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ルイ・ヴィトン哲学コミュのヴイトン その秘密

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30年ほど前、『ルイ・ヴィトン その秘密と前製品カタログ』(グラフ社)から上梓した。パリ本店(当時)とアニエール工場にカメラが入った、本邦初の現地取材、A4変形のムックだった。

もちろん、ヴィトン社からは1円の援助もなし。かわりに取材はO.K.
すべて自腹による取材だった。

本ができた日。たまたま、アンリ・ヴィトンが来日していて、本を見て、「発売禁止」といってきた。
理由は「これは、クロードの本だ」とつぶやいたという。実弟のクロード・ヴィトンはたしかに、工場を案内し、説明してくれたので、その写真も撮った。

じつは、アンリ社長をインタヴューするO.Kもとり、日時まできめており、その時間にヴィトン本店で待っていたのに、アンリがすっぽかしたのだ。

「発売禁止」といわれても、本はできあがっている、しかも、ヴィトンからは1円の援助も受けていない。で、版元がいろいろ交渉して、すったもんだの末、刷った分は市販するが、再販はしない---という結論になった。

で、この本は、ヴィトン・ファンのあいだで、20数年間、「幻のヴィトン本」と呼ばれてきた。見たい人は国会図書館でしか見られなかった。

これは、再販ではなく、著作権保持者がインターネットに無料で公開する、いってみれば資料しとてのアーカイブである。

コメント(15)

ベージ3

【テキスト】

「ルイ・ヴィトンとは何者 ?」

ルイ・ヴィトン社の人たちは、話しはじめるまえに必ず、こう問いかける。
明解さが信条のフランス人気質のせい-といってしまえばそれまでのことだが、逆にいうと、さまざまな誤解とおびただしい臆測と無責任なおしゃべりに我慢しきれなくなって攻勢に転じたのかもしれない。
「ルイ・ヴィトンとは何者 ?」との問いに対する、あなた自身のひとりよがりの回答を聞くまえに、まず、ルイ・ヴィトン杜の人びとの自己規定を紹介しよう。
イヴ・ラゴーニョー社長---「高級旅行鞄,高級革製品のメーカーです」
この人は、1976年12月に選ばれてヨーロッパ・ウインチェスター銃社の社長からルイ・ヴィトン社に移ってきた人である。
ルイ・ヴィトン家が彼に与えた指示は「ルイ・ヴィトンの深い伝統を純粋化しつつ維持し、さらに近代的経営法をとり入れること」だという。
ラゴーニョー社長の右腕で財政と管理の責任者であるセルジュ・フッシェ部長は、別の言葉でこういった。
「1854年 (安政元年)の創業以来、ルイ・ヴィトン祖が旅行のための製品をつくるという基本的な考えは変わっていません」
この人は、1977年4月にフランスの紙製品と製糖関係の大会社---ビギャン社の要職をすててルイ・ヴィトン社に入った。
その理由をただ「ルイ・ヴィトンが好きだから-」と答えた。
「ルイ・ヴィトンがこの分野の仕事をはじめた 世紀19当時、旅行用の製品をつくる人は少なかったのです。旅行者の数も少なかった。今世紀に入って、旅行の概念が大きく変わりました。旅行者の数も飛躍的に増えました。私たちはこの変化に適合するような製品をつくります」
コレクション部長であるイザベラ・カノヴァス夫人---「ルイ .ヴィトン杜がつくってきたもの、あるいは今後つくるものは、旅行のための製品に限られています」
この人は、1977年6月に、その有能ぶりをかわれてクリスチャン・ディオール社から引き抜かれて、現在、ルイ・ヴィトン社の全製品について、残すものとやめるものの検討をすすめている。

「ルイ・ヴィトンとは何者 ?」私自身の答えはこうである。
「この120年間の旅行目的と旅行手段の変化とともに製品を開発しつづけてきた格式のある、それでいて頑固な老舗」

【図版】
左---3ページ目
中---3,4ページ見開き
右---4ページ目
   1911年(明治44年)パリ・スクリーブ通り1番地のルイ・ヴィトン店。アニエールの工場からの製品配達の馬車から自動車わ変わったばかりの頃。   
ページ5(2007.10.16 図版・中参照)

ルイ・ヴィトン店の変遷
【テキスト】

1821年 (文政 4年)にフランス東部のジュラ県アンシェ (Anchay)で12人兄弟の真ん中の子供として、ルイ・ヴィトンが生まれた。家業は粉屋であった。
継母と折りあいが悪かったルイ・ヴィトンは、12歳の時に一人でパリへ出ることにした。アンシェからパリまで最短距離でも約 400kmある。
父親から一文のカネももらわずに家を出たルイ・ヴィトン少年は、道中、馬車のヒッチハイクをしたりしながら旅をつづけた。
パリでは、オペラ座に近いカブシーヌ大通りの荷造り用木箱製造店で働いた。
約20年間ほど勤めたあと、1854年 (安政元年)に独立して、カブシーヌ通り4番地にアトリエを開いた。
彼のみごとな仕事ぶりを認めたナポレオン?世皇妃ウージェニーが、旅行用衣裳箱を発注したりしたために、ヨーロッパ中の王族も競って特注した。
ルイ・ヴィトンの名は次第に高まった。
3年後の1857年には隣りの 3番地も借りて拡張したが問にあわず、ロシェール通りにもアトリエを設けたがそれでも追っつかず、1860年には、パリ郊外アニエール (Asnières)市の現在地に工房を移し、ルイ・ヴィトン家の住まいもそこに構えた。
1871年 店をスクリーブ通り(Rue Scribe)1番地へ移し、この店はその後シャンゼリーゼ通りに開店するまでの43年、営業をつづけた。
1911年 (明治44年 )に画家ポール・イブランによって描かれた当時の店の絵(p4)をみると、スクリープの店に 2台の自動車がアニエール工場からの荷を配達している。製品には箱物が多く、かつ大きかったのであろう。

【図版】
左---ロンドン店の開店は早く、1885年。この店はニューボンド街149番地。
中---フランス北部の繊維産業の町リール店は1909年開設。現在はない。
右---フランス南部のニース店は1908年。3回移転して現在地へ。
ルイ・ヴィトン社の記録簿
7ページ
【テキスト】

ルイ・ヴィトン家の堅実で伝統ある経営ぶりをこの目で確かめたのは、4代目で次男で生産担当のクロード・ルイ・ヴイ・トンが、私をマルソー通りパリ店(当時)のサロシ(売場)のキャッシャー室に招き入れてくれた時である。
キャッシャー室は奥の右側の小部屋で、サロンの売り子といえども入室厳禁。
その部屋で、クロード・ルイ・ヴィトンはまず、代金の授受をしている初老の婦久の左傾山こ番号順に並べてある(右ページの写真)台帳を1冊引き抜して開いて見せてくれた(左ページ下の写真)。
「なんの台帳?」
と問う私に彼は、
「錠前(じょうまえ)番号台帳さ」と答えた。
目を凝らして背表紙を確かめるとなるほど001から145,000までの番号が書かれている。
開いたページをのぞいてみると、左欄に錠前番号、中央欄に顧客名、右欄に製品番号が書かれている。
クロード・ルイ・ヴィトンが説明してくれたところによると、ルイ・ヴrパン社が製造してトランク類につけている真鍮(しんちゅう)製の錠前はすべて鍵の形が異なっているらしい。
「鍵の形は無限にある」と彼はいった。「1個1個、みんな違っている」
そういわれて、ルイ・ヴィトン社のアニエール市の工場(20-29ページ参照)で数人の錠前職人が鍵の凹
凸にあわせて錠前の裏側にある8枚〆板金に切りこみを入れていたのを思いだした。
「この錠前番号台帳が残っているかぎり、何10年昔のルイ・ヴィトン製品でも、合鍵をつくってさしあげられる」
クロードはこともなくいった。
「もっとも、現在は別の方式-カード式で記録しているがね」
そういえば、数年前に私はロンドンでルイ・ヴィトンの小型トランクの鍵をタクシーの中に忘れた。
それでパリの店へ飛んで鍵だけを買い求めたことがあった。
そのことをクロード・ルイ・ヴィトンに告げると、彼は笑って、
「それは簡易錠前のほうだろう? そっちのほうの合鍵はいつでも在庫している。この台帳に載っているのは、いわゆるオーダーメードに近い錠前だよ」
「すると、大型トランクを4個買ったら、4個とも同じ番号の錠前をつけるように注文でき、旅行中は1個の鍵ですますってこともできるわけ?」
と思いきを質問してみた。
「もちろん。ただし、ある日数が必要だよ。そのために、わざわざつくるわけだからね」
なるほど、そういうわけか ヨーロッパの上流階級の人たちが、ルイ・ヴィトン製品をひいきにするわけは、こういうところにもあったのだ。
世界でもっとも高級な専門店(スペシャリティ・ストア)といわれている、米国テキサス州のダラス市に本拠をおくニーマン・マーカス店は、2階のフロアの中央部にルイ・ヴィトン製品を飾って、こう書いている。
InternationalTravel Symbols インターナショナル・トラベル・シンボル---国際的な旅行の象徴。
そして、こうつづけている。
「手づくりの産物であるフランスのルイ・ヴィトンの旅行用鞄類と並びうるほどの格式の高い製品は存在しない。所有者は王族から始まって猛烈な国際ビジネスマンにまで及びつつあるが、考えてみれば当然のことである」
私が最初にイヴ・ラゴーニョ-社長をその社長室に訪ねた時、彼はこういった。
「今日はロールス・ロイス社の会長が旅行用のトランクを買いにみえました。昨日はモロッコ王家の方が店にみえました。英王室の方もみえました。世界各国の高貴な方々がルイ・ヴィトン製品の顧客です」
いまでこそ旅行は大衆化し、人びとはだれでも、望みさえすれば世界のどこへでも行ける。たとえその国の言葉が話せなくても、きめられた行程・コースさえ、はずれなければ安全に異国情緒を楽しむことができる。そういった旅行では、空港からリムジンに乗ることもないし、ホテルのボーイに特別にチップをはずむこともないから、安心してルイ・ヴィトンのソフトバッグを携行していい。
しかし、ひとたび、ひとり旅でルイ・ヴィトンのトランクでもさげて歩こうものなら、トランクにふさわしいホテルを選んで泊まらないと、とんでもないことになる。

