ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

文芸の里コミュの少年の夢 未完10

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加




◇

「血糖値が高いというの、冗談ということでしたが、実際に異常があったんじゃないんですか、僕にありのまま伝えられないとか……」
 堂田は解せないものをつぶさに口にした。
「そうじゃないの、あれは本当に冗談、苦肉の策で、とっさに出てきた口実ね。脅かしてはいけないと思ったけど、あまりに急なことで、他に方法が見つからなかったのよ。赦して頂戴」
 普通の看護師と患者という立場であったら、今の桃子の言い方では筋が通らなかっただろう。しかし堂田には、桃子の昔の写真を隠し持っている特殊な事情があった。ただ桃子のこれまでの堂田に対する態度には、こうした私情を絡んだような甘えとも聞こえる言動はなかった気がするのである。
 このあたりで、樋口桃子のうちに起こった心の急変について、書き留めておかなければならないだろう。そうすることが、堂田のわだかまりを解き、二人の間をやや上段へと進めることに役立つと思うのである。
 この日、といってもつい先程、樋口桃子が検温のために堂田のいる302号室に入ると、すぐ前に二人の男女の背が強張って坐っているのにびっくりした。あたかも余命いくばくも無い重患の患者を、見舞いに訪れた遠来の人という思いがした。しかしベッドの上には、重患ではありえない、三日前に外泊許可まで出た堂田が、上半身を起こして話し込んでおり、よく見ると見舞い客の男のほうは、以前にも見ている堂田の友人であり、それを考えると、さして緊張して捉えることはないのかもしれなかった。しかしそう考えて、さらっと受け流そうとしても、目の前に立ちはだかっている女性の肩の線は強くて、樋口桃子を圧迫してきた。それが隣に坐る山上にも伝播して、揃って堂田に襲い掛かっているように見えてしまった。
 呼吸を整えるために、桃子はいつもしているように戸口に近い堂田から検温することをあえてせず、反対側の遠い患者から検温をはじめていった。一人ひとり、お変わりありませんかと訊きながらも、背では山上と女の話を、逃すまいと注意を凝らしていた。断片的にしか耳に届かなくても、二人が夫婦らしいことは読めてきたが、それで気を緩めるわけにはいかなかった。会話の中に堂田の土地が飛び出し、そのことと、二人の来訪が深く関わっているらしいと、察せられるからだった。堂田が児童文学に関わりがあるとは初耳だったが、そしてそれはそれで、堂田という人間の分からなさを解く鍵にはなったが、問題はやはり土地のことだった。どうやら二人は、堂田の土地を狙ってやって来たなと目星をつけた。樋口桃子は堂田から、入院中のいっさいは友人の山上に任せてあるとは聞いていたが、ここにきて、その農地が欲しくなったのだと所見されてきた。児童文学などは枝葉に過ぎず、堂田をそちらへ追い払う布石として出してきたと考えるべきだった。
 ここまでやや極端ではあるが、桃子なりに断を下さなければならなかった。何故こうも、堂田の友人に冷たくなれたかというと、堂田の中に弱さが見え隠れしているからである。馬の世話から農作物の栽培と出荷まで、今はすべて友人夫婦の手に任されていた。他に頼りにするものがいなかった。子供があるわけでも、病気を聞きつけてやってくる親族があるのでもない。現在の生活費は預金を引き出すことで賄っているのだろう。健康保険がきくといっても、それですべてが賄えるわけではな。預金が目に見えて減ってくるのは明らかだ。そんな心の弱っているとき、土地を手放さないかと、持ちかけられたとする。山上夫婦にも、土地代を全額現金で支払う余裕はないだろうから、分割払いにでもして、毎月払っていくことにする。それを堂田の定額収入として、贅沢はできないが、暇はできる。その空いた時間を児童文学に向けるんだよ。そんなふうに友人に持ちかけられたとき、堂田はそれを一徹に払い除けることができるだろうか。
 できない、というのが、桃子の判断だった。その大まがときは目前に迫っていた。
「考えてみるよ」
 とでも言えば、農地を明け渡すにひとしい。一刻も猶予はならなかった。
 こんな想像を働かす桃子には、二人の来訪は貪欲なけだものに見えてしまった。
 堂田の検温をし、脈を計ると、そそくさと病室を出て行った。ナースステーションに足を運びながら、桃子は腹を固めていった。そのときから十分を経ずして、桃子は堂田の病室を訪れ、あのトリックをしかけていた。

 桃子は今、堂田の前で脚を組みなおした。してやったりという思いがあって、それが身のこなしにも出てしまった。
「私あのとき、あなたの病室に入って、椅子に腰掛けている二人を見たとたんに、分かったわ。これは唯事じゃないなって。だから盗み聞きするなんて、よくないとは十分承知してても、耳があなたたちの話の方に向いてしまったのよ」
 そう言って、堂田を窺がった。堂田は依然怪訝そうにしている。自分の体が危機状態ということではないとは分かってきたが、先程からの桃子の目まぐるしいほどの豹変振りは、なんということだろう。そんな堂田を揺り覚まそうとして、桃子はカンフル注射を打った。
「あなたの土地のこと。あなたの農地が、危うく二人の手に渡りそうになったのよ」
 堂田の顔に血がめぐってきた。何だそんなことかと、軽く受け流すのではない。そう判断して、即実行に移した桃子の、堂田への干渉に感動したのであった。
「やっぱりそうだったのか」
 と堂田は自分の生ぬるさを卑下して言った。「どうも普段の山上らしくはないと思ったんだ。奥さん同伴で来るのも、変だったし。最初は、奥さんの妹を売り込みに来たとばかり思っていたんだ。妹のことは前にも言われていて、僕は辞退したことがあるんだよ。だって妹は、自分の国で関わった日本の男を追いかけてきて、僕の家に間借りして、そこを拠点にして追い回していたんだ。それを電話のやりとりやら、実際に男と会ってきて、しょぼくれている姿を、僕は目の当たりにしているんだよ。そんなことから、男との間が破綻した妹を、僕の嫁にしようとしたんだから、拒むのも当たり前さ」
「そんなこともあったのね」
 と桃子はしおらしく言った。「それであなたに、その娘さんへの未練があったってわけ? 二度も持ちかけてくるってことは」
「ぜんぜん」
 と堂田は言った。「僕の心は、十分分かっているはずなのに、また持ち出してくるのは、どうしてだろうって、分からないでいた。いくら勧めてきても、心は動かなかった。奥さんは、妹を日本に呼びたいらしくて、しきりに迫ってきたけどね」
 慣れない日本語で相槌を打ちながら、押しまくってきた奥さんの真剣な表情を目に浮かべていた。妹思いの姉であることは確かである。その点では、堂田は妹を任せておける男性として、認められていたのだ。そう考えると、少しは自信にも繋がるというものだった。
 そんな堂田を、桃子はひとたまりもなく打ち崩してきた。
「あなたに妹への未練がないと知りつつ、執拗に迫ってきたというのは、巧みな戦術なのかもしれなくってよ」
 と桃子は言った。堂田は微かなうぬぼれを済し崩しにされていきながら、逆らうつもりはなく、
「どんな戦術?」
 と顔を桃子に向けた。
「それだけあなたの心理的負担を大きくするのよ。目標を達成するためよ」
 桃子はさばさばと言った。
「農地をめぐる取引を有利にするためか。ふむふむ」
 と堂田は言った。「担がれたってことか」
「どうもそのようね。もしかしたら、もしかしたらよ、これは。前のときと状況が違うから、前はあなたは病院なんかと関係なかったでしょう。憶えてる? 馬車から振り落とされて、気絶したままここに運ばれてきて、最初に目覚めたときのことよ。あなたは確か病院嫌いで、医者も看護師も関係なく生きてきた、でしょう。そのあなたが、病院に入って弱気になっているとなると、今なら成功するかもしれないと、思ったかもしれないわね。でもそれは、成功しなくてもともと、不首尾に終れば終ったで、相手に負担を与えられるだけ、交渉が有利に進められる。そんな目算からやって来たの。あのまま面会が続いていったら、あなたはいったい、どうなったのかしらね。児童文学に進めなんて言われていたじゃないの。
 でも私にとっては、あなたと児童文学の関わりを知らされたことは、大きな収穫だったわ。茫洋とした砂漠みたいで、あなたほど輪郭の掴めない人って、そういないもの。医師や看護師にとって、患者さんの病名が分からないほど、不安定な心境に突き落とされることはないのよ。
 あなたを児童文学とか童話の世界という装いを通して見たとき、実にほのぼのとあなたが浮かんでくるの。私、幹太を見直したわよ。あの子の鑑識眼は間違っていなかったって。あの子は児童文学なんて知らなくても、あなたの中にそれを見ていたのよね」
「児童文学といったって、装いばかりで、僕には中味なんて、なにもないけどね。それなのに、児童文学、児童文学って喚き散らす山上を、今日ほど小憎らしく、いまいましい奴だと思ったことはない。でもよかったよ。君に僕の分からなさを理解して貰えて」
「あの人はあなたの土地を買収して、あなたを暇人にして、児童文学に携わっていくように進めていたわね」
「断言はしなかったけれど、そういう目論見はあったんだろうね」
「あったわよ。目論見どころか、そう持って行ったわよ。分かったからこそ、私はこうして身を乗り出さなければならなかったんだわ。
 ここで、あなたに謝らなきゃいけないことがあるのよ」
「君が僕に?」
 と堂田は自分自身に指を向けた。
「そう、あなたに隠していたことがあるの」
「何だろう。樋口桃子看護師が、僕に隠していたことって。まさか、旦那さんがいるってことじゃないよねえ」
「バカ、すぐそんなに飛ぶんだから、あなたって人は」
 堂田の表情が緩んだ。もし桃子が主婦であったら、あの幹太まで、自分を騙していたことになり、信じられる世界を失うことになるのだから。
「本当のことを言うとね、私の故郷もあなたと同じ村で、柿の木坂なの。それを今まで言えなかった。どうしてかしらね」
