La Commune de Paris:1871.318~5.28)が成立する前、Louisは国民軍に入り、その時昔からの職人の1人が彼のためにイニシャル入りのバックルを作った、との記載がありますが、果たしてこれが「重ね文字」だったのか、非常に興味がありますが、これがどのようなバックルだったのか、以後の記述が見あたりません、、、。


 私は、Louis Vuitton家の史実に、「トアル地の変遷」から入りました。模造品に追われての変遷であれば、逆に彼らを追いつめ、新たなトアル地を生み出させた模倣品さえも見てみたい衝動に駆られたものです。というのも、おかしな話ですが、贋作がなければMonogramを目にすることがなかったはずですから。

私が生まれた1959年、Monogramに化学技術が施されて、より高度な耐久性となり現在に至ったことを知って以来、気持ちに拍車が掛かりました。

Monogramにある模様は、Georgesが日本の家紋を参考にしたと言われていたので、実家の家紋が「丸に剣、酢漿草」であることから、一時期「家紋」について調べたこともありました。

当時、パリで何度か開催された万国博覧会で、Vuitton家は数回受賞しています。日本は江戸時代末期の1867年に初出展し、これをきっかけに「ジャポニズム(日本趣味)」がヨーロッパで大流行しました。この時、万博の日本ブースに「提灯」はディスプレーされなかっただろうか。提灯には家紋と「屋号」が描かれている。文様に興味のあったGeorgesは「屋号」とは何なのか聞かなかっただろうか? 「紋付き袴」の意味を問わなかっただろうか?

 そしてついに、日本人にとって変わることのない「屋号」と「家紋」の意味を知ったとき、 父を悩ませ、自分をも苦しめ続けた終わりのない贋作に対し、Vuitton家にとっての「屋号」であり「家紋」となる「Monogram」で完結させようとしたのではないか。

更に詮索すると、仮に模造品が出回れば、Monogramに込められた父Louis Vuittonのイニシャルによって、Vuitton家の名前を広く知らしめす効果があることを、Georgesは秘かに想定していたのではないだろうか。 ーーーーー




2枚の写真は、アニエールにあるミュージアムの一角で、ここには日本の製品が展示されている。2003年、江戸歌舞伎・成田屋の市川新之助(現・海老蔵)がここを訪れたとき、偶然にも二代目市川團十郎の浮世絵を発見。

こうしてヴィトン家との交流が始まり、その後2004年10月、「11代目 市川海老蔵襲名披露・歌舞伎パリ公演」につながっていった。また、今年3月の「パリ・オペラ座 松竹大歌舞伎」は記憶に新しいところである。

果たして二代目市川團十郎の浮世絵がこの写真に収まってるかは定かでない。
ヨーロッパの上流には、蝋による封印用のサイン模様を刻んだ指輪がありますね。
あれの模様の一つに、頭文字を重ねるスタイルがあるのでは?
あれの陰影帳みたいなものを置いている図書館って、ありませんかねえ。
ヨーロッパの百科事典とか。
ガストンの蔵書の中には飾り文字的なものから簡素なものなどが描かれたものが数種類あるそうですが、残念ながら、実物を見たことがありません。

L・Vの重ね文字は特許が掛かっていて、確か10年ほど前、何処かのバック屋が訴訟で負けたと言う記事を読んだことがあります。(喫茶店の店名に「ルイ・ヴィトン」を使って訴えられた店もあったはず)では、Y・G読売ジャイアンツは、問題無かったのでしょうか?
>Y・G読売ジャイアンツは、問題無かったのでしょうか?
えっ? 重ね文字という技法に特許? 意匠登録(あるいは商標登録)だと、認可されるのは、LVの重ねだけでは?
店名は、東京の場合、たしか、区内だけで許されたと記憶していますが。
私のルイ・ヴィトン物語(20)

ーーーーー  また、何故初代は「Gris:グレー」を選び、また誰が「Gris Trianon」と命名したのか。これは果たして、Eugenie皇后や皇室などの高貴な色だったのか。

開店前、すでにEugenie皇后から荷造りの仕事やトランクの注文を承り、宮中に出入りしていたLouis。そこには何らかの憧れの気持ちがあったのかも知れません。そしてこの色を用いることが、所謂「皇室御用達」の印にするつもりだったのか。

