ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

シュタイナーの社会3層化運動コミュの市民未来社会学を目指して その3

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
●さて、私達は、これまで述べて来た様な、基本的な
ポイント、理念とプロセスと提案に基づいて、
さらに検討と創造と運動と実践を続け、
実践的に皆に役立つ、より良い未来社会の実現の為に、
第一歩を踏み出そうとしています。
この旅には、完成と言う事はありません。
永遠の改善しかありません。
また、私達の取る道が唯一の道もしくは最善の道であると
言うつもりはありませんし、普遍のものだと
言うつもりもありません。
ただ私達は、ここから、このような形で、出発するのが良い
と感じ、ここから、出発しようとしています。
もし、また別の、より優れた市民未来社会学が誕生し、
発展していけば、私達は喜んで、そこから栄養を摂取し、
自己変容を遂げ、私達自身の糧とする、
そんなあり方を目指しています。


●しかし、4つのポイントのそれぞれを、舗装する作業に
入る前に、相互贈与(互恵、互酬、与え合う社会)と言う
言葉で表す未来社会が、
一体どのような社会なのかについて、
もう少し明確にしておく必要があります。

★贈与取引についての一般的考察

●人類学によると、原始部族に見られる贈与社会の取引の
多くは、贈与されたら、ある期間の後にお返しをするという
習わしによって、贈与の輪というべき連鎖が出来、
それが社会秩序を保ってきたそうです。
ですから、ギブエンドテイク(分配の公正、等価性)の秩序
の維持は、そのような贈与しなおすお返しの道徳に、
人々が従う事によって維持されて来たと言えます。
そこでの取引は、個人対個人(一対一)もしくは、
団体対団体、団体対個人、色々でしょうが、
基本的には、個人対個人の取引だと言えるかも
知れません。

●ですが、贈与には、もう一つ、いっさいお返しを求めない
純粋贈与と言うべきありかたがあります。
私達は、神仏、宇宙、大自然の純粋贈与によって生かされて
いる存在です。
ですから、原初の私達にとっては、神仏は、大自然に
あまねく存在する霊的存在全体と一体化していたと言えます。
ですから、日常の経済取引も、単なる物の移動ではなく、
私達の魂の行為として、道徳や宗教と不可分でした。
普通の日常の経済生活で行われて居た贈与も、
この純粋贈与の模倣であり、
妥協であり、一変形だったのです。
人は、経済物資(自然産品の加工運搬品)においては、
与えるだけの存在では通常ありえず、ギブエンドテイクが
必要だったので、いわば付加事項として、お返しという
ルールを作ったと言えるでしょう。
純粋贈与の理想が、人々の全生活の中心にあり、経済行為の
根源にあり、魂の中心にあり、世界の中心だったのです。
人々は、純粋贈与の霊的無限宇宙世界(神と自然)と一体に
なって、霊的に生きていたし、その生活も、霊的無限理想と
共にあったと言えます。
もし、あなたが、霊という言葉が嫌いな唯物論者なら、
魂あるいは、心あるいは、精神という言葉に置き換えて
もらってもかまいません。
今日の私達の人間の本性とは?と根源的な問いを発するなら、
注意深く観察するなら、私達の本質は、その点においては、
彼らと何も変っていないのです。

●ところが、その相互贈与関係を、法律によって固定的な
義務にし、贈与と、お返しを同時に、同じ取引の場で済まし
てしまうと、単なる交換になります。
そこでは、贈与取引にみられる魂と魂の交流という友愛に
基づく手続きが、不要なものとして破壊され、省略され、
ただ、等価であるかどうか、損か得かという判断が主役と
して前に出てきます。
そこには、純粋贈与という理想の生きる場所はもはや
ありません。
ですから、交換は、例外的な対外取引であり、補助的手段
として長い間、存在していたのであり、それが主役の座に
躍り出たのは、決して、自然に内側からではなく、
外的圧力や、権力、暴力によるものである事は、
歴史的事実が示しています。
非権力的な首長から、王権社会への移行において、
それはなされました。
交換においては、人間と人間との間の全人格的交流は、
抑圧され、疎外されているのです。
贈与という友愛の人間関係の抑圧と破壊によって、
交換が主役の社会は、作られたのだと
言いたく想います。