左---1914(大正3年)頃の錠前番号顧客台帳。未記入は氏名を告げなかった客のための空欄。
右---キャッシャー室のある錠前番号顧客台帳。001から145,000までの番号゛みえる。
ルイ・ヴィトン社の記録簿 (つづき)

8〜9ページ
【テキスト】

安ホテルの主人は盗品のトランクと疑ってかかって、皮肉たっぷりにこういうであろう。「あなたさまにふさわしいしいお部屋は、ほんのさっきふさがってしまいまして---」
ルイ・ヴィトンのショルダーバッグをもったあなたのチップが旅行案内書に書かれているとおりの額だったとすると、ポーターは、
「日本の富豪のお嬢さん。メガネをおかけになったほうがお似合いですよ」とく。
冗談はともかく、ルイ・ヴィトン店のキャッシャー室で目にしたもう2つのことをご紹介しよう。
クロード・ルイ・ヴィトンが次に見せてくれたのは、キャッシャー室の奥の壁のところにあるスチールケースの上に並んでいた数多くの台帳(8ページの上段写真)。
年度ごとの営業日報ともいうべきもので、11冊抜きとって開いてくれたのは1896年 (明治29年)のもの (8ページ下の写真)。任意に開いたページは5月22日。その日に売れた製品と修理した品目と顧客名が記されている。代金の回収かあると「支払済み」の文字を書き加えているところなどもなんとなく初歩的である。
このスタイルの記帳法は第2次大戦 (1939-45)までつづいているが、2代目のジョルジュ・ヴィトン (1857-1936)の夫人によって整理記帳されたものを引きついだという。
ちなみに、このジョルジュ夫人は103歳で亡くなった (1964年)が、たいへんな働き者だったという。つい最近まで店の総支配人をしていた3代目のガストン・ルイ・ヴィトン(1883-1970)の未亡人はいま93歳で健在。
ジョルジュ夫人によって体系づけられたルイ・ヴィトン店の記帳システムは<戦後の営業品目の拡大とともに顧客カード式に変わった。
顧客カードはアルファベット順にスチールケース (9ページ左下の写真)に収められている。サンプルを見せてほしいと頼むと、クロード・ルイ・ヴィトンはいたずらっぽく「日本でも名が売れている人がいいな」といった(映画『シャレード』で、ルイ・ヴィトンのトランク数個を携えてシャモニーにスキーに出かける有閑夫人の役どころを演じたオードリー・ヘップバーンの名をあげると、ふんふんといいながら探してくれたが、
「夫の名前で買っているのではないかな。ヘップバーンではカードがつくられていない」
「ベルモンドは ?」
というのは、ラゴーニョー社長から、「つい 2週間前にベルモンドがルイ・ヴィrンのトランクを50個も持った映画を見た」と聞いていたからである。
クロード・ルイ・ヴィトンは、「現役の人はカンベンしてくれ」 結局、撮影許可が出たのは推理作家の故ジョルジュ・シムノンのカード(9ページの写真のカード)。
「シムノン氏は、1934年 (昭和9年)以来の顧客だね」
カードを見ながらクロード。
5枚のうちの3枚のカードが出ていて、裏には記録がびっしり。かなり精力的に買っている。
「日本人客のは ?」との私の問いに、クロード・/iイ・ヴィトンは笑って答えない。たぶん、買っても名前も告げないで帰ってしまうのであろう。
それで気になるのは、日本でのルイ・ヴィトン製品の扱い店が、パリ店のような顧客管理をするかどうかという点。ルイ・ヴィトン製品を買うのはそれ相応の尊敬を受けてしかるべき客だし、客のほうもルイ・ヴィイトン製品の真のよさを熟知しているべきなのだが---。
ちゅうすけ先生

「ヴィトン家の4代目」についてですが、3代目のガストン(GASTON-Louis)が、3人の息子アンリ(HENRY-Louis)、クロード(CLAUD-Louis)、ジャック(JACQUES-Louis)にそれぞれ営業部門、工場部門、総務経理部門を担当させたことは周知の事実です。しかしこのために、いったいヴィトン家の「4代目」は誰になるのか? が、長らく判然としませんでした。

ジャックが父ガストンより早世した後、1969年9月、日本初の代理店が出来た当時、アンリが来日していましたので、彼を「4代目」あるいは「4代目のひとり」と呼んでいた時期がありました。しかし私個人は、先生が著された本を読ませていただき、また実際に工場を訪問して思ったことは、やはり「ヴィトン家の4代目」はクロードであろうということです。2005年に日本で行われた展覧会でも、同年訪問したアニエールの工場にも、3代目までの胸像しか飾れていませんでしたので、このことはかなり難しい問題なのだろうと思っていました。

しかし、今年5月に訪問した際、メゾン入口の壁に、昨年までは無かったクロード氏の写真が飾れれてありました(写真左)ので、ヴィトン家の何かしらの「想い」を感じるようになりました。

この4ヶ月後、「ルイ・ヴィトンをめぐるアニエールへの旅」と題した特集記事がコヨーテNo20に載っていました。この中に「4代にわたるヴィトン家当主のブロンズの胸像と肖像画が厳かに飾られている」といった事が書かれてありました(写真中央)。もしこれが事実で、アラブの王様から世界中のVIP・メディアが訪れるメゾンにディスプレーしたのであれば、これはもう「ヴィトン家の4代目」はクロードである、と世界中に向けて「公表」したことになるくらい大きな出来事です。

私は写真では見ましたが、クロード氏の「石膏像」も、ましてや「ブロンズ像」も見ていません(写真右は2005年7月)。ちゅうすけ先生の本で、ジョルジュ、ガストンのブロンズ像(らしいものを)見ておりますので、既にクロード氏のものも作れれたのかも知れません。そこで、すぐさま編集元へ写真と共に確認の手紙を送りました。しかし、2ヶ月経った現在も返答はありません。

9月下旬、編集部に電話を入れ、私の手紙を読んだという女性に、実際にブロンズ像はあったのか、無かったのか訪ねたところ「文を書いた編集長は忙しくていつも社にはいない」、挙げ句に「直接ルイヴィトンに聞いてはどうか」との返答でした。何という言い草でしょう。取材して、あったか無かったかも答えられないとはどういう事でしょう。苟も「文」をその生業にしている者が「文責」の意味すら分かっていない。

実は2005年の展覧会でも「キュレーター」と称する主催者に質問状をお送りしましたが2年半経った今でも返事はありません。主催者側に問い合わせると、確かに手紙は渡したが、何分お忙しい方で、、、との返事でした。どうも昨今の日本の風潮は、大衆を煽り、ど〜んと花火を打ち上げれば、後は勝手にしやがれ、としか感じなくなり、こうした経緯から私自身、雑誌記事などの収集を止めてしまったのです。

それでもこの「ブロンズ像」については放ってはおけませんので、現在多方面からの確認作業を急いでおります。そして、もしクロード氏のブロンズ像なるものが出来ているのならば、いずれ自分の目で確認したいと思います。それは、現5代目のパトリック氏や、工場でトランクの制作に携わっているピエール君へと、直系でつながっていくものだと信じているからです。
だれが4代目かという探索は、おもしろい結果になりそうですね。
まず、フランスの相続法はどうなっているか---です。
ワイン畑(およびブランド名)のことですが、西部のボルドーでは、長男(男子がいなければ長女)がすべて相続し、畑が小さく分割されるのふせいでいると。
東部のブルゴーニュでは、兄弟均等に相続するのでも畑が細分化され、ブランドが増えると。
ジュラはどっちなんでしょうね。

また、別の見方。

血統でみるか、精神・技術の継承でみるか、株式の保有でみるか。
2の精神・技術なら、とうぜんクロード。
1の血統ならパトリックが決め手でしょうか。
3の株式だと、パトリックがいくら所有しているか。それはクロードから相続したねのか---他の兄弟姉妹はすべて手放したやに聞いていますが。
パリ店

10〜11ページ
【テキスト】

ルイ・ヴィトン社のパリ店は、かつてのエトワール広場、いまのシャルル・ド・ゴール広場から放射状に伸びている12本の通りの中の1---マルソー通りAvenue Marceau の78番地bにある。
(注:取材・上梓とした当時。現在はシャンゼリーゼ大通り)
シャンゼリゼ通りからここへ移ってきたのは1953年 (昭和28年)だから、約25年ばかり、ここで営業していることになる。
ルイ・ヴィトン製品か日本人やイタリー人や西ドイツの人たちのあいだでブームになる数年前までは、もの静かな雰囲気のサロン(売場)であった。
それが、大勢の客がどっと押しかけて、12-15人いる売り子たちがてんてこ舞いを演じるようになって、それまでのルイ・ヴィトン製品のほんとうの愛用客はいささかとまどっている。
ルイ・ヴィトン店は売り子1人に客1人という原則をずっと貫いているので、自分の順番がなかなかまわってこなくなってしまったからである。
したがって最近では、ロビーのところで整理券を渡して、売り子の数たけの客をサロンに入れる方式をとっている・。---1人の客か買いものをすませてサロンから出てくると、次の客か導き入れられるわけである。ロビーの椅子はいつも満員である。
ルイ・ヴィトン店のような老舗にこうした異例のやり方を採用させたのは、買い出し部隊ともマフイヤとも呼ばれている日本人のヤミの運び屋グループであった。
ヴィトン製品のよさを理解し、支持する人びとだけに買われる日がくるであろうから、店はかつての優雅さを取りもどそう。
パリ店について若干の注意書を記すと、訪問する際にはパスポートを忘れないこと。400フラン以上の買いものに対しての15%の税金の払い戻しの特典をうけるためである。
次に、この店では、いまのところ一切のクレジットカードが使ええないはばかりか、ドルその他、フラン以外の力ネは、トラベラーズチェックともども使えないから、かならずフランス・フランの現金かフランス・フランのトラベラーズチェックを用意すること。
ドルとか円トラベラーズチェックしか所持していない客に対して、店側隣の両替商なり。ちょっと先の銀行で交換してくれるように教えてくれる。両替商のほうが交換率が低いことは当然である。
開店は朝9時15分からだつたように思うが、季節によって多少の変動があるかもしれない。閉店は6時前後だったように思う。
エルメスを含めてパリの有名店がやるバカンス前とクリスマスー前のバーゲンはしない。
訪問する際は、なるべく汚れて膝の抜けたジーンズなどは避けたほうがいい。服装は客の自由---とはいえ、店のほうにも客を選ぶ権利があると考えるのが至当だからである。ゆったりとした態度で買い物をすること。


*右上端の囲み:
上の総革のバックもルイ・ヴィトン製品であるが、店頭には並べていない。理由は、陽にあたると革の色がアメ色に変わっていくヌメ革製だからである。生成(きな)りの革ともいう。つまり、染めてなく、なめしただけの牛革である。
ルイ・ヴィトン社の製品の高品質・丈夫さは十分に承知しているのだが、あのL.Vのモノグラムを散らした塩化ビニール加をした表地のものはどうも---という人たちのための製品である。
みちろん、特注すれば黒革製のルイ・ヴィトンだってつくってくれる。かつてインドの王様から注文を受けた時は、牛革が使えないのでその代わりの材質を使ったものを納品している。
上のヌメ革製のバックがほしい場合はその旨を売り子に伝えて出してもらうこと。
ルイ・ヴィトン家の人びと

12〜13ページ
【テキスト】

(左12ページ)
120年に及ぶルイ・ヴィトン製品の歴史をつくってきたのは、図版左端の系図にみえる人たちである。ここれらの人たちは、初代ルイ・ヴィトンのクラフトマンシップを受けついで、つねに製品の創造と改良に努めてきた。その結果が今日のルイ・ヴィトンの声価を築きふげたのである。
おもしろてことに、3代目のガストン以後、この家系の男子はすべて、ルイ・ヴィトンを名乗っている。L.Vモノグラムへの自負であろうか。

図版キャプション
額入り肖像---12歳で仕事をはじめたルイ・ヴィトンは、資質に恵まれた職人であった。
胸像---2代目のジョルジュは24歳ですでに店を仕切っていた。


(右13ページ)
現在(注:取材・出版の1978年)、ルイ・ヴィトン社の株式は、次の6人によって所有されている。
アンリ・ルイ・ヴィトン
クロード・ルイ・ヴィトン
ジャック・ルイ・ヴィトンの未亡人
アンドレ・ルイ・ヴィトン(アンリの長男)の未亡人
オグリアストロ夫人
ラカミエール夫人
下の2人は姓が違うが、いずれも4代目アンリの娘たちである。つまり、全株が・ルイ・ヴィトン家の所有になる。
(注:現在はその多くが別の組織へ移管された模様)

図版キャプション
左上モノクロ写真---1966年、クロードL.Vが初めて米国へ旅立つ時の記念写真。左からアンリL.V、ガストンL.V、クロード。胸像はジョルジュ。
胸像---3代目のガストンL.Vは、ルイ・ヴィトンの国際的名声を高めた。
右上写真---アニエールの工場長室でのクロードL.V。狩猟写真が趣味。前アニエール副市長。
右下写真---クロード・ルイ・ヴィトンの長男パトリック。技術部長、27歳。(注:ぴょん吉さん撮影の約30年後の写真と比較してみるのも面白い)。
ルイ・ヴィトン製品の変遷

14〜15ページ
【テキスト】

(14ページ上の)旅行用衣裳箱は、1854年製ということになっている。もちろん。初代のルイ・ヴィトンの手になるものである。彼の入念な仕事ぶりによってルイ・ヴィトンの名は当時の上流階級のあいだに知れ渡った。その
頃、旅行ができたのは上流富裕な人たちと軍人たちであった。庶民の旅行に衣裳指はいらなかっ1た。



つづいて、1872年にルイ・ヴィトンは(15ページ左上)のような縞模様のキャンバス地を木枠に貼ったトランクを発表して話題を呼んだ。
木枠のアイテアは1858年頃からルイ・ヴィトンによって実現されていたが、この縞模様地は、かつて紋章入り衣持ち歩いた王家の人たちのそれと似た気分を、上流階級の人たちに与えた。
写真の製品には1873年というプレートが付けられているが、この「レイエ」と名づけられたトランクが最初に発売されたのは、1872年であ。ところが、数多くのイミテーションが出回っので、ルイ・ヴィトンは「ダミエ」と名付け市松模様の織物を貼った製品を1888年に発表して対抗した。(15ページ左中)のトランクがそれである。

1896年、完全にルイ・ヴィトン家の責任者となった2代目のジョルジュ・ヴィトンは、LVの頭文字に3種類の花を散らした、まったく新しい布地を開発したのである。布地の材質は亜麻。それにニカワを塗って放水性をもたせ、花模様を転写したもので、左下の写真がそれ。
その後、1902年には当時開発され実用化されつつあった窒素セルローズを亜麻地に塗って防水置をするようになった。
現在の表地は、木綿地に塩化ビニールを塗ったもので、1959年に4代目のクロード・ルイ・ヴィトンが採用にふみきったものである。

ルイ・ヴィトンの最初の改革は、衣装箱から丸みを取り除くことであった。

図版キャプション
上---「グリ・トリアノン」
下---「マル Malle」と呼ばれる1861年製の製品


つづいて、1872年にルイ・ヴィトンは(15ページ左上)のような縞模様のキャンバス地を木枠に貼ったトランクを発表して話題を呼んだ。
木枠のアイテアは1858年頃からルイ・ヴィトンによって実現されていたが、この縞模様地は、かつて紋章入り衣持ち歩いた王家の人たちのそれと似た気分を、上流階級の人たちに与えた。
写真の製品には1873年というプレートが付けられているが、この「レイエ」と名づけられたトランクが最初に発売されたのは、1872年であ。ところが、数多くのイミテーションが出回っので、ルイ・ヴィトンは「ダミエ」と名付け市松模様の織物を貼った製品を1888年に発表して対抗した。(15ページ左中)のトランクがそれである。
1896年、完全にルイ・ヴィトン家の責任者となった2代目のジョルジュ・ヴィトンは、LVの頭文字に3種類の花を散らした、まったく新しい布地を開発したのである。布地の材質は亜麻。それにニカワを塗って放水性をもたせ、花模様を転写したもので、左下の写真がそれ。
その後、1902年には当時開発され実用化されつつあった窒素セルローズを亜麻地に塗って防水置をするようになった。
現在の表地は、木綿地に塩化ビニールを塗ったもので、1959年に4代目のクロード・ルイ・ヴィトンが採用にふみきったものである。

図版キャプション
上---「レイエ」 縞模様にキャンバス地貼り。1873年製
中---「ダミエ」 市松模様のキャンバス地貼り 1888年製
下--- 「モノグラム」 LVS3種類の花の表地貼り 1896年
ルイ・ヴィトン製品の変遷(つづき)

16〜17ページ
【テキスト】

「ダミエ」と呼ばれた市松模様(前ページ中段参照)のルイ・ヴィトン製品のイミーションが出回ったので、2代目のジョルジュ・ヴィトンはまったく新しい模様を考案しなければならなかった。
そして彼は、左上のような模様をデザインして1896年(明治29年)に発表した。
ルイ・ヴィトンの頭文字---LとVの組み合わせに、3種類の花弁を散らしたデザインである。

日本ではこの3種類の花弁は「ユリの花」だと思われている。そう明記している文章も多いし、そういった文章を読んだ私自身も、ついこのあいだまでそのとおり信じていた。
で、コレクション部長のカノヴァス夫人に「このユリの花の由来は?」と尋ねた。夫人は「ユリの花? いいえ、ユリの花ではありませんよ。単なる花弁です。何の花というようにきまった花ではありません。想像上の花です」と答えた。
カノヴァス夫人だけの返事では心もとないので、クロード・ルイ・ヴィトンにも尋ねてみた。彼も「単なる花だよ」といいきった。ー体、日本のライターはどうして「ユリの花」だなんて知ったかぶりして書いてきたのであろう。
その詮索はおくとして、ジョルジュ・ヴィトンがどこからこのアイデアを得たかを推理してみた。

1896年といえば、アール・ヌーヴォ- (新芸術)運動がフランスをはじめとしてヨーロッパにひろがっていた時期である。アール・ヌーヴォ-というのは、19世紀の美術様式が、リバイバル・ロココ、リバイバル・ルイ16世、あるいはギリシャ・ローマ時代の古典復活といった王朝趣味に堕していた時に、中国趣味・東洋志向をテコにして盛りあがってきた一種の中産階級のための美術運動であった。
色彩的には弱々しいグレー、葉色、深いローズ色、コバルト、栗色---といった落ちついた色調がもっぱらであった。ルイ・ヴィトンの栗色は、そのような時代背景から選ばれたのであろうか。

しかし、幾何学的に配置された花弁のあしらい方はアール・ヌーヴォーのものではない。この感覚はむしろ、アンビール(皇帝)様式に近い。だいたいルイ・ヴィトンの縞模様「レイエ」もアンピール趣味のものである。この家系にはアンピール好みのところがあるように思えてならない。
いまになってしまうと、クロード・ルイ・ヴィトンも、80年間以上もつづいているこの模様の考案当時の事情についてはほとんど考察していない。

彼の意識にあるのは、いかに正確にこの模様を印刷するかということであった。できることならば、文様に詳しい人に、ルイ・ヴィトンの模様の原形と思われるものを探しだしていただきたいものである。「単なる花」というだけでは芸がなさすぎるから---。

図版キャプション
上---1900年ごろの表地。亜麻地にニカワとワニスを塗布。
中---1914年の表地。亜麻地に窒素系セルローズを塗布。
下---1959年の表地。木綿地に塩化ビニール。模様は印刷。

17ページ図版説明
上の蛇皮旅行用セット---ルイ・ヴィトンのパリ店の22階のロビーに飾られている旅行用の化粧セット。1928-30年にかけてア二エール工場でコロニアル博覧会に出品するためにガストン・ルイ・ヴィトンがつくったもの。
表革は大蛇の皮。内貼りはとどの革。当時の価格で家1軒分ぐらいしたという。
19世紀から20世紀の初めにかけて、この種
の旅行用化粧セットを持ち歩くことが上流階級に流行していた。クリスタルのぴん、純銀製の蓋や爪切りなど、いろんな分野の職人の腕が小さな箱とその内容物のためにふるわれ総合されたといえる。

下の衣装整理トランク---1925年頃につくられた洋服整理トランク。のみの市にでていたものをルイ・ヴィトン社が買い戻した。
右は1940年につくられたもの。
デザインは基本的にはほとんど変わっておらず、しかも、Le"140×62?の製品番号で現在も生産販売されている。


ルイ・ヴィトンの現スタッフ

18〜19ページ
【テキスト】

4代目で店を見ていたアンリ・ルイ・ヴィトンは67歳と高齢。普通のフランス人ならとっくに引して第2の人生を楽Lんでいる年齢である。
ところが、ここ敦年来のルイ・ヴィトン騒ぎで問題は山積み。
次男のクロード・ルイ・ヴィトンは22歳からずっと工場を見てきた人で、つねづね「人間というのは自分の好きな仕事をやるべきである。好きだからこそ仕事が愛せる」
と口外Lてきている。販売には向かない。
そこで、ヨーロバ・ウィンチェスター銃社で経営の腕をふるっていたイヴ・ラゴーニューに白羽の矢が立った。ルイ・ヴィトンという伝統と格式のある会社を切り盛りすることに彼は魅力を感じた。
圧倒的な品薄、パリ店をわが物顔でひっかさまわしている望ま
ざる客たち---といった難問はあったが、氏は引き受けてやってみることにした。
ルイ・ヴィトン家は氏に「ルイ4代目で店を見ていたアンリ・ルイ・ヴィトンは67歳と高齢。普通のフランス人ならとっくに引して第2の人生を楽Lんでいる年齢である。
ところが、ここ敦年来のルイ・ヴィトン騒ぎで問題は山積み。
次男のクロード・ルイ・ヴィトンは22歳からずっと工場を見てきた人で、つねづね「人間というのは自分の好きな仕事をやるべきである。好きだからこそ仕事が愛せる」
と口外Lてきている。販売には向かない。
そこで、ヨーロバ・ウィンチェスター銃社で経営の腕をふるっていたイヴ・ラゴーニューに白羽の矢が立った。ルイ・ヴィトンという伝統と格式のある会社を切り盛りすることに彼は魅力を感じた。
圧倒的な品薄、パリ店をわが物顔でひっかさまわしている望ま
ざる客たち---といった難問はあったが、氏は引き受けてやってみることにした。
ルイ・ヴィトン家は氏に「ルイ・ヴィトンの伝統を純粋化し、維持すること」という指示を与えただけであった。
ラゴーニョー新社長は、南フランスの小村サンドナにソフトな製品の工場を開設してまず品薄を解決することから手をつけた。の伝統を純粋化し、維持すること」という指示を与えただけであった。
ラゴーニョー新社長は、南フランスの小村サンドナにソフトな製品の工場を開設してまず品薄を解決することから手をつけた

写真キャプション
1976年12月からルイ・ヴィトン社の新社長となったイヴ・ラゴーニョー氏。



1977年の6月、世界のジャーナリストに先がけて、イヴ・ラゴーニョ一新社長を取材した。
1977年の6月、世界のジャーナリストに先がけて、イヴ・ラゴーニョ一新社長を取材した。
その時、氏は「ルイ・ヴィトンの目的は数量ではなく、品質である」と繰り返L強調した。「ワインにまで名前を入れるようなカルダンの道はとI)ません。 多角化政策はとりません」と強調した。
「ワインにまで名前を入れるようなカルダンの道はとI)ません。 多角化政策はと
りません」とも断言lした。
ラゴ一二ョー新社長の他にも、ビギャン社から財務と管理の専門家セルジュ・フッシェ氏、C・ディオール牡からコレクション部長としてイザベラ・カノヴァス夫人が引き抜かれ1た。
また.それまでジャーナリスト嫌いで通っていアンリ・ルイ・ヴィトンに代わってベルドリエル・ベッシエール夫人が報道関係者に会ううようにもなった。

写真キャプション
(上:左から---1977年6月から製品デザインをみているイザベラ・カノヴァス夫人
 中:1977年4月からルイ・ヴィトン社の財務と管理をみているフッシェ部長。
 右:1975年12月から報道関係者と会っているベルドリエル・ベッシエール夫人)中段:サロンの店員たち。
 

【ちゅうすけ注:】ラゴーニョー氏は、3年ともたなかった。氏がつぎつぎと打っていく問題解決策に、ルイ・ヴィトン家の人たちは危惧と疑念をいだいたかして、氏が採用したスタッフ全員を解雇した。氏の無念のほどは思いやられる。
紹介している本(1977刊)、出来たとき、来日していたアンリ・ルイ・ヴィトン社長(当時、故人)から、初刷のみにとどめるように言われて(1サンチームも金を出していないくせに)、「はて、どこがお気にめさなかったか、表紙のLVのユニットがセンター揃えになってなかったためか」と、長い間(30年間)、気になっいていたが、先日、表紙を開いてみて、背でセンター揃えしていたことに気づいた。
アンリが生きているか、秦日本LV前社長が在職中だったら、そのことを言いたかった。
ちゅうすけさん、

この続きは、どこで見れるのでしょうか?どこか、ネット上で公開しておられますか?私、日本に住んでいませんので、国会図書館まで通うことができません、、、ご連絡お待ちしております。

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