Louisが実際に独立・開店した頃に想いを馳せると、開店初日からこの「Gris Trianon」と呼ばれるものが店先に並んでいた、と考えるよりは、むしろ前日(?)まで17年余りも世話になっていたMarechal親方の元で「造り慣れたモノ+α」であったと想像する方が自然ではないかと考えています。

更に進めて、退職、即開店と想定するよりは、数週間?数ヶ月?の開店準備期間に、彼が長年想い描いた理想の製品を試作していたと思います。それが彼の経験上、独立して何よりも改善したかった「軽量化」のために、豚皮をやめて軽い「布地」を貼付してみることだったのでしょう。

勿論、以前から探していた「水を弾く素材」をニスに求め、そして、これが巷の評価を得た結果を以てして、Versailles宮殿のグラン・トリアノン宮(Grand Torianon)に因んだグレー「Gris Trianon」として定着してきた、それとも、開店までにこの色と名前を決め、それに見合った材料も集めていたのか、、、。

この辺り、私の中では、心地よい謎が深まるばかりです。 ーーーーー



写真左はユージェニー皇后の肖像。右は「ユージェニー皇后と女官達」 共にヴィンターハルターによる。

最後のフランス皇后といわれるユージェニー。彼女は1853年、27才でナポレオン3世と結婚した。その後、普仏戦争でフランスが敗れ、第二帝政の崩壊により夫妻はイギリスへ亡命。1920年、94才で亡くなった。

初代ルイが、皇后に呼ばれ、エリゼ宮に出向き、所謂「荷造り」をしていた事は、色々な書物に書かれている。また、当時流行した「クリノリン」スカートを入れる「トランク」も手掛けていた。このクリノリンは、皇后が1856年3月、ナポレオン4世を出産する際、その体のラインを隠すために巨大化したと言われる。

皇后の結婚式は1月30日。ルイの結婚は翌年1854年5月22日。その後独立・開店(日時は未だ不詳)と言われていることから、少なくとも皇后専属(?)であった時期は、最低1年2~3ヶ月続いたことになる。

残念なことは、ルイの独立以降の記録に、皇后の陰を見つけることが出来ないことである。果たして、独立後も、1870年からの普仏戦争開戦頃までは、エリゼ宮に出入りしていたのだろうか?

果たして、皇后の遺品の中に、ルイのトランクは残っているのだろうか? ラベルは貼られていただろうか? それから巨大なクリノリンを入れるトランクを、ルイは手掛けたのだろうか?
ちゅうすけ先生

LVJが偽物追放キャンペーンを行っていた時に聞きかじった事なので、意匠登録との聞き間違い間も知れません。記事も何処かに埋もれていると思いますので、もう少し調べてみます。

それと、「私のルイ・ヴィトン物語(その2)」http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=21600606&comm_id=2396029&page=all 10、11での「手書き」の件ですが、モノグラムの最初期は「織り地」で、1900年頃まで生産され、続いて「ステンシルのよるペインティング」に変わったことが分かりました。

ステンシルは一般に型紙を使い筆やスプレーで模様を装飾していますが、多分この「ペインティング」から「手書き」に印象付けられたものと推測しています。10にアップしたトランク。見れば見るほど「ステンシル技法による手・書・き」に見えてきました。

1959年からは現行の木綿地にPVC加工ですが、織り地とステンシル、ピタリと変更したのか、あるいは数年間は両方が作られていたものなのか、こちらも引き続き調べてみます。
なるほど。
織地がありましたね。リヨン織物博物館所蔵の織物の写真集(研究社の豪華本で3冊)を持っています。
19世紀後半には、みごとに精巧な織物をつくっていますから、織地なら、あの程度のものは織ったかも。

ステンシルは型紙を使っての刷り込みですよ。
ふうたろうさんの鑑定師もいいかげんだなあ。しろうとのぼくが手描きはおかしい---と気がつくのに、疑いもしないで、丸呑みして、マスコミで広言するなんて。
>ぴょん吉さん
ウージェニー后妃を検索していて、
http://blog.k-maruyama.com/?month=200611
バスクの大皿の縁飾りの文様に、ヴィトンの花模様に似たのを見つけました。
ジョルジュがヒントの一つにしたかも。
ちゅうすけ先生

Patrimoineと東京日仏会館、東京大学の装飾芸術研究の方々の調査では、「ジョルジュが参照すべき主たる基盤としたのは、日本の家紋ではなく、フランス中世の装飾デザインであったのはまず間違いないであろう」としています。

旺盛に装飾デザインを調べていたジョルジュのことですから、ありとあらゆる装飾デザインを目にしていたと思います。

調査は継続されているようですので、いずれ新事実が見つかるのかも知れません。
私のルイ・ヴィトン物語(20)

ーーーーー  このような想いを経て行き着いたのは、Vuitton家が初代から受け付けてきた「特注品:Command Special」。巡ってきたチャンスは、Partick氏に直接相談できる「スペシャル・オーダー展」でした。

オーダーから待つこと約1年。Asnieresから届いた数点の「製品」に心躍らせ、一つ一つのパーツを眺めているとき、「Louis Vuitton」の真の姿が見えてきました。注文主が仕舞うものを、いかに大切に、そして旅先でのあらゆる条件下でも守り通そうと考えた上で扱っているのかという、作り手側の気質が痛いほど伝わってきました。

これは今までに買い集めた既製のバッグや、歴代のオーダー品への「語り」では感じきれないものでした。Louis Vuittonの中を貫いている真実は、「ルイ・ヴィトンでは、お客様のご要望に従って、例えば写真器材運搬用トランク、馬具運搬用トランクなど、どのようなトランクでもお作り致しますし、また、トランクにはどんな備品でもお取り付け致します。」という、Louisが亡くなる直前に残した言葉に全てが込められていて、これ以外に無いと確信しています。

時代が変わり、幾多のデザインが現れ、外側の模様も変遷を遂げても、Louisが生涯をかけて求め続け、Asnieresに託したことは、如何なるオーダーにも答えながら、注文主のモノを最大限守る事だったのでしょう。これを裏付けるものが、軽くて頑丈なポプラ材であり、それを外側から補強した金属や木の枠であり、防水のためのニスでもあり、更には海にも浮かぶ機密性に至ったことは、今となってはごく自然に理解できるようになりました。此処へ到達するまで、気が付くと、Louis Vuittonに出会ってからすでに20年余りが経っていました。

断っておきますが、私が述べているのは、初めに「気密性のあるトランクありき」ではないということです。プラスチックやアルミなどの素材がない時代に「気密性」の優れた製品を真っ先に作ろうとしてきたのではなく、注文主が中に納めるものを確認した上で、その行き先、ジャングルあるいはアラスカなどの辺境の地での環境を考慮した末に、それによって外側の素材が選ばれ、遂には機密性のあるトランクが、その形をなしてきたという事なのです。

多分、現在私たちが街で目にするありとあらゆるトランクには、Vuitton家が培ってきたエッセンスがふんだんに盛り込まれていると言っても過言ではないでしょう。 ーーーーー



写真左:2001年6月11日、米荘閣で行われた「スペシャル・オーダー展」の一コマ。招待客の各テーブルを回り終えたパトリック氏に、私は6個目のオーダーとして、ウノやトランプ、それにポーカー・チップが入る小さなトランクをお願いした。(中央は1999年にも来日したバレリーさん)

写真中央:当日、2-30分で書き上げられた設計図。「Boite jeux:遊びの箱?」はパトリック氏が命名。右下は氏のサイン。
私が今でも驚いているのは、持参したカードは4種類。その中でトランプだけはポーカーサイズのもので、他のものより若干幅が広い。にも係わらずあっという間に設計図が書き上げられたこと。(左下は、同時にお願いした「拡大鏡入れ」)

「狂いは生じないのだろうか、、、?」などの心配は吹き飛んだ。写真右の完成品を見れば一目瞭然。氏の頭には、これまでにヴィトン家が培ってきた150年に渡る製品のノウハウが詰め込まれていることを実感した。一体、ヴィトン家歴代の人々は、世界中の、ありとあらゆるどれだけの品物を、あの6面体のトランクに仕舞い込んできたのだろうか。
私のルイ・ヴィトン物語(22)

ーーーーー 三浦氏は展覧会冊子の中で、「Monogram」が創られた2年前、1894年に発刊されたGeorges著作の「旅 最古の時代から今日まで」(LE VOYAGE Depuis les temps les plus recules jusqu'a nos jours)の意義を述べておりました。氏の論説に引き込まれているうちに、ふと、この本を著すことを決意したGeorgesの心情が脳裏を過ぎりました。

この本を書き始めたのが1892年8月。周知の如く、この年(Louis71才,Georges35才)には大きな出来事がありました。1月、ロンドン店が454 STRANDに移転。この時Louisの、先の言葉が書かれた全製品の初のカタログが出版されています。そして、2月27日から28日未明にLouisは亡くなりました。

一人息子Georgesの悲しみは計り知れませんが、その後は、親子二人で築き上げたパリScribeの店、Asnieresの工場それに英国Strand店と、彼は忙しく切り盛りしたことと察します。そして、これらが少し落ち着いた半年後に、彼は本を書き始めました。彼にそうさせたのは、最愛の父が生涯創り続けたトランクに対する、あの言葉を理解していたに他ならず、この本は父Louisへ捧げられたものだと考えています。見返しに描かれたLouisの肖像画が、静かにそれを物語っていました。

だからこそ、自らも作り続けるであろう「トランク」そのものを確認するために、中世以前まで遡り、2年の歳月を費やしてまでもこの本を完成させたのでしょう。

この間にも贋作は出回っていたはずですから、執筆している間に見てきた様々な文様が、展覧会のテーマにもなった「Monogram柄」の創造に、繋がっていったのかも知れません。 ーーーーー



写真は、六本木ヒルズで2005年1月21日から3月21日まで行われた「Universal Symbol of the Brand ルイ・ヴィトン 時空を超える意匠の旅」展のパンフ。
本文中にある疑問点について手紙を送ったが、残念ながら2年経った現在も、主催者側からの返答はない。
私のルイ・ヴィトン物語(23)

ーーーーー ある雑誌に、Patrick氏へのインタビューが載っていました。

氏の言葉の中に「父のクロード、祖父のガストンから受け継いだもの、それはモノづくりの精神ですね。クオリティこそがルイ・ヴイトンの原点です。ルイ・ヴイトンは私で5代目ですが、クオリティを守っていけば、あと5代はつづくでしょう。(原文)」と訳された部分があります。

何気なく読めば分かった様な気になるのですが、「クオリティー」=「品質」だけで、150年の歴史を言い表しているのでしょうか。世界中の名のあるブランドは、いずれもクオリティーが低いはずがありません。

ではPatrick氏の言う「クオリティー」にはどんなことが込められているのか、いろいろ探した中でその答えの一つを西尾氏の著書に見つけました。

Patrick氏の父、4代目であった故クロード(Cloud-Louis Vuitton:1923~1992)氏へ、PVC加工を施したMonogram生地の耐熱・耐寒テストについて西尾氏が尋ねたとき、「それは生地をつくる化学会社でやっていると思うが、私としてはそんな机上のテストよりも、顧客が実地にアラスカやエチオピアにわが社の製品を携行していってくださって、その結果、どんな変化が生じたかという報告のほうを信用しますね。(原文)」と答えていました。

トランクや鞄などの閉鎖された空間を、如何に維持し続けるのか。そこには、使う側と創る側の信頼関係の中で集められた幾多の情報が蓄積され、それをもって新たな製品が生み出されてきていたのです。

私たちが製品に感じる安心感や堅牢さは、注文主が入れるものを最大限守り通すというVuitton家の哲学に他ならず、それがPatrick氏の言う「Louis Vuittonのクオリティ」であることも、史実を調べる道すがら学びました。 ーーーーー




写真左:マンスリー・エム 2002年1月号「ルイ・ヴィトン、美と匠の世界」より。

写真右:ヴィトン読本「文句をいう客ほどよい客」より。http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=20670861&comm_id=2396029&page=all(6)参照。
私のルイ・ヴィトン物語(23)

ーーーーー 話を、先の、Pierre君との食事の約束に戻します。Asnieresを訪ねたその夜7時半、待ち合わせ場所はオペラ・ガルニエから5分程のレストラン「遊」。ここの「板さん」木村さんは、怪しげな「日本食」の看板が立ち並ぶ界隈では珍しく正真正銘の日本人で、すでに20年程フランスで生活されていますが、天ぷら、刺身、トンカツ、しゃぶしゃぶと何でも造ってくれます。

この時、思いもかけずPatrick氏が、「アペリティフだけ」と言いながら、立ち寄ってくれました。嬉しいの何のって! 早速旅行会話書で覚えたMonsieur, qu'est-ce que vous voulez boire?(注釈: 飲み物は何がよろしいですか、と丁寧に!)するとOui. Biere,biere! ASAHI,KIRIN...で、板さんが出してくれたのはア◯ヒ・スーパー・ド◯イ。

ビールで乾杯の後、西尾氏の本からのコピーを渡したところ、流石にPatrick氏は、この本のことをご存じでした。当時、氏は27才、技術部長と書かれていますし、父Claude氏が載っているので、懐かしそうでした。

その後珍しそうに眺める若夫婦に当時のことを説明し始めました。このように和やかに時は過ぎ、2番目の布地「Toile Reyee」の年代については、私の推理通りの解説を頂きました。Patrick氏が続けて言うには、シャンゼリゼ店が改装オープンする頃(2005年10月)に、歴史家による調査が行われた約600ページにも渡る「ルイ・ヴィトン150年史」の本が出来上がると教えてくれました。

 ビールを酌み交わし、その後10分程でPatrick氏は帰っていきました。車まで見送ったとき、手を振りながら去っていく氏の右親指の爪に、潰れた跡を見ました。氏はサウスポーです。氏もまたAsni?resを支えてきた「職人」の1人であったことを、しみじみと想い出しました。 ーーーーー



写真左:約30年前の資料について、ピエール夫妻に解説しているパトリック氏。右端はソルボンヌで精神心理学を勉強中の友人、渋谷君。

写真右:閉店の11時過ぎ。右端は着替えて帰宅途中の板前・木村さん。パリに出向いたときは、是非お立ち寄り下さい。
ご披露くださつた30年前の本がモノクロ・コピーなのが、時代を感じさせますね。
私のルイ・ヴィトン物語(25)

ーーーーー Patrick氏に教えられた本のお陰で大きな発見がありました。

一つは、初代の誕生日についてですが、最近までは2月2日と言われていたのですが、出生証明書が確認され、8月4日であったことが分かりました。また、更なる発見は、それは未だに誰も?見ることのなかった古いラベルで、見開き2ページに渡っての拡大写真にしてありました。過去に出版された冊子には、一度も登場しなかった(私にとっては)幻のラベルです。

これには初代が店を構えたとされる「4, Neuve des Capusines Pres la rue de la paix et la place Vend?me :4,ヌーブ・デ・カプシーヌ、平和通りとヴァンドーム広場付近」が印刷されていますが、「製造はアニエールのエオトビル地区にあるコングレ通り」になっていることから、このラベルは1860年以後のものでありることが判りました。先に示した「3,Neuve des Capusines」のラベルは、博覧会で受賞したメダルを印刷していますので、1868年以降のものになります。多分受賞を祝い、新たに刷り直したものでしょう。

この3番地を借りたのは1858年。仕事が増え、忙しくなり「荷造りの仕事場」にするため、という記述から、Asnieresに工場が出来た後も、Louisが精力的に「荷造り」に励んでいた当時を思い浮かべています。続いて、向かいの4番地は「改装してトランク売り場にした」とあるので、Asnieresで作られたトランクは、こちらに展示したのでしょう。

私はパリへ行く度に、必ずこの狭いCapusines通りを訪れます。一人遠い目になりこの狭い通りを眺めていると、右手にある4番地の「トランク売り場」から「荷造り」の仕事が入ると妻エミリー(Emilie Clemence Pariaux)に呼ばれて左の3番地へと、気ぜわしく狭い路地を行き来するLouisに会えるような、そんな気がするのです。

ラベルの中央にははっきりとEMBALLEUR(荷造り人、包装人)と自らの職種を示していることから、Louisは「トランク造り」よりも「荷造り」を自分の主だった仕事と考えていたようです。だからこそ新たなラベルには荷造り場である「3番地」を印刷したのでしょう。

面白いことに、次(先のラベルA、1871~)、と考えられるラベルにはEMBALLEURの文字がかなり小さく印刷されているので、「荷造り人」を必要とした時代から、鉄道で移動する一般的な旅行へ移り変わっていった時代変化が感じられます。 ーーーーー



写真左:初代ルイがアニエールに工場を移し、稼働させた1860年以降のものと考えられるラベル。

写真右:初代ルイが初めて店舗を構えたカプシーヌ通り。平和通りに立ち、左奥にヴァンドーム広場の青銅の円柱を望む。
 この広場は太陽王ルイ14世の騎馬像を建てるために区画されたもので、当時Le Grand Louisと呼ばれたがフランス革命により騎馬像は取り壊され、土地の所有者ヴァンドーム公爵の名が付けられた。
 現在の円柱はナポレオン1世がオーステルリッツの戦勝を記念して建てられたが、失脚後はアンリ4世、ルイ18世と各時代の権力の象徴であった。今では、1874年に復元されたナポレオン像のレプリカが設置されている。
 初代ルイは1854年からスクリーブ通りに移った1871年までは、ここカプシーヌ通りで仕事をしていた。1840年12月15日、19才のルイは、ナポレオンの位牌がパリに戻り、凱旋門を通過したとき3時間並んで迎えたとある。きっとルイは、私が写真を撮ったこの場所に佇み、ナポレオン像が再び置かれるのを眺めていたに違いない。どんな気持ちで見守っていたのか。今となっては知るよしもないのだが。
「4, Neuve des Capusines Pres la rue de la paix et la place Vendome :4,ヌーブ・デ・カプシーヌ、平和通りとヴァンドーム広場付近」
---というのが、泣かせますねえ。
ご存じのように、ラ・ペー通りには、カルティエがあり、place Vendomeにはラ・ペーとの角っこは宝石商のブシュロン、隣にヴァン・クリーフ店、並んで、いま日本ででさかんに広告をしているモーブッサン店---つまり、ルイが荷造り場とトランク売り場を構えたのは、当時のパリではもっとも優雅で高級なエリアだったということです。
単なる荷造り人ではありませんでした。
あっ。ヴァンーム宝飾5店会っていったら、もう1店---ショーメがありましたね。いずれにしても、ヴィトンより店歴が古いですからね。
私のルイ・ヴィトン物語(26)

ーーーーー 更にこの古いラベルから、Louis、その人を類推できる表現を見つけました。

中段下の3つの囲みの部分です。左の文は「3番地」のラベルにも書かれていますが、「最も壊れやすい品物を安全に梱包する」。Louisの仕事に対する情熱や責任感・自信の強さを感じ取れます。右の囲みには「フランス国内や海外に発送する」と書かれ、彼は1800年代中頃、すでに海外への輸送手段をも心得ていたものと察しました。

特に興味を惹かれたのは、中央の囲み部分です。ここには「ブリキと亜鉛の箱、タール塗りの防水布」と表現されています。当時の「ブリキ」が現在のものと同じかどうかは分かりませんが、きっとLouisは、あらゆる注文に答えるべく、旺盛にトランクの素材を求めていたのでしょう。

こうして古いラベルが1枚加わったことで、Louisの姿がはっきりしてきました。すでにこの当時、彼が心血を注いだ仕事は、全て顧客からの注文があって成り立つものであり、今日言われる「顧客満足度」を十分に理解していたことを如実に物語っています。無論そこには、彼自身の習得・開発し得た技術力が裏打ちしていました。

 更に、Louis、その人となりを求めるとき、私は彼が亡くなるまでの数年間に注目しています。

1888年、Louis 67才、Georges 31才、Gaston 5才。この年には市松模様の「Toile Damier:トアル ダミエ」が考案され、そこには贋作対策としては初めて「登録商標」が付けられました。この格子柄はmoleskin:モグラの皮と言う新しい鞣し方法を用いた織り地でした。(現在のDamierは、Monogram生誕100周年の1996年に復刻されたものでPVC加工されています)

そしてこの生地で作られた、かの有名なWardrobe;ワード・ローブ・トランクは、翌1889年の「百年記念博覧会」でグランプリを受賞しました。引き出しとハンガーを備えたこのトランク。自宅の「洋服ダンス」をそのまま旅に連れ出すというこのLouisの発想にはいつも驚かされてしまいますが、これは遡ること12年前の1876年、2番目のToile Rey?eの頃に既に創られていたのです。

当時の日本で考えるとどうなるでしょう。明治維新以後、新橋・横浜間の鉄道が開通し(1872年2月)、西南の役(1877年1月~9月)で西郷どんが亡くなった頃です。「散切り頭を叩いてみれば、文明開化の音がする」といった川柳が詠まれていたこの時代、着物の裾をまくり、大八車に積んだワード・ローブ・トランクを引く姿は、長屋からの夜逃げさながらになってしまいますから、日本にはまだ定着しなかったでしょう。

しかし、船中あるいは宿泊先で荷を解くことなく、自宅と同様にすぐに着替えができたこのトランクは、きっと西洋のマダム達に大変重宝がられたことと思います。 ーーーーー 



写真左:初代ルイの肖像

写真右:解説には1888年頃、アニエールの工場で撮られた写真とある。ヴィトン家3代が写った貴重な写真で御者席に座っているのがルイ、その左隣に立つ口髭の男がジョルジュ。ガストンはベッドの上に横たわっている。

馬車には、FABRIQUE Rue du Congres a ASNIERES (1860~)、PARIS 1 Rue Scribe (1871~1914)、289 Oxford street LONDON (1885~1891)が、大きく書かれ、トランクの絵柄と共にTRADE MARKと書かれている。この馬車でスクリーブ通りの店舗に運んでいたのだろうか。

1888年であれば、ルイ67才、ジョルジュ31才、ガストンはまだ5才の頃。従業員は30人ほどであったと。この年、ジョン・ダンロップはバルブ付きの空気タイヤで特許を取得しているが、写真を見る限り馬車の車輪はまだ木枠のように見える。また手前2つのトランクを除いて全てレイエであるから、この年創り出されたダミエより前の写真であろう。

わざわざ従業員を集め、孫のガストンまで呼んでの撮影とは? 正月、新年を祝って撮ったのか、仕事始め第1号の出荷なのか、あるいは、ダミエ・トランクのデビューが翌1889年のフランス革命100周年記念万博であったなら、革命100周年を祝ってのことか、それともヴィトン創立35周年を祝ったのか。如何?
>「フランス国内や海外に発送する」
の「海外」は、英語でいう over sea でしょうか?
日本は(英国も、フィリピンも、台湾も、インドネシアも)外国はすべて「海の外」ですが、フランスは、ドイツも、イタリアも、オランダも、ギリシヤも、ロシアもすべて陸続き。 foriegn country フランス語だとエトランジェでしたか?
「フランス国内や外国(または国外)に発送する」?
ちゅうすけ先生

ラベルには Expeditions pour la France et l'etranger と書かれています。フランスはベルギー、ドイツ、スイス、イタリア、スペインその他の国々とは陸続きですので、ご指摘通り海の外「海外」より国の外「国外」または外の国「外国」といった方が分かり易いと思います。
私のルイ・ヴィトン物語(27)

ーーーーー 続く1890年、顧客の荷物を守る為の新しい「錠」で特許を取得しています。この錠は、鍵箱の中に形が違う5枚の金属板を入れ、この組み合わせ一つひとつに番号が与えられました。こうして専用の組み合わせ番号を持った錠前は、持っているトランク一式を全て同じ番号に統一することが出来、また、鍵を無くしても、本体に刻印された番号から、再製できるシステムが確立されました。そしてこの番号は、現在も尚続く「鍵台帳」に、その顧客の名前と共に記録され続けているのです。

 翌1891年、Louis親子はAsni?resの従業員のために「相互扶助並びに退職手当基金」を作成しています。これは治療のための投薬費の払戻や15年以上勤めた職員が病気などで働けなくなったとき、退職手当を受け取ることが出来るシステムで、このような職人・従業員に対する先見的考え方の中にもLouis自身を読み取ることができ、全てのトランクを側面から支えてきたのだと思っています。

 しかし、残念ながら翌1892年の早春、Louisはこの世を去りました。この年発刊され、Louisの言葉を載せた「全製品カタログ」は、それ自体が彼を現したものであったに違いありません。この数年を振り返るとき、いつも私は、Louisの考え方や人柄がはっきり見えてきて、今に受け継がれるLouis Vuitton独自の「クオリティー」が完成されていった時期に思え、胸が熱くなるのです。

 新世紀、2000年に向けて、秦麻梨子さんの取材に答えたPatrick氏。「父のクロード、そして祖父のガストンから受け継いだモノ作りの精神は常に作品の中に息づき、また、そのノウハウも大切に伝承されていると確信しています。”クオリティー”は、ルイ・ヴィトンの成功において欠かすことができないキーワードです。ルイ・ヴィトンのエスプリを支えているのは、素材、創造力、アトリエの職人たち、ブティックのスタッフたち・・・、全てのクオリティーが統合されてルイ・ヴィトンのクオリティーになります。ひとつでも欠けると、ルイ・ヴィトンではなくなってしまうのです。(原文)」 

 この中に、私が巡り巡って近づいたLouisその人が、今も息づいていることを感じながら、仮に哲学者プラトンが提唱した「イデア:Idea」の世界があるならば、「トランクとはこういうものだ」という一つの答えを、世紀を超えながらVuitton家が示し続けているような気がしています。

PS: 2006年5月、Patrick氏から伺った、最初の疑問への返答。それは「どうも、ラベルは貼り替えが行われたらしいが、その理由はわからない。」という、含みを持たせたものでした。古いトランク達からその答えを聞き出すのは、もう少し先になりそうです。 ーーーーー(完)



写真右:1871年頃のアニエールの工場内部。1870年、普仏戦争当時、初代ルイは国民軍に入ったが、その当時の職人からイニシャル入りのバックルをもらっている。この絵の中に、幻のバックルを作った職人が果たしているのだろうか。

写真左:1880年頃のアニエールの工場全景。工場から出て行く馬車のトランクにはうっすらと縦縞が見える。多分「トアル・レイエ」であろう。道路中央の馬車の後方が、初代ルイのメゾン。パトリック氏もここで暮らしていたが、現在1Fはゲスト・ルーム、2Fはミュッゼになっている。私が訪問したアニエールの工場は、基本的にはこの絵のままであった。
 1863年、ミショー兄弟は、ドレ式自転車にペダルを付け、今日の自転車か誕生した。初代ルイもこの自転車に乗った1人だという。道路右側の自転車には、スクリーブの店から戻る初代ルイが乗っているのかも知れない。
私のルイ・ヴィトン物語

   参考資料

1): Louis Vuitton S.A.(ed.), 時をたどる旅 ルイ・ヴィトン回顧展カタログ : Paris,1983.
Louis Vuitton S.A.(ed.), A Journey Through Timeカタログ: Paris,1990.
2): あこがれの船旅展」カタログ : サントリーミュージアム「天保山」,1996.
3): LVJ,「ルイ・ヴィトンと万国博覧会 1867-1931」〜革新と現代への挑戦〜カタログ ,2004.
4): 著者不詳:とっておきのヴォワイヤージュ ルイ・ヴィトンに出会う旅 マリー・クレール日本語版,中央公論社,1991,11月号(ルイ・ヴィトン(株)再編版)
5): 著者不詳:伝統のものづくり、その「心」を訪ねて クラフツマンシップに触れる京都の旅 ラ・セーヌ日本語版,学習研究社, 1993,5月号(ルイ・ヴィトン(株)再編版)
6): 著者・年代不詳:ルイ・ヴィトンの研究 皮づくり誌上ドキュメント
7): 西尾忠久:ルイ・ヴィトン ルイ・ヴィトンの秘密と全製品カタログ グラフ社,1978.
8): 西尾忠久:ヴィトン読本 グラフ社,1982.(国立国会図書館蔵)
9): Henry-Louis Vuitton : ルイ・ヴィトン 思いでのトランクをあけて 福武書店,1985.
10): ルイ・ヴィトン ジャパン株式会社,The History of Our Parisian Stores-from 1854 to 1954,
  LOUIS VUITTON NEWS,p4~5,1995,PRINTEMPS/ETE
11): Louis Vuitton Malletier(ed.),Louis Vuitton. L'art de traverser le temps : Paris,1996.(editoin    N°4~6)
12): 島森路子:古くて新しい美を作り続ける<ルイ・ヴィトン>パリ・レポート,月刊広告批評, p75~86,1999,225号
13): Louis Vuitton Malletier(ed.),A la rencontre de Louis Vuitton : Paris,1997.
14): Anne-Marie Corre : Vuitton L7invitation au voyage ,PARIS MATCH ,N°2855,2004.
15): Louis Vuitton Malletier(ed.),La toile Monogram , Paris,1996.
16): 秦真梨子:伝統と未来への夢で紡がれたルイ・ヴィトンの美を追って エスクァイア日本版 , p96~105,2000,1月号増刊
17): 三宅和歌子:ルイ・ヴィトンを解するキーワードA to Z エスクァイア日本版 p108~117,
2000,1月号増刊
18): ルイ・ヴィトン ジャパン株式会社,The Evolution of the Travel Trunk,LOUIS VUITTON          NEWS,p8~9,1994,PRINTEMPS/ETE
19): 中島渉:ルイ・ヴィトン、美と匠の世界,マンスリー・エム,ベルシステム24,p44~51,2001,vol9
20): 池田香、三浦篤:ルイ・ヴィトン 時空を超える意匠の旅展カタログ 読売新聞大阪本社,2004.

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