●私達の貨幣による売買取引は、このような物々交換に
さらに、貨幣を介在させて、私達が売ったじゃがいもが、
一体誰の手に、どの様な形で、最終的に渡るのか、
わかりません。
このようにして、貨幣売買取引では、到る所で、分断され、
私達は、自然との関係、神との関係、全体との関係、
社会との関係、他人との関係、を絶たれる事によって、
自らの魂の奥底の、無限の霊的知の源泉である
生命の根源からも絶たれています。
ですから、物々交換から、貨幣売買取引へと、主役が
変わった時にも、決して、自然に内側からでなく、
外的圧力や、権力、暴力によるものである事は、
歴史的事実が示しています。
王権社会から、国家社会への移行でそれは起こりました。
貨幣売買が主役の社会においては、人間と人間との間の
全人格的交流は、物々交換の時代よりも、さらに、
抑圧され、疎外されているのです。
まだ残されていた、家族以外の社会における贈与取引は
貨幣経済によって、さらに抑圧され、破壊されました。
いわば、王による権力支配から、国家による権力支配への
移行に、貨幣は大いに利用されたのだと言いたく想います。

裏切りと逸脱の上に、さらなる裏切りと逸脱を重ねた結果、
2度の世界大戦は起こったのだ。
しかし私達は、その負のカルマをまだ全然、清算したとは
言えないのだ。
そう言いたく想います。
そして、私達は、国家権力支配から、いわば経済権力社会と
呼ぶべき世界経済社会へ移行し、その只中に今生きています。


●私達は、わすれてはなりません。
日本は、その意味で、外国との関係において、
加害者の側に居るのだと言う事を。
けっしてプラスの面だけなんじゃないという事を。
いわば、今日もなお、私達が歴史上、経験して来た
悲劇の過程は、世界中で進行しており、私達は、
その悲劇の過程の進行に加担する形で、
負のカルマを輸出し、資本主義システムを、
世界に普及しようとしているのだと言う事を。
沢山の世界中の人々が流しているに違いない
無数の涙と、苦しみを。
たとえ、望まれてやるにしても。

●心の目で人類の歴史を振り返れば、
私達は、歴史において、物質的、技術的、交通、情報的に
大きく進歩した反面、
それによって、かえって退歩、逸脱、堕落し、喪失した
ものが、いかに大きいかに気付かされます。
私達は、皆、歴史の過程で、人類が犯した過ちの結果を、
カルマとして受け取って居ます。
原始生活を送る人を、野蛮人と言って軽蔑するのではなく、
逆に学ばなければならないのです。
本当の自分に何をしたのかを知る為に。
人間とは本来どんな存在だったかを想い出し、
皮相な、現代の唯物教的、資本主義的迷信から目覚める為に。
なぜ、この世界が、こんなに苦しみに満ちているのか?
神も仏もありはしないと想うかもしれませんが、
私達自身が、純粋贈与してくれる神と仏を、自然を、
全体存在を、忘却し、抑圧し、逸脱し、感謝する心を
喪失しているにすぎません。
皆が歴史上人類の犯したその忘却の過ちの結果を
負っているからに他なりません。
それは、修正されなければ、未来永劫に、悲劇を相続する
だけです。

●私達の明るい未来は、資本主義的な物質世界の拡大の
延長線上に無い事は、内なる本来の自然な自分に、
誠実でありさえすれば、明白です。
先進国に住む私達は、過去の恥ずべき歴史上の罪の上に
新たな同質の罪を重ねない様、
あるべき事をあるべき様にする事によってしか、
資本主義とは、根本的に違う社会を創造する事によってしか、
明るい未来の人類の展望は開けないだろうと、予感しつつも、
日々の労働に追われ、自分の疲れた魂を癒す余裕しか
持てないでいます。
しかし、だからこそ、なおさら、いそいで、
なんとかしなければならない危機的状況であると言える
のです。
社会的虚偽を改める様、要求の声をあげ、
生活意識の根本転換を実現しうる
社会改革を、率先して実行し、
世界の道標になる義務を負っています。
ターニングポイント、大転換によって、人類は、
もう一方の極、らせん状にスピリチュアルな方向に
旋回しながら、新たな社会を創造し、
霊的に進化しなければならないのだと想います。
なぜなら、これ以上、まっすぐに行くと、より非人間的な、
魂と地球の荒廃した醜い社会以外、予想出来ない事は、
近代から現在の日々に到る様々な歴史的諸事象が、
警告しているからです。