「幹太君も樋口姓だから、どうしてかなあ、と不思議だったけど、じゃ、お姉さんがお嫁に行ったのではなく、婿を迎えたわけだ。樋口と言えば、昔から遠雷のように鳴り響いていたよ。はっきりした輪郭は現われてこないけれど、漠然とながら、侵しがたい城のように僕の記憶の底にあったね。親父が健在の頃からずっと」
「旧い家だから、そうかもしれない。村に貢献なんかしていないんだけれどね、一つも。
 それで山上さんにあなたの土地が渡ってしまうことは、私の家としても大きな痛手になるわけよ。本家には、五人の子供がいるでしょう。上は**女子高三年の民子から、下は小学四年のリカまで。その子たちも成長して村を出て行くことになるのだけれど、姉や母たちからすると、なるべく近くに置いておきたいのよね。そのためには、土地が欲しいのよ、喉から手が出るほど。
 そんな実家の実状を知っている私からすれば、あなたの土地がみすみす山上さんの手に渡ってしまうなんて、黙っていられないのよね。私が今日動かされたのは、それだけじゃない。私の心も与って、行動に出てしまったのだけれど」
 次々とまくし立てる桃子を、堂田はまたまた青ざめていきながら見つめている。自分ひとり生きていくのがようやくだという堂田に、土地を買いあさって大きくなっていくこのバイタリティーは、いったいどこからくるのだろう。堂田は今ほど惨めさを味合わされたことはなかった。桃子がS町出身ではなく、同じ村の出で、種族を増やしているというだけで、打ちのめされるのは十分だった。桃子も、そんな堂田への配慮は忘れまいとして、これまで口にしなかった経緯もあった。
「だから、心配しなくていいのよ。お金に困ったら、いつでも言って頂戴。山上さんより、あなたにとってずっと良い条件で譲って貰うんだからね。近く姉とも話してみるわね。こんなこと言ったからって、決してあなたを窮地に追い込むためじゃないのよ。困ったときに、力になれるってことだからね。何もないよりは、少しでもつてがあったほうが、心強いでしょう、人間って、そんな弱い存在だものね。あなたをあの村から追い立てたりはしないから、安心してね」
 桃子はそう言って、テーブルの上に手を伸べた。堂田の手を誘ったつもりだったが、彼の竦んだ手は出てこなかった。看護師として患者の脈を計ったり、血圧を計ったりしている職業柄、ごく自然に出た仕草でもあった。しかし今の堂田は、桃子を看護師とは見ていなかった。それ以上に自分に関わってくる存在になっていた。恋人とか愛人とかいう青春のいろどりを俄然飛び越えて、母というよりもっと進んで、女神のように君臨していたのだ。
 一方桃子にしても、自分が今日とった行動が、出過ぎたものであったことを、漠然とは捉えていても、何故、どんなところが、そうであったのかまでは、掴めていなかった。ただ不安があって、それが何から忍び寄ってくるのか理解できずにいた。いや、もう一つの、大きな不安が立ち塞がってくるために、もう一つの普通の人間としてあるべき姿などは、片隅に追いやられてしまっていたのだ。堂田が山上夫婦のペースに乗せられ、土地を手放すような方向にいった場合、取り返しがきかないことになると、必死だった。それは現在の桃子の中にも、つづいて起こって来ていた。山上の手から、土地の代金が少しでも手渡されることにでもなれば、堂田はどこにでもふらりと行ってしまうような感じだった。それだけは、何としても食い止めなければならなかった。それには、当分の生活費を与え、なおかつ堂田の身を、柿の木坂の現在の住所に確保して置かなければならなかった。実家と相談して、堂田の農地をうんぬんする段階ではなかった。桃子ひとりで貯えてきた僅かな預金を投げ出してでも、堂田という男を確保しなければならなかったのである。堂田と桃子の食い違いは、このようにして突如持ち上がったのであった。二人の男女が結ばれていくには、やはり時が必要なのであろう。それを人は恋愛関係にある二人などと形容して、デートを重ねてつちかっていくものなのであろう。それを省くと今の堂田と桃子のような思わぬ齟齬を抱えてしまうことになるのだ。しかし人生はドラマのようなものであってみれば、このような軋轢があってこそ、浮世と呼んでいるのかもしれなかった。
「私、やり残した仕事があるんだった」
 桃子は不意に立ち上がると、そう言った。堂田も普段の患者の位置に下って、樋口看護師を見上げた。
「この続きはまた後でね。私そのうち時間をつくるから。あなたは…暇よねえ、この病院に入院しているんですもの、外出願いを出せば、それですむんですもの。では、また」
 桃子はそう言いおくと出て行った。一足遅れて堂田もその室を出て行った。先程までいた病室に戻ると、同室の患者たちが、いっせいに堂田をうかがった。樋口看護師に緊急に呼出された経緯を知っている患者たちは、堂田の顔に急迫した不安がないのを見て取ると、それぞれ日頃の寛ぎに靡いていった。堂田から医師に呼び出された病変の説明は聞かなくても、表情から安心を読み取っていた。その意味では、病室も家族のようなものだった。自分たちにもいつ襲ってくるかもしれない危機は、一応回避できたのである。

   未完

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

文芸の里 更新情報

文芸の里のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング