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ルイ・ヴィトン哲学コミュの ルイ・ヴィトンにもっと近く(2)

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ちゅうすけ先生

写真左の手前、「ガバッと口をあけたバッグの口金」ですが、ちょっと前まで売られていた、総ヌメ革「ノマド・シリーズ」のSac de voyageや、全製品カタログp49、カタログ55「Serviette Fermoire」に近いと思いますが。

棚奥から出てきた、古めのアメリカ版カタログ(ラベルを眺めつつ-9に載せますが)にも、それらしいのが載っていました。ただ、「コピー」されたものなので、見づらいかも知れません。

ヴィトンでは、以前から左右にV字型の金具を使って、上面がガバッと開くものを作っていたようですが、この手の所謂「ドクターズ・バッグ」が流行った時代だったのでしょうか? ヘルメス?なんかでも作っていたよう〜な(確証ありません)気がします。

コメント(41)

>ぴょん吉 さん

フラット・バッグの口金の側面V字型金具、しかとわかりました。
ポスターでは、口金のところまで布が縫い合わされているように見たものですから、金具はどんな設計になっているのかなと、不思議に思いました。
お手数、ありがとうございました。
ラベルを眺めつつ(10)

アメリカ版カタログのコピー。

実物ではないので、これが仮に本物と仮定すると、、、
1898年、ヴィトンはオハマ万博で金メダルを獲得し、この年からジョン・ワナメーカーが「海外代理店」として、ニューヨーク・フィラデルフィアでトランクの展示販売を始めている。

翌1899年初頭、ヴィトンはロンドン店をニュー・ボンドストリートに移転。この後1910年頃までに海外での契約代理店契約を進め、販売網を構築していった。

これらの事実や、他店の開店時期などから、標記された「1854-1914」は、ほぼ間違いないものと考えられる。

そして、1912年に手に入れたシャンゼリーゼ通り70番地に「ヴィトン・ビルディング」を建築し始めたので、このカタログは1914年5月15日の新店舗開店時に発刊されたのもと推定。
(http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=21131203&comm_id=2396029&page=all ラベルを眺めつつ(3)参照)

このカタログは、全64ページからなるコピーだが、新規開店に合わせた「限定品」なるものは掲載されていない。

アメリカ版以外に、間違いなくフランス国内版が存在したと考えられるので、是非両方の実物を見てみたい。
代理店に、ボンベイ、バンコックがあって、東京がないのが愉快ですね。
その頃、成金とか、藩主の末裔なんかが洋行していたのに、タイのお金持ちにもおよばなかったんですね。
ラベルを眺めつつ(11)

シャンゼリゼ70番地以前、1871年からの43年間、ルイは1 rue Scribe(スクリーブ通り1番地)に店舗を置いていた。ここは現在スクリーブ・ホテルとして営業され、店舗正面には現在のル・グラン・インターコンチネンタル・ホテルがある。

1870年からの普仏(独仏)戦争中、アニエールは死の騎兵隊に占領され、トランク用のポプラ材は薪代わりに使われてしまった。また、パリ労働者の革命政府であるパリ・コミューンの騒ぎで、工場の職人達も散り散りになっていた。

ルイは妻エミリーと相談の上、手狭になったカプシーヌ通りの店舗から、ジョッキークラブの馬具置場が移転したこのスクリーブ通り1番地を買い入れた。

ルイは店の2/3を旅行用品、残りを荷造り用にし、この頃からルイは本来の仕事であった「EMBALLEUR:荷造り業者」から現在へと続く「MALLETIER:トランク製造業者」に変わっていった。

それは、ルイ50才、ジョルジュ14才での大きな決断であり、これからの43年間には有名なベッド・トランクやワードローブ・トランクを初め、数々の名品がルイの手によって創り出された時期であった。また、「トアル・ダミエ」や「トアル・モノグラム」が世に送り出されたのも、この場所からであった。



1 RUE SCRIBE
    1871~1914
149 NEW BOND ST. LONDON. W
    1899~ ( 2回目の移転以後)
NICE 4 JARDIN PUBLIC
     1908~
LILLE 34 Rue FAIDHERBE
     1909~ (閉店時期不明)

2枚のラベルの字体は、共にシャンゼリゼ70番地へ移転後も使われたもの。ラベルの素材は、左が紙製、右は羊皮紙?。工場(アニエール)の所在地は標記せず。ほぼ同じ形態に見えるが、nから伸びたリボンの先端が故意に変えられたようである。

どちらのラベルが、より古いかは判定不能だが、記載事項より、1909年からシャンゼリゼ移転までの5年間に使用されたものと推定。

更に、1888年には登録商標を取得したダミエが創られたが、すぐに模造品に追われたことから、ジョルジュがモノグラムを発表した1896年以後、いつまでもダミエのトランクが並行して店舗にあったとは思えない。従ってこの2枚はモノグラムのトランクに貼られていたものと考える。
ラベルを眺めつつ(12)

シャンゼリゼ70番地当時の、別のポスターが見つかった。

自動車に情熱を傾けていたジョルジュが、自動車用トランクの原型を発表したのは1897年。以後彼は、旅先でタイプするためのタイプライター・トランク、ピクニック用品を納める自動車専用トランク、運転手用の工具箱やドライバーズ・バッグも考案。更には、キャンピングカーもデザインした。


ポスター右側中央は「メルセデス30HP」。後部には大小2個のトランク。踏み台にはスティーマー・バッグ、屋根には平らなトランクとドライバーズ・バッグ。

田園地帯を砂埃を舞上げながらの自動車旅行。舗装されていない田舎道でも壊れなかったであろうこのトランク達を見てみたい。
よけいな心配だけど、ステップのスチーマー、凸凹道の走行で落っこちないかなあ。
まあ、スチーマーの仕組みなら、ほこりは大丈夫みたいな気もせんでもないけど。

当時、自動車は超富裕層のスポーツだったから、その層が客だったジョルジュとしても、知恵をしぼらなといけなかったでしょうね。
ちゅうすけ先生

私も全く同感です。

スティーマー・バッグは、本来は船旅で、室内のドア・ノブなどに掛け、優雅なマダム達の洗濯物を放り込むためのものだったと、聞いたことがあります。ですから、中身は軽かったと思うのですが、でこぼこ道ではこのバッグ、かなり飛び跳ねたと思います。

左の写真では、「ステップに固定された道具箱」との解説がありますのでこれなら納得できます。

中央の写真では、屋根のトランクはしっかり固定されています。ですから、あのスティーマー・バッグ、かなり跳ね回ったでしょうね。

右はジョルジュが考えたキャンピングカーのデッサン。解説は「ヴィトンの考えるキャンピングカー:1階には寝室と食堂があり、屋根の上は友人用に!」です。
ラベルを眺めつつ(13)

ラベルを、、、(11)と同じパターンのもの。

1 RUE SCRIBE
    1871~1914
149 NEW BOND ST. LONDON. W
    1899~ ( 2回目の移転以後)
NICE 4 JARDIN PUBLIC
     1908~
LILLE 34 Rue FAIDHERBE
     1909~ (閉店時期不明)


写真左:何故か逆さまにベロが付いている。
ベロには上から、PARIS、S VUITTON、LONDON。
2行目の S は、Lの中に少し小さく書かれているようだが、意味不明。

写真右:以前アップした「工具箱」の蓋に四隅を釘(?)で固定したもの。トランクの大きさや、貼り付け可能な部位によって、数種類のラベル・パターンが有ったものと推定。
ラベルを眺めつつ(14)

LILLE、NICE店が描かれていない(1907以前?)ラベルには、数種類のパターンが見られる。

1 RUE SCRIBE
    1871~1914
149 NEW BOND ST. LONDON. W
    1899~ ( 2回目の移転以後)



左右の写真は、PARISとLONDONだけ表示した極めてシンプルなラベル。字体などのパターンは同じだが、文字色・バックの色を変えてある。これほど極端に色を変えている物を他に見つけていない。
また、右はモノグラムのトランクに貼られたラベル。従って1896年以降。
ニースの店、何回ほど引越したんですかね。
ぼくが35年ほど前に最初のヴィトンを買ったのは、グスターヴV世大通り2番地で、泊まったホテルの前にありました。
ニースは、避暑・避寒地で、富裕層が多く別宅を構えており、海辺の後ろは高台の町です。まあ、自動車のない自分は、山手には別荘は極めて少なかったでしょうね。

1900年代初期に、ここへ避暑・避寒にきた人たちはパリやリールやモナコやミラノから馬車で来たとすると、何日もかけています。
馬車に積める荷物の数も知れているから、ここで買い増すって、あまりしなかったような。
むしろ、修理が主だったようにも推理するのですが。
それで、家賃の安いとこ、しかし、見てくれはいいところへ移っていたのかなと。
ちゅうすけ先生

持ち合わせのラベルを見ただけでも、NICE店に関しては数回移転しています。4. Jardin Public、2. Jardin Albert、12. Avenue de Verdin、それから先生がパリ・マルソー大通りの本店を訪れた頃の2. Avenue de Suede。

不思議に思い、Google Earthで調べると、面白いことに Jardin Public 以外の3店舗は、半径150mくらいで移転していました。家主と折り合いが悪かったのかどうかは計り知れませんが、何故こうもちょこちょこ狭い範囲で移転したのでしょう?

残念ながら「グスターヴV世大通り」は発見できていませんので、もし綴りがお判りでしたら、ホテル名と共にお知らせ下さい。もしかすると、「NICE グスターヴV世大通り店」のラベルが存在しているのかも知れません。あるいは転居が早すぎて作られていないものなのか???
「グスターヴV世大通り」のグスターヴV世が何者なのか、まだ調べていないので、むなんともいえませんが、番地が同じ2番地なので、通り名がスウェドに変わったのかもしれませんね。
ラベルを眺めつつ(15)

ParisとLondonだけの表示で、更にトランクに直接印刷(判子?)したもの。


1 RUE SCRIBE
    1871~1914
149 NEW BOND ST. LONDON. W
    1899~ ( 2回目の移転以後)


左のラベルは、ダミエのトランク(写真中央)に貼られていた。New Bond Streetへの移転は1899年であり、モノグラムはその3年前の1896年に完成していることから、「ダミエ」は最低3年間は、並行して作られていたことになる。
googleでGustaveVを検索したら、ニースのAvenue Gustave V de Suèdeがでてきました。
ちゅうすけ先生

有り難う御座います。私も確認いたしました。同じSuedeでも100m程離れていたんですね。

いつか「Avenue Gustave V de Su?de」のラベルが出てくることを祈りつつ。

すると、先生が泊まれれたホテルは Le Meridien Niceですか?
雑感(3)

1996年、時正に「モノグラム100周年」で日本中が沸き立っていた頃、大阪はサントリー・ミュージアムで、「Fantastic Voyage: あこがれの船旅展」が行われていた。

展覧会の主題は、豪華客船の黄金時代と言われた1920~40年代の、特にフランスの「ノルマンディー号」にスポットを当て、余暇の充実が謳われる今日、船旅へ誘う、と言ったものだった。

開催を聞きつけてすぐさま駆けつけてみた。
土曜の夕方のせいなのか、ほとんど誰もいない会場で、のんびりと、主催者が手はずを整えた「本展をひとつの船旅として」満喫した。

船内に見立てた会場には、「ノルマンディー号」での船旅のポスターや実際に使われた豪華な食器類、寝具などが小綺麗に並べられ、2時間弱の「船旅」を大いに満足させてくれた。

勿論、旅行者の定番・「ルイ・ヴィトンのトランク」も10数点、客室をあしらったそこに置かれていた。        つづく



写真左・中央は本展パンフ。 右は展覧会冊子冒頭の主催者の言葉。
雑感(3)の続き

勿論、トランクの前で足を止めた私は、暫しワードローブ・トランクやストコフスキーのデスク・トランクを眺め、1人悦に入っていた。特に古いものがあるわけでもないが、脳みそが勝手に、トランクを携えた自分を、船室に連れ込むのである。

閉館が近づき、尚もトランクの前に佇む私の傍を、何度となく通る警備員。きっと、「此奴、トランクを盗む気か?」と。


私は普段、あまり美術館には出向かない。どうもそこは作者の自己満足しか感じられないので、もっぱら博物館である。近頃は美術館にもちょっと休憩できるソファーや椅子が置かれていると聞く。だからこういう展覧会会場にも是非設置してほしい。ゆっくり冊子を紐解くためにも、、、。


遂に下船の合図に我に返り、1人夕暮れの外を歩いた。海風が心地よく、誘われるまま近くのバーへ。冊子を開き、再び船室に戻る。とにかくビールが旨かった。



写真右は展覧会冊子の1ページ。不思議なのは次の2枚。
中央はデスクトランクだが、解説には130番のように「ルイ・ヴィトン社、0000年」ではなく「ガストン・ヴィトン、1980年」とある。(ガストン-ルイ・ヴィトンが正しいのだが)するとこのトランクはガストンが作った、あるいは所有したもの? でも彼は1980年に亡くなってるんでけど、、、。

右はもっと難解。137番のこのスティーマー・バッグ。「ジョルジュ・ヴィトン、1995年」?????
刻印のイニシャルも違うし、彼は1936年にこの世を去ってるし〜。後半の貸し出し目録でも一緒。
多分、ジョルジュが考案したもので、コレは1995年製のもの、と解釈したけど、そうすると他のものが分からなくなる。 ヴィトン家の考案者不明ってこと?

外国から貸し出されたもの全般に言えるのだが、翻訳で不明なところは本国に再確認するなど、主催者はもう少し細やかな気遣いを持って冊子を作ってほしいものである。
ラベルを眺めつつ(16)

(15)と同様に、ParisとLondonだけの表示だが、こちらはラベルになっている。


1 RUE SCRIBE
    1871~1914
149 NEW BOND STREET. W. LONDON
    1899~ ( 2回目の移転以後)




写真左、中央は「ダミエ」のトランクに貼られたラベル。右は「モノグラム」のトランクに貼られたもの。これにより「ダミエ」が1896年以降も最低3年間は、並行して作られていた確証を得た。

店舗の表示方法はほぼ同じだが、下段、LONDON店はSt. を止めてSTREET 表示にしてある。また、2段表示にすることでLONDONの左側に空白が出来、ここを「鍵番号」記入スペースにしたものと考えるが、中央、右の写真ではラベル外に印字されている。当時は鍵番号の印字に、あまり神経を使っていなかったのか。

同時期に2つの種類が存在することから、既製品とオーダー品で使い分けていたのではないか?
ラベルを眺めつつ(17)

ヴィトンが初めて海外直営店を出したのは英吉利。149 NEW BOND STREET. W. LONDON以前はSTRANDにあった。


1 RUE SCRIBE
    1871~1914
454 STRAND
    1892~1899(1回目の移転後)



写真はラベルの拡大と、それが印字された帽子用トランク。字体は149 NEW BOND STREET当時のラベルと同様だが、Nからのリボンをかなり引き延ばしている。Louis Vuittonを中心に、所在地はほぼ対称に書かれているが、その都市名と番地名は逆転している。何かしらの意図があったものなのか、このタイプのラベルが他にもあれば、何かしら見えるものがあるかも知れない。個人的にはParisを左上に配置したいところである。

また、青字LONDONの下方に以前のものとも思われる様な印字跡が見える。これ以前のLondon店はOXFORDだった。このトランクは修理品だったのか。であれば、鍵番号の薄れ具合もうなずける。


1892年は、ヴィトン家に大きな変化が起こった年であった。この数年前、1888年には「ダミエ」を考案。エッフェル塔が建てられた、翌1889年の万博では「ワード・ローブ・トランク」で受賞され、1890年には5枚羽の錠で特許を取得。また、1891年にはアニエールの従業員のために「相互扶助・退職基金」をも創設し、1892年1月にはLondon店の移転・新装開店並びにヴィトン初の「全製品カタログ」を発行と、ルイ、ジョルジュ親子にとっては充実した発展時期に思う。

しかし、2月27日から28日未明に掛けて、初代ルイは永眠した。それは「モノグラム」生まれるほんの4年前であった。

1人になったジョルジュは、Scribe店、Strand店そしてAsnieresの工場を取り仕切りながらも、翌1893年にはシカゴ万博で特選を受賞。父の死後、2年越しで執筆した一冊の本「旅:始原から今日までの旅行」は疑う余地もなく、ルイに贈ったものと考えている。更に「鞄と旅の歴史」の執筆で教育功労勲章を授かった1896年、満を持して「モノグラム」を完成させた時、ジョルジュは39才であった。
ラベルを眺めつつ(17)

このラベル以前と考えられるものには、色々なことが書かれていて非常に興味深い。今回のラベルは、中でも異色である。


LOUIS VUITTON
TRUNKS & BAGS

PARIS
1 RUE SCRIBE    (1871~1914)
TELEHONE(?)

LONDON
454 STRAND     (1892~1899)
CHARING(?)

WORKS : 18, Rue du Congres, ASNIERES. France    (1860~)



中央の旗の一つに星条旗らしいものが見られる。また、ほとんどが英語表記であることから、(16)で述べたように、1892年STRANDに移転した翌年、シカゴ万博に出展するために作られたものと推定。

1 RUE SCRIBE下はTELEPHONEと読めるが不明。電話番号が書かれていたのか。また、454 STRAND下のCHARINGは、店舗の正面にあったCharing Cross駅のことなのか。そうであれば、CHARINGの次のマークはCross(十字架:+)であろうか。

色彩も他に類を見ないもであるが、それよりも興味を引かれるのは(ダミエ柄:1888~)市松模様を使っていること。あえて出展作品のトアル地ダミエに合わせるように考えられたものなのだろうか。
ロンドン店の 454 STRAND は珍しいですね。  
CHARING(?) は、チャリング・クロス地区では?
記録では、これより前にあったOxford Streetでの売上が思ったほど伸びないことから、旅行者が旅立ち、目立ちやすいCharing Cross駅の真向かいに移転した、とありました。
>ぴょん吉さん
Charing Cross駅の真向かい---だと、Strand の通りでしょうね。
たしか、Strand って表記のラベルもありましたよね。
ラベルを眺めつつ(19)

454STRAND店時代では、2種類の大きなラベルを見つけた。

102356(鍵番号は6桁)
LOUIS VUITTON

LONDON
454. STRAND     (1892~1898)

PARIS
1 RUE SCRIBE    (1871~1914)

MEDAILLE D'OR PARIS 1889
HORS CONCOURS CHICAGO 1893

QUOTE ABOVE NUMBER TO DUPLICATE

囲み選外:判読不能

これらの年代より、1893年から1898年まで使われていたラベルと推定。

写真は、ラベルとこのラベルが貼られたトランク。1888年にはトアル・ダミエ、1896年にはトアル・モノグラムが発表されているが、このトランクは単色・無地である。この時期もグリ・トリアノンのような布地を使っていたのか? しかし、トランク外枠には木と金枠(鉄?)を用い、更に底面に向かい独特に広げられた金枠の形状から、ヴィトン初期のトランクではないかと思う。そして、このラベルは修理によって張り替えられたのではないだろうか。



454STRANDに店舗を構えていたのは、1892年1月から1898年末までの7年間。
1898年には、John Wanamakerとの代理店契約によりアメリカでの展示・販売が始まり、また同年オハマ万博でヴィトンは金メダルを受賞している。
翌年の149New Bond Streetへの移転事情には、Charing Cross駅前では、客は汽車に乗る前に見ているだけだった、とある。  つづく
>Charing Cross駅前では、客は汽車に乗る前に見ているだけだった。

駅前だと、旅行者が多いからと考えてCharing Cross駅前へ移転したんでしたよね。
しかし、その当時、汽車客のために軽い、ソフトな製品はどれぐいあったんでしょう?
ヴィトンがふつうの旅行者のものとなったのは、やはり、ソフト製品がでてからでしょうね。
ちゅうすけ先生

STRANDのみの表示のラベルは見あたりませんでした。

また、ソフト系のバッグも1901年のスティーマー・バッグ以前のものはわかりません。当時、主はステッキ、ご婦人方はハンドバック程度を持ち、後は召使い達が運んでいたのでしょう。スティーマー・バッグでさえ、船旅での下着など洗濯物を入れる目的のものでしたから。
ラベルを眺めつつ(19)

(19)のラベルと同様だが、鍵番号が5桁のもの。

49032(鍵番号は5桁)
LOUIS VUITTON

LONDON
454. STRAND     (1892~1898)

PARIS
1 RUE SCRIBE    (1871~1914)

MEDAILLE D'OR PARIS 1889
HORS CONCOURS CHICAGO 1893

QUOTE ABOVE NUMBER TO DUPLICATE

囲み選外:判読不能


この時期以前のラベルには、紋章が描かれている。このラベルには3つの紋章が記されている。知り得るものを記す。

写真左上最上段:プリンス・オブ・ウェールズの紋章。

写真左上2段目の左;イギリス王朝の紋章。

写真左上2段目の右:スペイン・アルフォンソ13世の紋章。



このラベルのみに、鍵を無くしたときの複製方法が英語表示されている。また、1893年のシカゴ万博での受賞(特選)を記していながら1898年、オハマ万博の受賞(金メダル)は記されていない。

これらのことからこのラベルは、John Wanamakerとの代理店契約によりアメリカでの展示・販売が始まった1898年で、しかもオハマ万博で受賞する以前に、アメリカを意識して作られたものと限定して良いのか。

しかし、翌1899(明治32年)初頭には149. NewBond Streetに移転しているので、この推論では、このラベルは半年ほどしか登場しない事になってしまう。  つづく
右下の、金貨だかメダルだかにもキャプションが付されていますね。可読ですか?
英王室の紋章(プリンス・オブ・ウエールズと王家)は、どういう資格で使っているのでしょう?
英王室御用達だったら、紋章の下にそのアポイントメントを受けたことを明記します。これはしていません。
掲示許可を得たのでしょうか?単に、その国の万博に出品・受賞したということなのか。
中央上のワシは米国のシンボルで、いまのロンドン・グロブナー広場西側の米国大使館に、これに似て翼をひろげたワシの彫像がかかげられていますね。
ちゅうすけ先生

ラベル上のメダルのキャプションは、下段左のものは読めません。右側上段はPARIS、その下の6枚は、左からPARIS、LONDON、不明、HAVRE、不明です。これらの地名は、このラベルが生まれるまでに行われた博覧会の場所で、その年代が書かれています。

ヴィトン家が出展し、何かしらの賞を受けたものは
   1867:パリ万博、銅メダル
   1878:パリ万博、(不明)
   1889:パリ万博、グランプリ
   1893:シカゴ万博、特選
   1898:オハマ万博、金メダル
   1900:パリ万博、特選
   1904:セントルイス万博、特選
   1905:ポートランド博覧会、グランプリ
   1907:ヴァンセンヌ植民地博覧会、グランプリ
      :ボルドー国際見本市、グランプリ
   1909:ロンドン博覧会、特選 までは分かっています。(これ以降は調べていません)
これらの受賞内容とラベルが作られた年代から、PARISは1867、1878、1889年のいずれかであり、LONDONでは1851年に最初の「万博」なるものが開催されていますが、ヴィトン家の歴史から考え、LONDONで2回目の万博が行われた1862年であろうと思います。

HAVREに関してはパリ北西の港町Le Havreで、1868年にExposition Maritime Internationale(海上国際博覧会?)が開かれましたので、このことだと思っています。

しかし、LONDONとHAVREでの受賞記録が一向に見あたりませんので、出展はしていた、と推定しています。このように考えますと、ラベルに描かれた「メダル」は受賞したメダルではなく、これらの「会」に発行された記念コインあるいはメダルの裏・表ではないのかと思います。

1893年、シカゴ万博(コロンブスのアメリカ大陸発見400周年記念採点)で発行されたコインの裏・表(写真2枚)からもこのように考えるに至りました。
>びょん吉さん
上記のぴょん吉さんのリポートは、ヴィトン社にとっても貴重な記録です。
ぴょん吉さんのご研究が、ヴィトン社の社史を上まわってきた記念すべき歴史的一瞬です。
ちゅうすけ先生

英王室御用達の証明となるアポイントメントが書かれたものはありますが(写真はHause of Hardy社のもの)、ヴィトン家が英王室御用達であったという記録は見つかりませんでしたので、やはりロンドン万博に「出品した」証と考えます。
ラベルを眺めつつ(21)

このトランクには2枚の、しかも時期が異なるラベルが貼られている。

蓋に貼られたラベル(写真左)は前回、前々回と同様。

LOUIS VUITTON

LONDON
454. STRAND     (1892~1898)

PARIS
1 RUE SCRIBE    (1871~1914)

MEDAILLE D'OR PARIS 1889
HORS CONCOURS CHICAGO 1893

QUOTE ABOVE NUMBER TO DUPLICATE

囲み選外:判読不能


トランク本体、右側に貼られたラベル(写真右)は、(16)で登場した時代のものと同様。

1 RUE SCRIBE
    1871~1914
149 NEW BOND STREET. W. LONDON
    1899~ ( 2回目の移転以後)



このトランクはダミエであり、シカゴ万博での受賞記録が記載されていることから1893年(明治26年)以降、STRABD店が存在した1898年(明治31年)までの間に作られたものと考えている。しかし、149 NEW BOND STREETに移転後のラベルがあることから、所有者が何かしらの理由で「修理」を依頼したものと推定、しかも鍵番号が5桁であることから、上記期間の中でも前半であろうと推理している。

また、ラベル貼付位置をトランク本体右側に移したのは、1903年、他店との差別化の為に取られた措置であった。46才のジョルジュはこの年、翌年のセントルイス万博での旅行用品審査委員長と委員総会副議長に選出されていた。また万博に備え20才のガストンと共に船旅用トランク「Excelsior:エクセルシオール」「Saint-Louis:サン・ルイ」や「Malle pafrumerie:香水トランク」などを精力的に作成していた。

このような経緯から、万博での各国からのトランクの出店を見据え、ラベル貼付位置の変更を考えたジョルジュのこだわりが垣間見える。貼付位置を移動した最初のラベルは(14)の写真右、赤地にゴールドの文字を使っていた。セントルイス万博で特選を受賞したトランクには、このラベルが貼られていたのだろうか。

修理に出された時期は、New Bond Streetに移転した1899年からNICE店開業の1908年までと考えられるが、特定は不可能。
ちゅうすけ先生

ラベル右下方にあるメダルについてですが、判明したものをお知らせいたします。

右上の2枚。書かれていたのはPARIS 1889。これはエッフェル塔が作られた「フランス革命100周年記念万博」のものと考えます。

左端の2枚。LONDON 18??。

右下の6枚、左から順に、PARIS 1867。これはヴィトン家が銅メダルを受賞したパリ万博。次は、LONDON 188?。右端はHAVRE 18??でした。

博覧会や国際見本市が行われた都市名と共にその年代が記されています。HAVREについては1868年に開催されたExposition Maritime Internationale(海上国際博覧会?)で良いと思います。
問題はLONDONですが、今後提出予定の、これより古いラベルから考えますと右下のLONDONは1885年に行われたInternational EXhibition of Inventionsと考えます。

他方、左下のLONDONは、前回も述べたとおりヴィトン家の歴史から考え、LONDONで2回目の万博が行われた1862年であろうと思います。しかし、これ以前のラベルにはLONDON 1885 以外は書かれていませんので断定出来かねています。因みにLONDONでは1871、72、73、74年に連続して何かしらのExhibitionが開催されていました。

同じラベルで、もう少し判読可能なものが見つかればはっきりすると思います。


以前ちゅうすけ先生がご質問された、このラベル中央上の、アメリカの鷲のシンボルについてですが、未だ合理的な解釈が出来ておりません。このラベルだけですと1893年にシカゴ万博に出展しているので何とかこじつけられるのですが、実はOXFORD STREETに出展した1885年頃のラベルにも「鷲」が描かれているのです。当時アメリカに進出していた記録もなく、また、誰かに献上した記録もなく、解釈に憂いています。
ラベルを眺めつつ(22)

このラベルも、前回と同様にSTRAND店があった当時ものと考える。ラベル上段から書かれていることを記す。


ラベル上段左の紋章:イギリス王朝の紋章
ラベル上段中央の紋章:アメリカ合衆国の鷲のシンボル
ラベル上段右の紋章:スペイン・アルフォンソ13世の紋章

LOUIS VUITTON

LONDON
454. STRAND     (1892~1898)

ラベル中央の紋章:プリンス・オブ・ウェールズの紋章

PARIS
1 RUE SCRIBE    (1871~1914)

40870(5桁の鍵番)

ラベル下段のメダル、左から
HAVRE 1868 (Exposition Maritime Internationale:海上国際博覧会での記念メダルと推定)
PARIS 1867 (パリ万博、銅メダル を受賞した記録あり)
PARIS 1889 (パリ万博、グランプリを受賞した記録あり)
LONDON 1885 (International EXhibition of Inventionsでの記念メダルと推定)

MEDAILLE D'OR PARIS 1889




このラベルについては、上記年代から1892年のSTRAND移転後、1893年のシカゴ万博(HORS CONCOURS CHICAGO 1893)までの1年余りにだけ使われたことになる。すると、先の(21)で述べたとおり、1892年にはジョルジュは既に翌年のシカゴ万博開催を知っていながら、このラベルを作ったことになるのだが、果たしてそうだったのか?

どうも腑に落ちない事が出てきたので、Paul-Gerard Pasolsが2005年に著した本「LOUIS VUITTON」を調べてみた。彼は初代ルイの出生証明書を探り出し、正しい誕生日は8月4日である事を突き止めた男である。その結果、LONDONでOXFORDからSTRANDへの店舗の移転は1892ではなく、その3年前の1889年12月1日であり、また、OXFORDで開店した1885年にはune exposition internationale des inventions et brevets(発明品?と特許?の国際博覧会)では、une medaille d'argent hors concours(特別参加?での銀メダル)を受賞していたことが判明した(このメダルについては今までの資料には一度も登場していない)。

これらのことから、今回のラベルは 1889年12月1日のSTRAND移転後、1893年のシカゴ万博(HORS CONCOURS CHICAGO 1893)で特選を受賞する前頃までのものと考えるに至った。
また、既に書き込んだラベルの解説には、同様の加筆・修正が必要となった。
>ぴょん吉さん
だんだと深くなっていきますね。たのしい。

ところで、29年前、講談社ムックの1冊として『英国の老舗』の企画・執筆をしました。『英王室御用達』という内容なのに、英国宮内庁からそのタイトルは禁止されていまして、やむなく、表記になりました。
これに、英国王家の紋章の解説が載っています。
1837年、ビクトリア女王の時に、定まったものですから、ルイ・ヴィトンが使っているのも、王家(王と女王)の場合は、これですね。

本来は、楯が王家をあらわします。3頭のライオンはイングランド、立っているのはスコットランド、ハープはアイルランドの象徴。

英王室御用達は、その後、5年ほど現地取材をして、ダイナースクラブの会員誌『シグネチャー』に連載しましたが、やはり、チェンバレン(宮内庁)から、タイトルに使うこと禁止されましたので、出版は見合わせました。
そのとき、エリザベス女王が指定されている英国銘柄の旅行トランクもありましたが、いま、探す時間がなくて。
ちゅうすけ先生

イギリス王朝の紋章ですが、中央の楯の四分割、左上と右下のそれぞれ3頭の金色のライオンがイングランド、右上の金の地に赤いライオンがスコットランド、そして左下の青色の地に銀色の弦を張った金色のハープがアイルランドをあらわしていた事を森護先生の本で、やっと理解できました。有り難う御座いました。

この紋章の台座に当たる部分を拡大してみました。Royal motte(信条・座右銘?)には一般にラテン語が使われるようですが、DIEU ET MON DROITはフランス語読みができそうです。神と私の法律あるいは私の権利。何となくわかります。

しかし、何故この紋章がヴィトン家のラベルに使われていたのかは、まだ解明できません。
ラベルを眺めつつ(23)

前回と同様にSTRAND店があった当時のものでありながら、描かれたメダルの年代からこのラベルが、より古い時代のものと考える。
ラベル上段から書かれていることを記す。


ラベル上段左の紋章:イギリス王朝の紋章
ラベル上段中央の紋章:アメリカ合衆国の鷲のシンボル
ラベル上段右の紋章:スペイン・アルフォンソ13世の紋章

LOUIS VUITTON

LONDON
454. STRAND     (1892~1898)
(STRANDの下の赤字部分は判読不能)

ラベル中央の紋章:プリンス・オブ・ウェールズの紋章

PARIS
1 RUE SCRIBE    (1871~1914)

N35800(5桁の鍵番)(赤文字Nはフランス語の数字:Numeroの略語、数字全体に塗られたラインマーカーのような色づけは意図不明)

ラベル下段のメダル、左から
PARIS 1867 (パリ万博、銅メダル を受賞した記録あり)
LONDON 1885 (International EXhibition of Inventionsでの記念メダルと推定)
HAVRE 1868 (Exposition Maritime Internationale:海上国際博覧会での記念メダルと推定)
LONDON 1885 (International EXhibition of Inventionsでの記念メダルと推定)




このラベルでは289, OXFORD STREETが黒線で消され、454, STRANDが書き足されている。これは、Strandへの移転が何かしらの理由により急遽決定されたためにラベル作成が間に合わなかったものと考える。

その理由の一つとして、この年1889年、本国フランスでは5月6日からのフランス革命100周年記万博が開催され、5月15日にはエッフェル塔が竣工した。またこの万博でヴィトン家はワードローブ・トランクでグランプリを得た。これにより万博終了後の注文も飛躍的に伸びたことは、容易に想像できる。そこへSTRAND 454番地への移転承諾が届き、多忙な中でラベル作成が1889年12月 (前回訂正済み)の開店に間に合わず、急遽線引き・修正したものを使用したのではないか、と考えている。

ところで、このラベルには不思議なことがある。
下段のメダル部分だが、「LONDON 1885」が何故か2回描かれている。メダルを拡大して確認したが、2枚のメダルの模様はそれぞれ同じであった。これはどうゆうことなのか? 

黒線修正の無いこのラベル自体は、289, OXFORD(1885年1月〜)が書かれ、1885年のLONDONでのメダルが描かれていることから、STRAND移転まで(〜1889年12月)
の、少なくとも4年間は使われていたことになる。
そして、(22)で示したラベルでの標記、PARIS 1889・MEDAILLE D'OR PARIS 1889を併せて考えると、この黒線で消されたラベルは、パリ万博で受賞したメダルを書き込み、完成するまでの、ほんの数ヶ月間に使用されたものだったのではないかと推定している。


先の疑問、「何故このラベルにはLONDON 1885のメダルが2回描かれているのか」を考えてみた。単にラベルデザインのバランスのためだったのだろうか? それならば、最初からPARIS、LONDON、HAVREのメダルをバランス良く配置すればいい。ここでもう一度(22)と今回のラベルを見比べてみると、初代ルイとジョルジュの考えが少し見えてきたような気がする。

紋章の図柄・配置やメダルの配置が同じ、LOUIS VUITTONの字体も同じ、、、。これらのことから考えられることは、今後開催されるであろう「博覧会」での受賞あるいは参加を予想していたのではないのだろうか、と言うことだった。

当時の博覧会記録を調べてみると、このラベルが作られた1885年前後では、例えば1883年から1889年に掛けて、世界各地での開催は年に3回から、多い年では6回行われていた。勿論全ての「博覧会」にトランクの出展が相応しいとは思えないが、とにかく毎年、数回行われていた時代だった。これに時折「万博」が開催される。従って、将来的に「参加・出展」することを見越し、一部のメダルを変更すれば済むように、十分考えた上でデザインしたのではないだろうか。

それから、店舗所在地を示した「赤文字」。ここにも移転したら、スタンプか何かで「そこだけ印字し直せば良い」といったルイ達の合理性が垣間見えたように思えるのだが、考えすぎだろうか?




1851年のロンドン万博の大成功から、博覧会、展覧会へ参加し、さらに受賞することが、当時としては、何よりのステイタスだったと、うなずけます。
ほかに、プレミアムになるものが無かった時代ですから。
日本の製品でも、明治・大正はおろか、戦前まで、国内の博覧会のメダルを麗々しくパッケージに刷ってますから---なんとか白玉粉なんてや日本酒のラベルとかが。
ラベルを眺めつつ(24)


右のトランクは2002年、アニエールの工場を訪ねた時に撮影したもので、OXFORD STREETに出店した当時のものと考える(昨年工場を訪問したときには既にトランクの蓋は閉じられ、理由を尋ねると風化・劣化を防ぐためであった)。
ラベル上段から書かれていることを記す。


ラベル上段左の紋章:スペイン・アルフォンソ13世の紋章
ラベル上段中央の紋章:アメリカ合衆国の鷲のシンボル
ラベル上段右の紋章: 不明

Louis Vuitton
EMBALLEUR BREVERE S.D.G.D.
FOURNISSEUR BREVERE DE S.M. LE ROI D'ESPAGNE
1. Rue Scribe. 1, (1871~1914)
PARIS
FABRIQUE D'ARTICLES DE VOYAGE
USINE A ASNIERES (Seine) (1860~)
No 10516 (5桁の鍵番号、フランス語の数字:NUMEROの略語Noを使用)

ラベル下段のメダル、左から
PARIS 1867 (パリ万国博覧会で銅メダルを受賞した記録あり)
HAVRE 1868( Exposition Maritime Internationale:海上国際博覧会での記念メダルと推定)

最上段の赤字部分
AND AT 289 OXFORD STREET (1885~1892.11頃)
REGENT CIRCUS LONDON


このラベルにはヴィトン家がイギリスに初出店したOXFORDが赤字で刻印されている。多分、OXFORD店開店に間に合わず、スタンプで印字し直したのであろう。


ラベルに描かれたメダルの年代から、このラベルは1868年のHAVRE出展以後で、1871年のScribeへの移転後に作られたものと考えられ、更に1878年のパリ万博で受賞後(受賞内容は不明)、スペインのアルフォンソ12世(Alfonso Ⅻ:1857.11.28~1885.11.25)からの注文を受けたことによるのか、FOURNISSEUR BREVERE DE S.M. LE ROI D'ESPAGNE(スペイン王陛下の御用商人免状所有者?)がラベル中央に書かれていることと、1885年に進出したOXFORDが印刷されていることから推して、約7年間使われたものと推定した。

しかし、ラベル左上にはアルフォンソ13世(Alfonso 13:1886.5.17~1941.2.28)の紋章がある。氏の在位は12世亡き後の1886年から1931年までである。するとこのラベルは一体何年に制作されたのか。仮に1886年、13世の許可を得て(氏はまだ1才!)紋章を載せたと考えると、OXFORD開店からルイは1年以上新たなラベルを作らずに過ごしたことになる。従って、未だ確定できずにいる。




このイギリス出店の裏には、現在も尚ヴィトン家が抱える、所謂「偽物、贋作」との戦いが潜んでいたのであった。イギリス進出の数年前に遡ってみる。

ラベルにもあるが、1867年の銅メダルを受賞したパリ万博には日本の天皇陛下の兄弟に当たる大君らや、徳川昭武(最後の水戸藩主)、渋沢栄一らも出向していた(日本政府の公式参加は1873年のウィーン万博から)。これ以降、知名度が上がるにつれ贋作に見舞われたルイは、1873年、76年と立て続けに新たなトアル地を制作していた。その後1880年には23才になったジョルジュが結婚し、83年にはガストンが誕生した(この年、後藤象二郎がトランクを注文している)。一見穏やかなファミリーの生活に見えるが、翌84年には大きな問題を抱えることになった。

それは、ヴィトンの成功を嫉んだイギリス人がトアル地のトランクに対抗してSole-leather張りのトランクを発表したからであった。隣国の一トランクメーカーが単に創り出した製品であれば、その国にまで乗り込んで店舗を開くとは考えにくい。彼らの製品の資料などが無いため推測になるが、このイギリス人はヴィトンのトランクにかなり酷似した物を作り、フランスまでにも知れ渡るほどの売り出し方をしたのだろうと推測している。

そこで28才のジョルジュはルイの許可を得て、1885年初頭、ロンドンの中心地OXFORDにヴィトンの店を開いた。この時、愛国者のジョルジュはフランス将校がよく使うベッド・トランクをショーウィンドーに飾り、更に軍服を着たマネキンを配したことから、挑発的だと新聞が報じ、一時外交問題にもなりかけていた。



Paris・Scribe店以外の自国内・ニース出店より20数年も早い他国への進出を果たしたルイ親子。それは、現在では三百店舗にものぼる海外直営店の記念すべき第一号店であったが、曰く付きの展開であった。

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