●この様な売買取引が中心の社会で、純粋贈与しようと
すると、大きな困難が伴います。
贈与社会では、誰でも、皆が、お返しを断念するだけで
可能ですが、売買社会では、純粋贈与をする為の物資を、
貨幣で購入する必要があり経費がかかるので、生活に余裕
のある人しか出来ないのです。
このようにして、人々は、真の幸福と、精神の自由から、
断絶されているのです。
それを手に入れる為には、隣人と生存競争し、勝ち組に
ならなければならない。そう言われるのです。
しかし、本当にそこに、私達の求めている
ものはあるのでしょうか?
そのようにして私達の精神は、資本主義の掟に従う様、
拘束されています。
しかし、歴史的には、まず人々の権利と自然権の収奪に
よる乞食達の創出が必要だったのです。
いわば、自分の労働を売る以外に生きるすべを持たない
あわれな人達です。
私達は、生まれたときから、慣れっこにさせられ、
ともすれば、それが当たり前の様に思い勝ちですが、
労働が商品である事は、異常な事なのです。
労働は、貨幣とは何の関係もあってはならないたちのもの
なのです。
なぜなら、労働は、経済ではなく、
精神であり、無限の霊的知の源泉に属するものだからです。
それと貨幣価値とは両立しえないからです。
ですから、人間の生産活動は、精神に属し、
人間の経済活動は、流通、分配、消費にあり、
貨幣は、自然加工品の流通、分配、消費にのみ、
適応しうる、そう言いたく想います。


●労働は、私達が以前結び付けられていた純粋贈与と贈与に、
今一度、結び付けられなければならない。
でなければ、私達の幸福の真の源泉である、自らの魂の
奥底の、無限の霊的知の源泉である生命の根源と
つながって、日々の生活を活き活き、
全き人間として、自由に営む事が出来ない。
しかし、私達は、もはや、権力の根拠を、一人一人の自由な
精神の尊重に基づく内なる真理以外の、外的などこにも、
認めない未来社会の実現を目指す必要がある。
同じあやまちを繰り返さない為に。
貨幣に取って代わる絶対者を作り出さない為に。
外的な権力が正当性を持ち得るのは、その人物が、
偉大な人格と、貢献能力により、人より余分に与えられた
特別な権限を利用して、より皆に貢献出来るが故に、
人々から選ばれ、貢献を委託されている間のみ、正当で
有り得る。
故に、精神の自由と、経済の友愛と、法の下の平等を目指し、
それぞれの3領域において、
個人の自由意志の尊重に基づく自主管理と自立を目指す。
そう言いたいと想います。

●私達は、本来の経済領域(自然加工品の流通、分配、消費)
においては、与えるだけの存在ではあり得ません。
したがって、そこでの贈与は、基本的に、
相互贈与(ギブエンドテイク)であって、
純粋贈与は、例外、補助としてしか存在し得ません。
しかし、それ以外の領域、精神の領域、法の領域、
および、すべての人間活動(すべての労働を含む)
においては、純粋贈与を目指す(理想とする)事が出来ます。
あくまで、行動の動機、目標、理想とする事が出来る
という意味であって、それ以上の意味ではありませんが。

●以上の観点から、次は、未来社会における相互贈与社会は、
どうあるべきかについて、述べたいと想います。
しかし、その為には、今日の社会が、高度な分業社会である
事を考慮する必要があります。
つまり、個人の自由意志に基づくと言っても、もし、私達が、
今日達成した、高度な物質文明を維持する事を望むなら、
もはや、かっての部族社会における、
個人対個人の贈与取引を中心にしたものでは、
有り得ないだろうという事実です。
それは、人間集団と人間集団との相互贈与取引と分配に
なるだろうという事です。
それでいて、個人の自由意志をも尊重し、
精神の自由と、経済の友愛と、法の下の平等を
尊重する経済関係、相互贈与関係を作らなければ
ならないというのが、私達に突きつけられた
未来の課題なのです。

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

シュタイナーの社会3層化運動 更新情報

シュタイナーの社会3層化運動のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング